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ブログの投稿頻度について

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 一時に比べブログ投稿が減ってきた。その理由は、体力集中力が衰えてきたからである。今は、毎日(と言っても、週5日間だが)の仕事で体力が消耗し、それ以外のことにエネルギーを使う気力が湧かない。そして、歳のせいか集中力が不足してなかなか筆が進まない。

 実は、ネタに困っていることはない。それだけにもどかしい思いが募る。

 ブログを始めて約8年半の投稿数の推移を調べてみた。この表が月別投稿数の全データだ。

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 最初の5年間ぐらいの最盛期は一日一作のペースで作成したこともあった。60歳から65歳のときである。

 8年もブログを続けていれば紆余曲折はある。パソコンは2回壊れたし、病気の手術も2回ある。

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 左図月別投稿のデータだ。

 こじつけかも知れないが、投稿数の変化は仕事の忙しさに関係しているような気がする。

 もっとも、前述のようにPC不調病気というアクシデントでブランクの時期もあったので、このデータだけで即断はできない。
 昨年の2016年はパソコンが壊れたり、結果的には退職したが、会社のことでいろいろあったので投稿数が減っているのだと思う。

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 ところで、「ネタに困っていることはない」などと偉そうに言ってみたが、現在仕掛状態のテーマは50数作もある。それがなかなか世(投稿)に出ないのだ。

 いくつかの例を挙げてみる。

明治維新

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 6/21にアップした
明治政府の誕生【その1】戊辰戦争の続編のテーマについては「廃藩置県」を考えていて、以前、図書館で2冊の本を借りたので、それを参考に投稿するつもりでいたが、いまだ実現していない。

 写真左は、高野澄「廃藩置県物語」(2001年、新人物往来社)

 写真右は、勝田政治『廃藩置県「明治国家」が生まれた日』(2000年、講談社選書メチオ)
電機業界、東芝

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 6/24にアップした
オーディオ業界の行方の続編として、「電機業界の行方」「東芝」を考えていた。

 これも、図書館で借りた本やネットを参考に投稿するつもりでいる。

 「電機業界の行方」については、福井晋「最新電機業界の動向とカラクリがよ~くわかる本」(2012年、秀和システム、写真)。

 もう5年前に刊行された本だが、逆に、そのおかげでこの5年間の予想もしなかった電機業界の激変ぶりがよくわかる。

 ちなみに、投稿予定のために作った資料、家電量販店の推移表」は次の通り。

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 「東芝」については、今も予断を許されないほど渦中にあるが、なぜこの大事件が起きたか、興味は尽きない。

 写真左は、今沢真「東芝不正会計底なしの闇」(2016年、毎日新聞出版)

 写真右は、今沢真「東芝終わりなき危機「名門」没落の代償」(2016年、毎日新聞出版)

 東芝の危機は続いていて目が離せない。自分も電機業界の端くれにいたので関心は深い。

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お酒

 「お酒」については当ブログでは何度も投稿してきたテーマだが、8/15の酒の肴、8/27もう深酒はムリの続編。6月から値上がりしたビールと、次の本がネタだ。
  
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 お酒に絡む本は、
なぎら健壱著の「酒(しゅ)にまじわれば」(2010年、文芸新書、写真左)を始め、抱腹絶倒ものが多いが、「せんべろ探偵を行く」も酒好きにはたまらない。

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 2004年、神戸市内でおこなわれた三上寛、あふりらんぽのライブに飛び入り参加。終演後に三上寛と酒を酌み交わし別れた後、飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫のため亡くなったという、最後までお酒との縁が切れなかった、作者の中島らも(52歳で没、写真)。小堀純寺田英視共著「せんべろ探偵を行く」2003年、文藝春秋、写真右)。

 ちなみに「せんべろ」とは千円でべろべろになるほど飲める店のことである。
ダニーボーイ続編

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 8/18の
ダニーボーイ(Danny Boy)では、もう随分前(2013/1/20)投稿の久世光彦のマイ・ラスト・ソングの中で、彼のエッセイ集「マイ・ラスト・ソング」(文芸春秋社)の中の第4作に「ダニー・ボーイ(写真)があることが気になっていた。
 
1.「マイ・ラスト・ソングーあなたは最後に何を聴きたいか」(1995年)
.「みんな夢の中ーマイ・ラスト・ソング2」(1997年
3.「月がとっても青いからーマイ・ラスト・ソング3」(2001年)
4.「ダニー・ボーイーマイ・ラスト・ソング4」(2004年)
5.「マイ・ラスト・ソング最終章ーマイ・ラスト・ソング5」(2006年)

 これについては、先日図書館で借りて読んだが、ダニーボーイについての言及箇所は短く、少しがっかりした。
 健康

 健康も当ブログでの大きなテーマの一つだが、朝日新聞8月15日号「長生き、健康に暮らしてこそ 生活の質、維持するために」という記事が面白かったので、これを元に投稿したいと思っている。(画像)

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 このほか、いろいろ投稿したい記事はあるが、体力、時間と相談しながら、これからも出来るだけ長く続けていきたい。

 ただし、今日は休日だが、これから出かけるので本日の投稿はムリかも知れないネ。



認知症サポート講座受講

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 認知症というテーマでは過去2回投稿したことがある。認知症(2016.1.21)と、認知症対策(2017.6.10)である。

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 一昨日の9/3(日)、認知症を学び地域で支えよう」認知症サポーター養成講座)というテーマで、約1時間、東京都の、ある区役所の担当の方の説明による講座に参加した。
写真はその教材)

 これは、マンション管理人が集まる会社主催の研修の一環だったが、仕事として考えるだけではなく、個人的にも大切な情報で、とても参考になった。
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 その教材の巻頭に、こんなことが書かれてある。(下線、赤字は筆者・私が付けたもの)

わが国の重要課題です

 尊厳をもって最期まで自分らしくありたい。これは誰もが望むところですが、この願いをはばみ、深刻な問題となっているのが「認知症」です。

 いまや老後の最大の不安となり、超高齢社会をつき進む日本にとって最重要課題の一つになっています。

ひと事ではありません

 認知症は誰にも起こりうる脳の病気によるものです。

 認知症の人が記憶障害や認知障害から不安に陥いり、その結果まわりの人との関係が損なわれることもしばしば見られ、家族が疲れ切って共倒れしてしまうことも少なくありません。しかし、周囲の理解と気遣いがあれば穏やかに暮らしていくことは可能です。

まずは正しい知識をもつことから 

 誰もが認知症についての正しい知識をもち、認知症の人や家族を支える手だてを知っていれば「尊厳ある暮らし」をみんなで守ることができます。
 実は、「認知症」は祖母も患い、身近な問題だった。

祖母の死はもう56年も前のことだ。自分が小6のとき、大みそかの日に布団の中で亡くなった。そのとき、こたつの熱さで小さなやけどを負っていた。

 自分が末っ子だったせいか祖母に可愛がられ、幼いころ近くの線路の近くまでおぶられて汽車が走るのを見に行っていた思い出が今でも残っているが、晩年は認知症がひどくなり、冷蔵庫の中をあさったりしていた。

 その症状を見て、みんな気持ち悪がっていた。自分もその「一味」だった。それでも、身内の死を見るのは初めての経験だったこともあり、亡くなったときは大きなショックだった。

 何であんなに優しくしてくれた祖母にそんな態度を取ったんだ、どうしてもっと大切にしてあげなかったのか、悔いて悔いて泣いた。泣きはらした後、疲れて寝ると、夢の中で祖母が枕元に立っていた。

は、26年前、84歳で亡くなった。ずっと床に伏せていたわけではない。急性心筋梗塞だった。それでも、もう何年か前から認知症になり、言ったことをすぐに忘れ、同じ言葉を何度も繰り返していた。
 
 正直なところ少し煩わしかった。家族は程度の差こそあれ、面倒くさがって邪険な態度をとっていた。
 
 ところが、亡くなったあと偶然「父の日記」を見つけた。父は几帳面な人だった。亡くなる直前の日記に驚くべきことが書かれてあった。ー「自分は孤独で寂しい」
 
 「認知症」で言葉は不明朗でも、意識はしっかりしていたのだ。
 
 自分は葬式の間じゅうこのことばかり考えていて、人目もわきまえず号泣していた。父が感じていた男の寂しさ、どうしてそんな気持ちを理解できなかったのか、気遣ってやれなかったのか。悔いばかりが残った。 祖母のときの学習効果は全く生かせなかった。

 しかし、言い訳をすれば、そのときはどう対処したらいいか分からなかったのだ。
 前述の講義では、そのことについて真正面から取り組んでいる。

認知症の人への心得”3つの「ない」”

1.驚かせない
2.急がせない
3.自尊心を傷つけない

 この3番目自尊心を傷つけない」に注目をした。

 そして

「認知症の本人に自覚がない」は大きな間違い 認知症の症状に最初に気づくのは本人です。

認知症の人は何もわからないのではありません。誰よりも一番心配なのも、苦しいのも、悲しいのも本人です。

「私は忘れていない!」に隠された悲しみ

 という言葉にも思わず唸った。
具体的な対応の7つのポイント

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1.まずは見守る すぐに近づきすぎたり、ジロジロ見たりするのは禁物
2.余裕をもって対応する 自然な笑顔で応じる
3.声をかけるときは1人で 複数で取り囲むと恐怖心をあおりやすい
4.後ろから声をかけない 一定の距離で、相手の視野に入ったところで声掛け
5.相手に目線を合わせてやさしい口調で 体を低くして、目線を相手の高さに合わせる
6.おだやかに、はっきりした話し方で 早口、大声、甲高い声でまくしたてない
7.相手の言葉に耳を傾けてゆっくり対応する 相手の反応を伺いながら会話をする
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 DVDを使って具体例の説明があった。なる程、これだったのかと、今更ながら「目から鱗が落ちた」。

 ネットで調べると、認知症サポーター」の養成活動が活発化しているそうで、右図の通り、平成29年 6月30日現在、企業・団体型認知症サポーター数は全国で435,873人、キャラバン・メイト数 13,050人もいるという。(「認知症サポーターキャラバン」
 最後に、一番知りたいこと。「認知症は防げるか」

 講師の話によると、90歳になると90%は認知症になるとのこと。そして、健康な人がある日突然、認知症になるということはない。

 中核症状としての認知症はなかなか防げないが、次の図にある行動・心理状況(BPSD)は治る可能性があり、生活するのには支障を無くすことが出来るという。

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 それには、「他人と接触して、社会との接点を保つ」ことで、「脳の活性化を図る」ことに尽きるそうだ。

 人により方法は違うだろうが、自分は、「働く」ことでその予防を図っている。

 前述の研修では、百数十人が参加し、みんな60歳以上、最高齢では85歳で働いている人もいたようだ。

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 フライドチキンを世に知らしめたカーネル・サンダース(1980年、90歳で没、写真)のことが頭をよぎる。

