「日本を千年ほどさかのぼって見渡したとき、まことに不思議な光景が見えてくる」。
●パクス・ジャポニカ
一つは、長期に渡って平和の状態が続いた時期が二度もあったというのだ。
それは、平安時代、桓武天皇の平安遷都(794年)から保元・平治の戦乱(1156年・1159年)までのほぼ350年と、江戸時代、徳川家康の江戸開幕(1503年)から幕末維新までの250年(1867年)である。(下図)
もっともこの時代、地方に反乱の動きが無かったわけではない。けれども平安京の貴族政権の屋台骨は揺らぐことはなかったし、江戸時代も島原の乱(1637-1638年)を除けば、ほとんど完璧な平和状態を維持していたと言っていいだろう。
また、別の表現では「わが国には古来、公家的なものによって武家的なものをコントロールする非暴力的な技術の伝統が豊富にあった。身に寸鉄を帯びずして武力の発動を鎮める装置である。長期に渡る「平和」は、その巧みな技術(=人心掌握)によってはじめて可能になった」としている。
それについては、今や虚構説もある聖徳太子(画像左)だが、「憲法十七条」の「和を以て貴しとなす」や、江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉(画像右)の、1685年から20年余りにわたり生類すべての殺生を禁じた「生類憐みの令」が思い浮かぶ。
平安時代には、死刑は法的に存在していたけれども、実行に移されたことはなかったそうだ。
そして、鎌倉時代から始まった刀狩り。
天下を統一した豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年に布告した刀狩令が有名だが、武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させたことも平和の持続に大きく影響しているだろう。
●異民族の征服や支配を受けなかった国
もう一つは、千年以上にわたって異民族による征服や支配を全く経験することが無かったということだ。こんな国は世界のどこを探しても見つけることが出来ないのではないか。その点では、昭和の敗戦はそれこそ未曾有の体験だったことになる。
日本は西のイギリスとよく対比されるが、両者の間には重大な違いがあり、それは異民族との峻烈な抗争を経験し、したたかな国際感覚としぶとい外交技術を身につけたイギリスに対し、日本の対外政策は受け身の姿勢に終始し、中心軸が定まらない及び腰であると山折氏はいう。
日本で、この「パクス・ジャポニカ」の特質を正面から論じることはほとんどない。
日本人は「戦国時代」の英雄ばかりを追いかけて、「戦乱」好き、「革命」好きだと思い込んでいる。
そろそろ、「パクス・ジャポニカ」の伝統というかお国柄について、きちんと正面から考えてみなければならないところに来ているのではないだろうか。
もちろん、この問題に答えるためには、政治、経済上の背景はもとより、軍事外交にかかわる課題など、いろんな要因を勘定に入れなければならないのは言うまでもない。
「パクス・ジャポニカ」を可能にしたのは、国家と宗教が調和の関係を取り結んだことが要因ではないか。そろそろ、その精神的基軸である神仏共存のシステムと象徴天皇制の統治システムを世界に向けて発信していく段階に来ているのではないだろうか。
受け身の政治を改め、他人の顔色をうかがう外交姿勢を脱して、われわれの価値尺度を世界の舞台に持ち出す。
そういう時代が来ているというのが山折氏の考え方である。
自分は平和主義者である。
平和主義は幻想ではないと思っている。ただし、一つ条件がある。その条件とは外交能力の卓越した政治的指導者(または群)が必要だということだ。
日本はここのところそのような指導者に巡り合ったことがない。
もしかしたら存在したかもしれないが、そうなって欲しくない「層」、あるいは「国」が有って、スキャンダルなどで潰されてきたと思っている。
平和であれば無論、人殺しをしなくて済むことが一番だが、多額の軍事費を使う必要もなく、その費用で貧しい人たちを救うことが出来るなどメリットだらけだが、困る人たちがいる。
戦争で儲ける人たちである。カジノと一緒で、多くの犠牲者は生まれるが、それで経済成長するからだ。
その人たちは人数的には少数だが、政治に対する発言力が大きい。
政治に行き詰ったとき、国内問題の目を逸らせるために対外的な脅威を誇張し愛国心を煽るのは、多くの国が使ってきた常套手段である。
朝鮮が統一かというとき、本当は今、日本が一番活躍できるタイミングである。残念だ。
続く。