■浅草オペラ
第一次世界大戦後の好況を背景に、日本国内におけるオペラ、および西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たした。
「気がついてみると、彼女は初物ずくめだった。日本人バレリーナの第一号でポップス歌手のさきがけ。日本のモダン・ダンスの先駆者で現代社交ダンスの最初の紹介者、ミュージカル女優の最初。そして、なんと言っても徳子は浅草オペラの創始者であった」(「私がカルメン―マダム徳子の浅草オペラ―」(明治大学教授・曽田秀彦著、晶文社)
…カルメンが徳子か、徳子がカルメンか―。マダム徳子、彼女こそアメリカ仕込みのミュージカルを大正期の浅草に花開かせた人である。その徳子が、なぜ、浅草から追われぬばならなかったのか? 夫との愛憎の日々。演出家・伊庭孝との恋。興行師たちの黒い影。「問題の女」徳子は、懸命に歌い、力つきるまで踊り、狂乱のはてに巡業先の九州で逝く。28歳。波瀾にとんだ女優の生涯を克命に辿りながら、大衆文化わきおこる大正期の魅力を浮彫りにする。書下ろし力作ノンフィクション。(ナビブラ神保町参照)
浅草オペラの劇中歌である『コロッケの唄』や『おてくさん』が、従来の日本流行唄にはない西洋風のコミックソングとして若者に熱狂的な支持を受ける。
1923年(大正12年)9月1日、突如襲いかかった関東大震災により、浅草は壊滅的な被害を受け、大道具、小道具や楽譜類が消失、劇場も使用不能となった。浅草での上演は行えなくなり、旅興行や浅草以外での東京公演を行なった。
●榎本健一(1970年、65歳で没、写真)は、「日本の喜劇王」と呼ばれ、当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。
有名な『コロッケの唄』は、佐々紅華の「東京歌劇団」の『カフェーの夜』からのヒットであるが、帝劇の取締役であった益田太郎冠者こと男爵益田太郎が作詞作曲し、1917年(大正6年)に帝劇での女優劇『ドッチャダンネ』の公演で発表した洋風小唄『コロッケー』を佐々がリサイクル利用したものである。
なお、カレーライス・とんかつ・コロッケは大正の三大洋食と呼ばれている。
鈴木やすし・南地みつ春/コロッケの唄
1923年(大正12年)9月1日、突如襲いかかった関東大震災により、浅草は壊滅的な被害を受け、大道具、小道具や楽譜類が消失、劇場も使用不能となった。浅草での上演は行えなくなり、旅興行や浅草以外での東京公演を行なった。
1924年(大正13年)3月にはついに「根岸大歌劇団」は解散、花形歌手・田谷力三らが別の歌劇団を結成したり、上演内容が貧弱になったりしたため、大衆の関心が離れて集客力が低下、1925年(大正14年)10月の「浅草劇場」での『オペラの怪人』上演を最後に、「浅草オペラ」は消滅した。
■大正時代から昭和にかけて活躍したコメディアン
■大正時代から昭和にかけて活躍したコメディアン
浅草オペラで活躍したコメディアンではこの二人が挙げられる。
1919年(大正8年)に浅草オペラの「根岸大歌劇団」の俳優・柳田貞一に弟子入りし浅草・金竜館にて初舞台を踏む。
1922年(大正11年)3月20日、「根岸大歌劇団」がジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』を初演、そのコーラスでデビューしている。コーラス・ボーイとして所属し、佐々紅華の創作オペラ『勧進帳』などに出演。
徐々に頭角を現すが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって壊滅的な被害にあった浅草を離れ、当時流行の最先端であった活動写真(映画)の撮影所がある京都嵐山で喜劇的な寸劇を仲間らと演じていた。
この震災前後、エノケンは舞台で猿蟹合戦の猿役を演じたとき、ハプニングでお櫃からこぼれた米粒を、猿の動きを真似て、愛嬌たっぷりに拾いながら食べるアドリブが観客に受け、喜劇役者を志すきっかけとなったと言われる。
彼は、浅草時代からコロムビアの廉価盤「リーガル」レーベルや、ビクターに『モンパパ』などをレコーディングしていたが、1936年(昭和11年)にポリドール専属の歌手となり、多くの曲を吹き込んでいる。
当時、アメリカで流行し始めたジャズも取り入れ、『洒落男』『私の青空』『月光価千金』『エノケンのダイナ (曲)』など既に他歌手の歌唱でヒットしていた和製ジャズの流行歌を、自分のキャラクターにあわせカバー、『リリ・オム』『南京豆売り』『アロハ・オエ』など、外国曲を原詞とは全く関係の無いストーリーに沿った歌詞で歌いヒットした。
二村は徴兵検査を受けた後に上京して浅草オペラの高田雅夫に私淑。1920年、伊庭孝脚本による歌劇「釈迦」で初舞台を踏む。その後、「嫁の取引」「カルメン」「真夏の夜の夢」「地獄祭り」等に出演。地獄祭りは、ニッポノホンよりレコード化されている。
1930年(昭和5年)、カジノ・フォーリーの公演に参加して以来榎本健一と行動をともにし、同年一緒にプペ・ダンサントに加入、川端康成により新聞小説「浅草紅団」に紹介され、一躍大人気を博した。文才もあり俳優としての才能に富んでいた。
全盛期のステージは「古老から、名古屋公演のようすを聞いたことがある。「ソーニャ」の演奏に合わせて、舞台の袖からセーラーズボンで颯爽と歌いながら登場した二村定一はぞくぞくするほど格好よかった」(毛利眞人著「ニッポン・スウイングタイム」講談社)という。 レコード歌手としての活躍後はボードビリアンとして活躍した。
『洒落男』(しゃれおとこ、A Gay Caballero)は、1920年代末にLou Klein作詞、フランク・クルーミット作曲。日本では1930年に坂井透の日本語訳詞によって二村定一が歌ったものや榎本健一が歌ったものが知られている。
歌詞の内容は、田舎(原詞リオデジャネイロ、日本語訳詞では村)から都会(原詞では不明、日本語訳詞銀座)に出てきた若い男が店(原詞ではキャバレー、日本語訳詞カフェー)の女性を口説いていい雰囲気になるが、女性の亭主が出てきて男はボコボコにされる……と言うもの。原詞では片耳を亭主に齧り取られている。
そして、古川ロッパ。
「エノケン」のニックネームで同時期に活躍した喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を争った。
恰幅の良い体格にロイド眼鏡の丸顔がトレードマークのロッパは、華族出身のインテリらしい、品のある知的な芸風が持ち味で、小柄で庶民的かつ軽業芸も得意なエノケンとは違い、激しい動きは得意でなかったが、軽妙洒脱な語り口に加えて、生来の鷹揚さと朗々たる美声から来るいかにもお殿様らしい貫禄が大衆に好まれた。
1931年(昭和6年)ごろから数多くのレコードを残しているが、中でも軽妙なコミックソングを得意とした。代表作の『ネクタイ屋の娘』は作詞が西條八十、作曲が古賀政男という、歌謡曲の大御所2人による作品である。他にはナンセンスな『嘘クラブ』、小唄勝太郎と歌った『東京ちょんきな』などの民謡風、『明るい日曜日』などのパロデイ物、シリアスな『柄じゃないけど』(渡辺はま子と共演)、アニメの主題歌『潜水艦の台所』などがある。
続く。(Wikipedia参照)