何気なくYouTubeを見ていると、懐かしいテレビ番組「知ってるつもり?!」(1989年~2002年)があり、1992年7月5日に放送された「中村久子」という特集に目が止まった。
彼女は「日本のヘレン・ケラー」と呼ばれているそうだが、全く聞いたことのない名前だ。
最初は興味本位だったが、次第に食い入るように映像を見てしまった。
32分間、感動で涙が止まらない。
自分は何と甘えた人生を送っているのだろう。
明治~昭和期の興行芸人、作家。両手・両足の切断というハンデにも拘らず自立した生活を送った女性として知られる。
2歳の時に左足の甲に起こした凍傷が左手、右手、右足と移り、凍傷の影響による高熱と手足が真黒に焼ける痛みと苦しみに昼夜の別なく襲われた。
3歳の時にこの凍傷が元で特発性脱疽となる。手術すべきか否か、幾度となく親族会議が行われたが、決断を下さないうちに、左手が手首からポロリと崩れ落ちたという。その後右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかとから切断する。幾度も両手両足を切断し3歳の幼さで闘病生活が始まる。
7歳の時に、父・栄太郎がこの世を去る。さらに不幸は続き10歳の時に弟の栄三とも生き別れをした。そんな激動の生活の中、彼女を支えてくれたのは祖母ゆきと母あやであった。祖母と母の厳しくも愛情のある子育てのお蔭で、久子は文字や編み物を出来るようにまでなった。
1916年、20歳になった久子は地元高山を離れ、上京し横浜市などで一人暮らしを始めた。
後に結婚し、富子(次女、1924年生まれ)らを儲けて、祖母の死や夫の死(結婚3年後の29歳で没)という不幸に見舞われながらもくじける事なく、子供たちを養い気丈に働き続けた。
1930年、32歳の時、彼女の人生に大きな転機がやってきた。
座古愛子は、首から下が動かない重度の障害者だったが、神戸女学校の購買部で、寝たきりでも働いていた。この健気な活躍が評判となり、雑誌にも紹介されてそのことを知り、久子は愛子に会いに行った。
久子は、神々しく光り輝く愛子に釘づけになった。神を恨み、両親を憎み、不自由な体に不満を抱く自分とは違い、愛子はすべてを感謝して生きていることを知るのだ。
久子はその時口を使って作った日本人形をケラーに贈った。ケラーは久子を「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛した。
翌42歳の時、福永鷲邦に出会い、「歎異抄」を知る。
彼女の50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。
久子は講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨む言葉も無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。
幾度もの苦難を乗り越えて自分で生き抜いてきた久子は次の言葉を残している。
「良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は両手、両足のないこの体でした」
「『無手無足』は、私が仏様から賜った身体です。この身体があることで、私は生かされている喜びと尊さを感じています」
「逆境こそは本当に私の恩寵(おんちょう)だったのでございます」
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ」
その映像を。
彼女の人生は、「生きる!! 中村久子物語」という映画になった。