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71年目の原爆記念日【その2】広島カープ快進撃の陰に

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 本日(8/6)の朝日新聞土曜版be「(みちのものがたり)平和大通り 広島市 優勝パレードの夢ふたたび」という記事が載っていた。一部修正を加え、お伝えしたい。
 広島市はいまや、万物を赤く染めてしまう街である。

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 「赤ヘル軍団」広島カープの本拠地、マツダスタジアム(広島市南区、)のもよりでは、青がイメージカラーであるはずのコンビニ、ローソンまでもが赤いのだ(写真)

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 マツダスタジアムへ行くなら「カープロード」を歩くべし。JR広島駅南口から線路沿いに約10分で球場に着く。赤いローソン「広島東荒神町店」も道沿いにある。

 球場には「砂かぶり席」やバーベキューを楽しめる「びっくりテラス」、畳敷きの「鯉桟敷」など30種類もの座席がある。球場グルメでは、広島市民球場から引き続き営業している「カープうどん」が一番人気。

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イメージ 1 今年のプロ野球セ・リーグは、カープの「鯉の季節」が終わらない。神ってる」と若者言葉でたたえられる加速度をつけたまま、8月まで首位をひた走っている。(右表)

 
マツダスタジアムは連日のごとく満員御礼。「カープ愛」のるつぼと化して、まるごと赤熱のチームカラーに覆われる。(写真)

 そしてうわさ通り、ファンの女子率は、他球団に比べると目を疑うほど高い。カープはもはや、彼女たち「カープ女子」との運命共同体のようだった。

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 そのひとり、広島県海田町出身のタレント・作家うえむらちかさん(30歳、写真)は、朝日新聞デジタルで「カープ女子観戦記」を連載中。『カープ女子 うえむらちか&広島東洋カープ 2014年の軌跡』(KADOKAWA)も刊行している。

 彼女がカープ愛に目覚めたのは、2007年に上京してからだという。

 家族はこぞってカープファン。実家にいるときは、それが、うっとうしかった。父親は、20世紀末からBクラスをさまようカープの試合のテレビ中継に釘づけになり、だいたい不機嫌になる。「だったら見なきゃいいのに」と心で小さく悪態をついていた。 

 「でも、東京では、誰ひとりカープを語る人がいない。あたり前にあると思っていたものを見失ったような喪失感でホームシックになりかけたとき、神宮球場でカープの試合を見て感動したんです。ここには『広島』があるって」

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 カープが今年、25年ぶりに優勝したら、かなえてみたい願望はいくつもある。そのひとつは、
平和大通りの優勝パレードが実現したら、沿道で祖母と手をふることだ。

 平和大通りは、広島市の中心街を東西に横断する全長約4キロ、幅100メートルの幹線道路だ。戦後、原爆で壊滅した町並みの再生へ踏みだすとき、シンボルとなった道である。(写真) 敗戦の翌秋から整地が始まり、名称は市民からの公募で決められた。だが、無用の長物と批判もされ、1955年に「百メートル道路の幅を半減してアパートを建てる」と訴えて当選した市長が、計画を見直しかけたこともあった。そんな曲折はあったが、1965年、車道の両側に緑地帯や副道、歩道を備えた大通りが全通した。

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 カープは過去に6度、リーグ優勝(日本一3回)してきたが、パレードは初優勝した1975年の一度きりだ。

 1975年10月20日。カープの選手はトラックを改造したオープンカーに乗り、平和大通りを約3キロにわたってパレードした。沿道には約30万人ものファンが群がり、赤ヘル軍団を祝福したのだった。(写真)

(中略)孫のうえむらさんに言わせると、祖母・草田カズヱさん(86歳)は、「元祖カープ女子」だ。

 1949年に球団が創設されたときから、いちずに応援してきたファンなのだ。

 1945年8月6日、破滅の業火が広島を焼きつくしたとき、登校中で、同級生の家に立ち寄っていた。爆心地からの距離は約1・5キロ。閃光にのみこまれたとたん、屋根の下敷きになっていた。両足に大やけどを負い、数カ月たっても立ちあがると血がとめどなく噴き出した傷痕にはケロイドが残された。 

