海外の戦争映画では橋を扱ったものが多い。橋の存在が戦略的に重要な位置にあったのが、その理由である。
●盧溝橋
映画にはならなかったが、1937年7月からほぼ8年間にわたった日本の中国に対する侵略戦争の発端となった、現在の北京郊外で起きた盧溝橋事件.
「満州国」(1931年建国)を作った日本は、その南側の華北5省からも蒋介石率いる国民党の影響を除こうと分断工作に入る一方、中国側は国民党と共産党とが「一致抗日」で内戦を停止していた。
盧溝橋事件が起きると、当初は不拡大の方針だった第1次近衛内閣は軍部先行で増派を決め、中国側は徹底抗戦に入った。
日本は初めは「北支事変」、のちに「支那事変」と呼んだが、戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後の本格的な戦闘が行われても、1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告をおこなわなかったからである。
なお、最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説があり、いまだに判定できぬ謎である。
●クウェー川鉄橋(日本軍名称:メクロン河永久橋)
1957年公開の『戦場にかける橋』(The Bridge on The River Kwai)は、英・米合作映画で、第30回アカデミー賞作品賞受賞作品。監督はデヴィッド・リーン。フランスの小説家ピエール・ブールの原作にリーンらが脚色。題名の「戦場にかける橋」とは、タイ王国のクウェー川に架かるクウェー川鉄橋を指す。
第二次世界大戦の只中である1943年のタイとビルマの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、日本軍の捕虜となったイギリス軍兵士らと、彼らを強制的に泰緬鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の惨さを表現した戦争映画。
劇中に登場するイギリス軍兵士への数々の懲罰は、原作者のブールが実際に体験したものであるとされる。(写真)
劇中で演奏される「クワイ河マーチ」は、ケネス・ジョゼフ・アルフォードが作曲した行進曲「ボギー大佐」(1914年)、マルコム・アーノルドが「戦場にかける橋」のテーマ音楽として編作曲したもの。世界各国で幅広く演奏される、数ある映画音楽の中でも最も親しまれている作品の1つである。
映画「戦場にかける橋」主題曲「クワイ河マーチ」(1957年)
●レマゲン鉄橋(正式名称はルーデンドルフ橋)
レマゲン鉄橋はドイツのライン川に架かり、レマーゲンとエルペルを結んでいた鉄道橋。
1916年、第一次世界大戦中の西部戦線への軍需品輸送のために建設された。設計したのはカール・ヴィナー。長さ325mで2本の線路と歩道が設置されていた。架橋提案者の一人であったエーリヒ・ルーデンドルフ将軍に因んでルーデンドルフ橋と命名された。
第一次世界大戦後、占領軍として進駐したアメリカ第3軍が管理する4橋のうちの一つであった。
同名の映画は、1969年にアメリカで公開された戦争映画。第二次世界大戦末期の1945年3月に行われた、ライン川に残されたほぼ唯一の橋であるレマゲン鉄橋をめぐる連合軍とドイツ軍の攻防戦を描いている。
このときは、ドイツ降伏まであと2ヶ月という時点だった。
ドイツ側は、ライン川に掛かる橋を落として連合軍の進撃を阻止しようとした。
連合軍は1944年6月にノルマンディー上陸、8月にパリを流れるセーヌ川以西を占領した連合軍は、翌年3月にようやくライン川に到達。
しかしその後は、マーケットガーデン作戦の失敗(9月、映画「遠すぎた橋」)、ドイツ側の「ラインの守り」作戦による逆襲(12月~1月、映画「バルジ大作戦」)などあって必ずしも順調ではなかった。
ドイツ側は、ライン川に掛かる橋を落として連合軍の進撃を阻止しようとした。
ところが、ライン川西側にはまだドイツ軍の将兵が残って戦っており、ドイツ側はその背後のレマゲン鉄橋爆破にはまだ取りかかってはいなかった
この橋は第二次世界大戦末期の西部戦線において唯一破壊されずに残っていた、ライン川を渡れる橋だったため戦略上重要な地点となり、ドイツ軍とアメリカ軍の間で争奪戦が行われたことで有名である。
連合軍は、下流のオランダ近辺を、第21軍集団(「方面軍」とも言う、モンゴメリー指揮、カナダ第1軍、英第2軍、米第9軍)、中流のベルギー、ルクセンブルグ、ザール方面を、第12軍集団(ブラッドレー指揮、米第1軍、米第3軍)、上流のスイス寄りを、第6軍集団(デヴァース指揮、米第7軍、フランス第1軍)が担当し、同一時期のライン川渡河を目指した。
対するドイツ側はそれぞれ連合軍の軍集団に対して、下流、H軍集団(ブラスコヴィッツ指揮、第25軍、第1降下猟兵軍)、中流、B軍集団(モーデル指揮、第15軍、第5装甲軍)
上流 G軍集団(ハウサー指揮、第1軍、第7軍、第19軍)、全体の西部方面軍指揮は、ルントシュテット元帥で対抗した。
上流 G軍集団(ハウサー指揮、第1軍、第7軍、第19軍)、全体の西部方面軍指揮は、ルントシュテット元帥で対抗した。
