素晴らしいイージーリスニング【その1】で、『1960年代から70年代まで「ムード・ミュージック」(イージーリスニング)は、一大ジャンルをなしていた。
その代表曲である、パーシーフェイス楽団の「夏の日の恋」(1960年)は9週連続全米ヒットチャート1位という快挙を成し遂げ、同年のグラミー賞まで受賞したほどの人気で、ムード・ミュージックは、今では想像もできないメジャーな音楽だった』
ということをお伝えしたが、実際60年代のビルボード誌のヒットチャートではどうだったのかを検証してみた。
ついでに60年代の「重大NEWS」「ラジオの音楽番組」「テレビの音楽番組」を載せてみた。相変わらず狭い画面の中で見えづらいのはご容赦願いたい。
年代別のベスト100を見ると、1960年から1969年までの10年間に、17曲もイージーリスニングが含まれていた。
その中で、1962年のアッカー・ビルクの「白い渚のブルース」も年間第1位、1968年のポール・モーリアの「恋はみず色」は第2位だった。
今回はそのビルボード誌に選ばれた曲を中心にイージーリスニングを紹介したい。
▼何といっても、イージーリスニング大国はフランス。下図のように、人気演奏家が輩出している。なお、地名は生誕地。
今年は「来日公演40回記念」になり、5月6日から5月14日まで日本公演を行っている。
彼は、間違いなくイージーリスニングの第一人者であるが、親日家としても知られ、1969年に初来日して以来、1998年の「さよならコンサート」までの30年間、ほとんど毎年日本でコンサートツァーを重ね、その数は何と1,200回以上にも及び、「わたしと日本との長い愛の歴史」と表現するほど、日本人との信頼関係を築きあげた。
ところが、彼の本国と日本での人気には大きなギャップがあり、日本で演奏旅行中にフランスから「日本 ポール・モーリアへ」としか書いていない手紙さえ本人の元に届くほど「超有名人」となり、連日ホールが超満員になる人気ぶりだったのに、フランスではそれを誰も信じなかった。フランス人にとって音楽とは「歌」であり、演奏だけの音楽を評価しなったからだという。
彼をスターダムに押し上げたのは、1968年、43歳のときだった。
「恋はみずいろ」は、アメリカヒットチャートで7週間1位を快走し、全世界で500万枚以上売れた。前述の通り、ポール・モーリアの「恋はみず色」は、1968年の年代別では第2位だった。
ポール・モーリア楽団/恋はみずいろ(1968年)
ポール・モーリアと、ミュージシャンとの付き合いはフランス人に多い。フランク・プゥルセル(2000年、87歳で没)、レイモン・ルフェーブル(2008年、68歳で没)とも一緒に仕事をしたことがある。
▼ところで、右表は、1955年から1986年までの約30年間における「ビルボード誌・アルバム・チャート」にチャート・インしたアルバムの記録を点数化して、順位をつけたもの。
このうち、赤字で表したものがいわゆる「イージーリスニング」と呼ばれているものだが、ちょっと驚くところもあるデータだ。
この中で、1960年代に年代別のヒットチャートの上位に入った曲を紹介してみよう。
▼「シャンパン・ミュージック」と呼ばれた、ローレンス・ウェルク(1992年、89歳で没、写真)は、ノースダコタ州ストラスバーグ生まれ。アコーディオン奏者でバンドリーダー。1951年から1982年まで、実に30年の長きにわたってアメリカABCのテレビ番組『ザ・ローレンス・ウェルク・ショー』のホストを務めた。
そこから生まれた素敵な曲 「夢のカルカッタ」。1961年の年間ヒットチャートの11位に選ばれている。
なお、 カルカッタは2001年から正式に コルカタ(Kolkata) 或はコルコタと呼ばれる、インド西ベンガル州の州都で、2011年の市域人口は448万人。2016年の近郊を含む都市圏人口は1,481万人であり、世界第20位、インドではデリーとムンバイに次ぐ第3位である。
コルカタと言う呼称は現地の言葉であるベンガル語での呼称で、英語読みのカルカッタにあたる発音とは無縁である。
コルカタには「喜びの都市」と「宮殿都市」というよく知られた愛称がある。「Michhil Nagari」(行列都市)とも呼ばれる。(Wikipedia参照)
ローレンス・ウェルク楽団/夢のカルカッタ(1961年)
マチアッチとアメリカン・ポップスを組み合わせた「アメリアッチ」を確立し、1960年代半ばの一大ブームを作ったが、意外なことに、年間ヒットチャートに入っている曲は、1966年の「その男ゾルバ」で、92位に選ばれているだけだ。
「その男ゾルバ」は、1964年に公開されたアメリカ映画で、ギリシャ映画界の名匠マイケル・カコヤニス監督の作品。
ニコス・カザンツァキの小説を原作とし、生き方も性格もまったく異なる二人の男の友情を軸に、人間の尊厳や生と死の営みなどを、アンソニー・クイン(2001年、86歳で没、写真)がバイタリティあふれる演技を行っている。
音楽は、ギリシャにおける20世紀最大の音楽家と称されるミキス・テオドラキス(現在91歳、写真)で、映画「日曜日はだめよ」(1960年)や「セルピコ」(1973年)と同じく、音楽にバルカン半島の民族楽器ブズーキを使用している。
ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス/その男ゾルバ(1965年)
映画女優ではオードリー・ヘプバーンと組んだことが有名だが、映画監督では、ブレイク・エドワーズ(2010年、88歳で没)と「ティファニーで朝食を」(1961年)「酒とバラの日々」(1962年)「ピンク・パンサー」(1964年)「グレートレース」(1965年)「暁の出撃」(1970年)「テン」(1979年)、スタンリー・ドーネン(89歳、右写真)とは「シャレード」(1963年)「アラベスク」(1966年)「いつも二人で」(1967年)の音楽担当を行った。
彼も意外なことに、年間ヒットチャートでは、1969年の「ロミオとジュリエット」で15位に選ばれているだけだ。
ヘンリー・マンシーニ楽団/ロミオ&ジュリエット(1969年)
ジェームス・ラストは最後まで頑張ったが、2年前の2015年に旅立ってしまった。
この中で、ベルト・ケンプフェルトはアメリカで最も受け入れられた、ムード・ミュージックの王者といえる。
それは次の曲が全て彼の作品だからだ。(カッコ内はカヴァーした歌手・演奏者)
●ラヴ (ナット・キング・コール)
●ダンケ・シェーン (コニー・フランシス)
●ダンケ・シェーン (コニー・フランシス)
●夜のストレンジャー (フランク・シナトラ)
●マルタ島の砂(ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス)
●マルタ島の砂(ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス)
彼は、主にトランペット・ソロを生かした曲が多く、どこかで聴いた曲も多いのが特徴だ。
代表的な曲は、レコード界でドーナッツ・シングル盤の発売が軌道に乗りはじめた頃の1957年にスタートしたAMラジオ番組、P盤アワーのテーマ曲になった「星空のブルース」(Wonderland by Night)(1960年)だ。DJは、ニッポン放送のアナウンサーで、後にフリーになった大沢牧子さんだった。この曲は全米第一位になり、日本でも大ヒットした。年間ヒットチャートでは、1961年に70位、1965年には「ブルーレディに紅バラを」で31位に選ばれている。
ベルト・ケンプフェルト楽団/星空のブルース(1960年)
この中で一番有名なのがマントヴァーニ。一時はアメリカのパーシー・フェイス(1976年、67歳で没)とイージーリスニングのトップを競っていた。『シャルメーヌ』『グリーンスリーヴス』『ムーランルージュのテーマ』『80日間世界一周』等の大ヒット曲を飛ばし、ストリングスを上手く駆使したイージーリスニングの第一人者の一人として君臨した。アメリカのビルボード誌にNo.1ヒットはなかったものの、チャートインした曲は12曲ほどある。
ここでは、60年代の年間ヒットチャートの曲を紹介するのが目的なので、1962年に5位になった、デヴィッド・ローズの「悲しきストリッパー」(The Stripper)の演奏を。
デヴィッド・ローズ楽団/悲しきストリッパー(1962年)
▼イージーリスニングには、ある一つの楽器を中心とした演奏のものも多い。多いのがピアノ、ギター、トランペット、サクソフォーン、クラリネットかな。
ビルボード誌の年間ヒットチャートでは、
1.ピアノ:フェランテとタイシャー「栄光への脱出」(1961年)が17位、ホルスト・ヤンコフスキー「森を歩こう」(1964年)が46位
2.ギター:ストリングス・ア・ロング「峠の幌馬車」(1961年)が8位、ロス・インディオス・タバハラス「マリア・エレーナ」(1963年)が39位
3.クラリネット:アッカー・ビルク「白い渚のブルース」(1962年)が1位に輝いている。
この中から次の2曲を。
ロス・エンディオス・タバハラス/マリア・エレ-ナ(1963年)
アッカー・ビルク/白い渚のブルース(1961年)
▼洋楽の題名にやたらと冠をつけるのが流行ったときがある。一番多いのは、頭に「恋」とか「愛」を付けるケース。「悲しき~」、「涙の~」、「霧の~」、「花の~」、「夢の~」や、後ろに「~の街角」や、ブルースでもないのに、「~ブルース」を付けた曲もあった。
「~の夜は更けて」については、3曲あり、いずれもデキシーランド調の楽しい曲で、1960年代に日本でも大ヒットしたので、懐かしいと思われる方も多いと思う。
ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメン「モスクワの夜は更けて」(Midnight In Moscow)(1962年)は20位、ヴィレッジ・ストンパース「ワシントン広場の夜は更けて」(Washington Square)(1963年)は9位、アル・ハート「ジャワの夜は更けて」(Java)(1964年)は年間では12位だった。
ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメン/モスクワの夜は更けて(1962年)
ヴィレッジ・ストンパース ワシントン広場の夜は更けて(1963年)
アル・ハート ジャワの夜は更けて(1964年)