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コミックソング【その1】

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 いつの世にもコミカルな歌はある。
 
 去る1210日に冗談音楽を投稿したが、一般的にこれは「コミックソング」という。
 
 当ブログの第603話:ナンセンス・ソング集」、「意味不明の言葉の曲もコミックソングの範疇に入るだろう。
 
 しかし、コミックソングとそれ以外の曲との境界線は明確ではない。
 
 恣意的に「笑わせよう」という意図を織り込み作られた曲が多いが、真面目な楽曲として発表した曲が、後年の再評価によってコミックソングとして分類される場合もある。
 
 また、流行に便乗した安易なものから、音楽的に優れたもの、斬新なものまでいろいろである。
 
 なお「コミックソング」とは和製英語であり、英語圏では「ノヴェルティ・ソング(Novelty Song)」と呼ばれる。
俗謡が起源のコミックソング
 
 日本のコミックソングの起源は俗謡に遡ることができる。俗謡とは小唄端唄  民謡流行歌など、各地で市井の人々が通俗的に歌われる歌である。
 
 そしてそれは、明治時代になると軍隊工場の労働者学生の寮など地方から人々が集まる場所で唄われ、替え歌が作られるようになり、やがて全国的に広まる。
 
  『デカンショ節』『炭坑節』21世紀になってもカバーされる『ズンドコ節』八代亜紀『舟唄』で引用された『ダンチョネ節』は、俗謡を起源とする歌である。
 
デカンショ節は、兵庫県篠山市を中心に盆踊り歌として歌われる民謡であり、学生歌としても広く歌われた。篠山節、篠山デカンショ節ということもある。
 
 デカンショ節のかけ声の「デカンショ」については、デカルトカントショーペンハウエルの略であるという説や、「出稼ぎしよう」など、諸説ある。 
 
 
イメージ 1炭坑節は、福岡県田川市が発祥といわれる民謡。(写真は田川市にある炭坑節発祥地の碑
 
 炭鉱労働者によって唄われ、「月が出た出た月が出た、ヨイヨイ」のフレーズで知られる。
 
 この曲は、元々は春歌だったそうだが、戦後全国的に流行してから盆踊り唄として唄われるようになり、現在では盆踊りの最もスタンダードな楽曲として全国に広く浸透している。 
 
土取利行/デカンショ節
三橋美智也/炭坑節
 

 
ズンドコ節はもともと『海軍小唄』と呼ばれていて、軍歌のひとつといわれることもあるが、実際のところは戦地に赴く男たちの本音を歌う、1945年ごろに流行った流行歌のようなものである。
 
 作詞・作曲者が不詳であり権利上の問題が発生しないため、田端義夫ズンドコ節(街の伊達男)(1947年)、安城美智子鈴木一郎東京ズンドコ節1951年)、安城美智子田端義夫ズンドコ桜小林旭アキラのズンドコ節(1960年)、ザ・ドリフターズドリフのズンドコ節1969年)、氷川きよしきよしのズンドコ節2002年)など、多くの歌手によってリメイク版が製作されている。特に、ザ・ドリフターズのドリフのズンドコ節は150万枚を超える大ヒットとなった。
 
ダンチョネ節は、神奈川県三浦市三崎町発祥の民謡である。また、これをもとにした替え歌なども知られている。作曲者および作詞者は不明。端唄にもある。
 
 大正時代に流行したもので、その後軍隊で唄われるようになり、節を使って色々な替え歌が作られた。その中でも、飛行機乗りの悲哀を歌詞にしたもの(特攻隊節)が有名である。
 
 「ダンチョネ」とは、「断腸の思い」「漁師の掛け声」など語源が諸説あってはっきりしない。「団長さんもね」という意味だという説もある。あの偉くて、いつも真面目に訓示を垂れて説教をする団長さんでさえもね、ということである。民謡の場合は船乗りの悲哀を歌っている。
 
ザ・ドリフターズ/ドリフのズンドコ節(1969年)
小林旭/アキラのダンチョネ節(1960年)
 

壮士演歌
 
 明治時代に流行したものに壮士演歌がある。壮士節ともいう。
 
 壮士演歌は戦後の演歌とは全く違い、政治や世相を鋭く風刺した歌である。もとは自由民権運動を啓蒙するというまじめなものであったが、面白おかしく歌う者が出て流行する。
 
イメージ 2川上音二郎のオッペケペー節
 
 壮士演歌で最も有名なのは川上音二郎1901年、47歳で没、写真)の「オッペケペー節」である。
 
 オッペケペー節川上音二郎一座1900年(明治33年)に欧米興行を行った際にイギリスのグラモフォン・レコード社にて録音、SP盤で発売された。日本人によるレコード録音最初期の音であるために、この曲「日本最古のコミックソング」と定義される事が多い。
 