 彼は、65歳のころ一文無しだった。車掌、機関士、保険セールスなどどれも長続きせず、給油所は倒産、カフェは焼失した。

 65歳を過ぎて自慢のチキン調理法を教える商売を始め、大当たりした。

 「65歳までに手に入れたことを結集すれば新しいスタートが切れる」

 90歳で亡くなるまで働き続けた彼の言葉だ。

 「さび付くよりすり切れる方がましだよ。じっとしていてさび付くより身を粉にしている方が好きなんだ」
 健康だから働く、働くから健康になる。ーどちらでもいい。

 幾つまで働けるかは分からないし難易度は高いけれども、出来れば人の助けを借りないで、働き続けて人生を終えたらいいなと思っている。


銀のさら CM/母と子


小野薬品工業CM/ばあちゃんの世界





電機業界の盛衰【その1】

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 電機業界は「乾電池から人工衛星まで」といわれるほどすそ野が広く、家電、重電、OA機器、半導体など、電気で動く製品は全てその事業領域である(図)

 その市場規模は80兆円、そこで働く労働者数は56万人で、前者は他の業界と比較しても、断トツ。それを支える後者も、他の業界よりもかなり多く、電機業界は産業の中でもトップクラスの規模を誇る。【電機業界研究】「現状」「今後の動向・将来性」

 ちなみに連結従業員数は、1位:トヨタ自動車、2位:日立製作所、3位:パナソニック、4位:日本郵政、5位:住友電気工業、6位:日本電信電話、7位:ホンダ、8位:ヤマトホールディングス、9位:キヤノン、10位:東芝と、トップ10に電機メーカーが4社もある。(日本で一番大きい会社が分かる従業員数ランキングTOP10【連結・単独】

高度経済成長の立役者・電機業界

 日本の戦後の驚異的な高度成長を支えてきた最大の功労者は、まぎれもなく電機メーカーだった。

 その高度経済成長期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から、1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間だといわれている。

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 日本の高度経済成長のはじまりの1954年12月から神武景気」と呼ばれ、1957年6月まで続いた。

 1950年~1953年における朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたためだ。

 この好景気によって日本経済は戦前の最高水準を上回るにまで回復し、1956年の経済白書には
「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。
 
 1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実行の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだ。

 この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。

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 1960年代〜1970年代初頭には1964年東京オリンピック(写真左)の開催や、1970年に開催された大阪万博(写真右)どによる特需もあった。

 1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き、戦後、焼け野原で何もないところから世界第2位経済大国まで上り詰めたというのは世界的に見ても例が無く、第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」(Japanese miracle)と言われた。(Wikipedia参照)


三種の神器

 当時、電機業界の王者ともいえる「総合電機メーカー」は、日立東芝三菱御三家だが、一番身近だったのは、前3社を含め、松下電器(現:パナソニック)、三洋電機シャープ日本電気などの「家電メーカー」であった。

イメージ 3 1950年代後半、家電メーカーを牽引した商品はテレビ洗濯機冷蔵庫という「三種の神器」だった。(画像)

イメージ 2 すでにスーパーや家電量販店もあったが、まだまだ地元の大手家電メーカーのショップ店の方が強く、電気製品は主にそこで買っていた。写真は、ナショナル(現:パナソニック)・ショップ】
 
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 西岸良平のマンガ「三丁目の夕日」そのものの、古き良き時代であった。(画像) ところが、2000年、大規模小売店舗法が改正、全国各地の郊外にショッピングセンターや総合スーパーが矢継ぎ早に建設されるようになり、古くから続く商店街の多くの客足が落ち、その多くがシャッター通りとなった。もちろん、電気店も例外ではなかった。

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 余談になるが、昨日(9/9)自分の通勤路である東京世田谷区桜新町でお祭りがあった。ここは積極的に町おこしをしていて、サザエさん通りの商店街はいまだに健在、総出でお祭りに参加していた。(写真)2017 桜新町 ねぶた祭 - 桜新町商店街

 自分の住んでいる町は大型スーパーが乱立し、確かに買い物には便利がいい。しかし、同時に多くの物も失ったような気がして感傷に耽った。自分にとっては桜新町の方が居心地よく、住みやすい町だ。

 なお、「三種の神器」のうち、一番普及が遅かったのは冷蔵庫である。
テレビの普及

 「三種の神器」のうち、思い出が一番深いのは、何と言ってもテレビであろう。

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 テレビの本放送開始は1953年だった。テレビの初体験は一般的に街頭テレビだろうが、田舎に住んでいたためそれはなく、隣のお金持ちの家に行って見ていた。今から思えば図々しい話で、今の若い人には信じられないことだろう(写真)

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 記憶に残っている番組は、戦争で負けた宿敵アメリカの選手を得意の空手チョップでバッタバッタとなぎ倒す力道山(1963年、39歳で没、写真左)の「プロレス中継」や、月光仮面」(1958年~1959年、写真中央)、快傑ハリマオ」1960年~1961年、写真右)などだった。 映像快傑ハリマオ」主題歌(三橋美智也:歌)


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 その後、総合家電メーカーの市場参入による量産効果で低廉化し、1958年の
東京タワー竣工(写真左)と、1959年の皇太子ご成婚(写真右)境に急速に普及したテレビは、1962年に受信契約数が1,000万件を突破、1964東京オリンピックでその勢いはさらに加速した。

イメージ 11 初めてテレビを買ったのがいつかは忘れたが、電気店が持って来た日のことは覚えている。東京オリンピックの前だったことは間違いない。(写真)

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14インチ(対角線の長さが35センチ)程度の画面なので、それを大きく見せようとする拡大鏡(写真)を画面の前にセットしていた。

 それから、親子や兄弟のテレビチャンネル権の争奪戦が始まった。

 当時はこんな番組が人気だった。まだまだ洋画のテレビ映画が主流の時代だった。(映像「ララミー牧場」主題歌(デューク・エイセス:歌)

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日本のバラエティ番組は、現在NHKで9月2日から8回予定で放送の「植木等とのぼせもん」(土曜日20:15~20:45)の世界だ。(写真)

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 映像「夢であいましょう」坂本スミ子:歌)。NHKTVで、1961年から1966年の5年間、毎週火曜日(のち土曜日)夜10時台に生放送されたバラエティ番組。司会の中嶋弘子(写真)が番組冒頭で上半身を右に傾けてお辞儀をおこなう挨拶は、話題になった。

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洗濯機の普及

 洗濯機については思い出が深い。
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 子どもの頃、母が近くの小川で洗濯板たらい(写真)を使い、石鹸をゴシゴシ衣類に塗って洗濯をしていた。今から思えば、寒い冬の日など大変だっただろう。
 
イメージ 16 それでも、桃太郎伝説に出て来るおばあさんの洗濯(画像)には洗濯板はない。まだそのときは「しぼり洗い」でもっと大変だったに違いない。

 それが1954年にしぼり機が洗濯機に付いた「ローラー式洗濯機」が発売され、1960年にローラーを無くした「遠心式洗濯機」、1972年に洗濯としぼりの層を分けた「二層式洗濯機」、1977年に「全自動洗濯機」、1987年に全自動と乾燥機がセットになった「全自動乾燥洗濯機」と発展を重ねた。(下図)

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 そして、1960年代半ばの「いざなぎ景気」の時代には、カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) の3種類の耐久消費財が新・三種の神器(画像)として喧伝された。これら3種類の耐久消費財の頭文字が総てCであることから、3Cとも呼ばれた。

 中でも普及が早かったのは1964年の東京オリンピックを境に売れ出したカラーテレビで、一番遅かったのはクーラーである。
電機業界の変遷

△1940年代後半から1950年代は「町工場から世界へ」 現在を代表する電機メーカーが次々と産声を上げた時代。

△1950年代は「『電化』の基礎となる時代」 戦後の混乱期を乗り切った電機業界は、家電分野を先導役に、新しい成長への始動が始まった。

△1960年代は「『電化』が進んだ時代」 高度経済成長が家電製品の普及や、日用品・食品の流通革命を促した。これらが、女性の家事負担を軽減し、社会進出に突破口を開いた。

△1970年代は「『電子化』が進んだ時代」 電機業界の黄金時代。経営的にも「計画経営」から「戦略経営」へ転換した画期的な時代だった。

△1980年代は「国際化が進んだ時代」 海外生産が過熱、業界の国際化を一挙に促した。

△1990年代は「経営問題噴出の時代」 販売不振と国債競争力低下に悩まされ、それをきっかけに経営改革が一挙に進んだ。

△21世紀の幕開きと共にデジタル化という電機業界の新しい進化時代が始まった。電気製品は今後、ユキピタス社会*のインフラに進化していくものとみられている。

*ユビキタス社会とは「いつでも、どこでも、何でも、誰でも」がコンピュータネットワーク、インターネットを初めとしたネットワークにつながることにより、様々なサービスが提供され人々の生活をより豊かにする社会である。福井晋「電機業界の動向とカラクリがよ~くわかる本」参照)
電機メーカーの業績推移

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 かつて電機産業は自動車と並ぶ日本の中核産業だった。国内で生産されるラジオ、テレビ、ビデオレコーダーや半導体は世界市場を席巻し、輸出立国の礎となった。しかし2008年に起きたリーマン・ショックを境に二つの産業は明暗をくっきり分けた。
 
 自動車はさらなるリストラと海外展開を加速。トヨタ自動車は一時、米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜いて販売台数で世界一に躍り出た。マツダ、スバル(旧富士重工業)といった中堅メーカーも元気だ。

 ところが電機は海外市場で韓国サムスン電子中国メーカーに押され、スマートフォンやパソコンといったデジタル機器でも白物家電でも半導体でも、さっぱり稼げなくなってしまった。それでも立ち直っている会社もあり、必ずしも構造的不況業種とは言えないのではないか。

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 大西康之「東芝解体 電機メーカーが消える日」 (2017年、講談社現代新書、写真)という物騒なタイトルの書籍による各企業に対する評価は以下の通り。

 東芝:待ち受ける”廃炉会社”への道、NEC:通信自由化時代30年を無策で過ごした、シャープ:台湾・ホンハイ傘下で再浮上、ソニー:脱エレクトロニクスで見えてきた光明、パナソニック:「車載電池」「住宅」の次に目指すもの、日立製作所:「技術の日立」を過信し、消費者を軽んじた、三菱電機:実は構造改革の優等生?、富士通:進取の気性を失い、既得権にしがみつく
テレビ業界

 NHKの行った「国民生活時間調査」によると、日本人のテレビ視聴時間は平均4時間、日曜日は5時間以上、世界で最もテレビを見る時間が長いのは日本人。かつて「家電の王者」と呼ばれたテレビ受像機の生産も撤退を余儀なくされている。前表に記しているが、現在国内メーカーでは東芝三菱パナソニックソニーシャープ5社のみである。

 薄型テレビの国内生産は、2010年の25分の1に。テレビ放送とテレビテレビ受像器(中見と器)の動きは、対照的。 (経産省)によると、ここ数年の「薄型テレビ」の生産・出荷指数の推移を見ると、2010年第4四半期をピークに急落しており、2012年第3四半期以降、ほぼ底打ちの横ばい状況。2016年第4四半期では、2010年を基準の100とした場合、生産は4.1と約25分の1、また、出荷は13.6と約7分の1と、生産・出荷規模ともに著しく低下している。

