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一本の鉛筆

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 本日(8/13)の朝日新聞・神奈川県のページに「美空ひばりの<反戦歌>」というタイトルで、彼女が歌った「一本の鉛筆」のことが書かれていた。こんな内容だ。

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横浜生まれの昭和の歌姫・美空ひばり(1989年、52歳で没、写真)に<反戦歌>があるのをご存知だろうか。

 「一本の鉛筆」である。
 「あなたに聞いてもらいたい」と歌いだす。「一本の鉛筆があれば/戦争はいやだと私は書く」と展開し、最後は「一本の鉛筆があれば/8月6日の朝と書く/人間のいのちと私は書く」と歌い上げる。

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 作詞は映画監督の松山善三氏(現在91歳、写真左)、作曲は映画音楽で知られた佐藤勝氏(1999年、71歳で没、写真右)で、1974年8月に開催された第1回広島平和音楽祭のために作られた。モチーフは明白で広島の原爆。

 数多い持ち歌の中でも一見異様な存在だが、ひばりは自選の10曲の6番目に入れている。


 それだけに関心を集め、曲誕生の背景を作家やジャーナリストが追ってきた。

 それらによると、74年はひばりの歌手人生の転換期だった。64年の「柔」、66年の「悲しい酒」と続いたヒット曲が67年の「真っ赤な太陽」を最後に途絶えていた。その一方で前座で歌っていた弟が恐喝などで繰り返し逮捕され、暴力団追放の動きが高まった73年、ひばりのショーは公共施設の使用を拒否され、紅白歌合戦にも落選した。

 そんなところに持ち上がったのが広島での音楽祭への参加だった。作曲家の古賀政男が実行委員長でもあり、ひばりは快諾。ありきたりでないオリジナルの曲をという主催者の要望で作られたのが「一本の鉛筆」で、完成したのは音楽祭の数日前だったという。
 父親が兵隊に行くのを見送り、横浜大空襲は8歳の誕生日だったーなどがひばりの<反戦>意識の背景に指摘されている。

 だが、そうした本や報道では触れられていない点が気になった。メッセージ性の強い歌詞を書いた松山善三氏はひばりと同じ横浜の磯子の育ちなのだ。

 ひばりより12歳年長の松山氏は現在91歳で話を聞くことはできなかった。そこで磯子の郷土史家・葛城峻さん(85歳、写真左)とフリーライターの今津良一さん(79歳、写真右)に尋ねた。今年の正月、ひばりの生まれた〈屋根なし市場〉を一緒に歩いた二人だ。

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 磯子の地図を広げ、葛城さんが説明してくれた。「善三さんの家は堀割川のほとりの鉄工所だった。今の市電保存館の近くで、ひげが有名だったお父さんは<チャップリンさんと呼ばれていたんだ」

 ひばりの実家までは500mほど。松山氏が44年春に岩手医専に進むまで2人はごく近くに住んでいた。空襲では、近くまでは焼けたが、どちらの家も直接被害を免れたという。

 その地図を横目に今津さんが言った。「2人とも有名人だから、近所の育ちであることは互いに知っていただろう。音楽祭の楽屋でもそんな話はあったかもしれないね」
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 映画「二十四の瞳(写真)などで知られるトップ女優・高峰秀子(2010年、86歳で没)を妻に持つ松山氏は、70年に「違いが分かる男」というコーヒーCMの第一号に起用され知名度が一段と高くなっていた。

 かつて東宝に勤務した今津さんは、新宿コマ劇場でひばりショーの舞台監督をした。松竹を退社しフリーの映画監督・脚本家となった松山氏が東宝の仕事をする時には窓口となった。

 「いかにも松山さんらしい歌詞。1本の鉛筆という映像が浮かび上がる。映画監督ならではの視点だ」

 (中略)

 当たり前だった記憶や思いが失われつつあることを示すのだろう。戦争が終わり71年。「一本の鉛筆」が生まれて42年。歌姫ひばりが世を去って27年。<戦後>もずいぶん長くなった。
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 ところで、「美空ひばり 平和をうたう小笠原和彦著、時潮社、2006年、写真)では、「美空ひばりは3曲の反戦歌を歌っている」として「一本の鉛筆「白い勲章「八月五日の夜だった」をあげている。

  ひばりが最初の広島平和音楽祭に出演するにあたって、当初は平和音楽祭の実行委員長も務めていた古賀政男が作曲する予定であったが、古賀が体調を崩したため佐藤勝の作曲となった。

 リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた。

 それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に二度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎で入院した翌年であり、歩くのがやっとで段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという。翌1989年6月に、ひばりは死去した。(Wikipedia参照)






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