縄文時代は、年代でいうと今から約1万5千年前(紀元前131世紀頃)から約2千3百年前(紀元前4世紀頃)、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。
縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。
なお、時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。(Wikipedia 参照)
一方、弥生時代は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に続き、古墳時代に先行する。およそ紀元前3世紀中頃(この年代には異論もある)から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称である。(画像は弥生時代の生活想像図)
弥生時代の「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。
当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。
弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まったとされる。
弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まったとされる。
しかし、縄文時代末期に稲作が開始されていた遺跡も発見され、現在では稲作開始時期自体が確定できない状態である。また、縄文式土器から弥生式土器の移行をもって弥生時代への移行とすることもあるが、特に東日本では弥生式土器と縄文式土器の区分も不明確であり、編年の基準としては使いがたいそうだ。(Wikipedia 参照)
朝日新聞1月24日号にこんな記事が載っていた。
はじめての弥生時代(文化の扉)はじめての弥生時代 列島に変革、年代・担い手に新説
大陸からやってきた渡来人が縄文人を追いやり、水田を開き、「クニ」が生まれ、貧富の差や身分が生じた――。そんな弥生時代のイメージが最近の研究によって、大きく変わりつつあるというのだ。
弥生文化を担ったのは一体誰だったのだろう。大陸からきた多数の渡来人が、先住の縄文人を追いやり、稲作を中心とする文化を列島に広めたというのが、かつての定説だった。
だが、見つかった人骨の研究などからこの説は見直されている。
福岡県の新町遺跡では弥生早期の墓から「顔が短く彫りが深い」縄文人の特徴を持つ骨が出土。山口県の土井ケ浜遺跡や福岡市の金隈(かねのくま)遺跡では、縄文系と渡来系の人々が同じ墓地に葬られていた。
Wikipediaによると、土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡である。「戦士の墓」あるいは「英雄の墓」などと呼ばれる。
土井ヶ浜遺跡の発見は、1930年まで遡る。1930年晩秋夕刻、神玉小学校教諭河野英男により、砂丘中に6体の人骨が入った石棺が露出しているのが確認された。翌1931年3月旧山口高等学校(山口大学文理学部)小川五郎・旧京都帝国大学(京都大学)三宅宗悦らにより人骨収集と学会報告が行われ、「土井ヶ浜遺跡」と命名された。
戦後、神玉中学校教諭衛藤寿一が砂丘で収集した人骨や土器の破片を九州大学医学部に届けた事を契機に、1953年九州大学医学部教授金関丈夫を中心とし、日本学術会議・日本考古学協会の協力の下で本格的な発掘調査が5年間に渡って行われた。
その成果により、1962年に砂丘の一部が国の史跡「史跡土井ヶ浜遺跡」に指定された。現在では遺跡のほぼ全域が「土井が浜弥生パーク」として整備され、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」が造られている。
(写真は土井ケ浜遺跡から発掘された人骨と、人類学ミュージアム)
記事を続けよう。
「新町遺跡では縄文系と朝鮮半島系の二つの文化要素が確認できる。縄文人が稲作を受け入れ、移住者と共に弥生文化を形成したと考えた方がいい」と明治大・石川日出志教授。
一方、「一緒に文化を担ったという割に縄文系の人々の骨が少なすぎる。あくまで渡来人とその子孫が担い手」(中橋孝博・九州大名誉教授)との意見も。結論が出るにはもう少しかかりそうだ。
もう一つ、最近注目されているのが、一見均質に見える弥生時代の文化が、実は地域によってかなりの差があったという考え方だ。
国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎さんは、青銅器の祭りを行い、社会的格差を示す墓などを持つ文化の複合体を「弥生文化」と定義し、それが及ぶのは、北は利根川までと説く。「東北北部では、弥生時代でも(縄文文化以来の)土偶の祭りを行い、稲作をやめて狩猟採集に戻っている。弥生とは別の文化と考えるべきだ」
このような弥生時代の文化の多様性について、東京大の設楽博己教授は「朝鮮半島からの影響や縄文文化の伝統の強弱に地域差があったために生じた」と推測する。「ただし、いずれも本来は稲作が生業。互いに密接に関わりながら発達した。列島全体をまきこんだ大きな変革という意味では一つの文化とみていいのではないか」と話す。
<訪ねる> 日本で最も古い弥生時代早期の集落の姿が見られるのが、福岡市博多区の板付遺跡。大阪府和泉市・泉大津市の池上曽根遺跡は大型建物を復元した史跡公園となっている。近くの府立弥生文化博物館も必見だ。青森県田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡では日本列島最北に位置する水田稲作の痕跡をじかに見ることができる。
<読む> 藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』(講談社現代新書)は各地に多様な文化が栄えた弥生時代の実情に迫る。設楽博己『縄文社会と弥生社会』(敬文舎)は新たな縄文時代像・弥生時代像を提示。石川日出志『農耕社会の成立』(岩波新書)は縄文~弥生の変化がゆるやかなものであったことを資料から説く。
俳優となり考古学からは一時遠ざかっていたが、1980年に石原プロの社長だった石原裕次郎の新居建設現場から多数の土器を含む遺跡が出土したことを契機に、再び考古学への情熱が再燃。石原プロの副社長(当時)の渡哲也に事情を説明して所属していた石原プロを1982年に円満退社した「考古学研究のため」とはどうしても言えなかったため、表向きの名目はあくまで「独立して俳優をやりたい」ということであった。
その後、俳優活動の傍ら考古学の研究を続けており、2011年までに発掘に関わった遺跡は、全国で30ヶ所以上にのぼり、古代史に関する一般向けの著書を出版。論文も発表している。邪馬台国の有力候補地である纒向遺跡の調査・研究は1984年頃からしており、2009年の発掘調査の際にはマネージャーには仕事を取らないよう命じて連日発掘調査を手伝った。
その俳優・苅谷俊介さんの記事も。
■発掘、過去と出会う楽しさ
ぼくが考古学に興味を持ったのは33歳の時。(所属していた石原プロの社長だった)石原裕次郎さんの屋敷の建設現場で遺跡が見つかったのがきっかけでした。以来、生涯学習のつもりで、自分でも発掘に携わりながら、こつこつと勉強を続けてきました。
ぼくは、弥生文化というのは何度かに分かれて、日本列島にもたらされたと思っています。その傍証が「徐福伝説」です。
徐福というのは、中国を統一した秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を求め、数千人の人々と共に東へ出航した伝説の人物なのですが、日本列島には30~40カ所の地にこの徐福が来たという言い伝えが残っています。ぼくが調べた限りでは、このうち27カ所の近くに弥生時代の水田の跡があります。
考古学の魅力は「発掘現場イコール、過去と現代が出会う唯一の場所である」ということではないでしょうか。そんな楽しさを、これからも多くの人に伝えていきたいと思います。
日本の古代は謎だらけ、考古学の夢は尽きない。