奇しくも本日(5月4日)の朝日新聞の6面の全面に、「1968 抵抗のうねり」という記事が載っている。
前2作で加藤登紀子の特集をしたが、投稿のきっかけは、そこで紹介した、彼女の著作による「登紀子 1968を語る」だった。
●もう一度「登紀子 1968年を語る」
その本は5月2日が図書館への返却期限だったが、2週間貸し出しを延長してもらった。もう一度読んでみたいと思ったからだ。
それが、読みなおしてみると、改めて彼女の人物像が浮き彫りになり、それまでいかに「斜め読み」をしたかを痛感した次第だ。
一度観たコンサートではおくびにも出なかったが、加藤登紀子は信念の人である。1968年の学生運動を挫折や敗北として思い出すのではなく、「スタート」だったと思うことにしているという。
その「1968年の思い」について、インタビューに対する彼女の答えがズシンと胸に突き刺さった。
ただし、この著作は今から9年前の2009年の作品。この年に政権交代で自民党に代わる民主党政権が誕生したという期待感もどこかにあったはずだ。
「これから団塊の世代の人たちが65歳定年を迎えますよね。その人たちが企業や組織の制約がなくなって、自由に行動できるようになったときにどういう動きをするのか。ちょっと楽しみなんです。さいわい私は組織にがんじがらめの仕事ではなかったから、つねに自由な立場にいたといえる。もちろん何をどう考え、発言し、答えていくのか選択は難しかったし、私なりの悪戦苦闘はあったけどね。だからこそ、彼(彼女)らが自由に発言できるようになったとき「登紀子、俺たちはお前なんかより何倍も耐えてきたんだから、これから言いたいことをいうぞ」というふうになって欲しい」
こんなことも言っている。
「(学生運動について)ごく一部の人を除いて、本当の意味での革命なんて本気で考えていなかったと思う。戦争はイヤだね。アメリカもソ連もイヤだね。もっと他のやり方って何かないの、っていう気分だったんですよ。だから会社に入ってサラリーマンになったからといって、別に裏切りじゃないんです。68年の学生の動きを弾圧によって政治化していったのは、国の方なんですから。それに68年の若者がみんな大学生だったわけじゃないし、学生もみんなが学生運動をしたわけじゃない。そんな中で漠然と学生を支持するムードがあった。 それが68年的な気分なんです。国の未来は若者が決めるべきだっていうようなね」
加藤登紀子【その2】で、映像で紹介した「1968」の歌詞は次の通り。
♪世界中が産みの苦しみにふるえていた 誰もが輝いて生きる世界を夢見て 命がけで愛し命がけで祈った よろこびの歌をうたいながら
午前0時の新宿歌舞伎町 ジャズバー「渚」で聞いたコルトレーン(*) 泣きながら踊っていたアメリカンソルジャー あした戦場へ出て行くアメリカンソルジャー 1968 1968 1968 68 68
ベトナムの空にまかれたエージェントオレンジ(*) 森も川も畑も汚されてしまった 何のために戦い人を殺すのか 答えのない戦争がつづいていた 街中にあふれるスチューデントパワー 自由を叫ぶスチューデントパワー 戦争のいらない未来のために 世界を変えよう今ここから 1968 1968 1968 68 68
野に咲く花がたとえ枯れ落ちても 希望の種は生きつづけている 傷ついた心が泣きつづけても生きている今日が明日を拓く 生きている今日が明日を拓く 生きている命が明日を変える 生きている命が明日を変える 1968 1968 1968 68 68♪
このときのインタビューアーだった、当時大学生だった近藤伸郎氏(通称:のぶ)はこんな言葉を残している。
「最近の若者たちは「1968」を知らなさすぎる。なぜ今、1968かということに、この本は真っ向から答えた本だと思う。あまりに非政治主義的すぎる若者たちに一つの答えを示すために、登紀子さんのファンを含め、多くの人に読んで欲しい。多くの発見に驚くと思う。歴史を学ぶことは、今の時代を相対化することにつながるのだ。
登紀子さんは、何てエネルギッシュな方なのだろうと、本当に感動した。様々な難しい事情もあるなか、自分の体験に自信をもって堂々と語る、その姿に感銘を受けた。彼女には自分の感覚を信じる強さがある。今回、仕事に付き合わせてもらっての感想は、登紀子さん本当にすばらしかったです、の一言に尽きる。僕は登紀子さんに心底惚れました。
今の君たちには、自信をもって語れる自分がありますか?自分の感覚を信じていますか?そして、その感覚を追い求めていますか?
最後まで全力を尽くす覚悟で、自信をもって一歩前へ!それが、闘いということ。人生とは闘いなのだ」と、いささか高揚感が高くなっているようだ。
●1968年の時代背景
自分は1949年生まれの全共闘世代=団塊の世代。4月から大学2年生のときだった。
ときは日本の高度経済成長期。このときは「いざなぎ景気」と呼ばれた。(図)
1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位となり、戦後、焼け野原で何もないところから世界第2位の経済大国まで上り詰めたというのは世界的に見ても例が無く、「東洋の奇跡」(Japanese miracle)とまで言われた。
それでもまだ初任給(図)は大卒で3万290円。封書15円(現在は82円)、はがき7円(同62円)。自分が住んだ広島の間借り代の相場が1畳当たり1,000円、6畳では6,000円。アルバイト料は一日1,000円がいい部類だった。
ところが、経済成長の陰で急速な工業化に伴い環境破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」「四日市ぜんそく」「第二水俣病」といった各地の公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が深刻化。
経済優先は運転者優先という思想にもつながり、1970年には交通事故死者数は1万6,765人とピークを迎え、日清戦争での日本側の戦死者(2年間で1万7,282人)に近づいたため、この状況は一種の「戦争状態」であるとされ、「交通戦争」と呼ばれるほどの社会問題になった。
世界の政治情勢は前作で述べた通りだが、ベトナム戦争の泥沼化の一方で、人種差別は続き、東西冷戦の中、プラハの春の弾圧などで、世の中は混沌とし、それに対する異議申し立てが学生を中心に世界の各地にこだました。
ただし、欧米や日本では、社会の管理化への反発や、反戦意識が若者たちの自発的行動に駆り立てたものだが、中国の「文化大革命」だけは違っていた。表向きは「紅衛兵」という若者中心の造反だが、官製で、やらせに近いものだった。
「団塊の世代」は堺屋太一の造語だが、戦後の「ベビーブーム」の所産である。
ちなみに、厚生労働省が2017年6月2日に発表した人口動態統計によると、2016年に生まれた子どもの数(出生数)は97万6,979人となり、1899年に統計をとり始めて以来はじめて100万人を割り込んだ。
「団塊の世代」(1947年~1949年)の3年間の合計出生数が約806万人、年間平均では260万人を超えているので、今は当時の三分の一近くまで減っているということだ。(図)
そして、高度経済成長期とともに始まったとされる「受験戦争」。
続く。