1950年代は世界の音楽の黄金期(中村とうよう説)だった。
第二次世界大戦の後の混乱も一応落ち着いて戦後の社会が安定したことや、植民地だったアフリカやアジアの人々にとっては、独立を達成して新しい国民国家を創るなかでの国民文化の形成期だったからだろう。
ひばり自身の才能も稀有のものだったろうが、江利チエミ、雪村いづみほか一連の少女歌手たちが同時期に活躍した事実は、歌謡界の大変動が何よりも時代の必然だったことを立証する。(中村とうよう著「ポピュラー音楽の世紀」より)
しかもその音楽的革命は、後のビートルズとは異なり、アメリカを起点とし、イギリスを含むヨーロッパから日本まで、ほとんど時差のない状態で遂行された。
それは無数の「第二のエルヴィス」という形で顕在化した。
現在に至るイギリスのヒット・チャートの集計において、最も多くの曲をチャートに送り込んだ上位3組は、一位エルヴィス・プレスリー、二位クリフ・リチャード、三位シャドウズ(クリフの演奏バンド)という、驚きの結果がある。
ビートルズのジョン・レノンは「クリフ・リチャード&シャドウズが出てくるまで、イギリスには聴くべくものがなかった」と語っている。
クリフが16歳のある日、駐車場を横切っていると、無人のシトロエンのカーラジオから音楽が流れてきた。エルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」である。
「あんな声は聴いたことがなかった。最初は何かの楽器の音だと思った。あんな風に歌う歌手なんていなかった.僕はペリー・コモやフランク・シナトラが好きだったが、彼らのようになりたいと思ったことは一度もなかった。だが、エルヴィスを聴いた瞬間、僕はエルヴィスのようになりたいと思った。あとは行動に移すだけだった」
1958年からエリック・クラプトンが現れる64年まで、ハンク・マーヴィンはギターの神様だった。イギリスのギタリストは、プロであろうがアマチュアだろうが、ハンクに憧れ、彼のようにギターを弾きたいと思っていた。(中山康樹著「ロックの歴史」より)
クリフリチャード&シャドウズ/ムーブ・イット(1958年)
1週間で6万3000人を動員する大騒ぎになり、ロカビリー・ブームの発端となった。
1950年代にヒットしたアメリカの曲をいくつか。
パティ・ペイジ/チェンジング・パートナー(1953年)
ザ・プラターズ/グレイト・プリテンダー(1955年)
ドリス・ディ/ケ・セラ・セラ(1956年)
パット・ブーン/砂に書いたラブレター(1957年)
フランキー・レイン/OK牧場の決闘(1957年)
ポール・アンカ/ダイアナ(1957年)
ニール・セダカ/オー・キャロル!(1959年)
レイ・チャールス/ホワット・アイ・セイ(1959年)