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 国内生産が海外生産に切り替わりつつあるのも確かだが、輸入も加味した総供給指数が、2010年の盛時から10分の1に減少しており、テレビの国内市場自体が大きく縮小している。
携帯電話・スマホ業界
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過去、あれほど多くのメーカーが参入した、携帯電話・スマホ業界だが、右図の通り、今年富士通が撤退し、今やシャープソニー京セラ3社だけとなっている。(図)

イメージ 27 2016年の国内携帯電話端末の総出荷台数は前年比3.0%減の3,606万台となり、2012年から4年連続で減少した。しかし、スマートフォン出荷台数は2,942万台で2年連続の増加となり、2012年の3,042万台に次ぐ過去2番目の出荷実績となった。

 2016年のメーカー別出荷台数シェア1位は2012年以降5年連続でApple(シェア54.1%)となった。以下、2位はソニーモバイル、3位:京セラ、4位:シャープ、5位:富士通の順となった。(グラフ)2016年国内携帯電話端末出荷概況 MM総研)

パソコン業界

 2011年にNECが中国・レボノ社と合弁企業を設立して、日本単独のパソコンメーカーは、東芝富士通2社だけになった。

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 2016年の国内パソコン市場の総出荷台数は前年比0.8%減の1,008.5万台、出荷金額は前年比0.3%減の8,714億円となった。

 個人・法人別に市場動向を見ると、個人市場向けの出荷ルートである「個人系ルート」は、前年比9.3%減の401.5万台となった。企業・官公庁向けのメーカー直販と販売店販売を合計した「法人系ルート」は前年比5.8%増の607万台。2015年に発生した大幅減に歯止めがかかった。

 メーカーシェアはNECレノボがシェア25.7%で首位となった。2位の富士通は、シェアが0.9ポイント増加している。日本HPが1.5ポイントシェアを増加させ、順位も前年4位から一つ上げた。

 市場拡大の追い風材料として、官民を挙げての取り組みとなりつつある働き方改革等がある。モバイル等を活用したリモートワークや在宅勤務など多様な働き方を支える端末としての役割がパソコンに期待されている。また今後、2020年に予定されているWindows7のサポート終了を見据えて大手企業を中心に徐々にWindows10搭載機への入れ替えが進んでいくと考えられる。2016年国内パソコン出荷概要 MM総研)

半導体業界

 一口に「半導体」といっても範囲が広い。WSTS(世界半導体市場統計)の分類によると、次表の通り。

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 2016年の半導体メーカー別売上高ランキング(IHS Markit調査)はの通り。同社の報告によると、世界半導体市場は前年を2%上回り、3524億米ドルに成長した。

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  なお、1位の
インテル(米)は、パソコン向けプロセッサー最大手。2位のサムスン電子(韓)は、DRAM、NAND型フラッシュメモリー最大手。3位のクアルコム(米)はスマートフォン向けプロセッサー最大手。4位のブロードコム(米)は、通信用半導体最大手。5位のSKハイニックス(韓)は、DRAM世界2位、NAND型フラッシュメモリー世界5位。6位のマイクロン・テクノロジー(米)は、DRAM世界3位、NAND型フラッシュメモリー世界4位。7位のテキサス・インスツルメンツ(米)は、アナログ半導体最大手。8位の東芝(日)は、NAND型フラッシュメモリー世界2位。

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 グラフでみる半導体産業(半導体産業人協会)
 日本の半導体デバイスの世界シェアは今では12〜13%しかない。部門別で世界のトップを走っているのはソニーのCMOSイメージセンサー、東芝のフラッシュメモリ、三菱電機のパワー半導体、日亜化学のLED、ルネサスの車載マイコンのせいぜい5つだ。最も重要なシステムLSIはまったく太刀打ちできないし、DRAMメーカーはもはや日本に存在しない。
 グラフでみる半導体産業(半導体産業人協会)によると、

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 半導体での成長分野・フラッシュメモリ(写真)を持つ東芝の売却先は日本の将来にとっても重要な問題だ。まだ迷走は続いている。

 続く。

電機業界の盛衰【その2】

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 前作、電機業界の盛衰【その1】で、日本の電機メーカーのうち主に家電メーカーの盛衰について言及したが、今回はその販売チャンネルの推移について述べたい。(次表)
 
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地域家電店

 地域家電店は、単純に電器店」とか、大半の店が電機メーカーと特約店契約を結んでいるので、メーカー系列店」と言われていたが、今では、街の電器屋さん」(パナソニックは「あなたの街のでんきやさん」)と呼ばれている。

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 1960年代の電化ブームを背景に地域密着型のサービス力で急成長した地域家電店は、まず、松下電器産業(現:パナソニック)が1957年、ナショナルショップを創設、メーカーの系列店化が進んだ。(写真)

 しかし、1980年代に入り、消費者の多様なニーズに対応するため、製品のラインナップが増加すると、小さな店舗では一部の製品しか展示できなくなり、品ぞろえの豊富な家電量販店に顧客が吸収され、さらに1990年代はパパママストアと呼ばれた地域家電店の高齢化や後継者難もあり、衰退を余儀なくされた。

 全国電機商業組合連合会(全国電商連、ZDS)によると、沖縄県を除いた全国46都道府県・2万6,000店の系列電器店の約7〜8割に当たる1万8000店パナソニックショップであり、他社系列店数を大幅に圧倒している(残り8,000店日立チェーンストール東芝ストア三菱電機ストアシャープフレンドショップソニーショップなどの系列店)。

 家電量販店が大量に安く売ることをセールスポイントとしているのに対し、地域家電店は「アフターサービスの良さ・きめ細かさ」をセールスポイントにしていて、「家電のホームドクター」として電球や蛍光灯の交換といった軽工事や修理にも幅広く気軽に応じてくれるお店手として生き残りを図っている。
家電量販店

 家電量販店は、1960年代、東京・秋葉原や大阪・日本橋の電機製品卸売業者が小売業に業態転換して生まれた。

 1968年には日本電気大型店協会(NEBA)1972年に日本電気専門大型店協会として加盟社79社で設立。時代と共に加盟店の取り扱い品目が多様化したことなどから、1995年に日本電気大型店協会に名称を変更した。最盛期の1975年には93社を数え、2000年には加盟各社合計で2兆円を超える売り上げを計上した。

 しかし、北海道は
そごう電器、東北はデンコードー、名古屋はエイデン、大阪は上新電機、中四国はデオデオ、九州はベスト電器といった具合に、共存共栄を掲げ過激な安売り競争を避け、互いの商圏への出店にも消極的だったため、1990年代以降「北関東のYKK」と呼ばれたヤマダ電機コジマケーズデンキと、ヨドバシカメラビックカメラといった、現在業界をリードしている非NEBA加盟社に押され、相対的にNEBAの地位は低下していった。

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 「電気の街・秋葉原」(写真)は、第一家庭電器、アジア無線、サトームセン、シントク、ステップ、ナカウラ、新栄電気産業、ヒロセムセン、カクタ、ソフマップ、丸善無線電機、松波無線、ミナミ無線電機、ロケット、T-ZONE、九十九電機、石丸電気も倒産や、吸収合併などで名前も無くなった。 老舗の大手は、オノデンラオックスぐらいだが後者は2009年に中国・蘇寧電器傘下となった。

 そして、NEBAの役割に疑問を持った加盟社の相次ぐ脱退や、近年の家電量販業界の再編などで、2004年には加盟社は30社にまで減少。NEBAは「一定の役割を終えた」として2005年8月末をもって解散、33年の歴史に幕を下ろした。


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 その後の家電不況が家電量販店の再編の背中を押し出した。ビックがコジマを買収したのに続き、7月にはヤマダ電機がベスト電器を買収した。現在は、ヤマダ電機(写真)ビックカメラヨドバシカメラエディオンケーズホールディングス(HD)ノジマ上新電機の7グループに再編されている。(前表)

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  家電量販ダントツトップのヤマダ電機の2017年3月期の連結業績はの通り。

 売上高は約1兆5,631億円(前年同期比96.9%)、営業利益は約579億円(同99.5%)、経常利益は約660億円(同105.3%)、当期純利益は約345億円(同113.6%)で減収経常増益。

 それでも、家電量販店が安泰というわけではない。その最大の敵は「ネット通販」である。

 他には、家電量販店以外のお店の台頭、スマホによる家電の集約化、加速する家電離れ、家電メーカーの不振、家電市場の成熟化、売り方の不満による顧客離れ、大量離職による人手不足などがある。

ネット直販

 現在7割を占める家電量販店の店舗販売シェアだが、「今後20年以内に35%にまで下がる。代わりに、1割程度のネット販売の比率は45%程度まで上がるのではないか」という声がある。
ネット販売が店舗販売を上回る時代がやって来るというのだ。

 日本の家電業界が抱える課題とはずばり「コモディティ-化」である。「製品に企業ごとの個性が無くなり、価格以外に差がない状態になる」ことです。パソコンや冷蔵庫や洗濯機等の白物家電、腕時計などがコモディティ-化した製品の代表例として知られている。

 そうなると、増々買い物はネット通販のアマゾンやヤフーショッピング、楽天市場などでするという人が増えて来る。

 店で商品を選び、その場でスマートフォンなどを通じ安くネットで買う人も増えている。日本の家電市場でネット通販が占める比率は2014年、初めて10%を超えた。米国では25%に達し、今年、家電量販2位の企業が経営破綻した一因になった。
 続く。


不倫政治家

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 近々安倍内閣は「大義なき解散」を行うようだが、その理由の一つに、不倫疑惑で離党した山尾志桜里議員(43歳、画像)と、その他の議員の離党騒ぎで民進党の支持がさらに減り、自民党に有利だからだという。

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 これって、森友・加計疑惑の究明が進めば致命傷になることを証明したようなものだ。

 そして、総選挙後に難題が山積していることも示唆している。これ以上支持が減り、総辞職に追い込まれる前に議席を確保しておこうという魂胆だ。
 9月18日の世論調査 山尾議員に厳しい回答(フジテレビ)によると、『FNNが、17日までの2日間実施した世論調査で、不倫疑惑報道で民進党を離党した山尾志桜里議員について尋ねたところ、「離党は妥当だ」と「離党の必要はなかった」と答えた人はそれぞれ2割台(「離党は妥当だ」26.5%、「離党の必要はなかった」28.8%)で、「議員辞職するべきだ」4割(41.1%)と最も多い結果だった。7割を超える人が、山尾氏は、説明責任を果たしていないとの認識を示した(説明責任を果たしていると「思う」18.7%、「思わない」76.2%)。前原氏が代表に就任した民進党に、「期待する」と答えた人は2割台(25.2%)。7割の人(70.4%)が、「期待しない」と答えた。民進党の支持率は、1割も満たない状況が続いている』

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 とあり、「議員辞職するべきだ」4割(41.1%)あるのには驚いた。

 自民党議員の今井絵理子氏(33歳、写真)と比べても、厳しすぎる世論ではないか。山尾議員に対して疑惑が発覚したとき、身内の民進党議員から離党どころか、議員辞職を求める声が出たのにも驚いた。民進党が有能な党内の議員を守れないことも、世間の支持を得られない理由の一つだ。 

