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国境の日本史【その1】

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前作、ウクライナ【その2】で、「20世紀後半、はるか西方EUという「強国」が台頭し、現在も8カ国に囲まれたウクライナは、地政学に翻弄されている。 国は引っ越せない。こうしたことに無縁の島国・日本は、幸運である。 もしも、日本が中国・韓国・ロシアと地続きだったらと思うとぞっとする」
 
ということを書いた。
 
しかし、日本にも「領土問題」が存在し、のっぴきならない状況に追い込まれていることはご存知の通りである。
 
イメージ 1たまたま、こんな本を読んでいる。
 
明治学院大学教授・武光誠「国境の日本史」(文春新書、2013年)(写真)
 
これによると、江戸時代までの日本の国境は曖昧でおおらかなものであった。
 
更に、江戸幕府成立以前の日本の境界はもっと曖昧で、日本の外れには、無秩序な地域が点在しており、日本にも他の国にも属さない「辺境に生きる者」というべき集団だった。


固有の領土
 
現在、世界中のほとんど全ての場所に、国境線が引かれている。無いのは南極と北極だけである。
 
歴史上、国境は国と国の力関係に基づいて、絶えず書き換えられてきた。つまり強者が一方的に国境を定めてきた 
 
日本人は「一つの地域の土地は、古くからそこに居住してきた人々のものである」という信念があるが、こういう議論は世界に通用しない。 国際法にも「固有の領土」という概念はないそうだ。
 
従って、外務省が「北方四島は日本固有の領土である」とか、最近でも、下村博文文部科学相が、「小学校の学習指導要領や教員向けの解説書に、沖縄県の尖閣諸島と島根県の竹島を『我が国固有の領土』と明記することを検討する」意向を示したというのは、法的主張というより、政治的主張という意味合いが強いということになる。


現在の日本
 
現在の日本はこんな状況だ。
 
イメージ 2


 これを見て分かるように、日本は国土そのものよりも海洋において広範囲な権利を有する国であり、日本の国土は約38km2世界第60領海と排他的経済水域(EEZ)を合わせると約447km2世界第6となる。
 
 日本は狭い国であるとも、広い国であるともいえる。
 
 最北端は択捉島(北海道蘂取村)。(東経148°45'14"、北緯45°33'28") ただし施政権が及んでいる最北端は宗谷岬の北にある弁天島(北海道稚内市)。
 
 最東端は太平洋上の孤島・南鳥島(東京都小笠原村)。(東経153°59'11"、北緯24°16'59") ただし民間人が自由に入れる最東端は、納沙布岬(北海道)
 
 最西端は与那国島(沖縄県与那国町)(東経122°56'01"、北緯24°26'58")
 

 最南端は沖ノ鳥島(東京都小笠原村)。(東経136°04'11"、北緯20°25'31") ただし有人島では波照間島(沖縄県竹富町)


領土の変遷
 
 日本は明治に入り、近代国家と出発するために、まず周辺諸国との間に欧米の先進国にならい、きっちりとした国境線を画定する必要に迫られた。
 
 明治政府が発足したとき、日本の国境は樺太沖縄小笠原諸島の3ヶ所が不確かな辺境だった。
 
 樺太については次の経緯である。
 
イメージ 3 北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島)については、安政元年(1855年)、伊豆下田に於ける「日露通好条約」で、日本とロシアの国境が択捉島とウルップ島の間、千島列島はロシアの領土で、樺太は従来通り日露両国民混住の地と決められた
 
 明治8年(1875年)に日本はロシアと「樺太千島交換条約」を結び、千島列島をロシアから譲り受ける代わりに、樺太全島を放棄。この条約により、それまで帰属先が未定であった樺太はロシア領になり、それまでロシア領であった千島列島は日本領になる。  

 そして、日露戦争に日本が勝利し、明治38年(1905年)に、日本とロシアの講和条約である「ポーツマス条約」が締結され、北緯50度以南の南樺太が日本の領土となった。(上図)
 
 小笠原諸島と沖縄は、紙面の制約上ここでは触れない。


領土の拡張
 
 その後、帝国主義時代の欧米諸国にならい、領土を広げてゆく。
 
 日清戦争(1894年~1895年)では「下関条約」で、遼東半島(後にロシアに返還)、台湾澎湖諸島などの割譲を受ける。
 
 日露戦争(1904年~1905年)では「ポーツマス条約」で、南樺太満州(中国東北地方)と南端の関東州が日本の領土となった。
 
 さらに朝鮮半島の大韓帝国「日韓併合条約」により、日本に併合した。(1910年)
 
 日露戦争における勝利は日本の国際的立場を大きく上昇させた。
 
 しかし、最後発として帝国主義政策を掲げてきた日本に対して、欧米列強は反発を深める。
 
 戦前の日本の領土は、明治初年(1867年)の千島列島を加えた約38万㎢から、新南群島を領有した昭和14年(1939年)には1.78倍約68万㎢になり、史上最大となった。
 
 そして、昭和15年(1940年)には日本、ドイツ、イタリアの三国軍事同盟が締結され、日本は翌昭和16年にアメリカ、イギリスとの太平洋戦争に突入した。
 
イメージ 4 日本は最初は優勢で、東南アジアのイギリスやオランダの植民地を次々と征圧していった。
 
 日本軍は最盛期には、中国の要地と、東南アジア、太平洋西部の地域を軍政下に置いた。
 

 東はアメリカ領アリューシャン列島のキスカ島と南太平洋のギルバート島キリバス共和国の一部)、西はビルマ西端、南はインドネシア南端、北は満州北端とアリューシャン列島のアッツ島まで日本軍の支配下にあったのだ。(右図)


イメージ 5 日本の敗戦が濃厚になった昭和20年(1945年)2月、クリミア半島ヤルタ米・英・ソ首脳が集まり、ヤルタ会談が行われ、戦勝権益の分割が話し合われ、ソ連が対日参戦を行う見返りとして、日本が敗戦後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとしたヤルタ協定が結ばれた。
 
 この会談については、結果的に東西冷戦を招いたというだけでなく、幾つも問題点が指摘されている。(写真左より英・チャーチル、米・ルーズベルト、ソ・スターリン


蛍の光は軍歌であり、領土の拡張とともに歌詞が変わった
 
 現在は「蛍の光」2番までしか歌われないことがほとんどだが、本来は4番まである。
 
 4の歌詞は、次のように領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されている。
 
 千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり
(樺太千島交換条約・琉球処分後)
 千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり
(日清戦争による台湾割譲後)
 台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)
 

 戦後はこの国家主義的とも取れる歌詞が敬遠され、また日本固有の領土である千島や沖縄が他国の占領下に置かれたという事情もあり歌われなくなっていったようだ。


 続く。

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