大航海時代(中世が終わる15世紀から17世紀まで)の主役は、ポルトガルとスペインだったが、17世紀末からは新興勢力のイギリスとフランスが覇権を激しく争うようになった。
スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨し、絶対主義の代表的君主の一人とされている、フェリペ2世(1598年、71歳で没、画像)は、「無敵艦隊」(アルマダ・インベンシブレ)を擁し、1580年にはポルトガル国王も兼任し、イベリア半島を統一するのと同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。
イギリスは1600年に東インド会社を設立してアジアに進出し、ジャワ島東部のバンテンに拠点を置いて香辛料貿易への食い込みを図った。
オランダはかつてスペイン・ハプスブルグ家の支配下にあった。しかし、16世紀に宗教改革が始まると、プロテスタントを受け入れたオランダとカトリックのハプスブルグ家の対立が表面化し、1568年、80年戦争(~1648年)と呼ばれたオランダ独立戦争が始まった。1609年に事実上の独立を達成、首都アムステルダムは金融・貿易の中心地として発展を遂げた。
オランダのアジア進出は1580年ごろから始まり、17世紀初めには、アジアにおけるポルトガルの覇権はオランダへと移行した。
徳川政権下の日本から、キリスト教を布教することを理由にポルトガル人が追放されたときには、代わりにそこに入り込むことに成功。ヨーロッパ諸国の中で唯一日本と交易を行う国となった。
▼リーフデ号事件(De Liefde)
関ケ原の合戦の約半年前の、1600年(慶長5年)、豊後国(現大分県)臼杵湾の北岸の佐志生(さしう)黒島にオランダの商船が漂着した。(図)船は300トンでリーフデ号という。
リーフデ号は2年前(1598年)に本国オランダのロッテルダムを出航。初めは5隻の船団で、アフリカ喜望峰経由(東方航路)の予定が、悪天候でマゼラン海峡を通り太平洋を横断する西方航路に変更。しかし中南米は敵のスペイン・ポルトガルの占領地がほとんどで、また未開の島で住民に襲われるなどしたため、航海は困難を極め、行き先を日本に変更したが、残された船はリーフデ号のみになってしまった。水も食糧も底を尽き、乗組員は次々と倒れ瀕死の状態で1600年、日本に漂着。
乗組員は110人ほどいたが、生存者は僅かに24名。生存者の中にも重傷者が多く、その後6人が死亡したという。
残り少ない生存者の中には江戸幕府の外交顧問になった、ウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステンがいた。
日本に最初に来た英国人。スペインの無敵艦隊を破ったドレイクの補給艦リチャード・ダフィルド(120トン、乗組員70人)の船長として活躍した腕を買われ、水先案内人としてオランダ船リーフデ号に乗り込んだ。
書記メルヒヨールとともに徳川家康に招かれ大坂城で謁見。この時の会見は、よほど家康の興味が深かったのか関ヶ原の戦い直前にもかかわらず昼過ぎから夜半に及んだという。
その後、船長ヤン・ヨーステンとともに正式に江戸に招かれて5年間、徳川家康の顧問となった。主に通訳や外交の相談を受けたり、洋式の帆船の建造などをしていたが、旗本として帯刀を許され、日本人妻・お雪を娶り、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
また相模国・三浦の地を与えられて三浦按針と名乗り江戸日本橋に屋敷を構えた。1618年肥前・平戸に開設されたイギリス商館に勤め、イギリスとの貿易に活躍した。帰国を願い、日本に派遣されたジョン・セーリスの船に乗船する予定だったが、彼とは馬が合わず断念。死ぬまで帰国できず、また、家康の死後、秀忠・家光からは特別な扱いはされず、鎖国体制が始まり不遇のうちに平戸で死去した。
神奈川県横須賀市には記念碑があり、近くに京急「安針塚駅」(写真)と名づけられた駅がある。
▼ヤン・ヨーステン(耶楊子:やようす、1623年、67歳で没)
オランダの航海士。重傷で身動きがとれない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わりアダムスとともに徳川家康に信任され、招かれて顧問となり、ヨーロッパ情勢などを伝えた。
家康から御朱印の許可をもらい、シャム,カンボジアなど東南アジア諸国と朱印船貿易を行った。(画像)
また長崎・平戸にオランダ船を入港させ、オランダ商館を設けて本格的な日蘭貿易を行わせた。
日本人妻を迎え、江戸日本橋の海に近い地域に屋敷を構えた。この地域は彼の名を取って耶楊子河岸と呼ばれた。後の八重洲(現在の東京駅東口付近)である。1623年帰国をしようとしてバタビアまで渡るが果たせず、再び日本へ帰還中、船がインドシナで座礁して溺死した。
▼ガリヴァー旅行記(初版:1726年、完成版:1735年)
正式な題名は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』 である。
その第三篇「飛び島」に、ガリヴァーが訪日した場面がある。
ガリヴァーは、ナンガサク(Nangasac、長崎)まで護送され6月9日オランダ船で出港しイギリスに帰国する。
スウィフトがなぜ日本のことを知っていたかというと、江戸時代に徳川家康の外交顧問を務めていた三浦按針がイギリスに送っていた書簡を、彼が所蔵していたからだ。
▼オランダの台頭と鎖国
幕府がキリシタン禁教策を進める1620年(元和6年)、平戸のオランダとイギリスの商館は共同で長文の上申書を発している。そこには、スペイン、ポルトガルの両国が日本制服を企んでいること、オランダ、イギリスの両国民はその野望を阻止する考えであることが記されている。
幕府は、1635年(寛永12年)、この上申書の考えに沿って、日本人の海外渡航の禁止策を打ち出すことになる。