 また、男性議員の「身の下事件」には甘すぎるのに対し、あまりにも大きな差があるのではないか。
 安倍首相は国連総会に出かけ、帰ってから解散のことを発表するともったいぶって答えていたが、飛行機のタラップに上がっている、下写真の二人の姿が気になった。

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 その一人はもちろん、安倍昭恵夫人(55歳)だ。

 インドでの来訪歓迎パーティの席でも、モディ首相の前でミーハーのように、スマホをパチパチして顰蹙を買ったようだが、よくこんなところに出て来れるなと思った。(画像)

 もう一人は、不倫は文化?【その1】国会議員の不倫 でお伝えしたが、安倍首相を影のように寄り添っている不倫ではないが買春疑惑西村康稔内閣官房副長官(54歳)である。
 人の不倫なんてどうでもよいと思っていても、なぜか気になる他人の「不倫」。しかし、不倫を正当化すると世の中のバッシングに会う。

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 他人の不倫が、なぜこうも気になるのか。

 東京大大学院の瀬地山角(せちやまかく)教授(ジェンダー論)によると、浮気が即離婚につながる米国に比べ、日本は浮気がばれても離婚しない夫婦が多く、「浮気しても結婚が続くので不倫が目立つ」という。

 一方、日本人には「性関係は夫婦内に限定すべきだ」という規範意識が強い。「不倫が起きやすいのに、不倫に厳しい。だから不倫に注目が集まりやすい」という理屈だ。

 彼は、「不倫は犯罪ではなく、本来は当事者間で解決する問題」 有名人だからといって、社会が『制裁』すべきでない」とも言っている。

 どうやら、芸能人や政治家の不倫は「イメージを裏切った罪」があるようだ。それが、ここまで断罪されることなのかな、とは思う。
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「不倫」は、古くは「姦通」「不義密通」というおどろおどろしい言葉だった。法律上は「不貞行為」という。

 右画像は、江戸時代、不義密通により公衆にさらされる男女『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より。(1867年作)

 近代に入って、「浮気は男の甲斐性」などと既婚男性が未婚女性と不倫にいたる限り、容認する風潮が長く続いていた。当時既婚男性が未婚女性を愛人に持つことは容認されても、既婚女性が浮気をすることは容認されないとされており、既婚女性が不倫に及んだ場合1947年までは男女とも姦通罪という罪に問われた(現在の日本の法律では刑事的責任を問われることはない)。

 単に夫や妻のいる男性や女性が男性・女性(既婚・未婚は不問)とデートするなどの浮気で、相手方の合意があれば犯罪行為とされないため、刑事罰に問うことはできないが、道義的に問題のある行為であり、その代償は非常に大きい。しかし犯罪でないとはいえ、家庭や友人関係を一気に崩壊させる危険をはらみ、経済的・精神的に深刻な打撃を受け、社会的信用はもとより、自身の社会的な基盤すらをも失う可能性がある。(Wikipedia 参照)

 その後、
「浮気」「よろめき」とも呼ばれてきた。
「よろめき」三島由紀夫のベストセラー小説「美徳のよろめき」1957年)に由来する。これは映画化、テレビドラマ化され、以来、お昼のテレビ番組は「よろめきドラマ」が支配していた。
 

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 「よろめき」
「不倫」という言葉に変わったのは、TBSドラマ「金曜日の妻たちへ」1983年)からだ。1980年代を代表する不倫ドラマと言えば「金妻」の略称でも知られる『金曜日の妻たちへ』(写真)シリーズである。放送日の金曜夜10時には主婦が電話に出ないとまでいわれるほど大ヒットした。

 今や「よろめき」は、ほぼ死語になっている。
 

 不倫はSNS携帯電話・スマホの普及でむしろ増えている。そして、その不倫の大半は職場で発生している。ストレスが多く、利益の上がらない不規則な激務が続く状況ではなおさらだ。


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 不倫の当事者への取材を18年間続け「人はなぜ不倫するのか」(2016年、SB新書、写真)などの著作のある亀山早苗氏に話を聞いた。

 
-今井氏は一線を越えていないと言い、斉藤(由貴)は当初、不倫を否定した。山尾氏は、男女関係はないとした。一連の当事者の発言を聞いて、どう感じたか

 亀山氏 何を不倫の「一線」としているのかによります。ダブル不倫のある主婦は、性交類似行為までと言う。避妊具の有無と言う人もいる。一線は千差万別です。裁判では、ホテルに一緒に入る写真を探偵に撮られたら、不貞行為があったとみなされる。いわば「みなし一線越え」です。真実は、当事者2人にしか分かりませんが。

 -不倫では、肉体関係は大きな要素ですか

 亀山氏 ものすごく。不倫相手に求めるものは男性が肉体、女性が恋といわれてきたが、今は逆転している。男性が心のつながり、女性はまず肉体。不倫中の女性たちに、彼がED(勃起不全)になったらどうすると聞くと「会ってる意味がない」と言います。

 -18年間取材してきた中で、変化はありますか

 亀山氏 ここ7~8年で、結婚と恋愛は別という考えが広がった印象がある。スマートフォンの発達が大きい。どこでも男女がつながれる。もはや、不倫助長ツール(笑い)ですが、逆に不倫が発覚しやすい背景でもある。あるアプリは、外部からスマホを遠隔操作できる。キスの自撮り画像も流出してしまう。

 -傾向として、多い世代は

 亀山氏 40代半ばです。子どもに手が掛からなくなり、ふっと自分を見つめ直す。特に女性は更年期を前に焦る。再び社会に出る人もいて、そこに恋愛も入ってくる。欲望に正直なバブル世代でもある。既婚者の恋愛は、結婚という目標がなく、子どもみたいに「邪念」がないとも言う。だから50代でもパンツかぶっちゃう(笑い)。欧州には、「恋は子どもを大人にし、大人を子どもにする」という格言がある。

 -人はなぜ、不倫をするのでしょう

 亀山氏 本能では求めるのが、人の本性ではないか。結婚に縛られていることに、社会的な意味を感じる人には抑制が働きますが、あまり感じない人では「本能」が上回るのではないでしょうか。

 -不倫自体を否定も肯定もしない理由は

 亀山氏 人間にとって一番大事なのは、自己判断の自由です。法を犯さない限り、自由を最大限尊重したいから、良くも悪くも何も言わない。

 -不倫報道が多いですね

 亀山氏 男と女がいれば、不倫は一定数あるもので、昨年来、報道が増えているのだと思います。「ゲス不倫」と言っても、ゲスなのは大衆で、不倫報道は注目される。私も見ちゃいます。ただ、この流れが続けば、密告社会みたいで怖いとも思う。ただ、不倫は誰にでも起こりえます。する人は、マメに秘めること。別にお勧めはしませんが(笑い)。しない人は、うかつに手を出さないことです。痛い目に遭いますから。(聞き手・清水優)
 では、どのくらいの男女が浮気・不倫をしているのだろうか。

 昨年(2016年)、「ゲス不倫」の流行語大賞のノミネートや、今年の漢字のトップ10に「不」と「倫」の文字が入るなど、何かと世間を騒がせた不倫問題だが、ジェクスの最新の調査によると、下表の通り、不倫をしたことがあると回答したのは男性:37.0%、女性:24.4%、現在不倫をしていると回答した人は、男性:13.2%、女性:7.0%となっている。

 10人に一人は現在「不倫」をしているのだ。

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 ハームリダクション」(harm reduction)という言葉がある。Wikipediaによれば

 「個人が、健康被害や危険をもたらす行動習慣(合法違法を問わない)をただちにやめることができないとき、その行動にともなう害や危険をできるかぎり少なくすることを目的としてとられる、公衆衛生上の実践、方略、指針、政策」を指す。

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 性評論家の坂爪真吾氏(35歳、写真)によると、不倫を防止するには、分散多角化代理満足ツールがあるという。

 自分の殻に閉じこもらず、職場以外のコミュニケーションにも属し、複数の人間関係を築いていく。

 一つ一つの関係は肉体を伴った不倫ほど深くはないけれど、小さなぬくもりは得られる。そうした関係をいくつ持っていられるか、それが不倫ワクチンの一つになるのではという。
 山尾志桜里議員は説明責任も不十分だったが、誰が見ても逸材であることには変わりない。議員を辞める必要などない。捲土重来を期待している一人だ。

安井かずみⅡ

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 2年前(2015年)の6月30日から導入された、YAHOO!ブログ「アクセス解析」(図)をいつも楽しみにしている。

 アクセス解析では常連のブログと、直近に作成したブログが日々のベスト10を占めているが、ときどきオヤと思う題材が加わることがある。

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 9月20日のアクセス解析は左表の通りだが、赤丸で囲っているのは、いつも訪問が多いブログだ。

 オヤッと思ったのは8位の、第854話:日本の女流作詞家 その2 安井かずみである。

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 今、図書館で借りて読んでいるのが、たまたま、安井かずみ(写真)に関する次の本だったからである。



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 安井かずみ本人は、1994年、肺がんのため55歳で逝去したが、その17年後の2011年に、文筆家の近代(こだい)ナリコ氏(写真左)が、彼女の過去の著作を編集した「たとえば好き たとえば嫌い 安井かずみ アンソロジー(河出書房新社、写真右)である。

アンソロジー(anthology)とは、通例、特定のジャンル(文学分野)から複数の作品をひとつの作品集としてまとめたものを指す。多くの場合、主題や時代など特定の基準に沿ったものが複数の作家の作品から集められる。俳句・短歌・詩を集めた句集や歌集・詩集のみならず、小説や漫画などの同人による作品を収めた同人誌、更には卒業文集もアンソロジーである。また、同一著者個人の作品集を指すこともある。
 2011年の10月に、次の日本の女流作詞家の特集を行ったことがあった。

 第一回は岩谷時子(当時95歳)、第二回は安井かずみ、第三回は有馬三恵子(当時年齢不詳)、第四回は山口洋子(当時74歳)、第五回は阿木燿子(当時66歳)、第六回は竜真知子(当時59歳)、第七回は三浦徳子(当時年齢不詳)だった。(写真)

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 あれから6年、岩谷時子は2013年10月25日 97歳で没、山口洋子は2014年9月6日 77歳で没と、その中の2人を失った。三浦徳子は今でも年齢不詳だが、残る阿木燿子72歳、竜真知子65歳、有馬三恵子は82歳になった。
 今回はせっかく本を読んだので、それを参考に 第854話:日本の女流作詞家 その2 安井かずみのリニューアル版、安井かずみⅡを作成し、投稿することにした。過去のブログと重なる部分があるのはお許しいただきたい。

 まずは、彼女の年表を作ってみた。

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作詞家になるまでの安井かずみ

 安井かずみは愛称をズズ(ZUZU)、初期のペンネームはみナみカズといった。

 彼女の幼いころはひ弱で内向的な性格の上、友達もいなく、いつも家で油絵を描いていたおとなしい子供だった。

 そして、戦中の生まれなのに戦争の混乱をほとんど知らない、食糧の不足も経験しない。

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横浜の郊外の裕福な家庭のもとに生れ、大人たちに守られ、中学から日本で一番古い(1870年創立)ミッション系の女子校であるフェリス女学院(写真)に入学した。

