●自分にとっての1968年
■受験戦争のあとの大学時代
自分は進学校と呼ばれる高校で大学を目指していた。学校同士のライバル意識が激しく、どこの高校がどの大学に何人などと、新聞もそれを記事にして競争意識を煽り立てている始末だった。
経済的に私立大学は困難で、国立大学しか入れないと思い込んでいて、入試のことばかりを考えていた。
当時こんな曲が流行っていて、正に当を得ているだけに、いじけながらもよく聴いていたものだ。
高石友也/受験生ブルース(1968年)
知らず知らずのうちに、当面の目標であるはずの大学入試に合格することが人生の目標みたいになってしまい、1947年(昭和42年)の入学後に「燃え尽き症候群」というべき喪失感を味わうことになった。
学生時代は、恥ずかしながら勉強をした記憶がない。酒とたばこはやらなかったが、麻雀とパチンコ、そしてアルバイトに明け暮れ、社会人になるための予行演習として、仕事と遊びを覚えるために行ったようなものになってしまった。
ところで、私たちの世代はほとんどが学生運動の洗礼を受けた。しかし、デモに参加したことはない。
自分はそのときいわゆるノンポリではあったが、多分「心情三派」と呼ばれる立場だった。
全共闘用語の基礎知識によると、「初期のころ、新左翼系の学生運動は、いずれも「三派」が学生運動の代名詞として報道されることが多く、海外でもSanpaの名前で知られた。三派連合には当初、構改派、社青同、社学同の三派が連合を組んでいたが、のちに革共同中核派が入り、四派となる。さらに構改派が脱退し、新三派(社青同、社学同、中核派)ができる。1968年当時、三派系全学連には、共産同マル戦派、共産同統一派、社学同ML派、社学同、社青同解放派、社青同国際主義派、革共同中核派が属していたが、1969年には破綻をきたし、社学同などは反帝全学連を結成した」とある。
「心情三派」というのは、彼らを支持した文化人の一人、野坂昭如の造語。「三派」など政治運動に走る学生は150万という学生大衆からみると、一握りだったが、その背景には「心情三派」という多くの支持層がいたのだ。
全学連の党派は離合集散を繰り返した上、複雑すぎて理解しにくい。「三派(系)全学連」というのも、どういう主義主張だったかすっかり忘れてしまった。
しかし、学生運動は過激の一途をたどり、「あさま山荘事件」により大団円となり、この世直し運動はあえなく終焉を告げてしまった。
この運動は一体何だったのだろうか。この闘争に参加した友人もいたが、それが終わった後と前との発言や行動の落差に驚いたことがあった。
敗北の無力感や脱力感は、振り子が逆に振れるように、人間を反動的にするものなのだろうか。
私は小学生のころから政治的指向があまり変わっていない。そういう意味では「保守的な」人間だ。「転向」とか「変節」という言葉があるが、「ブレる」のを通り越して、考え方がコロッと変わるというのが、どうも苦手でよく理解できない。
Wikipediaで「学生運動に参加した著名人」のリストを見ると、驚きを禁じ得ない。
猪瀬直樹、塩崎恭久、三遊亭円楽(5代目)、高須甚仁、テリー伊藤、西部遭、田崎史郎、梨本勝などがそうである。
森田童子/みんな夢でありました
The Rascals/People Got To Be Free 「自由への讃歌」(1968年)
■反権力主義と会社人生
新卒で会社を選ぶときも、これだけは最低限守っていた。武器にからんだ会社とか、環境破壊に関係するような会社の選択肢は無かった。
音楽関係の会社に入社した理由は、音楽を聴くのが好きだったのと、自分の考えにそぐわない会社だけは行きたくなかったことに尽きる。
会社では本音で生きることは難しい。それでも自分自身と折り合いをつけて、会社役員まで昇格し、最後まで勤め上げてきたつもりだ。
拙ブログのプロフィールに嵐山光三郎著の「不良中年は楽しい」(写真)を選んだのは、不良の条件の一つに「反権力」というのがあったからだ。
権力に迎合しないことは、自分のアイデンティティの重要な部分である。
■今の考え
我々団塊の世代は戦争自体は知らないが、生き残りの人から戦争の悲惨さを何度も聞き、傷痍軍人やスラムなどその惨状を直に見てきた多分最後の世代である。特に自分は広島県出身なので、原爆の恐ろしさをよく知っている。
だんだん少なくなっている「戦争の語り部」として、何としても平和のありがたさを語り継がねばならない。
昨日は「憲法記念日」。非道で無謀な戦争の反省として生まれたのが日本国憲法であり、その三大基本原則の「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」が一つでも崩れたら日本は終わりだと思っている。
ところで、現在65歳以上の高齢者はこんなにいる。日本の総人口の27.3%にもなる。
この層が覚醒して怒ると怖い。
「平和」を守りたいということでは、老人より若者の方が切実な望みではないのか。
また世代差の格差、年金もまともに払えなくなることや、非正規雇用など子作りはおろか結婚も出来ない生活苦の若者も多いのに、何故それをサポートしない政治に対して怒らないのだろうか。
昨日の新聞には4月14日、東京・渋谷のハチ公前広場では若者グループ「にっぽん憲法プロジェクト」もメンバーが人の波に呼びかけていたという。「憲法を変えて、日本の未来にわくわくしよう」。
あのとき、われわれ団塊の世代が挫折感に終わらず、正義感を持ち続ければ、今のように垢や膿にまみれた日本にはならなかったのかもしれないと思う。
日米安保条約という日米同盟のありかたについてもそうだ。日米地位協定のせいで、不合理なことが今も繰り返し起きている。
当時したたかな学生運動家と、国益のことを真剣に考える政治家がいたら、こんな不平等な条約や沖縄基地問題が、半世紀も棚ざらしにはされていなかったのではないかと思う。
街頭でビラ配りやデモを見ていると若者の姿が少ない。正義感というのが若者の特徴ではなかったのか。
若者に元気のない国は滅びるのを待つばかりだ。