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永六輔【その2】

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小池都知事(64歳)のリオでの着物姿はいただけなかった。「あれは失敗だった」とネット上でもケチョンケチョンのようだ。

 閉会式よりも前、7月19日にリオ市長と会談したとき、白い和服で登場したとき、おやっと思った。何か違和感を感じる。似合わない。(写真)全体的にバランスが崩れているのだ。
イメージ 11 これを見て着流しの名人、永六輔氏(写真)が生きていたら、何というのだろうか。

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 彼の著書「温泉に行こう!」写真右)で、三波春夫氏(2001年、93歳で没)の着物姿に噛み付いたことが載っていた。

 ぼくは、三波さんに、なんでも、ずけずけ、ものを言ってきたんですけど、どうしてかっていうと、あの人が嫌いだったから(笑)。

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 あんな派手な着物
(写真)の趣味の悪さ…。信じられない。

 裾に富士山が描いてあって、背中に鶴が飛んでたりすれでしょ?男だよ?男がなんで、あんな留袖みたいなのを着るの?

 あんな着物を着ることはない。男には、もっとすっきりした粋な着物があるんだからって、本人にも言ったり、文章にも書いたりしてきました。

 にっこり笑って歌うのは、どうぞやってください。言ってみれば応援歌ですからね。

 われわれ、戦後のつらい時期に、三波春夫の歌で勇気づけられたリ、元気を出したりした人がいっぱいいた…。それは認めます。

 認めるけど、粋っていうものは、あんなものじゃないんじゃないかと…。ごめんね、ここに三波ファンがいたら(笑)。(中略)

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 ぼくが着ているこの服も、なにげない藍染めの刺子半纏(写真)ですけど、パリのオペラ座にオペラを見に行っても、あちらの女の人が集まって来るんです。「ちょっとさわっていいですか」なんて言って。
彼の「きもの通」ぶりは、「にほんのうた」シリーズの一曲・「女ひとり」に結集している。

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 1965年に生まれ、大ヒットしたこの歌には、三千院(上写真左)高山寺(上写真左)大覚寺(上写真右)と、歴史の長い三つの寺院が登場する。

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 圧巻は、茨城県結城市の結城紬(写真左)、鹿児島県奄美大島の大島紬(写真中)、新潟県南魚沼市塩沢絣(がすり)(写真右)という「日本三大紬(つむぎ)」を歌詞に取り入れていることだ。

 昭和の中頃まで、農村の多くの家には糸車と機織り機があった。養蚕農家では絹として売り物にならないくず繭から真綿を作り、それから一本一本指先で糸を紡ぎ、藍染めをして縞柄や絣柄の着物を織っていた。まゆから紡いだ糸で織った絹織物、それが

 今でも「きもの通」の多くが「つむぎ通」と言われるように紬ファンは多い。

 なお、歌詞の1番の素描の帯は、糊を入れた染料を筆につけて日本画のように柄を描いた布地で作られた帯のこと。

 2番のつづれの帯は、つづれ織り、すなわち横糸に数色の色糸を使い、模様部分だけをつづら折りのように織った布地で作られた帯のこと。

 3番の名古屋帯は、正装用の袋帯よりも簡単に締められる帯。カジュアルな帯だが、素材や柄などで使い分けることによって、普段用だけではなく、多少改まった場所でも締められる。


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 永六輔氏の作品で一番有名なのが、いずみたく氏(1992年、62歳で没、写真)と日本各地を二人で旅をして作った「にほんのうた」シリーズだろう。

 1966年から1969年にかけてLPアルバムが4集発表されたが、自分はそのダイジェスト20曲を集めたCD盤を持っている。次の日本地図に印をつけたところが、その20曲のご当地である。

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 昨年に結成60周年を迎えたコーラスグループ、デューク・エイセスのセカンドテナー・吉田和彦氏(80歳、写真)のソロによる 「女ひとり」は、そのうちの代表曲の一つだが、このシリーズで、第8回日本レコード大賞の企画賞(1966年)および特別賞(1969年)を受賞している。
 
イメージ 14 日本各地を二人で旅をしたとしているが、デューク・エイセスもスケジュールの合間を縫って旅に同行したそうだ。

 現在は、唯一結成当時からのメンバーでリーダーのバリトン・谷道夫(81歳、右から2番目)と、バスの槇野義孝(80歳、右端)、2015年から脳梗塞で引退したセカンド・テナー・吉田一彦の後任で加入した岩田元(46歳、左から2番目)、そして、トップ・テナーの大須賀ひでき(59歳、左端)の4人が歌っている。
「にほんの歌」シリーズは、まるで玉手箱のように素晴らしい曲の数々だが、その中のもう1曲。懐かしい「フェニックス・ハネムーン」(1967年発売)

 この曲には思い出がある。

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 1960年~70年代、多いときは新婚の3分の1から4分の1が宮崎に訪れたそうだ。

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 この曲が巷にあふれていたころ、生まれて初めて南九州一人旅したことがある(写真堀切峠)が、宮崎から日南海岸に向かう旅の途中は新婚旅行の客であふれかえっていた。写真右)今から46年前の1970年。それは生涯忘れられない、今も思い出すと胸がキュンとするような旅だった。