 そのエキゾチックで自由な土地柄と、フェリス女学院で勉強した語学力が後の人生に大きく影響した。文化学院で油絵を学び女流画家を目指していたことも作詞活動に役立った。

 油絵と作詞のどちらも「自己表現」の場であることに変わりはなかった。

 横浜育ちのおくての彼女が東京の文化学院に入学すると、都会の学生たちの華やかな様子に目を見はった。やがておしゃれに目覚め、油絵に没頭し、恋に熱中し、女性としての自覚を持つようになる。

恋の経験が作詞家としての安井かずみのスタート

 彼女が19歳、女子大生になったとき、初めて生身の男性に恋された。それも当時21歳か22歳の学院のプリンスと言われる人に。そのときは恋される困惑感の方が強く、いつか恋に関わりあうなら、自分が恋をする恋でありたいと思った。

 それでもすぐにそのときはやってきた。20歳、油絵の個展を開こうとしていたころ、女友達の誕生パーティに招かれ、ある学生にひとめ惚れした。それが「初恋」だった。

 彼は多くの特技と趣味を持っていた。スキー、ゴルフ、テニス、自動車の運転、ナイトクラブ、ギター、ロマンチックなレストラン、パーティ、射撃等。たくさんの友人がいて、その輪を広げ、角度を変え彼女は彼の横にくっついてすべての楽しみを習った。シティ・ライフを教わり、恋愛を味わった。

 ギターと歌がうまかった。雨の日は家で一日中音楽と遊んだ。それが彼女に一つの世界をひらめかせてくれた。

 ある日、ヤマハ楽器店にラフマニノフピアノの楽譜を買いに行った。そこでは、何人かの男たちがアメリカン・ポップスの訳詞に苦しんでいた。

 英語にも堪能だったので、翻訳のためのアイデアを口にしたところ、アルバイトで訳詞をやってみないかと言われ、引き受けたのが彼女の「アルバイト第一号」だった。

 譜面は読めるし、その位の英語は得意、そして彼氏の影響で、歌詞という言葉群に心魅かれている時期だった。こうして、最初の仕事となったのは、坂本九が歌って大ヒットすることになるエルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」の日本語版だった。

 彼女が訳詞した英語の主な曲は、花はどこへ行った」、「ヘイ・ポーラ」、「レモンのキッス」、「ドナドナ」など。訳詞の代金は1曲3千円だった。

 こうして21歳で訳詞家としての仕事を始めた彼女に次なるチャンスが巡って来る。訳詞のセンスの良さに気付いたNHK「きょうのうた」のディレクター・林叡作が、番組で使う曲の作詞を依頼。こうして、1964年、初の作詞曲「おんなのこだもん」が誕生することになり、中尾ミエが歌いヒットすることになる。それが文字通り「作詞家への第一歩」だった。

 こうして作詞家として仕事を始めた彼女は、後の述べるキャンティ」で親しくなった渡辺美佐を通じて、渡辺音楽出版にマネージメントを任せ、渡辺プロ所属の歌手を中心に詞を書いて行くようになり、作詞家としての量産体制に入る。伊東ゆかり「歌をおしえて」ザ・ピーナッツ「キャンディー・ムーン園まり「何も云わないで」などが大ヒットする。

 1965年、伊東ゆかり「おしゃべりな真珠」第7回日本レコード大賞・作詞賞を受賞し、一気に大物作詞家の仲間入りを果たすことになる。

安井かずみ訳詞/ドナ・ドナ(1966年)


 ちょっと脇道にそれそうだが、「自分は恋愛が出来ない」とみなす人間が世の中に4割ぐらいいるという。

 そんな人にとってはうらやましいほどの恋をした安井かずみにとって「恋」は、切っても切り離せないもののようだ。 

 それが本当の恋なのか、自己確認や、自己愛、アイデンティティーのための物語を自分で作っているだけで、寂しさを紛らわすための「ロマンス中毒」に罹っているのかは分からない。

 しかし、感受性が高いことはそれだけ多くの苦悩を抱えることになる。一見華やかに見える人生は多くの出会いと失恋を繰り返す挫折の連続だったが、皮肉にもその経験が作詞家の扉を大きく開いてくれたのだ。ー幸福感に満ちた人はいい仕事は出来ない。
岩谷時子との比較

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 当時は少なかった女性作詞家の先輩である
岩谷時子(写真)とは、歳の差こそ23歳も違うものの、活躍するフィールドが極めて近かったこともあり、何かと比べられることが多いが、恋愛観の違いが歌詞に表れているようだ。

 時として少女の様な無邪気な目線で美しい情景を描く岩谷の詞に対して、彼女の詞には男女の恋愛における心理がよりリアルに表されている。郷ひろみでいえば、少年時代は「男の子女の子」のように岩谷が、大人になりかけの青年期には「よろしく哀愁」のように、彼女が郷の魅力を存分に引き出すことに成功した。

 語学力、特にフランス語の語学力を生かしたシャンソンの訳詞でも切磋琢磨した。サルバトーレ・アダモ「雪が降る」などは訳詞が重なった。

 岩谷は、「愛の讃歌」、「ラストダンスは私に」、「ろくでなし」、「サン・トワ・マミー」など、越路吹雪に提供した曲が多い。

 フランス語では「アイドルを探せ」、「オー・シャンゼリゼ」など。フランス語ではないが、「サマー・ホリデー」、「ヘイ・ポーラ」、「レモンのキッス」、「リリー・マルレーン」も彼女が訳詞した。
安井かずみの曲黄色の網掛けは今回紹介の曲)

 安井かずみが作詞した曲は、次の通り作曲家も多彩で、彼女の広い交友関係を物語っている。1994年3月17日、一年に及ぶ闘病生活の後、約4,000曲の詞と33冊のエッセイ集を残しこの世を去った。

宮川泰スクールメイツ 若いってすばらしい、園まり 何も云わないで
平尾昌晃伊東ゆかり 恋のしずく、朝を返して、アグネス・チャン 草原の輝き、小柳ルミ子 わたしの城下町、お祭りの夜)
村井邦彦辺見マリ 経験
筒美京平(浅田美代子 赤い風船、幸せの一番星、郷ひろみ よろしく哀愁、The Three Degrees にがい涙)
加瀬邦彦沢田研二 危険な二人
馬飼野康二西城秀樹 激しい恋ちぎれた愛、和田アキ子 古い日記)
小林亜星(シモンズ 明治チェルシーの歌)
加藤和彦(竹内まりや 不思議なピーチパイ、飯島真理 愛・おぼえていますか、広田玲央名  だいじょうぶマイ・フレンド
浜圭介千葉紘子 折鶴

http://music-calendar.jp/2016031701、Wikipedia参照)
園まり/何も云わないで(1964年)You Tube


伊東ゆかり/恋のしずく(1968年)


辺見マリ/経験(1970年)


小柳ルミ子/わたしの城下町(1971年)


千葉紘子/折り鶴(1972年)You Tube


沢田研二/危険なふたり(1973年)


西城秀樹/激しい恋(1974年)


安井かずみが巡り逢った人

加賀まりこ

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 後に親友になった加賀まりこ(現在73歳、写真)と最初に会ったのは初夏の軽井沢の林の道。木漏れ陽の万平ホテルへ続く道で、彼女のクルマ、オレンジ色のロータス・エラン写真*彼女の車と同一ではない)と加賀の乗っている馬がすれ違うとき、お互いの目が合った。

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 目が合って、笑顔ともつかない表情をお互いにした。同い年ぐらいの女の子同士は、似たようなパリ好みのTシャツを着て、きれいな軽井沢の光を浴びて、出会った。

 映像でも紹介した「わたしの城下町」(1971年、歌:小柳ルミ子)は、安井かずみ:作詞、平尾昌晃:作曲の大ヒット曲だが、実はこの「城下町」についてはどこなのか特定されていない。これについては面白い逸話がある。

 担当者として小柳ルミ子のデビューを狙っていた、当時ワーナー・パイオニアの駆け出しディレクターだった塩崎喬は、自分が少年時代に過ごした「飛騨の小京都」飛騨高山のイメージを作詞家の安井めぐみに伝えた。

 しかし、彼女は街並みが好きで足しげく通っていた京都・先斗町を想定していた。歌詞は親友の加賀まりこの前で、20分程度で書き上げたという。

 なお、作曲の平尾昌晃は1968年12月から1年間結核療養で諏訪湖を望む長野県・岡谷市の病院に入院していた。2度の手術を経た69年春から外出を許されるようになり、諏訪で温泉につかって、食事をしたあと、何度か復興中の高島城に立ち寄った。東京から遠い信州で病気療養の日々を送るうちに、信州の美しい四季に囲まれて、日本の自然や故郷の温かみを初めて意識した。退院直後に手がけた小柳ルミ子のデビュー曲はこの特別な場所をメロディーにしたいと思っていた。

 一方、歌手の小柳ルミ子は福岡の実家の近くの大濠公園を勝手に想像して歌っていたという。関係者にはそれぞれ心に思い描いた「町」があり、それが大きく違ったのだ。(朝日新聞土曜版be「歌の旅人」)
キャンティの女主人

 今も残っている、東京・六本木のはずれにある飯倉片町のイタリアン・レストラン「キャンティ」は、1960年代、日本の文化・芸術の最先端をゆくアーティストたちが集まる場所として有名なお店だった。(図)
 
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 資産家で彫刻家でもあった「タンタン」(イタリア語で「おばさん」)と愛称で親しまれた川添梶子(1974年、46歳で没、写真)がオープンさせた伝説の店で店名はキャンティ・ワインにちなむ。(彼女の祖父は明治維新で活躍した後藤象二郎 

 上流階級だけでなく芸術家にも顔が広い彼女の店には、様々な階層、年代の人々が集まっていた。

 黛敏郎、今井俊満(画家)、村田豊(建築家)、三島由紀夫、川端康成、黒澤明、岡本太郎、小澤征爾らの大御所たち。日野皓正、村井邦彦、沢田研二、ムッシュかまやつ、コシノ・ジュンコ、加賀まりこ、内田裕也、伊丹十三から村上龍、松任谷由美などの若手。イヴ・サンローラン、サルバドール・ダリ、フランク・シナトラ、ピエール・カルダン、シャーリー・マクレーン、マーロン・ブランドなど海外の大物たち。

 オープンしたてのキャンティに出入りするようになったのが、安井かずみにとって「初の東京社交体験」であり、東京のイメージの全てだった。

 店全体が日本最先端のライフスタイル提案型のショップだったこの店に、同世代の友人であるコシノ・ジュンコ加賀まりこらと入りびたり、それぞれのジャンルにおける最高峰の人々と付き合うようになって行った。

 当時、六本木に通う若者たちのことは「六本木族」と呼ばれていた。彼らはファッション・音楽など1960年代のサブカルチャーの先端をゆく「キャンティ族」として有名になり、キャンティは背伸びしたい年頃の若者が一度は訪れてみたい「伝説のレストラン」となった。

