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コミックソング【その3】

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 コミックソングは演奏方法や歌唱方で笑わせるもの、ものまね、ギャグ、ナンセンス、風刺、駄洒落、エロ、パロディと多岐にわたるが、共通するのは「どこかに『おかしみ』を感じる音楽」である。

 
レコード文化の到来、ラジオ放送の始まり
 
イメージ 1 1910年(明治43年)、日本初の国産蓄音機ニッポンノホンが発売される(写真)。1925年(大正14年)には、東京放送局(NHKラジオ第1放送)が開局。
 
 そして、昭和期になると「流行り唄をレコード化する」のではなく、「レコードから唄を流行らせる」ようになり、多種多様な唄が作られていく。
 
伝説のボーイズ第一号誕生
 
 ボーイズとは、演芸の一種で、楽器を使用した音楽ショウ。「ボーイズ物」や「ボーイズ芸」とも言われる。
 
 1937年(昭和12年)、伝説のボーイズ第一号・あきれたぼういずが誕生。
 
 歌に演奏に堪能なハイカラな芸風が好評を呼び、同年8月に川田義雄(後の川田晴久)坊屋三郎芝利英の兄弟、益田喜頓の4人で「第1次あきれたぼういず」を結成。
 
 テーマ曲は「チョイと出ましたあきれたぼういず、暑さ寒さもちょいと吹き飛ばし、春夏秋冬明けても暮れても、歌いまくるがあきれたぼういず」
 
 1939年春、人気絶頂のなか、川田を除いた3人が吉本新喜劇から新興キネマに移り、第1次あきれたぼういずは消滅する。
 
イメージ 3 新興に移った坊屋、芝、益田は山茶花究を加え、「第2次あきれたぼういず」を結成。「あきれた石松」「ダイナ競走曲」などのヒット曲を生み出す。194112月、太平洋戦争に突入後、ジャズは敵性音楽として禁止となり、音楽とセリフの面で厳しい制限をかけられる。グループ名も「新興快速舞隊」に変更する。
 

 終戦後、世間の期待により、1947年、戦死した芝を除き、浅草の松竹座でカムバックを果たす(写真)が、1951年に解散。以降、坊屋、益田、山茶花は、舞台、映画界、テレビで活躍することになる。

 

 一方、川田は新たに実弟の岡村龍雄頭山光菅井太郎(後に有木三多と交代)らと新生グループ「川田義雄とミルク・ブラザース」(乳兄弟の洒落)を結成し、引き続き吉本新喜劇で活躍していく。
 
イメージ 4 このミルク・ブラザース時代にレコード化された「地球の上に朝が来る」は川田のテーマソングとして、生涯オープニングテーマとして歌い続けた。 
 

川田晴久/地球の上に朝がくる
 

 川田義雄(1957年、50歳で没)は、病気療養後、1948年(昭和23年)川田義雄とダイナ・ブラザース」を結成して舞台に復帰、翌年には姓名判断によって「川田晴久」と改名。
 
イメージ 2 そして、彼に大きな出会いが待っていた。横浜国際劇場に出演した際に人気歌手小唄勝太郎に花束を渡す役として登場した当時11歳の少女・美空ひばり(1989年、52歳で没、写真)との出会いである。
 
 川田はひばりをそばに置いて可愛がり、多くの影響を与え、また、スターへの道を拓いた。専門家が二人の声紋鑑定をしたところ、音程の取り方を含めてほとんど同じ節回しで歌っているという結果が出ており、美空ひばりに対する川田晴久のその影響力は大きく、「芸能界の育ての親」と呼ばれている。ひばり自身も「師匠と呼べるのは父と川田先生だけ」と語っている。
 
美空ひばり・川田晴久/『鞍馬天狗巻頭の口上~角兵衛獅子の唄(1951)
 

テレビ開局
 
 1953年、NHK・日本テレビが相次いで開局したが、当初一流俳優などはテレビを「電氣紙芝居」として敬遠し、その結果それまで浅草公園六区や新宿などで活躍していた軽演劇の役者など、実力はあるが陽の目を見ず燻っていた者達がテレビの世界に飛び込んだ。
 
クレージーキャッツ
 
イメージ 5イメージ 6 1959年、フジテレビ開局と同時に始まった時事コント番組『おとなの漫画』は、本来本格的なジャズバンドであったハナ肇とクレージーキャッツ(写真)を起用。青島幸男(2006年、74歳で没、写真)の洗練された都会的なギャグで一躍市民権を得た。
 
 クレージーはこのあと日本テレビの『シャボン玉ホリデー』(1961年~1972年)で更に人気を増し、国民的なお笑いグループとして認知された。特にメンバーの植木等が演じる「無責任男」が高度経済成長を背景とした時流に乗り、大いに当たった。
 

植木等/ドント節(1962年) だまって俺についてこい(1964年)
 


音楽バラエティ番組
 
イメージ 7 『シャボン玉ホリデー』もそうだったが、この手の番組の嚆矢は同じ日本テレビの『光子の窓』(1958年~1960年)である。草笛光子(現在82歳、写真)を主役に起用したこの番組は、歌と踊りと笑いの全てを集約させた音楽バラエティであった。
 
 このあと、NHKが『夢であいましょう』(1961年~1966年)をスタート。渥美清E・H・エリック黒柳徹子などがコントを演じていた(作・永六輔)。

 草笛と黒柳は女性バラエティタレントの先駆者であり、黒柳は現在もなおバラエティ番組に出演し続けている。
 
演芸ブーム(お笑い第一世代)と、MANZAIブーム(お笑い第二世代)
 
演劇ブーム(お笑い第一世代)とは、1962年頃から1969年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。
 
 景気後退の中、番組制作費が抑制された各局は制作コストがかからず視聴率が取れる演芸番組に傾斜。また、視聴者の側も不景気による沈滞ムードの中、テレビに笑いを求めていた。
 
 NHKが「ジェスチャー」柳家金語楼を起用、全国区の人気に。三遊亭小金馬(現:4代目三遊亭金馬)・一龍齋貞鳳3代目江戸家猫八により「お笑い三人組」をスタートさせるなど、寄席芸人の進出が目立った。
 
MANZAIブーム(お笑い第二世代)とは、1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。
 
 演芸ブームの後、コント55号(のちに萩本欽一)・ザ・ドリフターズの2強時代となり、総じて東京発のバラエティー番組がお笑いの主流を占めていた。
 
 上記2組の間隙を縫って、せんだみつお桂三枝(現・6代目文枝)、伊東四朗小松政夫などが台頭してきたが、この手のバラエティー番組はほぼやり尽くされた感があり、全国ネットのテレビの笑いは一種の砂漠化現象となっていた。
 

イモ欽トリオ/ハイスクール・ララバイ(1981)
 


ザ・ドリフターズ/ミヨちゃん(1969年) ツーレロ節(1971年)
 

伊東四朗/電線音頭(1976年)
小松政夫/しらけ鳥音頭(1977年)
 

 その他コミックソングを。
 
森繁久彌/フラメンコかっぽれ
トニー谷/あんたのおなまえ何アンてエの
 

森山加代子/じんじろげ パイのパイのパイ
 



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