江戸時代初期にイギリス商館長(カピタン)を務めた、リチャード・コックス(1624年、58歳で没)は、1613年(慶長18年)、東インド会社によって日本に派遣され、三浦按針の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した。
彼はその後、オランダとの競争に敗れ、1623年(元和9年)閉鎖が決まったため日本を出国、翌年帰国の船中で病死し、初代にして最後のイギリス商館長となった。
イギリス商館の閉鎖の翌年(1624年)にスペイン船の来航を禁止、さらに1939年にポルトガル船の来航を禁止して鎖国が完成された。
このあと、オランダ人が来る長崎を唯一の西洋の窓口とする鎖国時代が200年あまり続くのである。(「日本史を動かした外国人」参照)
下表がその年表である。
ドイツ人医師のシーボルトは、日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献すると共にヨーロッパ人でありながら、日本の文化などをこよなく愛した人物だった。
彼は、1823年(文政6年)27歳のとき来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。
なお、エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの3人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、全員オランダ人ではなかった。
出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)教育を行う。(画像)
代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。
そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。
シーボルト事件は、1828年(文政11年)、彼が帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受けている)。シーボルトは1829年(文政12年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けた。
1833年(天保元年)宇和島藩主の命で現在の西予市宇和町で開業し、のちに準藩医となる。そしてシーボルトの娘イネを引き取り日本初の女医に育てた。
1858年(安政5年)に再び長崎へと赴き、開業医となった。その後、敬作が故郷へ帰ることはなかった。翌年シーボルトの再来日で、長崎での再会を果たした。
長崎には彼の住んだ鳴滝に「シーボルト記念館」がある。(写真)
シーボルトが来日して間もなく、お滝と出会い、4年後には彼との間に「オランダおいね」こと、楠本イネが生まれた。前述の通り、二宮敬作から医学を学び、日本初の女医、宮内庁御用掛の産科医にもなった。現在もイネの子孫たちは医師を続けているという。
イネはにぎやかな長崎から、父の信頼した部下の一人、二宮敬作を頼りにして海を渡り、山を越え、峠を下り1人で、卯之町(西予市)にやってきたのが1841年の14歳。
彼女はドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。
1845年(弘化2年)から岡山の石井宗謙が産科医としての技術や知識をおよそ7年に渡り学ぶ。1852年(嘉永5年)(25歳)、イネは石井のもとを去り長崎で長女高子を産んだ。
1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトとそこで再会し、西洋医学(蘭学)、ヨハネス・ポンペ・ファン・ メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任アントニウス・ボードウィンに学んだ。
1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福沢諭吉の口添えにより宮内省御用掛となったが、1875年(明治8年)東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。
1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福沢諭吉の口添えにより宮内省御用掛となったが、1875年(明治8年)東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。
そして、62歳の時、娘高子一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。
以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、東京で亡くなる。享年77歳。墓所は長崎市晧台寺にある。(写真は晩年のイネと高子)
イネの娘高子は不幸な出生で、当初は「タダ子」とよばれていた(天がただで授けたものであろう、というあきらめの境地から名付けられた。
13歳まで長崎の祖母・お滝の元で育つ。幼少時は琴や三味線、舞など芸事に熱心であり、医者を嗣ぐことを期待していたイネを嘆かせていたという。14歳の時に母の師・二宮敬作の縁により宇和島藩の奥女中として奉公を始める。
不思議な出会いがある。
後に理想の女性としてやスターシア(写真左)や、メーテル(写真右)など、切れ長の目で顎の細い女性を描き続けたが、なぜそういう女性を描くのか、自分でもはっきりとは分からなかったという。
大洲市に暮らす同級生から、明治維新前後 に撮影されたとみられる1枚の写真を見せら れた。そこに写っていたのが、メーテル、スターシアによく似た細面の若い女性(楠本高子)だった。
続く。(Wikipedia 参照)