 安井かずみは女主人のタンタンに心酔していた。

 第一に、彼女の美しさに圧倒されていた。

 イヴ・サンローランの服を着ること、イタリア料理を教え込んだのも彼女だった。

 日仏英伊語を話せるように、努力したのも、彼女がそれら各国語を話せたからだ。

 しかし、彼女は強烈な印象を残したまま、1974年にこの世を去った。
サルバトーレ・アダモ

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 サルバトーレ・アダモ(現在73歳、写真)は1960年代、フランスを始めとしてヨーロッパで一世を風靡していた歌手だ。

 安井が初めてアダモの歌を聴いたのはパリのオランピア劇場だった。

 その歌声に打たれ、以来ファンとなり彼の全てのレコードを買ったほどだ。毎日そのレコードを聴いては、空で歌えるほどだった。

 奇しくもその次の年、アダモが日本公演のため来日した。

 フランス語は日本ではまだ解る人が少ないので、公演の何曲かの詞を日本語にして歌いたいというアダモと主催者の意向があり、その仕事が彼女のところに回ってきた。

 アダモの驚きと喜び、彼女のファン熱とはほぼバランスが取れていた。アダモはそのとき、日本公演の選曲まで任せてくれた。

 彼の膨大な数のオリジナルから数曲を選んで、日本語に訳したが「雪が降る」はその中の一曲だった。日本公演は大成功に終わった。

 翌年、再び公演のために来日したとき、彼にはそっちのけで、同行してきたパリの有名なカメラマンと恋に落ちた。

 1969年からパリに暮らしをしたが、カメラマンの彼と別れ、この生活は孤独との闘いだった。そこで寂しさを紛らわすために電話したのが、アダモだった。
?
 彼は優しく、そのとき日本語版のレコーディングを頼まれたのが、以前来日したとき訳詞したことのある「雪が降る」(Tombe la neige)だった。

サルバトーレ・アダモ/雪が降る(日本語版)(1963年)


加藤和彦

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  1975年12月21日、原宿のライムライトで彼女にとって6冊目となるエッセイ集「TOKYO人形」の出版記念パーティーで彼女は加藤和彦と出会った。

 その前にも会ったことがあるが、ミカさんという奥さんがいたので手を出さなかった。離婚のことはこのパーティーの席上で知った。

 3度目のデートの後、彼が転がり込み1年半に渡る同棲生活が始まった。

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 1976年の加藤初のソロ・アルバム「それから先のことは」(写真)で彼女はずべての作詞を担当し、ここから彼女は他の歌手の作詞を断るようになり、主婦業と加藤作品での作詞のみを行う新たな人生をスタートさせる。この決断に周囲はとまどい、人間関係、友人関係がここで大きく変化することになった。

 
フォーク時代から加藤との付き合いがあった吉田拓郎
によると、加藤和彦というのは全くダメな男だという。雑誌では、ヨーロピアナイズされた粋な男のように書かれているけど、彼に言わせると、むしろ鈍臭くて、女からみて魅力を感じるような男ではなかったという。自分よりも先を歩いてくれる女についていくしかないような男であり、そういうダメな加藤が安井を選ぶのはわかるが、歴戦の兵(つわもの)のような彼女が、なんで加藤のような頼りのない男を選んだのかさっぱりわからなかったという。安井の友人にも結婚に反対する声が多かったという。

 1977年、二人は渋谷の本多記念教会で結婚式を挙げる。こうして、仕事を夕方には終えると、夕食用に着替えて二人で毎晩、正装して食事を共にする生活が始まった。

 「芸能界一のオシドリ夫婦」と言われたその結婚が本当に幸福なものだったのか?そこに疑問をもつ人もいたようだ。彼女と共に青春時代を歩んできた友人のコシノ・ジュンコや加賀まり子は、結婚により家にこもってしまった彼女の変化に不満を覚えていた。

 しかし、17年続いた「理想の夫婦生活」は、二人が老いるまで続かなかった。1992年ごろ、身体の不調を訴えた彼女が病院で検査を受けると、悪性の肺がんであることが発見され、余命は1年もないと宣告されたのだ。

 最後の一年、彼は仕事をすべてやめ、愛妻のためにすべてを捧げた。当時、彼女は保険に入っていなかったらしく、医療費はかなりの高額になったようですが、夫は彼女のために最高の医療環境を用意した。しかし、この負担が後に、夫の経済状況を追いつめる原因になったともいわれている。

 ところが、1994年彼女の死の翌年の1995年に夫の加藤は一年後にオペラ歌手中丸三千繪と再婚する。この時、彼は安井かずみに関わる遺品などをすべて処分してしまったという。安井の友人の多くは怒り、そのために加藤は安井の友人達とはほとんど付き合わなくなる。ところが、夫婦生活は2年で実質的に破綻。2000年には正式に離婚。2009年10月16日、加藤は軽井沢で自殺する。
 恋に憧れ、その恋に生きた安井かずみ。彼女は自分のことを「ただひたすらに夢中になるという手合いの、むしろ無謀な、ひとりよがりな甚だしいナルシスト」と表現している。

 大量の仕事をこなし、いったん走り出すと寝食も忘れ、日常生活や身体はおろそかになってしまう。

 彼女が好きなクルマのように、暴走しっぱなしで駆け抜けた短い人生だった。

希望の党と衆議院選挙の行方

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 衆議院解散後の動きには毎日眼が離せない。安倍首相は「国難突破解散」などと無理やりその理由を取り繕って見せたが、随分国民も舐められたものだ。今回の選挙は「安倍首相が行った自分や友達のための政治ではなく、国民のための政治の是非を問う選挙」である。

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 森友・加計疑惑は解散でみそぎになるものとし、この時期に解散するのは、Jアラートで緊急事態を煽っていた北朝鮮問題が、どうやら米国と北朝鮮の出来レースによる戦争ごっこであり、少なくとも今は喫緊の事態ではなかったことを証明したようなものだ。

 「窮鼠猫を噛む」ー政権維持は安泰とばかり安心して解散したものの、野党の再編の動きにによっては「政権交代」が現実のものになりかねないほどのうねりが起きてしまった。
 これほど腐った安倍政権にはうんざりしている。しかしこのままだと増々国民の政治離れが進み、投票率はさらに落ち、組織票の固い政党のみが生き残るという思うつぼにハマり、悪循環を繰り返すことは見えていた。

 おごり高ぶった政治にお灸をすえるには「泥縄」と非難されても政権交代の受け皿は必要である。ジリ貧の民進党ではもはやその役割は果たせないと思い暗澹としていた。
 
 今度の合従連衡には賛否両論があり、詰めの甘さはあったとしても、「名を捨てて実を取る」と言った民主党・前原代表(55歳)の大胆な決断に敬意を表したい。

 もちろん、希望の党については不満だらけである。小池氏が何を目指しているのかまだよく分からない。

 それにしても、まだまだこれから公示の10月10日までは一波乱も二波乱もあるだろう。不安な点、危うい点は幾つもある。
希望の党の政治姿勢

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 小池百合子代表(65歳)が過去に日本会議に属していたこと、側近の顔ぶれ、この人もまた日本会議国会議員懇談会に属している右翼の「日本のこころ」中山恭子代表(77歳、写真右)を受け入れたこと。

 しかも、中山代表は、つい3か月前、7月2日実施の東京都議会議員選挙にはわざわざ自民党の公認候補者60人全員に推薦を出したのに、どうして希望の党なのか不思議でならない。

 人間はとかくちょっとしたことで本性が見えて来るものだ。これが小池氏の本性かもというのが一番心配だ。

 その夫である舌禍事件で有名な中山成彬氏(74歳、写真左)が希望の党から出馬予定だと聞くと、また極右政党の誕生かと不安が高まる。

 中山成彬氏については、希望の党に加入した矢先にツイターで「安倍首相の交代は許されない」と現政権存続を求める異例の訴えをするなど早速とんでも発言が飛び出している。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170930-00000013-ykf-soci

 それが、たまたま今読んでいる本に彼が登場していたので、その政治姿勢の一端を紹介したい。
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 その本の名前は、田邦男(81歳、写真左)著「生きなおす力」(2009年、新潮社、写真右)。

 問題の箇所は「傲慢ヤマトよ アイヌに学べ」の章、政治家の問題発言のページにある。恐るべき無知と思い込みの御仁である。

 2008年9月24日に発足した、麻生政権国土交通大臣に就任したばかりの中山成彬氏が前日の記者会見で言いたい放題の発言内容は次の通り。

(1)(国交省本来の課題に対する質問に答えている中で話題をずらして)「ついでに言えば、大分県の教育委員会の体たらくなんて日教組ですよ。日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低いんだよ」、云々といった日教組批判。

(2)(観光政策にからんで、外国人旅行者をどう増やすかについて)「外国人を好まないというか、望まないというか、日本はずいぶん内向きな、単一民族というか、世界とのあれがないものだから内向きになりがち」、云々。

(3)(成田空港の拡張が進まないことに関して)「(地主の)ごね得というか、戦後教育が悪かったと思うが、公のためにはある程度自分の犠牲にしてもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張も出来なかったのは大変残念だった」、云々。

 彼は政権発足後の9月28日に辞任、正に「三日天下」だった。懲りない人だ。そんな人がゾンビのように蘇ることが怖い。

  そしてもっと怖いことがある。果たして今の内閣だとこの発言だけで辞任に追い込まれるだろうかということだ。
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 ところで、9月26日夜、小池都知事(写真中)と民進党の前原代表(写真左)、それに連合の神津会長(61歳、写真右)の3人が会談し、その席で統一名簿の政治団体の名前を「希望」とすることや、小選挙区の候補者についても、基本「希望の党」公認として立候補することで合意したという話を聞くと、いやしくも労働者の代表である連合と手打ち式を行ったのだから、自民党より左右のウィングを広げているのかとも思わせたが、どうもそれは違うようで、連合の神津会長も残業問題に続き恥をかかされたようだ。

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 小池都知事は29日朝「全員受け入れる気はさらさらない」と発言。

 民進党を離党し、希望の党結党の一翼を担った細野議員も、野田元総理菅元総理らを念頭に、“三権の長“の経験者の合流に難色を示している。

 さらに、岡田元代表海江田元代表長妻元厚労相辻元議員らの名を記した“排除リスト“なるものも永田町には出回っているのだという。

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 大体、3人で話がついたとしても、前原氏が公約としていた「消費税増税」と、連合の反対がネックだった希望の党の「脱原発」の公約の整合性が取れたのだろうか。

   


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 しかし、小池都知事を侮ってはいけない。

 最近は彼女のキャッチフレーズの「緑」とまるちゃんの即席めんの「タヌキそば」に模して、「赤いキツネ、緑のタヌキ」と呼ばれているようだ。(写真)

イメージ 5 実は用意周到で、かねてよりこのチャンスを狙っていた節がある。希望の党」という党名自体今年の2月に商標登録を申請していたというから驚く。(写真)

