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日本と外国人【その2】

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 日本が西洋に知られるようになったのは、1300年ごろ、マルコ・ポーロ(1324年、69歳で没、画像)の「東方見聞録」「黄金の国ジパング」(Cipangu)として紹介された。

マルコポーロ・東方見聞録

 「ジパング」は日本の英名である「ジャパン」(Japan)の語源である。

 東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1,500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。

 また、ジパングには、偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある」といった記述がある。

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 「莫大な金を産出し」というのは奥州の金産地を指し、宮殿や民家は黄金でできている」というのは、平安時代末期に奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の中尊寺金色堂(写真)がモデルになっているとされる。

 当時の奥州は莫大な金を産出し、これらの財力が奥州藤原氏の栄華の源泉となった。

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 マルコポーロが元王朝に仕えていた13世紀頃、どうやら奥州地方の豪族安東氏十三湖畔にあった十三湊(図)経由で独自に中国と交易を行っていて、そこからこの金色堂の話が伝わったようだ。

 彼は、1271年(16歳)、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。(下図)

 帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれ、1324年(69歳)に没した。東方見聞録』中国(元)での伝聞によるものであり、信憑性は低い。

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黄金の国・ジパング

 この「黄金の国・ジパング」伝説は、ヨーロッパの冒険家の本能をくすぐり、ジパング到達の夢を膨らませた。

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 マルコ・ポーロの時代から約200年後の1492年、ジェノヴァ生まれのコロンブス(1506年、55歳で没、図左)は、スペインのバロス港(図右)から西廻りにインドを目指して、大西洋へ向かう。

 コロンブス自身はアメリカ大陸を最後までアジアだと誤認しており、「新大陸」と気づく事は無かった。その事を考えれば、1492年に彼が「新大陸を発見した」ようにいわれるのはおかしいともいえる。

 その目的は、豊かな香辛料を求めるための航海だったのであり、その裏付けとなり、コロンブスを荒波に船出させたのは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」だった。

 その第一回の航海日誌には、黄金の記述が多数あり、実に8回も「ジパング」について言及されている。

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鉄砲伝来

 その後、記録に残る日本に入国した最初の欧州人として、1543年、ポルトガル人種子島へ鉄砲を伝えた。(図)

 江戸時代の1606年(慶長11年)に作成された「鉄炮記」は、種子島久時 (16代)が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた鉄砲伝来に関わる歴史書であるが、それによると、種子島の西村の小浦に漂着した中国船に乗っていた牟良叔舎」(ゼイモト)「喜利志多佗孟太」(モッタ)2人が鉄炮の実演を行い、種子島の島主・種子島時堯がそのうち2挺を購入し、刀鍛冶の八板金兵衛らに命じて複製を研究させた。

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 (アントニオ=ガルバンの『諸国新旧発見記』ではアントニオ・ダ・モッタフランシスコ・ゼイモトアントニオ・ペイショット3人とされる)

 
わずか1年後の1544年(天文13年)には国産第1号の鉄砲を完成させたが、ポルトガル人によって最初に種子島に伝えられたため、火縄銃”種子島銃”あるいは単に”種子島”と呼ばれた。

 その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州・根来寺の僧・津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられたという。

奴隷交易

 日本は幸い帝国主義の餌食とはならず、植民地になるのは免れたが、ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した。

 日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年(弘治元年)の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して、1571年(元亀2年)に日本人の奴隷交易の中止を命令したという。

 豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを大変不快に感じ、1587年(天正15年)、エズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人、タイ人、カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じた。秀吉はポルトガル人イエズス会をこの奴隷交易について非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止された。

 一方、
文禄・慶長の役(1592-1593、1597-1598年)で捕虜として日本に囚われていた数万人のうち一部の朝鮮人もまた奴隷としてポルトガル人に買い付けられてポルトガルに連れて行かれた。 歴史家は、秀吉はポルトガル人による日本人奴隷売買に立腹し激怒したが、同時に秀吉自身も日本における朝鮮人捕虜の大規模な交易に関わっていたことを指摘している。

ザビエルとイエズス会

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 日本が鎖国になるまで、西洋との係わりは主にフランシスコ・ザビエル(画像)を始めとするイエズス会(Societatis Iesu)の宣教師だった。会の総本部はローマにあり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)とも呼ばれた。

 イエズス会は、宗教改革で生まれたプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」の役割を果たすため、1534年に誕生した。彼らは当時のカトリック教会には改革と刷新の必要があることを十分に理解していた。改革の基本は一人ひとりの内的改心にあったのだ。

 彼らは当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣し、その精力的な活動によってカトリックが再び復興した。

 中でも最も有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人・弥次郎の話から日本とその文化に興味を覚えて、1549年に彼と二人の従者を伴って鹿児島に上陸、二年滞在して困難な宣教活動に従事した。

 しかし、彼の布教はほとんど実らなかった。

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 彼が会った有力者の中でキリスト教に関心を持ったのは、府内(現在の大分)の大名、大友宗麟(1587年、57歳で没、画像)だけであった。彼は、当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。

