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反権力・反戦歌

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 反権力の歌といえば、プロテストソングと呼ばれ、政治体制、政治家による不正・腐敗、貧困・不平等、独裁者、独裁政治、全体主義、軍国主義、警察国家、新自由主義、グローバリゼーション、愛国心の強制、民族差別とレイシズム、同性愛差別、性差別などの各種差別、思想統制、言論統制、表現規制、インフレーション、不況、監視社会、監視カメラ、管理社会、原子力発電、核実験、いじめなどに抗議する歌で、反戦歌はその内のひとつである。(Wikipedia参照だが、日本も段々こんな国に当てはまって来ている気がする)
 
 反権力・反戦思想は、日本だけではなくどこの国でもあるが、日本には他国には無い経験がある。
 
 それは世界で唯一の被爆国であるということだ。広島・長崎の原爆の被害がなければ、太平洋戦争は沖縄戦と東京大空襲が日本では一番の戦禍として語り継がれていたことだろう。
 
 これまでの歴史で内戦は別として、これほど一度に大量の民間人が殺戮されたことはなかった。その経験から、日本人の反戦意識は他国に比べて高いと思っていたが、ここにきて安保法制である。よく「歴史に学べ」とか言うが、学習効果のなさに悲しさを禁じえない。
 広島・長崎の原爆を歌った曲は多い。美空ひばり藤山一郎浜田省吾吉田拓郎さだまさし福山雅治など大物歌手も歌っている。
 

 Wikipediaによると、1995年から2004年にかけて「ヒロシマと音楽」実行委員会が調査したところによると、広島原爆に関する作品は1,800曲以上に及ぶそうだ。『ヒロシマと音楽』(汐文社)で作品目録を見ることができる他、平和データベースで検索することができるという。


●反権力の歌は何も近代に始まったことではない。今よりずっと言論統制が厳しかった江戸時代は「わらべ歌」がその役割を果たした。
 
 たとえば、「ずいずいずっころばし」である。
 
イメージ 1 このわらべ歌は徳川の三代将軍家光(1651年、46歳で没、写真)が統治の寛永10(1633)から、大政奉還の慶應3(1867)迄の長き間続けられた「お茶壷道中(宇治採茶使)」と深く関係している。
 
 いつの世でも過保護と我儘一辺倒で無知無能の只財力に恵まれた親の元で世襲して過ごす庶民感覚から遠くかけ離れたボンボンの塊の権力者は、只々自己主張に終始、将軍が如何に凄いかを庶民に知らせる事に専念、時の将軍家光が「江戸城」で自分たちが飲む将軍家直用の新茶一年分を毎年、わざわざ京都の宇治から江戸迄実にものものしい行列をさせて運ばせた。
 
 この行列は凄まじく格別の威厳をもたせ、街道や沿道にはお布札が出され、庶民にとっては只々恐ろしいばかりか迷惑そのもの!
 
 一行の侍共は我儘のやりたい放題、街道や沿道の店の団子や、酒等はただ食い、ただ飲みはするは、茶屋の娘を無理やり手籠めにするは!
 
 たまった物では無いが庶民は一切の文句口出しは出来ない。一言でも物申せば、直ぐさま侍の刀の餌食!ましてやその行列の前を横切ったりしたら。
 
 ある時遊びに夢中になり「お茶壷道中」の行列が近づいてきているのを気付かない幼い子供が親の呼ぶ声で慌ててその行列をよぎって家に戻ろうとしたら、直ちにとっ捕まり即座に民衆の前で見せしめとして「打ち首」更にその両親もその場に引っ張り出され共に「打ち首!
 
 その先の道中、行列の先頭の槍の先に血の滴る三つの生首を曝して歩くと言う実に残酷な事件が起こり、「かわら版」で大騒ぎとなった。
 
 しかしこんな出来事が有っても将軍批判等は一切許されない御時世の中で生まれたのがこのわらべ歌、「ずいずいずっころばし」である。
 

ずいずいずつころばし ゴマ味噌ずい 茶壷に 追われて とっぴんしゃん 抜けた~ら ど~んどこしょっ 俵の鼠が 米食ってチュー おっとうさんが呼んでも おっかさんが呼んでも行きっこな~し~よ 井戸の周りで お茶碗かいたの だ-れ
 

 胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。(近代日本音楽原点童謡にあWikipedia参照)


 明治以降についての反権力歌については、コミックソング【その1】でお知らせしたことがある。

 
●明治時代に流行したものに壮士演歌がある。壮士節ともいう。
 
 壮士演歌は戦後の演歌とは全く違い、政治や世相を鋭く風刺した歌である。もとは自由民権運動を啓蒙するというまじめなものであったが、面白おかしく歌う者が出て流行する。
 
イメージ 3 壮士演歌で最も有名なのは川上音二郎1901年、47歳で没、写真)の「オッペケペー節」である。この曲は「日本最古のコミックソング」と定義される事が多い。
 
 彼は、民権思想の新聞記者として自由童子を名乗り、入獄10数回を数えた。政治的意見を表明すれば、すぐに弾圧される明治時代に音二郎は言いたいことをオッペケペーの歌詞の中でズバズバ言ったので、不満を感じていた民衆に爆発的な人気を博した。
イメージ 2●明治から大正時代にかけて活躍したのは添田唖蝉坊1944年、71歳で没、写真)だ。元は政治色のない演歌師だったが、その姿勢が大きく変わったのは社会主義者、堺利彦との出会いからである。
 
 世は日露戦争の暗雲がたれ込め、社会主義者への国家の弾圧が続いていたが、唖蝉坊は立て続けに下層労働者の歌を作り続けて行く。
 
 この時期、1906年(明治39年)に彼が作った歌はすべて発禁歌となった「社会党ラッパ節」「嗚呼金の世」「ああわからない」「あきらめ節」等。しかしこれらは今の世でも多くの人の心を動かす歌の力がある。(「土取利行・音楽略記」参照)
 

土取利行/川上音二郎・オッペケペー節 添田唖蝉坊・ブラブラ節

 


土取利行/添田唖蝉坊・ノンキ節・新ノーエ節
 

イメージ 4 なお、これらの曲を歌っている土取利行(現在65歳、写真)は、香川県出身の音楽家。
 
 「人間にとって音楽とは何か」という根源的な探求と実践を深め続ける。添田唖蝉坊をはじめとする明治大正の演歌師の残した歌を研究し、ライブ公演やYouTubeで披露している。伴侶の桃山晴衣(2008年、69歳で没)は、添田唖蝉坊の息子である添田さつきの最後の弟子だった。

●それから先は治安維持法の制定(1925年。1941年に改正)などで次第に言論統制が強くなり、息苦しい暗黒時代の到来である。国威発揚の音楽だけがもてはやされる時代になり、挙句の果てには戦争に突入する。

●戦後はGHQの統制に会ったが、次第に反権力の歌も歌えるようになる。
 

榎本健一/これが自由というものか(1954)
 

●以前、日本の反戦歌を投稿したことがあるが、今はこの時代よりずっと息苦しい空気を感じる。
 
 今は亡き忌野清司郎が約30年前に警告した原発の大事故が起こったにもかかわらず、のど元過ぎれば何とやらで、今や再稼働とか輸出とか、一体全体どうなっているのか。
 

RCサクセション/サマータイム・ブルース(1988)
 

ジローズ/戦争を知らない子供たち(1970年) 替え歌
 

 政治を変えるしかないね。
 
  

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