 そして、30日には東京、大阪、愛知の知事が与党と対立して選挙戦に臨むことが決まり、大都市圏の首長が共闘を表明したことで、与党との対立構図がより鮮明になった。

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 三者会談後、3人はそろって会見。(写真)衆院選では東京と大阪で候補者をすみ分けることで合意したと明らかにした。

 小池氏は、東京では日本維新が小選挙区で候補者を出さず、大阪では希望が候補者を擁立しないと説明。「すみ分けながら、改革の志を国会に届けようということを確認した」と述べた。

 キャッチフレーズを作るのも得意だ。会見に先駆けて配布した資料には「三都物語」と題して〈1〉しがらみのない政治〈2〉身を切る改革〈3〉真の地方自治の推進の3点を柱に、2019年10月に予定される消費税10%への引き上げ凍結や憲法改正、原発ゼロなどを共通政策に掲げた。



 希望の党の結党宣言は9月27日に14名の現職国会議員が参加して行われた。(写真)このメンバーを見ると、右から左へと幅広い陣容であることが分かる。

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 希望の党の綱領は以下の6項目で、細野豪志衆議院議員が読み上げた。

 我が党は、立憲主義民主主義に立脚し、次の理念に基づき党の運営を行う。常に未来を見据え、そこを起点に今、この時、何をすべきかを発想するものとする。

1 我が国を含め世界で深刻化する社会の分断を包摂する、寛容な改革保守政党を目指す。

2 国民の知る権利を守るため情報公開を徹底し、国政の奥深いところにはびこるしがらみ政治」から脱却する。

3 国民の生命・自由・財産を守り抜き、国民が希望と活力を持って暮らせる生活基盤を築き上げることを基本責務とする。

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平和主義のもと、現実的な外交・安全保障政策を展開する。

5 税金の有効活用(ワイズ・スペンディング)の徹底、民間のイノベーションの最大活用を図り、持続可能な社会基盤の構築を目指す。

6 国民が多様な人生を送ることのできる社会を実現する。若者が希望を持ち、高齢者の健康長寿を促進し、女性も男性も活躍できる社会づくりに注力する。

 そして、政策は。

1 希望の政治…①しがらみのない政治 ②議員定数・議員報酬の縮減 ③行政改革・徹底した情報公開 ④真の地方分権の確立

2 希望の社会…①女性政策など ダイバーシティ政策の確立 ②多様な教育(奨学金、高度研究、生涯教育)

3 希望の経済…①消費税対応 実感できる景気回復の実現 ②ポストアベノミクスにかわる成長戦略 不動産の有効活用 AI 金融

4 希望を守る環境・エネルギー…①原発ゼロとゼロエミッション社会への行程作成 ②フードロス対策など

5 憲法改正…①希望溢れる日本の礎
 この14名のうち、直接民進党から入党したのは8名だが、細野氏以外は全員民進党から除名(除籍)処分を受けている。中には比例代表ということもあり、辞職勧告まで受けた議員もいる。考え方も長島氏のように右派もいれば、後藤氏のような左派もいる。

 その後に、解党目前の民進党議員の多くが参加してくる。お互い面白いはずがないだろう。

 いわばごった煮の状態で、元通りの仲でやっていけるのだろうか。
自分の考え

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 自分は拙ブログ「リベラル保守」宣言でもお伝えしたように、中島岳志「リベラル保守」宣言(2013年、新潮社刊、写真)の主旨に共感している者だ。

 だから本当は保守勢力が増えることは好まない。世界的に内向きな勢力が増え、日本も例外ではないことは認めるが、前原氏が民進党代表選挙で言った「日本は保守が70%」というのは信じていない。

 ただし、今は保守だリベラルだ、革新だ、云々の定義があいまいになり、本来保守は新自由主義とは矛盾しているので共存できないはずなのに、平気で行っている有様だ。

 自分はこう考えている。

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 今では大分収れんされてきたものの、自民党が「国民政党」と呼ばれていたころは、とても左右のウィングが広かった。今でも「公明党」との政策の差は大きいはずだ。

 当時は反動的な政策をしようと思えば党内のバネが効いて、無茶なことが出来なかった。今は大方の国民が反対していても、党内バネが弱いので強引な手法が取れる。

 それに加え、小選挙区制のため、少数意見が圧殺される。先の衆議院議員選挙では比例では33%しか取れなかった自民党が61%の議席を獲得したのはそのせいである。

 だから、「希望の党」が受け入れる議員に対して左右のウィングを広げても「野合」と糾弾される筋合いはない。また、その場合もドミノ現象で、都議会選挙のように自民党惨敗が起きる可能性は夢物語ではない。
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 とは言うものの、一選挙民からすると保守同士の2大政党は要らない。

 第3の軸として、民進党のリベラル派は社民党や共産党と組んで「リベラル結集」を図って欲しい。

 新党でも無所属でもいいいが、今や少数勢力となった「社民党」になだれ込む手もあるのではないだろうか。そして、今回はムリだろうが、そろそろ日本共産党も名前を変えるべきだ。どうしても「共産主義」に対してはアレルギーを持つ人が多いことも事実で、表紙も重要だ。

 このままでは「小池旋風」により、政権を取る可能性すらある。そのとき、これまで「安倍一強」といったことが「小池一強」となり、小池氏の独裁になるのも怖い。その兆しはある。

 物事は中庸がいい。弱肉強食の新自由主義は日本の持っていた良さを壊してしまう。

 選挙の争点はこんなものだろうか。黄色の網掛けが私見での重要課題である。

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 選挙前の、この次のターニングポイントは10月3日にも行われるという、希望の党の第一次候補者調整と、10月5日の東京都議会の閉会で、小池党首が選挙に打って出るかどうかということだ。

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 「二足のわらじ」という批判の多い、地方自治体の首長が党首を兼任する例は、実は今の日本維新の会松井大阪府知事でも同じことなのだが、過去には飛鳥田一雄横浜市長(190年、75歳で没、写真)が社会党党首を兼任したことがある。

 なお、1978年の首班指名選挙で社会党は党首である飛鳥田委員長が非国会議員のため、副委員長の下平正一に投票した。
 今、安倍首相も枕を高くして眠れない日が続いていることだろう。

 最後はこの曲で。ちなみに「希望の党」とは何の関係もありません。

岸洋子/希望(1970年)





読書の秋

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 10月に入り、あれだけ暑くて熱中症の危険にさらされていた夏もいつの間にか去り、秋真っ盛りとなった。

 それでも時代は変わったというべきだろうか、一斉に「衣替え」ということもなく、まだ半袖のシャツを着ている人も多い。

読書週間

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 秋と言えば「
スポーツの秋」、「味覚の秋」、「行楽の秋」など形容詞が多く、過ごしやすい季節である。そして、「灯火親しむ候、読書の秋」でもある。10月27日から11月9日の2週間は例年「読書週間」だ。

 今年、第71回読書週間の標語は「本に恋する季節です!」写真は2017・第71回読書週間 ポスター)。

 「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、戦後間もない1947年から始まった読書週間は、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になった。

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 しかし、読書を奨励してきたのは何も戦後からではなく、おなじみの二宮金次郎像(写真)薪を背負いながら本を読む姿は、1891年(明治24年)の幸田露伴「二宮尊徳翁」の挿絵がモデルとされる。

 1928年、昭和天皇即位の大礼で日本中が祝賀ムードに包まれるなか、神戸市の実業家が数多くの金次郎像を小学校に寄贈。それをきっかけに全国で寄贈がブームとなり、30年代後半に一気に広まったそうだ。

子供の頃の読書

 子供の頃、小学校では正確な名前は忘れたが「図書記録簿」というのがあって、学校の図書館で本を借りて読むとその記録簿につける。よく本を読んだ生徒は表彰されていた。

 自分は表彰の対象になったことはない。当時から小説はどうも苦手で、「三つ子の魂百」までとはよく言ったものだ。

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 それでも家庭は貧乏でも、読書の環境はあり、いつも学習百科事典や兄や姉の購読していた「中学時代」とか「中学コース」をよく読んでいた。

 「中学時代」(写真中央)は1949年に旺文社が創刊。設立間もなかった学習研究社は「中学コース」(写真左)で対抗、小学館が「中学生の友(写真右)と、激しい販売競争が繰り広げられた。全て20世紀中に廃刊した。

 特別勉強をした記憶はないが、暇さえあれば、その学習百科事典や兄や姉の本を読み、漢字や地名を覚えるのが大好きだった。子どものころは漫画が好きなものだが、それをを買うゆとりはなかったし、家族で漫画を読む習慣がなかった。
大学生時代の読書

 人生最大の読書をした時期は大学生のときだった。

 中学・高校時代はすっかり「読書」から遠ざかっていた。本を読む時間があれば音楽ばかり聴いていたし、当時はいわゆる受験戦争と呼ばれた時代、高校生のときは大学に入学するという一心で、受験勉強に明け暮れていた。

 本をむさぼるように読むようになるにはあるきっかけがあった。

 大学に入学したとき「オリエンテーリング」といって、先輩と新入学生が数名でグループを組み、いろいろな夢や課題を語り合う合宿を経験したことがきっかけだった。 
 
この「オリエンテーリング」に参加して、ようやく自分の頭の中は空っぽで、この数年間、ただ受験のテクニックや丸暗記をしてきただけだということを悟った。
 
入学することが人生の目的になり、今で言う「燃えつき症候群」にもなっていた。このままでは自分はダメになると危機感を覚えた。
 

 とにかく人生をもっと勉強しようと本を読むことを思い立ったが、何を読んでいいのかわからない。 

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 それが、格好の標的があった。今では「新潮百冊の本」の方が有名だが、これは1976年、大学卒業から5年後に選定されたもの。1961年に選定された「岩波百冊の本」(写真)だった。残念ながら未達成に終わったが、この世界の名著の集大成と呼ばれる百冊を読破しようと試みた。

 当時の読書日記(といっても感動した部分を綴っているだけだが)は、今でも残している。
会社時代の読書

 会社に入ってからは、How-Toものが多くなった。そして、「高杉良」「城山三郎」「清水一行」などの企業小説。仕事に関係のある本べったりとなってしまった。

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 今から16年前のこと、当時から社員採用の業務を担当していたが、女性を面接したとき、愛読書は何かを聞いたところ「宮部みゆき」(現在56歳、写真)の本と答えた。

 彼女は当時40歳だったが、すでに人気作家だった。それを全く知らない。

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 早速、面接をした仙台から帰り、本屋に直行して宮部みゆきの著作を買い求めた。

 なんでこんな若い作家に面白い時代物が書けるのか。「初ものがたり写真)「かまいたち」などにハマった。


ブログと読書

 ブログを始める遠因を作ったのは、社内ホームページに載せた「総務部長のひとり言」。(当時、ある会社で総務部長を務めていました)15話と短命に終わったが、今でも忘れない、第1話は2001年6月17日、題名は「読書」だった。

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 以前にもこのブログで紹介したことがあるが、愛媛県・今治市に本社のある
『日本食研』のホームページ(写真)の採用サイトに「人事課長のひとり言」というコーナーを見つけ、自分もこんなことができれば面白いなと思っていた。(現在、そのページはない
 