(中略)敗戦の翌秋、原爆の爆心地に近い安田高等女学校(現・安田女子中学高校)にソフトボール部ができた。当時16歳の草田さんはその1期生で、初代主将をまかされた。

 「女がバット持ってるで」と、まだ奇異に思われた時代だった。だが、草田さんは、ルールも知らないまま、もんぺ姿に素手と素足で練習を始めた部活動に没頭した。

 廃虚にたたずんでいると、身も心もすくんでしまう。そんな被爆のトラウマから無我夢中で逃れようとしていた。   

 広島市の近郊の富農だった父親は、娘が実業団から誘いがかかるほどソフトボールにのめりこむことを苦々しく思っていた。

 草田さんは21歳のとき、隣町の海田町で製材所を営む、ひとまわり年上の男性のもとへ嫁がされた。 

 「26年前に亡くなった主人は仕事ひと筋で、野球だけが趣味。私も野球を知っとるから、一緒にカープの試合を見に行くようになったんです」
 原爆にやられた広島県民の士気を高揚するためにプロ野球を作る話が持ち上がった。

 戦前、広島商など県勢が甲子園でたびたび勝ち進み、野球王国といわれた広島の人びとが、プロ野球を復興の旗印にしようと夢想するのは必然だった。だが、経営の算段はついていなかったようだ。

 市民球団のカープがセ・リーグに加わった1950年に、高卒新人で入団した元捕手の長谷部稔さん(84)は「最初の2年間は、まともに給料をもらっとらんよ」と語る。「なにしろ球団に金がないんじゃけんねえ。家賃を払わんから、最初の合宿所を追い出されたし、遠征のときの弁当さえ、自腹で買わないけんのよ」「試合や練習の後、選手も数人ずつまとまって、後援会の集まりに行きよったよ。サイン会をやったり、芝居小屋のようなところで歌わされたりもしたけんね」と長谷部さんは苦笑しながら懐かしむ。

 「昔は弱かった。だから、勝つから試合を見に行くのではなく、見に行かんとカープがつぶれるから行ったんですよ」との声も。

 2008年のシーズンまでカープの本拠地だった広島市民球場に、草田さんは、夫が運転するスクーターに乗せられて通った。初優勝した1975年は、ともに海田町出身の大下剛史三村敏之の1・2番コンビに肩入れしていたので痛快だった。平和大通りの優勝パレードにも夫婦で駆けつけると、沿道にひしめく人びとは、誰もがすすり泣いていたという。

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 「じつはあのとき、僕も大泣きしていました」。初優勝監督で、その後の常勝の黄金時代をひきいた古葉竹識さん(80歳、写真)は、そう思い起こす。「百メートル道路のパレードは、優勝が決まってから、ファンへ恩返しをするために、僕がオーナーにお願いしたんです。僕は熊本出身ですが、女房は広島の原爆で母親を亡くしていましたからね。すると、たくさんの人が遺影を高く掲げて、『監督! じいちゃん喜んでるよ』『父ちゃん喜んでるよ』と口々に叫んでいたんです。あれは生涯、忘れられない光景でした」  


 草田さんは「ソフトボールとカープがあったから、私はこれまで生きてこられたんやろね」と満足げに回想する。

 元祖カープ女子はゆったりと、応援歌の「それ行けカープ(動画)を口ずさむ。「晴れのあかつき 旨酒をくみかわそう 栄冠手にする その日は近いぞ」

 再び平和大通りの優勝パレードに立ちあえるなら、5人の孫に囲まれているはずだ。
 自分もカープファン。思うに故郷離れた方が「郷土愛」が増すのではないだろうか。自分がカープファンになったと意識したのは、東京に就職してからだ。

 8月3日(水)は息子と神宮球場、カープ・ヤクルト戦を見に行った。相変わらずどちらがアウェイか分からないほど、真っ赤なシャツが球場を埋める。

 当日は残念ながら逆転で敗れた。次の日も懲りずに山田哲人に打たれたが、一番怖い相手に、こんな素人にも分かるような作戦ではどうしょうもないといいたいね。

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 同点の7回2死三塁。不振の山田がヘーゲンズの初球を振り抜くと、打球は左翼席最前列に着弾。(写真)

 決勝の31号2ランに「ギリギリ入るかなと思ったら、ギリギリでした」。7試合ぶりの一発で、チームの連敗を7で止めた。

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 連敗中のカープは今が正念場。ファンの気持ちをよく理解して頑張って欲しい。


 




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