 フランシスコ・ザビエルが布教を終えて日本を去るとき、日本人に対して次のように述べたという。

 「日本人はすぐに信者になることはない。彼らはまず初めに、多数の質問をする。そして私にどれだけの知識があるかを見極めるのである。さらに彼らは、私たちの生活が私たちの教えるところと一致しているかを冷静に観察する」
ザビエル後のイエズス会

 日本でのイエズス会事業はその後、優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。

コスメ・デ・トーレス(1570年、60歳で没)

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 コスメ・デ・トーレスは、1549年、フランシスコ・ザビエルと共に戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師。ザビエルに従って鹿児島に来航し、ザビエルが京都に向かった時に、彼の命で平戸(図)にとどまった。そして、ザビエルの意志を受けて18年にわたって日本で宣教。

 トーレスが日本に来たとき、1人の信者もおらず、1つの教会もなかったが、彼の死去時には京都、堺、山口、豊後、博多、肥前などに多くの教会と多数のキリスト教徒が生まれていた。サビエルの夢を実現させたのは盟友トーレスであった。

 彼の目指した「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらした。これはサビエルの意志でもあった。つまり、日本ではヨーロッパ人の宣教師たちに対して日本文化を尊重し、日本式の暮らしを行うことを求めた。

 ザビエルが日本を発った1551年以降、彼はイエズス会の上長(日本布教長)を務め、トーレス自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごした。

  トーレスの地道な活動は実をむすんだ。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始めたのである。彼は戦乱に翻弄されて山口、豊後、肥前などを転々としながら、後続の宣教師たちを教育し、日本人協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えた。

 1556年には商人として訪日、西洋医学を日本に導入、日本初の病院をつくった、ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会、以後宣教師として盛んに活躍することになる。

 トーレス自身も九州各地で宣教を続け、1563年には肥前の小大名・大村純忠(1587年、54歳で没)に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦(長崎県西海市)(1562年)、ついで長崎(1570年)の開港に尽力した。

 日本地区の布教責任者として、各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代の終わりにインドの上長に新しい布教長の派遣を依頼。これに答えて派遣され、1570年6月に天草に到着したのがフランシスコ・カブラル神父である。1570年(元亀元年)上長の任を離れた2ヶ月後、天草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去した。 

 トーレスは、教団の報告書にこう記している。

 「日本人はスペイン人に劣らず、あるいはそれ以上に理性によって身を処する。そして知識欲が盛んである。この国の豊かさは、スペイン、フランス、イタリアを凌いでいる。キリスト教団にある一切のものがこの国にある」
フランシスコ・カブラル(1609年、76歳で没)

 ところが、トーレスの後任となったカブラルは、非ヨーロッパ人に対して高圧的な態度で臨む人物であった。彼は1570年(元亀元年)から1580年(天正8年)に至る、足掛け11年間にわたって日本布教の総責任者を務めた。この時代は、織田信長が急速に勢力拡大した時期に当たっている。
グネッキ・ソルディ・オルガンティーノ(1609年、76歳で没)

 このようなカブラルのやり方に批判的だったのが、イタリア出身の宣教師オルガンティーノだった。彼はカブラルと同時に来日し、主に京都方面で活躍した。

 人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。
ガスパル・ヴィレラ(1572年、47歳で没)

 1556年(弘治2年)、イエズス会インド副管区長
ヌーネス・バレトとともに豊後府内(現大分県大分市)に上陸し、日本での布教活動を開始。

 1558年(永禄元年)、バルタザール・ガーゴ神父に代わり平戸布教を担当し、約1500人に洗礼を授けたが仏教徒と対立し、領主松浦隆信により退去を命じられ、一時府内に戻った後、コスメ・デ・トーレスの指示を受け、京を目指した。

 翌1559年(永禄2年)、日本人ロレンソらと京都入りを果たした。翌1560年(永禄3年)、苦労の末に将軍足利義輝に謁見、砂時計を献上。大友宗麟伊勢貞孝の助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。

 しかし1565年(永禄8年)、義輝が殺されると京を追放となり、堺に逃れた。以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで奮闘した。彼
の著作である『耶蘇会士日本通信』により堺の様子は『東洋のベニス』として紹介され、ヨーロッパ世界に認識されることとなった。この間、高山友照、右近父子らに洗礼を授けた。1570年(元亀元年)インドに渡り、翌1572年ゴアで病没した。

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 ところで、南蛮寺伴天連(バテレン)寺とも、画像)は、カトリック教会のことで、全国各地に建てられたが、京都の南蛮寺が最も有名。1560年ヴィレラが設け、1578年頃オルガンティーノらが織田信長のほか有力な信徒らの援助をうけて完成。

 しかし、その後の弾圧で、南蛮寺は一切現存していない。
 事業はその後、ルイス・フロイス(1597年、65歳で没)やルイス・デ・アルメイダ(1583年、58歳で没)といった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。

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 しかし、イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。
天正遣欧少年使節派遣を計画・実施したヴァリニャーノ(1606年、66歳で没、写真)なども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。

 サン・フェリペ号事件(1596年)のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった。

 日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に江戸幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、イエズス会は日本での活動を終えた。

 それまでの主な歴史を年表にしてみた。

(*下表の、イエズス会責任者の中で、1600年~1611年を「ザビエル」としていますが、正しくはフランシスコ・パシオ」氏です。お詫びして訂正いたします。)

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 続く。(Wikipedia参照)

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