7月7日に亡くなった昭和ヒトケタ世代の代表格・永六輔氏について、拙ブログでは細切れ的には何度も登場してもらったが、ここで整理してみたい。
彼についての切り口はいくつもあるが、1.ライフスタイル 2.テレビ番組 3.ラジオ番組 の3つの視点でまとめてみたい。
折りしも、朝日新聞8月16日(火)号の文化・文芸欄に、(笑いにのせて:1)言葉の壁、ぶち抜いた先輩 というタイトルでタレントの萩本欽一さん(75歳、写真)が永六輔さんについて語った記事が載っていた。
永六輔さんは言葉の達人だったね。初めて会ったのは30、40年くらい前。ラジオ番組に呼んでもらった時、僕の顔を見て「人生ってさ、年を重ねると知り合いができて友達ができて。だけど、もう知り合いもいらないね。付き合う時間もないし。でもね、その中でも友達になりたいっていうのが出てくるんだよ。欽ちゃん、よく来たね」
僕ね、このセリフ聞いてしびれちゃって。こんなにすてきな言葉で出会った人いるかなと思ってね。
尺貫法を守る運動とか、そうそう気づかないところを突いてくるところが永さんにはあって、ちょうど僕がテレビをやろうとした時、何か違う笑いの時代が来てるなと気づくわけ。僕はプロだから「笑わす」ってやってたけど、永さんたちのは「笑ってしまう」なの。それで番組に素人を出そうと思いついて、そのあと僕の視聴率30%番組が全部「笑ってしまう」になった。
たとえば僕が「これはだめだね」と言えば、永さんは「だめなことない」と逆の言葉で枠を超えていく。永さんに褒められると思ったら怒られて、怒られると思ったら褒められる。そんな番組ができたら面白いなと企画したこともある。実現はしなかったけどね。
ライフスタイル
永六輔は旅と孤独とラジオが好きだった。
彼の書「老い方、六輔の。」(写真)では、旅と旅行の違いについてこう語っている。
普通はあまり区別しないで使っていますが、「旅」と「旅行」は、本来は意味が違うんです。行って帰るのが「旅行」で、行きっぱなしが「旅」。だから、僕がやってきたのは「旅行」の方です。
旅行も本当は「りょぎょう」と読みます。つまり、旅という行の一つです。修行だから、ホテルがどうとか、食事がまずいとか、くだらないことで文句を言ってはいけないんです。「旅」という文字の由来は軍隊です。兵隊の規模をいうのに「旅団」というでしょう。つまり、旅という字は、旗と戦車を表すことから生まれたものなんです。
彼はブラリと旅に出かけることが好きで、長いときは何と1年も家を離れたときもあったという。
元々は歌手のジェリー藤尾が歌った曲(写真)だったが、この番組では最初デューク・エイセスが歌った。
なお、この番組は、日本の全てのテレビ局でレギュラー放送されている全ての紀行番組の中で最長寿番組である(拙ブログ遠くへ行きたい参照)
遠くへ行きたい(1962年)
これも旅好きだから出来た曲だと思う。「やっぱり俺は菊正宗」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)は正式タイトルが「初めての街で」という曲だが、1975年にCMで使って以来、長い間西田佐知子の歌で親しまれてきた。
西田佐知子/初めての街で(1979年)
麻理さんによると、永さんは自宅でパーキンソン病や前立腺がんなどの療養をしつつ、ラジオへの本格復帰を目指していたという。だが、6月下旬、25年余りにわたって出演した長寿ラジオ番組を降板。「父が亡くなったのは、自分の名前が付いた番組が終わって10日しか経っていない七夕の日でした。生涯現役だったと言っても過言ではないと思います」
「粋でいなせで、すごく格好良い父でした」と振り返る麻理さん。「病気がなかったら、いつまでも好きな旅をして、知らない横丁に入っていったと思うと、父にとってここ何年は、もどかしくて、つらかったはず。『お疲れさまでした』と言いたいです。今ごろ、(『上を向いて歩こう』を作曲した)中村八大さん、坂本九ちゃん、渥美清さんたちと、楽しく話をしているんじゃないかなと思います」と、気丈に語った。
彼の亡くなった後はいくつもの追悼番組があったが、「永六輔のガールフレンド」とまで言われ、永さんと60年以上付き合いのあった黒柳徹子さん(83歳、写真)の姿が必ずあった。
彼女が司会を務めるトーク番組「徹子の部屋」では7月12日の放送内容を急遽変更し、彼の追悼番組を放送した。
以下は黒柳徹子が11日、所属事務所を通じたFAXで送ったコメント。
永六輔さんとは、60年以上のお友達になります。その間、一回もケンカをしたことありません。
「午後のおしゃべり」「夢であいましょう」で、はじめて会いました。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」など、八大さん(中村八大)と作った名曲のころ、毎日、渥美清さん、坂本九ちゃん、演出の末盛さん(末盛憲彦)とみんなで集まって、おもしろいことを話し合っては、笑っていました。
永さんが、八大さんと世界中の日本人学校を訪問してるときは、一行ですべてがわかる絵はがきをくださいました。日本の中を旅したのは、自分で見たり聞いたりしたことを、全国まわって、ラジオで伝えたかったからです。テレビより、最後までラジオが好きでした。
6月27日、足掛け40年以上続いた永さんのラジオ番組が終わりました。私も終わりのほうにかけつけて「永さん! ごくろうさまでした!」と叫びました。私が呼び掛けると、目を開けて笑ったりしていたそうです。奥さんの昌子さんが亡くなって14年半、よく1人で頑張りました。旅の名人でも、毎日旅先から何度も昌子さんに電話をしていましたから。1人になって、私と結婚の話も出ましたが、主に、永さんからですが、お互い昌子さんのようにはいかないと、わかっていました。「ゆめ風基金」という障害を持った方たちへのボランティアにも、すごく力を入れていました。お葬式は、実家の浅草のお寺です。
亡くなる3日前と4日前にお見舞いに行きました。話はできなかったけど、私が「永さん!」と言うと、必ず、目を開けて私を見て、声を出して笑いました。
このごろ、お友達が亡くなって、本当に、最後の一撃のような、永さんの死です。
でも、生きてるもののつとめとして、当分、仕事、続けます。永さん、永いこといいお友達でいてくださって、ありがとう。アフリカなんかで「上を向いて歩こう」と聞くと、きっと、空を向いて涙がこぼれないようにすると思う。昌子さんによろしく。
永六輔は1959年、作曲家の中村八大(1992年、61歳で没、写真)からの依頼がきっかけで作詞家として活動を始める。
彼らは「六八コンビ」と呼ばれ、1959年 - 1966年にかけてにより数々のヒット曲を飛ばし、。1959年の水原弘「黒い花びら」、1962年のジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、1963年の梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、1965年の北島三郎「帰ろかな」のような楽曲を制作している。
そして、特に1961年に坂本九(1985年、43歳で没、写真右)が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国で『スキヤキ・ソング』とタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てている。
坂本九は、1985年(昭和60年)8月12日の日本航空123便墜落事故に巻き込まれて急逝したが、彼を加えて、「六八九トリオ」とも呼ばれた。(写真下)
永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。
ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。
作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる。
また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたく(1992年、62歳で没、写真)の2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている。
永は1974年に野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほど盛況であった。(写真)
(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)(Wikipedia 参照)
坂本九/上を向いて歩こう(1961年)
続く。