当ブログでは人名を「呼び捨て」にしたり、「さん」や「氏」を付けたりしていて統一感がない。うっかりすると、同一ブログ内でも「呼び捨て」や「さん」、「氏」が交錯することもある。また、同一人物が登場してもときどき同じことが起きる。それについて、何かルールを設けているわけではない。
呼び捨てにした場合、社内の文書では「敬称略」と書くところだが、それもない。
おまけに、タクシー会社チェッカーキャブは11月30日、28日に覚醒剤取締法違反(使用)の疑いで逮捕されたASKA容疑者が逮捕直前に乗車していたタクシーの車内映像をテレビ各局に提供したことを認め謝罪したが、タクシーの中での様子をドライブレコーダーを通してマスコミに公開されるというありえないことが起きた。
相変わらず「容疑者」に対する人権の配慮に欠ける国である。
ところで、自分のブログを調べたところ、その容疑者という言葉を使ったのは、ケネディ暗殺者といわれるオズワルド、覚せい剤の清原和博、そして小沢一郎事件の石川知裕の3人だ。
マスコミの作法に従って、無意識に「容疑者」という言葉を容認しているが、それが果たして正しい表現なのだろうか。
題して、「ウサマ・ビンラディンは氏づけでウサマ・ビンラディン氏、ではなぜ明石家さんまは呼び捨てで平気なのか」
いつからか、ビンラディン氏は、ビンラディン容疑者となり、呼び捨てのビンラディンになっていたが、これは「世間の目」を書きあげた2004年2月の話である。
本の一部を読んでみよう。
2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロ(写真)の下手人とされるウサマ・ビンラディン氏(2011年5月2日、54歳で没、写真)
現在でもなおかなりのマスコミが、彼を「氏」づけで報道していることだ。また2003年12月14日に拘束されたイラクのフセイン元大統領に対しても、サダム・フセイン氏とよぶマスコミが多かった。
今報道機関が、警察に追われたり逮捕されたりした人間を、どのような呼称でよんでいるか。
この原則についてたとえば「朝日新聞」は、「容疑者の呼称についての指針」において、次のようにいう。
▼捜査機関が任意で調べている場合、匿名にするか、実名でも肩書や敬称をつける
▼逮捕もしくは指名手配された段階で、原則として実名のあとに「容疑者」をつける。呼び捨てにはしない。
▼起訴を報じる記事でも、初出の氏名に「容疑者」を使う。
▼同じ記事の中で2回目以降は、肩書呼称を併用することもある。
▼起訴後、判決確定までは、原則として初出の氏名の後に「被告」を付ける。無罪判決のときは、裁判記事では被告をつけるが、社会面記事などでは「さん」づけでもよい。(「朝日新聞」2001年11月24日朝刊)
この原則によれば、ウサマ・ビンラディン氏はどうなるのか。「朝日新聞」はウサマ・ビンラディン氏を「氏」づけにする理由を、つぎのように説明している。
1.ビンラディン氏は98年に起きた東アフリカの米大使館連続爆破テロ事件で、米国地裁に起訴されている。しかし同事件では個別的な容疑の起訴というより事件全体の「黒幕」という位置づけで、一般の刑事事件の容疑者、被告といった呼称を使わずにきた。
2.「米大使館事件で起訴されている」という理由で、いま「氏」を外すと、今回の同時テロ事件に関与したと認定された、と読者に理解されるおそれもある。米国は直接関与したとの明白な証拠を、これまでのところ国際社会に十二分に開示したとは言えない。
3.一方でビンラディン氏はには、国連の国際戦犯法廷で裁かれているユーゴスラビアのミロシェビッチ元大統領のような、適当な肩書呼称も見当たらないのが悩ましい。宗教指導者ではないのでタリバーンのオマール師のような「師」も使えない。ゲリラ組織の「議長」ともいえない。(「朝日新聞」2001年11月24日朝刊)
(中略)よーく考えてみよう。
私が知る限りでも、ある事件の犯人であることが疑われたときに、日本の新聞を含むマスコミが、「警察・検察・裁判所などの国家機関が犯人であるとの明白な証拠を十二分に示していない」という理由で、犯人を「氏」づけにしたという例は聞いたことがない。冤罪事件だってたくさんあるんだから、そういうケースがあってもいいはずである。(中略)
ここで問題なのは、この奇妙なダブル・スタンダード(注:外人と日本人と対応が違うこと)が堂々まかり通ってしまう理由である。
じつは我が国では少し前までは、指名手配されたり逮捕されたりした場合に、マスコミで呼び捨てにされるのは当たり前のことだった。(中略)
