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日本と外国人

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 日本では外国人がすぐ身近にいるという感覚は一般的には少ないはずだ。

 2016年末の法務省調査による国・地域別在留外国人数の統計結果は次表の通り。

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在留外国人数とは、仕事や学業などで日本に中長期に滞在する外国人と、在日韓国・朝鮮人など特別永住者を合算したもので、2016年は、前年比6.7%増228万2,822人で、統計を取り始めた1959年以降、最も多かった。

国籍別では、中国が最多の約69万6,000人で、以下韓国・朝鮮フィリピンベトナムブラジルの順。特にベトナムの増加が著しい。

都道府県別では、在留外国人の約2割にあたる50万1,000人が東京都に在住。以下愛知県22万4,000人、大阪府21万8,000人、神奈川県19万2000人、埼玉県15万2,000人と続く。

 首都圏に住んでいるので、外国人が多いのは感じる。しかし、全国的に見ると、わずか全人口の1.88%である。米国や欧州のレベルからすると雲泥の差だ。

 トランプ大統領の移民制限を、他人事のように冷ややかに見ているかもしれないが、おひざ元の日本ははるかにお寒い移民受け入れの後進国だ。


 2016年に日本で難民認定を申請した外国人は1万0,901人と過去最多を更新したことが分かった。2015年から3,315人(約44%)増加した。このうち、15年中に難民と認定されたのは28人で、前年の27人をわずかに上回った。

 難民申請者の国籍は、インドネシア1,829人、ネパール1,451人、フィリピン1,412人、トルコ1,143人、ベトナム1,072人など。認定者数は2013年に6人、14年に11人、15年に27人と推移していた。日本の難民認定数は、他の先進国と比べ、極端に少ない。

 欧州連合(EU)の統計局ユーロスタットによると、欧州では昨年1-6月に49万5,000件以上の難民申請を処理し、約29万3,000人が認定された。

 人口が日本の3分の2程度のドイツでは、2016年に74万5,545件の難民申請を受け付け、25万6,000人超を難民と認定している。

 だから日本でテロが起きないんだヨ」という議論もあるのだろうが。
 「天狗伝説」というのが日本各地にある。自分は、天狗は外国人のことだと思っている。

 天狗は中国の書物から伝来したとされるが、源流をさかのぼると「インド」に行き着くそうだ。ところが、天狗という妖怪は世界的に見ても例がなく日本しかいないのだという。

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 高尾山は天狗の住む山といわれ、高尾山薬王院飯縄権現堂前には、右側に鼻の高い大天狗、そして左側には烏の嘴を持った烏天狗の小天狗の像が立っている。(写真)

 天狗には諸説あるが、そのひとつに、日本書記のなかのサルタヒコ神という説がある。

 舒明天皇の9年に大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がしたのを僧旻「あれは流星ではなく天狗だ」と言ったという記録が残っており、これが天狗が文献に初めてでてきたものであるとされる。

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 こんな本を読んでいる。武光誠著、鉄砲伝来から開国前夜まで「日本史を動かした外国人」(2009年、青春新書、写真)。

 前書きに「江戸時代以前の日本史で活躍した主だった外国人の人数は、100人をゆうに超えている。日本人は、さまざまな外国人との交流を通じて異国の文化を知り、日本文化を発展させてきたのである」

 そして、序章には日本列島独自の文化は、紀元前1万4,000年から紀元前1万年の間に栄えた縄文文化までである。

 縄文文化につぐ弥生文化は、従来のものに朝鮮半島中国の江南(揚子江地域)から伝わった新たな文化を融合させたものである。日本文化はこれまでに、海外の新たなものを取り入れて絶えず変わってきたのである。

 現代人も海外の文化に強い関心を持っているが、古い時代の日本人は私たちよりはるかに強く他民族の文化を求めていた。

 戦国時代初めまでの日本人は、世界で最も高度な文化が中国にあると考えていた。そのために盛んに中国文化が学ばれ、中国人や中国の知識を身につけた朝鮮半島の住民との交流がなされた。

 しかし、ポルトガル人の来航(鉄砲伝来、1543年)をきっかけに西洋に対する日本人の関心が高まった。そのためこのあと多くの西洋人が日本に来航して日本人に影響を与えた。

 とある。内容は次の通り。

序章 アジア隣国との交流からヨーロッパ人来航へ
第1章 鉄砲伝来と白人冒険者たち
第2章 織田信長と宣教師たち
第3章 豊臣秀吉とバテレン追放令
第4章 豊臣秀吉の海外戦略
第5章 江戸幕府とオランダの接近
第6章 鎖国への道
第7章 鎖国のもとの日本見聞と探検
第8章 ヨーロッパ列強の接近
第9章 開国、維新動乱と欧米人
終章 日本史上の外国人の足跡

