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北方領土問題【その1】

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 9月にプーチン訪日が決まった当初は、メディアも大騒ぎし、「日ロ会談の成果を掲げて衆院解散・総選挙」なんて話まであったというのに、12月15日の安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領の会談を前に、急にトーンダウンし、予断を許されない状況になった。

 ブーチン氏がドタキャンするのではないかと予測するメディアまで現れる始末だ。
 
 永田町では12月の日露会談で、「北方領土返還」となった場合に内閣支持率が急上昇する事を見込んで「衆院解散説」が一気に流れ、政治家としての信義を重んじるプーチン氏の心証を害した可能性がある。選挙の道具として使おうとした安倍首相・自民党政府に対し、不満や怒りを持ったとしてもおかしくはない。

 安倍首相はなぜ、ここまで北方領土交渉にのめり込んだのか。外交評論家の小山貴はこう指摘する。 「日本の外交は同盟国である米国の意向を常に反映している。経済協力はロシアが経済面で依存する中国との関係に日本がくさびを打つよう米国が仕向けた意味合いが強い」

 ところが、11月の米国トランプ氏勝利により米ロ関係の劇的な変化が予想されることになった。また、
ロシアは「クリミア併合」時、「唯一味方になってくれた」ということで、中国とは事実上の同盟関係になっている。
 
 プーチン氏は、歯舞、色丹の二島引き渡しを規定した1956年の日ソ共同宣言の義務を履行する姿勢を見せており、二島返還なら決着可能だ。しかし、二島返還なら60年前に解決可能だったわけで、四島全体の7%にすぎない。もし二島決着なら、日本外交の敗北となり、世論も同意しないだろう。


 北方領土問題をめぐる日露交渉は「領土で一切妥協せず」というロシア側の強硬派が妨害し、トップ間の政治決着を阻んできた歴史だといえる。露外務省はその急先鋒であり、1972年から外交官を続けるラブロフ外相(66歳)も例にもれない。

 (12月3日の)岸田文雄外相(59歳)との会談は、15、16両日のプーチン大統領来日を前にした最終調整の場にすぎないはずだが、冒頭から波乱含みだった。

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 ラブロフ氏は岸田氏と並んで会場入りしたが、報道陣の前を素通りして席に着いた。立ち止まって握手し、記念撮影に応じる通例を、あえて無視したとみられる。(写真)

 会談冒頭でもラブロフ氏は「露大統領の訪日準備の最終段階なので双方が責任感を感じて作業することを期待する」と事務的な口調で述べただけ。岸田氏は「週末にかかわらず対応していただき感謝している。十分時間をかけて議論し、山口での首脳会談につなげたい」と応じたが、ラブロフ氏に笑顔はなかった。

 会談後の共同記者会見でも、2人はほとんど目を合わせず、最後に握手した際の笑顔もぎこちなかった。

 15日に山口県長門市で首脳会談が行われるのに、翌16日に東京での経済フォーラムへのプーチン氏出席を決めたのもラブロフ氏だった。長門でのトップ会談を早々に切り上げることで領土交渉を棚上げし、経済協力に関する協議を優先させたいという思惑が透けてみえる。

 また、ラブロフ氏ら露外務省は長門で宿泊せず、15日中に東京に戻る案を打診している。日本側は長門宿泊は譲れない一線だが、ロシア側は長門会談の短縮をなお執拗に狙ってくるに違いない。

 長門会談まで残り10日。日露の攻防はギリギリまで続く公算が大きく、予断を許さない。
 日本とロシアの北方領土交渉の歴史は概ね次の通りである

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1885(安政元)年 :日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)により、択捉島(えとろふ)と得撫島(うるっぷ)の間を日露間の国境線とする。
1869(明治2)年:蝦夷地北海道と改称。国後島(くなしり)と択捉島は、「千島国」として五郡が置かれた。
1875(明治8)年 :ロシアとの間に樺太・千島交換条約を結び、千島列島(クリル群島)を日本領、日本とロシアの共同統治としながらも、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領とした。そして、得撫島から占守島までが、千島国に編入された。
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1905(明治38)年:日露戦争後のポーツマス条約で、南樺太が日本に割譲された。
1941(昭和16)年 :日本とソ連の間に、日ソ中立条約が結ばれる。
1945(昭和20)年2月:米・英・ソ首脳によるヤルタ会談が開かれる。 この席で、戦勝国間で戦勝権益の分割が話し合われ、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。
1945(昭和20)年4月5日:ソビエトが日ソ中立条約を破棄通告。 
1945(昭和20)年8月8日:ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告
1945(昭和20)年8月11日:国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。
1945(昭和20)年8月14日:御前会議にてポツダム宣言の受諾を決定され、連合国にポツダム宣言受諾を通告。
1945(昭和20)年8月18日:カムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領。
1945(昭和20)年8月28日から9月1日まで:北方領土の択捉・国後・色丹島を占領。終戦時、択捉島以南の四島には、約1万7,000人の日本人が居住していた。ソ連軍の占領により、約半数の者は自ら脱出したが、それ以外の島民は、1947(昭和22)年から1948(昭和23)年に四島から強制退去させられ、サハリンでの抑留生活を経て、函館に送還された
1951(昭和26)年:サンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島を放棄する。
1956(昭和31)年:日ソ共同宣言。平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島「譲渡」で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。
 北方領土問題は本来北方四島だけではなく、千島列島もあったはずである。

 それを、四島にこだわって以降、何度も北方領土交渉は続けられたが、ビックチャンスは2あったといわれる。

一度は1972年の沖縄返還のとき。占領国のアメリカが占領地を日本に返還した。であれば沖縄返還の続きで、ソ連との返還交渉がされてもよかったのではないか。

 1973年、田中角栄首相がモスクワを訪問し、ブルジネフ書記長と首脳会談を行い、「日ソ共同声明を発表した。日米新安保条約締結以来途絶えていた日ソ交渉が再開されたとともに、日本の首相の訪ソは鳩山首相以来17年ぶりのことであった。

 ところが、ソ連は当時中国と対立していた時期で、1975年「日中国交回復」に関する覇権条項問題でソ連側は神経をとがらせ、領土問題は振り出しに戻りとん挫した。

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二度目は1991年のソ連崩壊のとき。そのときは何かの条件を満たせば確実に戻ったであろうと言われる。スターリンが大嫌いなエリツィン大統領(2007年、76歳で没、写真)は「勝者が敗者の領土を奪うのは誤りだ」「スターリン外交の過ちを正す」「北方領土問題を必ず解決したい」と公言していた。

 「敗戦国には領土返還を求める権利はない」(ラブロフ外相)という今日の要人発言とは180度異なっていたソ連邦崩壊と15共和国の独立により、ソ連を主導したロシアは人口の50%、経済の40%、面積の25%を失ったといえるが、この喪失感に比べれば、北方領土は微々たるもので、抵抗感もなかったはずだ。

 1991年の共産党保守派クーデター事件からソ連崩壊までの4カ月間、西欧首脳の多くがモスクワを訪れ、米国もベーカー国務長官らを頻繁に派遣したことからすれば、欧米と比べて日本外交は鈍かった。永田町ではこの時期、「海部おろし」が吹き荒れていた。

 1992年9月に訪日を予定していたエリツィン大統領は、予定日の4日前になって急きょ「国内事情」により訪日延期をしてきた。理由として彼自身がロシアの国内世論を慮ったからだと言われている。

 続く 


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