 彼は、民権思想の新聞記者として自由童子を名乗り、入獄10数回を数えた。政治的意見を表明すれば、すぐに弾圧される明治時代に音二郎は言いたいことをオッペケペーの歌詞の中でズバズバ言ったので、不満を感じていた民衆に爆発的な人気を博した
 
イメージ 4 彼の妻川上貞奴(1946年、75歳で没、写真)。「近代日本の女優第一号」といわれる。
 
 19世紀以前の日本の芸能・舞台は男社会だったが、1899年(明治32年)、川上音二郎一座が洋行中に、ふとしたきっかけで女性で初めて演劇の舞台に上がることになる。その後アメリカやヨーロッパなどの海外興行において、そのエキゾチックな日本舞踊と美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得たという
 
土取利行 ヒップホップリミックス/川上音二郎のオッペケペー節
「波瀾万丈記!音二郎と貞奴~二人三脚で得た挫折と栄光」
 
 

添田唖蝉坊と、長男・添田知道(添田さつき)
 
イメージ 3添田唖蝉坊(1944年、71歳で没、写真左は、神奈川県・大磯の農家の出身で、明治・大正期に活躍した演歌師草分け
 
 横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会うしかし、政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる
 
 彼が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、まっくろけ節ノンキ節ゲンコツ節チャクライ節新法界節新トンヤレ節と続く。
 
 まっくろけ節は、「まっくろ節」「まっくろけのけ節」とも呼ばれる。一般的な音頭のようなリズムを持ち、1980年代のバラエティ番組「オレたちひょうきん族」において、タケちゃんマン7のライバルとして登場した「妖怪人間知っとるケ」のテーマソング、『しっとるケ音頭』の原曲として用いられた。また、三菱のボールペンのCMソングとして、北島三郎が替え歌を歌っていた。
 

まっくろけ節
オレたちひょうきん族/しっとるケの攻撃
 
 
 
 
 添田唖蝉坊の演歌への姿勢が大きく変わったのは社会主義者、堺利彦との出会いからである。
 
 「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくったラッパ節が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。
 
 1905年、社会党機関誌「光」にラッパ節の替歌が掲載されていたのを唖蝉坊がみつけ、その歌詞に興味を持ち、堺を訪ねた折、社会党のための「ラッパ節」を依頼されて作ったのが「社会党ラッパ節」。この時、唖蝉坊は堺利彦の人間性と社会主義思想に惹かれ、以来党員となって歌と演説で活動する。
 
 世は日露戦争の暗雲がたれ込め、社会主義者への国家の弾圧が続いていたが、唖蝉坊は立て続けに下層労働者の歌を作り続けて行く。
 
 この時期、1906年(明治39年)に彼が作った歌はすべて発禁歌となった「社会党ラッパ節」「嗚呼金の世」「ああわからない」「あきらめ節」等。しかしこれらは今の世でも多くの人の心を動かす歌の力がある。(「土取利行・音楽略記」参照)
 

社会党ラッパ節(1906年)
新社会党ラッパ節
 
 
 
 
添田唖蝉坊の長男として東京に生まれ、父の演歌を受け継ぐと共に「小説 教育者」などを残した作家・添田知道(1980年、77歳で没、写真右)は、添田さつきの芸名で演歌師となり、「パイノパイノパイ」などの流行歌を作り出す。 
 
 パイノパイノパイ東京節ともいう。大正8年(1919年)にリリース。
 
 元々のメロディーは、ヘンリ・クレイ・ワークによって作曲された「ジョージア行進曲」(Marching Through Georgia)で、この曲はアメリカ南北戦争時のウィリアム・シャーマン将軍の海への進軍の様子を描いている。これに添田が歌詞をつけた(資料によっては作曲者が添田知道(添田さつき)や神長瞭月とされていることがある)。
 
 日本では原曲の「ジョージア・マーチ」よりも「パイノパイノパイ」でメロディーが知られたため、ブラスバンドがジョージア行進曲を演奏したところ、卑俗な歌を演奏するとはいかがなものかと苦情が来たというエピソードもある。
 
 1940年(昭和15年)、街頭演歌の衰退に伴い文筆に専念。「日本春歌考」(1960年)は、大島渚監督の同名の映画の着想の元となった。また、浅草・浅草寺の境内鐘楼下には、父・唖蝉坊の碑と知道の筆塚がある。

大工智弘/東京節(1919年)
ザ・ドリフターズ/ドリフのバイのバイのバイ(1976年)
 

 続く。(Wikipedia参照)
 

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