 西洋との本格的な接触は大航海時代(中世が終わる15世紀から17世紀まで)から始まる。

 大航海時代という言葉は日本の造語で、東京大学名誉教授の増田義郎氏により命名された。

 大航海時代の始まりは、1415年、ポルトガルが北アフリカのセウタを占領(セウタ攻略)し、イスラム教徒から奪ったその町を基点に、西アフリカ航路の開拓に力を注いだときからとされる。1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、続いてヴァスコ・ダ・ガマ(1469年~1524年)により、インドとの交易が達成された。 

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 ポルトガル人が日本にたどり着くには長い年月がかかった。セウタ攻略から130年後にようやく日本にたどり着いたのだ。1543年8月、種子島ポルトガル人が漂着して日本に鉄砲が伝えられた。鉄砲は驚異的なスピードで日本中に広まり(図)、日本の歴史に大きな影響を与えた。

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 1549年にはキリスト教フランシスコ・ザビエル(1552年、46歳で没、画像)によって伝えられ、日本人の目は外に向かって大きく開かれた。彼は、スペインの使節ではなく、ポルトガル王ジョアン3世に依頼され、布教活動のために来日した

 同じ頃、逆方向からスペイン人がアジアに迫っていた。1492年、コロンブスが大西洋を横断してアメリカ大陸にたどり着き、マゼランが太平洋横断に成功した。それ以降、スペインはメキシコからアジアに船団を送り、フィリピンマニラを建設した。

 大航海時代の主役は、ポルトガルスペインだが、主に東方の開拓はポルトガル、西のそれはスペインと、住み分けをしていた。なお、1581年から1640年まで、スペイン王がポルトガル王を兼ねており、日本との関係においては重複する。
 彼らの大きな成果は鉄砲、時計、印刷機をはじめ天文学、医学など新しい文化を日本に持ち込んだことと、キリスト教の伝播である。

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 それを最大限に活用したのは織田信長(1582年、47歳で没、画像)である。

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鉄砲が戦争における主力兵器として活用される軍事革命が起きたとされる、1575年(天正3年)の甲斐国・武田勝頼との長篠の戦い」(画像)鉄砲隊は有名である。

 1549年、フランシスコ・ザビエルの来日以来、キリスト教のカトリック宣教師も日本で活躍し始めた。キリスト教に改宗したキリシタン大名も出現し、肥前の大名・大村純忠がキリシタンになったため、大村領にはポルトガルの貿易船が盛んに来航するようになった。

 1570年代の織田政権の下で京都のキリスト教勢力は最盛期を迎える。
 
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イエズス会の有力者だったヴァリニャーノ(1606年、66歳で没、画像)は、巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟高山右織田信長らと謁見している。

 1581年、織田信長に謁見した際、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている。

 そして、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。(は順路)

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 天正遣欧少年使節は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。

 使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13~14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。

 信長の時代には、日本の支配層とキリスト教勢力とは良好な関係にあった。しかし、信長が本能寺の変(1582年)で暗殺された後を受けた豊臣秀吉は次第に反キリスト教の立場を取るようになり、バテレン追放令(1587年)を発するのである。1590年(天正18年)に帰国した使節団は、秀吉と謁見は出来たものの、不幸だった。
 間もなく秀吉が没した(1598年)。この後徳川家康が外交の前面に立つ。

 秀吉から家康への政権交代によって、再びキリスト教の布教が可能になったように思えた。
しかし、その時期には、秀吉の下に見られたような南蛮文化の流行は醒めていた。

 キリスト教禁止令(1612年)が発令されるまでは、それに至るまでのいくつかの事件があった。

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 その禁止令の翌年の1613年(慶長18年)、仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長(1622年、51歳で没、画像)を副使として、スペイン国王フェリペ3世、およびローマ教皇パウルス5世のもとに、180人もの「慶長遣欧使節」を派遣した。

 慶長遣欧使節は「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった。常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。

 しかし、日本で厳しいキリシタン弾圧がなされたことは、すでにスペイン宮廷に広く知れ渡っていたので成果はなく、1620年(元和6年)、足掛け8年の旅を終えて空しく帰国した。

 支倉家は彼の死後、間もなく断絶され、彼と同行したソテロはキリシタン弾圧の嵐の中で、1624年に処刑された。

 ところで、スペインには、使節団のうち、7人前後が帰国しなかったことが分かっており、日本を意味する「ハポン」という名字の人たちが1,500人もいる。セビリアの近郊、コリア・デル・リオという町には約600人の「ハポン」さんが暮らしているそうだ。
 
 家康はスペイン、ポルトガルとの紛争を恐れて宣教師処刑だけは避けた。


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 第2代将軍秀忠(1637年、52歳で没)は、国内に不法に滞在する宣教師を処刑する方針に切り替えた。実際に鎖国令は5度あり、それは全て3代将軍家光(1651年、46歳で没、画像)である。

1633年:第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年:第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年:第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。
1636年:第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
1639年:第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。

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 徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱である。当時16歳の天草四郎(画像)を島原の乱における一揆軍の総大将としたことで有名。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないよう、イベリア半島勢力を排除した。

 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。
 続く



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