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1968 抵抗のうねり

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朝鮮半島の南北統一

 もちろん、まだまだ予断は許さないだろうが、朝鮮半島の南北統一が現実のものになりそうだ。

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 朝鮮の南北分断(画像左)は、南北ベトナム(画像中央)東西ドイツ(画像右)とともに、東西冷戦の代理戦争の犠牲者だった

 南北ベトナムは、ベトナム戦争(1955-1973年)という大きな代償の上に、東西ドイツは、ベルリンの壁の崩壊(1990年)により統一したが、ようやく最後の砦が壊れることはとても喜ばしいことだ。

戦後日本の分割統治案

 しかし、日本だって他人ごとではない。

 アメリカの統合戦争計画委員会 (JWPC) の第二次世界大戦終了後の日本領土に対する最終的占領案では、次の内容の「日本の分割統治計画」勧告していたのだ。

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1.北海道・東北地方は、ソ連統治
2.関東・中部地方は、米国統治
3.東京は、米国・ソ連・中華民国・英国の共同管理
4.関西地区は、米国中華民国の共同管理
5.四国は、中華民国統治
6.九州・中国地方は、英国統治

 ソ連は、北方領土と北海道占領計画を持っていた。ヤルタ会談でソ連は対日参戦の見返りとして北方領土を占領することが認められていたが、スターリンは、それだけではなく、北海道の半分をソ連占領地とするよう、トルーマン大統領に求めた。

 トルーマン大統領は、スターリンの要求を拒否し、分割占領を回避することを勧告する国務省案を承認。さらに、本政府を介した間接統治方式を最終的に承認したのだ。(Wikipedia参照)

 もし、日本がそのとき分割されていたらと思うとゾッとする。
1968 抵抗のうねり

 1968【その1】の冒頭で紹介した、朝日新聞「1968 抵抗のうねり」(5月4日号)にはこんなことが書かれている。

 「経済成長が続いていた1960年代後半、若者の異議申し立てが世界各地で噴出した。街路がデモで埋まり、体制打倒が叫ばれた。なかでも1968年はパリ五月革命など歴史に刻まれる事件が続いた。高揚と幻滅、そして社会の亀裂。半世紀前の68年は現代社会の原点であった」

 1968年の大事件は幾つもあるが、世界各地で起きた大学紛争が最も大きかったと思う。

 世界の大学紛争は、大学改革に加え、ベトナム反戦運動、人種差別反対運動があった。

 日本の大学紛争は、大学改革、ベトナム反戦運動に加えて、1960年に改定された日米安全保障条約(安保条約)が10年後の1970年に期限を迎え自動延長するに当たり、「70年安保粉砕」をスローガンにした闘争でもあった。
大学紛争の闘士

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山本義隆と秋田明大

 大学紛争で全共闘を象徴する存在は、東大全共闘議長を務めた山本義隆氏(現在76歳、写真左)と日大全共闘議長の秋田明大氏(現在71歳、写真右)だった

 山本義隆氏に関する記事を探すと、2014年10月東京新聞。「山本義隆 元全共闘議長 東大闘争語る沈黙40年、初の講演」でこんなことを話している。講演は、1967年、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止を掲げた羽田闘争で亡くなった京都大生山崎博昭さんの碑を建てるプロジェクトのイベントの一つで、山本氏はプロジェクト発起人の一人だという。

 60年の東大入学直後は「ほとんどノンポリ。物理学と数学の勉強をやりたかった」と語った。60年安保闘争でも「集会やデモに行ったり行かなかったりした普通の学生」だった。

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 同年6月15日、デモに参加した樺美智子さ(写真)が警察隊と衝突して亡くなったと知り、「その衝撃で、のこのこ出てきた」と言う。その後はベトナム戦争の反戦運動などに関わる一方、東大大学院に進学した。

 運動の背景にあった思想的潮流については、「60年代後半に出てきた三つのシンボルへの疑問」と指摘する。

 三つとは平和民主主義科学技術の進歩。60年代初頭、「絶対的な正義とされた」と言う。

 「ベトナム反戦運動によって(日本が平和であればという)一国平和主義を超えた」

 「民主主義を守れ」というスローガンは、多数決の優位などにより「社会的弱者を抑圧しかねないと分かってきた」

 科学技術については、「科学は自然ではあり得ない状況をつくって特定の現象を法則化するが、そのままでは技術にならない。技術化する際に公害などが起きたら、責任は科学にもある。そんな責任を省みてこなかった科学のあり方が問われた」と説明したそうだ。