 君は今日から 妻という名の 僕の恋人 夢を語ろう ハネムーン フェニックス 木陰 Hm~ 宮崎の二人 Hm~ 僕は今日から 夫という名の 君の恋人 二人だけだよ ハネムーン フェニックス 木陰 Hm~ 宮崎の二人 Hm~ 僕等明日から 夫婦という名の 男と女 抱きしめ合おう ハネムーン フェニックス 木陰 Hm~ 宮崎の二人 Hm~  と歌う。

 今はJR宮崎駅接近・発車メロディとしても使われているようだ。(映像)
 

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 ブームの火付け役になったといわれているのが、「おスタちゃん」の愛称で親しまれていた昭和天皇の第五皇女・島津貴子さん(現在77歳、写真)と、島津家第12代当主忠義公の孫で、旧佐土原藩主島津久範公を父にもつ久永氏の結婚だ。記者会見で「私の選んだ方を見ていただいて…」と述べるなど、奔放で明るい貴子さんの姿は新しい時代の女性像として注目され、1960年(昭和35年)、そのお二人が新婚旅行の地として宮崎を選ばれたことで、一躍注目を集めることになる。

 さらに、1962年、当時皇太子だった天皇陛下皇后さまが宮崎をご訪問。ご成婚からまだ3年だったこともあり、宮崎の人気が一気に高まったという。

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 1965年には、川端康成原作のNHK連続テレビ小説「たまゆら」(画像)が放映される。宮崎市や日南海岸の観光地で広くロケを行い、最高視聴率が44.7%を記録するほどの大人気のこのドラマの影響で、宮崎への新婚旅行ブームがさらに高まり、「観光宮崎」が最高潮を迎えることとなった。

 そして、「とどめ」がデューク・エイセスの歌う「にほんのうた」シリーズの「フェニックス・ハネムーン」

 ところが、宮崎への新婚旅行ブームは1974年をピークに急速に衰えた。1972年に沖縄が返還され、より南の沖縄に新婚カップルの目が奪われたこと、さらに1973年に変動相場制が導入され、1ドルが300円から260円台になり、海外旅行の壁がぐんと低くなったことが原因だった。  
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●200万部を超えベストセラーになった、永六輔氏の著書「大往生」(1994年、岩波新書、写真)は、老い・病・死について語られた様々な言葉を集めた名言集。
 

 その言葉は、全国を旅する永が出逢った、有名無名全てを含めた各地の様々な人々からの言葉である。

★本のタイトル「大往生」というのは、死ぬことではない。往生は往って生きることである。西方浄土に往って生まれるのだ。「成仏」という言葉もある。

「人間、今が一番若いんだよ。明日より今日の方が若いんだから。「死ぬということは、宇宙とひとつになるということ」「百歳を超えてるおばあさんで、娘さんが老衰で亡くなったっていう人に会ったけど。……あるんだねェ、そうゆこと」

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 かつて老衰といえば、長寿の果てにあることで、長寿の親が娘の老衰を見送ることはなかった。長寿世界一としてギネス登録された泉重千代さん(写真)も「百歳を過ぎて子供に死なれたのは辛かった」と言っている。その重千代さんが113歳の時に「どんな女性が好きですか」と聞かれて答えた言葉。「…年上の女」

★東洋医学と西洋医学は対立すべきではない。一日も早く、真の意味での総合病院を期待したい。いま、もっとも進歩している総合治療を行なっているのは国会で、議員会館の診療室では、東洋医学も併用されている。彼らはいつでも、自分に都合がよければ法律を無視するのである。「近代医学は二百年、東洋医学は二千年。どっちを信用すればいいか、ヨーク考えた方がいいよ」

★「時のたつのが早いなァと思うようになると、人生がわかってくるんです」「旦那は定年後のことをいろいろ考えているんだけど、私は未亡人になってからのことを考えているの」「まず義理とつきあい。これを捨てることで、健康を守っております」「九十歳で卒寿の祝いってやるでしょう。卒寿っていうのは、寿が終わるという意味なんですよ」

★「人間、今が一番若いんだよ。明日より今日の方が若いんだから。いつだって、その人にとって今が一番若いんだよ」「長生きしようってグループがありましてね。全員は年間一万円ずつ払うんです。別に何もなくて、ただ払い続けるだけ。で、最後まで生き残った人が全額もらえるんだって!」

★「何か言い残すことはありませんか?」と聞かれて、自分で「御臨終です」と言って死んだ人もいた。「死に方ってのは、行き方です」「生まれてきたように死んでいきたい」

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★これは賀原夏子さん(1991年、70歳で没、写真)の言葉。彼女は死ぬ前に、「初めて死ぬのに、この経験が役者として役に立たないのが口惜しい」と言って笑ったという。彼女はこうも言っている。「人並みに生きるくらいなら、死んだ方がましだ」「死んだら他人の世話になるんだから、活きてる間に他人の世話をしとかなきゃね」
。ちなみに、彼女の遺灰は海に散骨された。
続く。


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