しかし、「無罪推定の法理」つまり「誰しも有罪が確定するまでは無罪と推定される」という原理からいっておかしいという声が高まり、1989年になってようやく「容疑者」という呼称がつけられるようになったのだ。
ただし、この容疑者といおう呼称がヘンなのは、「疑いを容れた者」という意味になるから、犯人が犯行を否認している人間は含まれないことになる。
法律用語では「被疑者」というが、この「疑いを被った者」というほうが正しい。
ともあれ、問題なのは、我が国の「世間」においては、「無罪推定の論理」が働かず、指名手配されたり逮捕されただけで犯人として「世間」から排除され、人格を認められなくなるということである。(中略)
呼び捨てや「容疑者」が特別に侮蔑的な意味を持つのは、「世間」での自分の位置が重要な意味を持つからである。
「氏」づけなのか、「さん」づけなのか、「容疑者」なのか、「被告」なのか、呼び捨てなのか、敬称や呼称の使い方が、その人間が、「世間」のなかでどのような地位や位置を占めているのかを表すために、欠かせない指標となっているのだ。
私たちは「世間」でどういう敬称や呼称がつけられているかによって、その人間がどんな人間であるかを判断する。(中略)
ではウサマ・ビンラディン氏にはなぜ「氏」がついているのか。彼は、もともと日本の「世間」に属していないから、「氏」づけで報道しても「世間」の側に抵抗感がないからである。ウサマ・ビンラディン氏は、日本の「世間」の外部の人間である。だから、もともと「排除」された存在だから、あらためて「排除」する必要はない。
「犯人であるとの明白な証拠を十二分に示されているか」という基準は、ウサマ・ビンラディン氏のようなガイジンには適用されても、日本人には適用されない。新聞を含めたマスコミが、ガイジンと日本人に別々に適用されるという、このインチキなダブル・スタンダードを採用しているのは、「世間」がウチとソトを厳格に分け、ウチではたらく基準とソトではたらく基準を別々に分けるということをやっているからである。…
「容疑者」の語について、Wikipedia によると
一般的には容疑者という用語は日本のマスメディア(マスコミ)により「被疑者」の意で使用されている。マスメディアでは逮捕又は指名手配などで身柄拘束されるか又はされることがほぼ確実な状態のとき「容疑者」と呼び、公訴が提起(起訴)されると「被告」と呼ぶようになる。ちなみにこれも、法律用語としては「被告人」が正しい(「被告」は民事訴訟や行政訴訟で「訴えられた側」を表す言葉)。これには理由があり、多くの人に情報を伝える際、「被疑者」という言葉は「被害者」という正反対の意味の言葉と見間違えやすく、発音も似通っているため、被疑者ではなく容疑者という言葉を用いている。
1980年代半ばから暮れ(昭和末期から平成初年)にかけ、ほとんどの放送・新聞などのマスメディアは「容疑者」という呼称を用いるようになった。読売・毎日・朝日の各紙は、それぞれ1面で容疑者という呼称をこれから使用することを述べている。それによると、以前は「実名呼び捨て」であったが、被疑者は無罪を推定されている立場であり、基本的人権の観点から呼び捨ては適正でないことを挙げている。
もっとも、「○○容疑者とは言うが、あたかも容疑者=真犯人であるかのように、大々的に報道する傾向がある」と、報道姿勢に対する批判も存在する。
●1984年(昭和59年)4月 NHKが「容疑者」呼称の使用開始。
●1989年(平成元年)4月 フジテレビ系列(FNN)が「容疑者」呼称の使用開始。
●同年11月 TBS系列(JNN)、毎日新聞が「容疑者」呼称の使用開始。
●同年12月 読売新聞、朝日新聞、日本テレビ系列(NNN)、テレビ朝日系列(ANN)、テレビ東京系列(TXN)など、日本新聞協会加盟各社及び共同通信社、時事通信社が「容疑者」呼称の使用を開始。
●1984年(昭和59年)4月 NHKが「容疑者」呼称の使用開始。
●1989年(平成元年)4月 フジテレビ系列(FNN)が「容疑者」呼称の使用開始。
●同年11月 TBS系列(JNN)、毎日新聞が「容疑者」呼称の使用開始。
●同年12月 読売新聞、朝日新聞、日本テレビ系列(NNN)、テレビ朝日系列(ANN)、テレビ東京系列(TXN)など、日本新聞協会加盟各社及び共同通信社、時事通信社が「容疑者」呼称の使用を開始。
なお、学校で使われる公民科の教科書では、「~である人物を容疑者(または被疑者)と呼ぶ」などと、容疑者の文字は太字、被疑者の文字は細字のカッコ書きになっている。
なるほど。これで疑問が解けてすっきりした。