ドイツ軍はあらゆる手段を講じて橋の破壊を試みた。オットー・スコルツェニー親衛隊中佐は配下の特殊部隊「フロッグマン」をライン川に潜らせ爆破を試み、空軍は連合軍の制空権下にジェット爆撃機Ar234を投入し、更にV2ロケットを11発も打ち込んだが落橋させることが出来なかった。しかし鉄橋は1945年3月17日午後3時過ぎ、200人の工兵による補強作業中に崩落、死者28名、負傷者93名を出した。アメリカ軍は既に対岸に橋頭堡を確保し、平行して浮橋を完成させており、軍事作戦への影響は最小限であった。(Wikipedia参照)
●アーネム橋(第二次世界大戦後「ジョン・フロスト橋」と改名)
アーネム(アルンヘム)(人口14万人)は、オランダのヘルダーラント州の州都。ドイツとの国境すぐのところに位置し、ライン川が流れ、北にフェルウェ国立公園があり、緑が多い町として知られている。
しかし、この町の名前を有名にしているのは、なんといっても第二次世界大戦のドイツ軍・イギリス軍との戦い。
1944年の9月17日にこの町と ライン川にかかるアーネム橋の占領を命じられたイギリス軍は、パラシュートでこの町に降下した。(マーケット・ガーデン作戦)(写真)
橋を爆破しようとするドイツ軍、 爆破させまいとするイギリス軍の間で壮絶な戦いがあったが、結局イギリス軍の後援が続かず、多数の死者・捕虜を出すことになった。
連合軍は途中のナイメーヘンのライン橋の占領までは成功したものの、空挺降下計画の稚拙さと強引さ、補給の途絶など悪条件が重なり、損害が予想以上に拡大した。
作戦の最終到達点であったアーネムの最後の橋は、イギリス軍の第1空挺師団が壊滅するなどしたために確保できず、作戦は失敗に終わった。(写真)
リチャード・アッテンボロー監督により、1977年に映画化された。(写真)
ロバート・レッドフォード、ジーン・ハックマン、ローレンス・オリヴィエ、エリオット・グールド、マイケル・ケイン、ショーン・コネリー、アンソニー・ホプキンスなど、往年の名俳優がオールスターキャストで出演している。
ノルマンディー戦以後、負け無しの進軍を続けていた連合軍は、このつまずきによって進軍速度を大幅に落とすことになり、1944年冬のバルジの戦い、翌45年の春の目覚め作戦を経て、3月にレマーゲン鉄橋の確保に成功するまでライン川を越えることができなかった。
なお、アーネム橋は作戦後に連合軍の爆撃によって破壊されるが、戦争終結後速やかに架け直された。
奮戦したフロスト中佐に敬意を払い、当時のままの姿で復旧した上で「ジョン・フロスト橋」(写真)と改名され現在に至っている。
●ウォータールー橋
ジョン・レニーの設計の下、1811年に着工した。完成間近の1815年には、ロンドンを訪れたアントニオ・カノーヴァが「世界で最も高貴な橋」と評している。開通以前は「ストランド橋」と呼ばれていたが、1817年に開通した際、1815年のワーテルローの戦いでの勝利にちなんで「ウォータールー橋」へと改名された。
哀愁(WATERLOO BRIDGE)は、1940年公開のアメリカ映画。監督はマーヴィン・ルロイ。本作での主演のマイラ・レスターこと、ヴィヴィアン・リーは名画『風と共に去りぬ』の次の年の製作。『風と共に去りぬ』では、乱世を生き抜く強い女性を演じたが、『哀愁』ではその反対のか弱い踊り子を見事に演じており、リーの演技力が光っている。
1939年9月3日、英独開戦の日。開戦により慌ただしくなるロンドンの街で、ロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)は予定を変更してウォータールー橋にたたずんでいた。
回想にふける彼の手にあるのは、ビリケン人形、幸運のお守りだった。舞台は、第一次世界大戦中に遡る。イギリス軍将校のロイ・クローニン大尉とバレエの踊り子マイラ・レスターはウォータールー橋でめぐり会う。空襲警報で逃げ遅れたマイラとともに、二人は地下鉄の駅へ逃げ込み体を寄せ合うのだった。明日戦地へ向かうというロイに、マイラはビリケン人形を渡す。その夜、マイラの舞台を観たロイは、彼女を食事に誘う。その手紙がばれて、マイラはバレエ団長のマダム・キーロワに嫌味を言われる。
その夜、二人はキャンドルライトクラブで、ロマンチックなひと時を過ごす。閉店前、最後の曲は『別れのワルツ』(オールド・ラング・サイン/蛍の光のアレンジ)。演奏の終わりに近づくにつれ、楽団は少しずつキャンドルを消していく。二人はダンスをしながら、ついに口づけを交わす。クラブでオールド・ラング・サイン(いわゆる蛍の光)が演奏され、ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラーが曲に合わせて踊り、キャンドルが1つずつ消されていく場面は印象深い。なお、この楽曲のアレンジは原盤が存在しないため、後に日本国内でレコード化される際は、「ユージン・コスマン」名義で古関裕而が採譜・アレンジし「別れのワルツ」という題で発表されている。主に公共施設や商業施設の閉店時に用いられる楽曲は、蛍の光ではなく、この曲である。
原作は、菊田一夫の同名のラジオドラマ(1952年)。
ラジオ放送時間には風呂屋の女湯がガラガラになったと言うほどの人気作品。映画は、昭和28~29年にかけて、3部構成で公開され900万人以上が見たといわれる作品の舞台となった。