 一連の学生運動が現代に与えた影響については、「何だったのかと間われると返す言葉がない」と吐露。

 安倍政権による集団的自衛権の行使容認を踏まえ、「今は戦争前夜みたいな状況。僕らは若いころ、戦前の人に、なぜ日本のファシズムや戦争を止められなかったのかと言ってきたが、同じことを今の二十代、三十代に言われるのではないか」と苦渋の表情を浮かべ、「あと何年生きられるか分からないが、やれることを見つけ、やっていかなりればならない」と結んだ。
 上述の朝日新聞「1968 抵抗のうねり」の記事に秋田明大氏も登場している。

 今は瀬戸内海に浮かぶ故郷の島で暮らす秋田明大は、日大全共闘の議長として学園の民主化を求め、校舎を占拠し、ストに突入した。秋田は当時を「ずっと振り返ってきた」と言い、「人の持つ『まっとうさ』があったと思う」と語る。

マキシー

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 “マキシー”は実在の女性で、かぐや姫「神田川」「妹よ」「赤ちょうちん」などの作詞で有名な、喜多條忠(現在70歳、写真)の学生時代の知人。彼女は、60年安保の大学紛争で活躍した、早稲田界隈では有名な女性活動家で、喰らいついたら離れないので“ピラニア”と呼ばれていた

 しかし騒ぎが終わった後、時代の価値観が大きな変化を遂げ、自分の信じてきたこと、闘ってきたことがすべて無意味に感じてしまい、彼女は睡眠薬を飲んで自殺してしまう。

 「睡眠薬を百錠も飲んでサ」という歌詞のせいで、放送禁止になったという。(THE HIMEPEDIA/かぐや姫事典参照)

                        かぐや姫/マキシーのために(1971年)


新谷のり子

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 新谷のり子 (現在71歳、写真)は、日本の歌手。学生運動の闘士でもあった。北海道北斗市(旧上磯町)出身。

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 彼女が歌った「フランシーヌの場合」は、当時30歳のフランス人女性・フランシーヌ・ルコント(写真) が1969年3月30日にパリで起こした政治的抗議のための焼身自殺を題材に作られ、樺美智子が死亡した1960年6月15日に因む6月15日反安保の日に発売、約80万枚を売る大ヒットを記録した。

 新谷は闘争に参加しながら芸能活動を続けたが、「青春の墓標」(革マル派の恋人をもったことに悩み自殺した中核派の横浜市立大学文理学部の学生、奥浩平の遺稿集)からタイトルをとった2枚目のシングル「さよならの総括」は内ゲバによってついた「総括」という単語への嫌悪感からかあまり売れず、次第にマスメディアからは消えて行った。(Wikipedia参照)

新谷のり子/フランシーヌの場合(1969年)


反戦歌

 反戦歌(anti-war song)は、戦争に対する抗議、反戦運動のメッセージを歌詞に込めた楽曲の総称であり、プロテストソングの一種である。具体的に戦争に関わる語句を用いず、暗喩として表現されるものも多い。特にベトナム戦争当時の反戦フォークは世界的なムーブメントとなった。

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 また、CCR「雨を見たかい」のように作詞者等に明確な反戦の意図がない楽曲であっても、ベトナム戦争での北爆のナパーム弾(写真)のことと第三者に解釈され、反戦歌として全米で放送禁止となったものもある。後にそれを歌ったジョン・フォガティは、「カリフォルニアのお天気雨を歌ったもの」として、反戦歌であることを明確に否定しているという。(Wikipedia参照)

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)/雨を見たかい(1970年)
 

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1970年の映画「いちご白書」の挿入歌「サークル・ゲーム」の作者でカナダの歌手・シンガーソングライターのジョニ・ミッチェル(現在74歳、写真左)の作品「青春の光と影」(原題: Both Sides, Now)は、これでグラミー賞を受賞。この曲を歌ったジュディ・ コリンズ(現在79歳、写真右)は、ジョーン・バエズと共にベトナム反戦に情熱を燃やした。なお、彼女のバージョンは1969年2月公開のアメリカ映画『Changes』(邦題:青春の光と影)に使用された。

ジュディ・ コリンズ/青春の光と影(Both Sides Now)(1968年)


 日本の反戦歌もたくさんある。

 五つの赤い風船(~1972年)といえば、「遠い世界に」(1969年)が代表曲だが、この「遠い空の彼方に」も、何度聴いても飽きない素敵な曲。歌詞も素晴らしい。本の「反戦歌」の最高傑作だと思う。

