永六輔の特集もこれで第3回。ずっとライフスタイルについて述べてきたが、今回はテレビ番組と、ラジオ番組の視点をお伝えし、最終回としたい。
●まずはテレビ番組から
永六輔といえば、真っ先に「夢であいましょう」が思い出される。
古い番組なので仕方がないかもしれないが、メインの出演者の多くがこの世を去った。
坂本九(1985年、43歳のときあの日航の墜落事故に巻き込まれ没)、中村八大(1992年、61歳のとき肝不全により没)、渥美清(1996年、68歳のとき肺がんで没)、フランキー・堺(1996年、67歳のとき肝不全で没)、三木のり平(1999年、74歳のとき肝腫瘍で没)、E・H・エリック(2000年、71歳のときパーキンソン病で没)、谷幹一(2007年、74歳のとき脳出血で没)… 、そして永六輔である。
そう意味では、今でも活躍している黒柳徹子とデューク・エイセス(今は谷道夫と槇野義彦のみになったが)は凄い。みんな80歳を超えている。
テレビ創世期の音楽番組の双璧といえば、共に1961年からスタートしたNHK「夢であいましょう」と、日本テレビ系「シャボン玉ホリディー」。(図)
「夢であいましょう」は、作・構成:永六輔、大倉徹也、音楽:中村八大、八城一夫だったが、六・八コンビと呼ばれ、たびたび番組にも出演するとともに、永六輔作詞・中村八大作曲による「今月のうた」が毎月1曲作られていた。
そこから「上を向いて歩こう」(坂本九、1961年)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾、1962年)、「故郷のように」(西田佐知子、1962年)、「おさななじみ」(デューク・エイセス、1963年)、「ウエディング・ドレス」(九重佑三子、1963年)など、たくさんのヒット曲が世に生まれ出たのである。
デューク・エイセス/おさななじみ(1963年)
九重佑三子/ウェディング・ドレス(1963年)
北島三郎/帰ろかな(1965年)
この曲は、番組内で募集した譜面の応募総数が1万通を超える大反響となり、レコードは100万枚を超える大ヒット。第5回日本レコード大賞受賞曲となり、翌1964年センバツ高校野球の開会式行進曲にもなった。
しかし、清純さが売り物の梓みちよは、実際は10代の頃から飲酒や喫煙を行っているなど清純とはほど遠いもので、そのイメージが嫌で仕方なかったそうである。 そして、自身の最大のヒット曲である「こんにちは赤ちゃん」を長年コンサートで自分で封印し歌わなかった。その理由は「この歌は今、私にとって重すぎる」「いまさらこの歌は私には似合わない」などだったが、2002年の40周年記念コンサートでのアンコールの際に「初めて、心からこの歌の素晴らしさを理解することが出来た。こんな良い歌を今まで歌わなかったのか、情けない」と言い、封印を解き歌唱。以後はステージでも必ず歌うようになったという。(Wikipedia参照)
梓みちよ/こんにちは赤ちゃん(1963年)
テレビの最後は、2016年2月4日の82歳で、『徹子の部屋』40周年記念ゲストとして81歳の大橋巨泉と共に出演した。
パーキンソン病のため、リクライニングシートを斜めに倒した車椅子から身を起こせなかったが、ピンクのエイ(魚)のぬいぐるみを膝に乗せてトークを披露した。(写真)
●ラジオ番組
1966年に『夢であいましょう』が終了すると活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『永六輔の誰かとどこかで』(TBSラジオ)がスタートする。
初代アシスタントは佐藤ユキが担当したが、途中で降板したため遠藤泰子(現在72歳、当時TBSアナウンサー)が後を継ぎ、終了まで担当。(写真)
永六輔が世相批評などを交えながら日々の雑感を語っていたほか、聴取者からの投書などによるやり取りも活発に行っていた。
2013年 8月29日、 放送を9月27日で終了すると発表。総放送回数は12,629回、放送期間も約46年9か月にわたり、TBS制作のラジオ番組としては最長寿番組となった。
名物コーナーとして、リスナーから投稿された日常の風景を紹介する「七円の唄」(毎週金曜日)があった。タイトルの由来は、はがき1枚の送料が1967年当時7円だったことから。
BGMはタレガの「アルハンブラの思い出」が使われていた。
彼が最後までパーソナリティを務めていたラジオ番組は「六輔七転八倒九十分」(TBSラジオ)。
2015年9月26日で終了した「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」の体裁を引き継ぎ、2015年9月28日開始、2016年6月27日終了。
この番組では永を中心としたメンバーが月曜日の夜に大人たちが自由なトークを繰り広げる番組で、それと同時に「日本語を使うことの喜び」を、リスナーとともに感じることができる番組を目指していた。
メイン パーソナリティの永六輔は、背中の痛みの治療とその間に患った肺炎のため、2016年2月より、番組を休んでいたが、同年5月9日の生放送中、永の所属事務所からの手紙が外山惠理によって読まれ、「永はすでに退院し、自宅療養で、体力の回復に努めています。パーキンソン病ということもあり、十分な体力回復に、どの位掛かるかはまだ目途がついていません。そのため、一旦、自分の名前の付いた番組は締めくくりをさせて頂いた上で、ぜひ、また お耳にかかる機会を得たいと思います。6月27日、月曜日で「六輔七転八倒九十分」は終了します」 として、永は番組を降板。番組開始から9ヶ月で、終了が発表された。。
その後、永は2016年7月7日に死去していたことが同月11日に発表された。83歳没。死因については、医師によると「肺炎とするが、老衰と言っていい状況」という状況であった。永の逝去により、この番組が「生前、最後のラジオ番組」となった。(Wikipedia参照)
最後はこの曲。
最後はこの曲。
坂本九/見上げてごらん夜の星を(1963年)
永六輔氏のご冥福をお祈りします。