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はじめての演歌

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 日本語は厄介な言語だ。はっきりした定義が無く、曖昧な言葉が多い。
 
 それは、音楽の世界でも言えることで、第814話:歌・唄・詩で紹介したが、「恋・愛(Love)「青・蒼・碧(Blue)、歌・唄・詩」(Song) の区別はつきにくい。
 
 流行歌歌謡曲演歌の違いも資料によって微妙に定義が違う。
 
イメージ 1 流行歌=歌謡曲としてみると、流行歌は昭和初期、相次ぐレコード会社の設立SPレコード(写真)の誕生を抜きにしては語れない。
 
イメージ 2

 朝日新聞10月13日号の特集記事「はじめての演歌」(左写真)によると、島倉千代子「この世の花」1955年)でデビューした時も、北島三郎「なみだ船」62年)や都はるみ「涙の連絡船65年)がヒットした時も、ジャンルとしての演歌はなかった。「現代用語の基礎知識」への初登場は1970年版。割と新しい概念だ。
 昭和初期、大衆音楽の世界は、レコード各社の専属作家が活躍。外来音楽に、端唄や都々逸)などの日本的音楽要素を交配させては新しい音楽を生み出し、それらはおしなべて「流行歌」という名の大きな風呂敷に包まれていた。
 
 ただ戦後の高度成長で人々の生活様式や価値観が急変。音楽でもグループサウンズフォークなどが登場した。結果、地方への郷愁を歌う「田舎調」(曲例「達者でナ」)や「浪曲調(同「王将」)、夜の巷で歌われた「流し歌」(同「お座敷小唄」)などが入った風呂敷が相対的に古くなった。
 
 音楽評論家北中正和さんは「発展を支えた人々の一部はそんな変化に戸惑い、一昔前に懐かしさを覚えた」と指摘。「その思いをすくう形で、流行歌の一部が『演歌』の名でジャンル化した」。
 
 それは明治期の自由民権運動下で活躍した壮士が、路上で歌って演説した演歌とは別物だ。
 
イメージ 3 とりわけ、ジャンル形成に大きな役割を果たしたのは作家の五木寛之(現在82歳、写真だ。大衆音楽史に詳しい大阪大学の輪島裕介准教授は、五木の66年の小説「艶歌」を取り上げ、「五木さんは、特に哀調を帯び、貧しさや不幸を強調した流行歌の塊を『艶歌』と再定義。そこに日本人のイデンティティーがあると肯定してみせた」と話す。
 
イメージ 5 作品では「庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う」のが艶歌だとし、「艶歌を無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しない」と登場人物に語らせた。その3年後には、五木の理念を体現するかのような歌手藤圭子(2013年、63歳で没、写真がデビューし、すごみのある歌声で人気を博した。
 
イメージ 6イメージ 7 さらに「五木さんの理念は70年代以降、レコード会社やメディアによって『日本の心を歌う伝統音楽』に変化し、『演歌』と表記されて広がった」と輪島准教授。五木ひろし(66歳、写真左石川さゆり(58歳、写真右らスターも誕生。また、ぴんから兄弟のように、過剰なこぶしや、保守的すぎる女心を歌うスタイルもこの頃登場し、現在まで定着している。
 
イメージ 8 演歌誕生から約40年。聴き手の高齢化、CD不況……。演歌を取り巻く状況は厳しい。2000年代に氷川きよし(37歳、写真人気があったが、レコード会社関係者は「80年代のカラオケブーム以降、素人でも歌える水準の曲ばかりが作られ、音楽性がワンパターン化した。内容も酒や女ばかりで……」と、演歌が縮小再生産される状況を嘆く。
 
イメージ 9 一方で、石川さゆり椎名林檎から曲提供を受けたり、八代亜紀(64歳、写真がジャズを歌ったりと、近年、変化も起きている。行き詰まりを見せる演歌界が、多彩な音楽性を有していた演歌誕生前夜に回帰する動きと言えないか。
 
 と、締めくくっている。
 
イメージ 4


 代表的な演歌を聴いてみよう。
 
森進一/ひとり酒場で(1968年)
都はるみ/大阪しぐれ(1980年)
 


藤圭子/圭子の夢は夜ひらく (1970)
石川さゆり/津軽海峡冬景色(1977年)
 


八代亜紀/雨の慕情(1980年)
五木ひろし/倖せさがして(1980年)
 


 いろいろ聴きたい曲はあるけど、我慢我慢。

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