 この曲、実は「五つの赤い風船 フォークアルバム第1集」で歌ったのは、今は亡き「フーコさん」という愛称で知られた藤原秀子さんだった。彼女は東祥高氏と結婚し、グループ解散と共に引退した。しかし、二人ともすでに鬼籍に入ってしまった。

 次の映像は2000年再結成した、五つの赤い風船の青木まり子さんのボーカルによるもの。曲は原曲を少しアレンジしている。オリジナルは抒情的な感じだが、これはアップテンポで、青木まり子の野太い声も曲にマッチしている。自分はこの方が好みだ。リーダーの西岡たかし氏は伴奏に「ヴィブラフォン」を使っていて、それが幻想的な雰囲気の曲に仕上げている。

五つの赤い風船/遠い空の彼方に(1970年) 


 学園闘争が挫折と敗北に打ちひしがれていたときの名曲がある。

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 昨年の2017年12月2日、72歳で亡くなったはしだのりひこ氏は伝説のフォークグループの「ザ・フォーク・クルセダーズ」(写真)を1968年に解散後、5年間の間に目まぐるしくグループを変えた。


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 それは、最初のグループで、「風」「さすらい人の子守唄」のヒットで有名な「はしだのりひことシューベルツ」のベース、井上博(写真の右)が急死したからである。

 そのデビュー曲「風」は、青春の旅立ちのやるせなさを歌った曲。勇んで旅に出たのが当時吹き荒れた学園闘争とすれば、挫折は闘争の終わりである。

 その虚しさをこの歌は「ただ風が吹いているだけ」というフレーズでうまく表現している。「風」は学園闘争に敗れ、挫折し疲れはてた若者たちの心の中を吹き抜ける、正に「風」だったのだ。

はしだのりひことシューベルツ/風 (1969年)


 前述の「いちご白書」(The Strawberry Statement )は、アメリカ人作家ジェームズ・クネンによるノンフィクション。著者が19歳の時に書かれ、コロンビア大学での1966年から1968年までの体験、特に1968年の抗議行動および学生抗議者による学部長事務所の占拠についての年代記となっている。

 また同書を元に制作された映画は「イージー・ライダー」「俺たちに明日はない」と並ぶ、アメリカン・ニューシネマの人気作品である。

 主題歌はジョニ・ミッチェルが作詞作曲した「サークル・ゲーム」バフィ・セント=メリーが1967年に発表したカバー・バージョンが映画に使われている。

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 松任谷由実(荒井由実)(現在64歳、写真左)が、1975年に作詞作曲し、フォーク・グループ・バンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」は、映画公開当時の松任谷自身の思い出を元にしている。同曲はオリコンチャート1位を記録し、ミリオン・ヒットとなった。

 バンバンのばんばひろふみ(現在68歳、写真右)は、当時、ラジオの深夜番組においてディスクジョッキーとして活動し人気も高かったが、デビューから4年経過してもまだヒット曲がないことに焦りを感じていた。その頃、荒井の曲を聞き「他の女性シンガーとは違う。キラキラしたすごい才能」と感銘を受けたばんばは「彼女の曲で売れなければ諦めもつく」と考え、最後の曲として荒井に書いてもらいたいと思い、荒井に会うためあらゆる伝を探し行き着いた所が松任谷正隆であった。そしてばんばは荒井と直接会い、条件を何も付けずに一曲依頼した。

 荒井は、当時あった学生運動を題材にした歌を書きたいと思っていたところにばんばが現れ、「初対面のばんばが学生っぽく、最後のピースがはまった感じだった」と感じ、曲を書く事となった。その題材を提供したのが早大紛争を経験した音楽プロデューサー・前田仁であった。

 レコード発売前にばんばは、本曲を自分が担当する深夜放送で流したところ、たちまちリクエストはがきが段ボール箱にあふれるほど殺到し、発売後はヒットチャートになった。

 当時は、学生運動の象徴であった東大の安田講堂占拠事件から6年が経過し、学生運動の高揚と退潮がまだ社会の記憶に残っていた時代であり、ばんばは本曲について「社会を変えるつもりで闘争に加わった学生達は、生活のために会社の歯車となり、彼らは皆何らかの敗北感を持っていた。この歌は挫折感を抱えた同世代への鎮魂歌なんです」と語っており、同世代の者も同じように受け止めている。
Wikipedia参照) 

 ここでは、松任谷由実(荒井由実)のセルフカバーを。

荒井由実/いちご白書をもう一度(1975年)



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