そんな話を部下の女性にしてみたところ「部長もやってみたらどうですか」と言われ、その「人事課長のひとり言」はホームページだったが、こちらは「総務部長のひとり言」と称し社内ホームページに
エッセイとして連載したのが始まりだった。52歳のときである。
 
自分のブログは8年前から始めたが、ネタ作りに読書が欠かせない。 

 自己満足ではあるが、文章を書くということと、読書するということの相乗効果は、自分の後半の人生を充実させた。 

現在の読書 

 今、毎日の通勤には1時間20分程度の時間をかけているが、通勤が長いのはもちろん苦痛である。唯一の楽しみはその間に「本が読める」ことである。

 歩いたり電車の待ち時間や短い区間の電車を除くと、正味35分の電車に乗っている時間が読書できるひとときだ。

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 図書館の存在はありがたい。今年の2月に横浜市から相模原市に引っ越した最大のメリットは隣駅の町田にある町田中央図書館(写真)の存在だといっても過言ではない。

 それまで通っていた地元の図書館と蔵書数が桁外れに違う。

 いつも借りることが出来る最大の10冊近く借りている。そして、実際にはそんな時間まで粘ったことは無いが、20時まで開館している日が多いのも嬉しい。
書店の危機

 今、電子メディアの発達によって、世界の情報伝達の流れは、大きく変容しようとしている。

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 昔は町の至る所に書店があった。その書店も「貸本屋写真)
「古本屋」を含めると膨大な数に及ぶ。

 貸本屋や古本屋は子供のたまり場。古き良き時代だった。

 それが、今や店が地域に1店舗もない「書店ゼロ自治体」が増えているという。「ゼロの自治体、2割強に 人口減・ネット書店成長…」(8月24日、朝日新聞)


書出版取り次ぎ大手によると、香川を除く全国46都道府県で420の自治体・行政区にのぼり、全国の自治体・行政区(1896)の2割強を占める。「文化拠点の衰退」と危惧する声も強い。

トーハン(東京)の7月現在のまとめによると、ゼロ自治体が多いのは北海道(58)、長野(41)、福島(28)、沖縄(20)、奈良(19)、熊本(18)の順。ほとんどは町村だが、北海道赤平市、同歌志内市、茨城県つくばみらい市、徳島県三好市、熊本県合志市、宮崎県串間市、鹿児島県垂水市など7市や、堺市美原区、広島市の東・安芸両区の3行政区もゼロだ。(図)

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 出版取り次ぎ大手・日本出版販売(東京)の別の統計では「書店ゼロ自治体」は4年前より1割増えた

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 全国の書店数は1万2,526店で、2000年の2万1,654店から4割強も減った(書店調査会社アルメディア調べ、5月現在、)。

 人口減や活字離れがあるほか、書店の売り上げの6~7割を占める雑誌の市場規模は10年前の6割に縮小

 紙の本の市場の1割を握るアマゾンなど、ネット書店にも押される。経営者の高齢化やコンビニの雑誌販売なども影響する。

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 日本出版インフラセンターの調査では、過去10年で299坪以下の中小書店は減少したものの、300坪以上の大型店は868店から1,166店に増加。書店の大型化が進む。

街の書店は、子どもが絵本や児童文学を通じて活字文化の魅力に接する場であり、ネットが苦手な人の情報格差を埋める機能もある。地方都市では地域の人が集い交流する場でもあった。手にとって未知の本を読み、関心の領域を広げる機会も得られる。

作家で、文字・活字文化推進機構(東京)副会長の阿刀田高さんは「書店は紙の本との心ときめく出会いの場で、知識や教養を養う文化拠点。IT時代ゆえに減少は避けられないが、何とか残していく必要がある」と話す。

 自分は26年前、単身赴任で横浜に家を探したが、その決め手となったのはマンションの1階に書店があったことだ。確か、東京堂書店だったが、入居してすぐに閉鎖してしまって、がっかりしたことがある。

 町の本屋が衰退した大きな原因は、品ぞろえの少なさと万引き、そして無料で借りることができる図書館のせいだ。
図書館の功罪

 図書館はとてもありがたい存在ではあるが、自分は有料でいいと思っている。具体的には、2週間1冊100円でも図書館を利用したい。また、音楽CDのレンタルなどは同業者に対する越権行為だと思う。無料の上、貸し出しについて厳しさが足りないと思っている。

 上下巻で成り立つ書籍の片方がないものもあった。自分も経験があるので偉そうには言えないが、延滞、もしくは紛失に対するペナルティの追及が甘い。安易に借りる人が増えるのは当然だ。

 図書館の本を借りる条件の優しさが、書店の衰退を招いているのは間違いない。
 
 しかし、実は今、図書館が少しずつ変わりつつある。

 「読書離れ」といわれて久しい現代だが、実は図書館の利用者は増えている傾向。国民1人当たりの貸出冊数は1989年度に2.2冊だったのが、徐々に伸びて2011年度は5.4冊になっている(文科省・社会教育調査)。これは、各図書館が開館時間を延長したり、運営の努力をした成果だ。

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 さらに、面白いイベントを打ち出して利用者数増加を狙う図書館も少なくない。たとえば2010年に山口県の下関市立中央図書館が始めた「読書通帳」写真)。発行された通帳をATMのような端末に通すと、読んだ本のタイトルや日付を記録できるようになっている。これが全国に広がり、導入後に児童書の貸出冊数が約2倍に伸びた図書館もあったという。

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 TSUTAYAを経営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が5年前から指定管理運営する佐賀県の武雄市図書館も相変わらず話題だ。スターバックス(写真)蔦屋書店を併設し、CDやDVDを借りることも可能。無線LANを設備した学習室もある。また、来年10月開設を目指す「こども図書館」も、今年11月から着工する。同じくCCCが指定管理運営し、遊び場やフードコートも設けられるという。

東京でも、日比谷図書文化館や武蔵野市の武蔵野プレイス、板橋区立高島平図書館などにカフェが併設され、コーヒー片手にゆっくり読書することができるようになっている。他にも、子どもが泊まれるイベントを開催したり、スポーツ選手が選んだ本展を企画するなど、工夫をこらしている図書館がある。

 平日図書館に行くと、我々と同じ世代の男性の姿が目立つ。一日ここで過ごしているのだろうか。眠っている人もいる。

 年金生活でぎりぎりの生活を強いられている人は、行き場所を失っている。

 そんな人たちにとって、数少ない憩いの場所だ。

 図書館の充実は地域自治体の大きな課題である。
 通勤電車の中を見ると、一時は携帯、スマホ中心だったが、読書をしている人が少しづつ増えているように感じている。

 それはとても嬉しいことだ。

 人にはいろんな考え方があり、いろんな人生がある。歴史の本を読むと、人間は懲りずに「歴史を繰り返している」ことも分かる。

 読書は人間の幅を広げてくれるものと信じている。

 アメリカのトランプ大統領や安倍首相が読書をしているという話を聞いたことがない。

 反知性主義というのだろうが、知性を感じさせない代表者がいる国は悲しい。


雲を愛でる【その1】

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 今日(10月10日)はあいにく(?)雲一つない秋空だが、朝日新聞の昨日(10月9日)の天声人語に、次の記事が載っていた。

天声人語「雲を愛でる」

 秋雨の冷たさにコートを着たかと思うと、翌日は汗ばむ陽気で半袖に戻る。この時期の天候は何とも読みがたい。なるほど秋の空は移ろいやすいものである。

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秋は空が澄んで、雲の位置が高い。雲好きにはたまらない季節です」と語るのは気象予報士の武田康男さん(57)。長く千葉県内の高校で地学を教え、南極で越冬も体験した。いわし雲さば雲に秋を感じるが、この季節は何と言っても夕焼け雲(写真)だという。「黄から橙(だいだい)色をへて真っ赤に変わる。色彩のドラマは見あきることがありません」


イメージ 2イメージ 3時間の許す限り、天空を写す。飛行機の旅なら陽光や風向きを考えて席を選ぶ。観察のために北海道へ飛び、とんぼ返りすることもある。災害をもたらす危険な台風でさえ、空の研究には役立つ。風によってはレンズ雲(写真左)つるし雲(写真右)ど珍種が出現するからだ。

これまで虹やオーロラ、皆既日食を求めて米国や中国、エジプトなどを旅した。多くの国で市民が雲に寄せる関心は「雨が降るか降らないか」日本の人々は雲の形や色、流れ方を見て、世の移ろいを感じとってきたと話す。
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青空高う散る雲は繊(ほそ)い巻雲真綿雲、鳥の羽(は)のやうな靡(なび)き雲〉。北原白秋(1942年、57歳で没、写真)は一編の詩に十数種類もの雲を詠み込んだ。耳慣れない名ではあっても、その響きから空に浮かぶ姿を想像するのは楽しい。

日ごろ記事の締め切りに追われて、空を何日も見上げぬまま過ごすことがある。たまには立ち止まって雲の流れに目をこらしたい。せめて秋の好日くらいは。
雲の種類

 雲の種類は、雲形雲級ともいう)という、雲の形状により分類することが出来る。

 世界気象機関発行の「国際雲図帳」では、雲をその大まかな形から
巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲と、10「類」に分類しており、これを十種雲形(十種雲級)と呼ぶ

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秋の空

 空に浮かぶ雲は季節により大きな変化がある。

 「天高く馬肥える秋」という言葉があるが、は青い空が澄み渡り、上層雲である巻雲(すじ雲)、巻積雲(いわし雲、うろこ雲、さば雲)、巻層雲(かすみ雲)が中心となり、空が高くなるのが特徴だ。

 これは、夏は太平洋高気圧で湿った空気中の水蒸気に光が乱反射して白っぽく見えるのに対し、秋は移動性高気圧の乾いた空気のために澄み渡り、いつもより上空の雲までよく見えるからだ。だから、秋の月が美しく見え、お月見にも最適な時季なのだ。

 ところが、低気圧と高気圧が日本の上空を交互に通るため、お天気が変わりやすいのもこの時季の特徴で、これを変わりやすい人の心になぞらえ、「男心と秋の空」「女心と秋の空」と言うようになった。

 元は「男心と秋の空」と言われていたのが、大正デモクラシーで女性の地位が向上すると、恋愛の価値観も変わり、当時、一世を風靡した浅草オペラで、『風の中の 羽のように いつも変わる 女心…』と歌うヴェルディ作曲の歌劇「リゴレット」第3幕の「女心の歌」が大ヒット。以来、「女心と秋の空」と言われるようになった。

 「女心と秋の空」ということわざの意味は、 変わりやすい秋の空模様のように、女性の気持ちは移り気だということで、「男心と秋の空」ともいうことがあるが、男女によって意味合いに多少違いがあり。 男性は愛情の対象、好きな女性に対する恋心が変化しやすいということで浮気や不倫をしやすい。 女性の場合は感情の起伏が激しく、場面や時期でコロコロ気分が変わることを意味するという意味だという。

ルチアーノ・パヴァロッティ/歌劇「リゴレット」より「女心の歌」


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 朝日新聞「美しいと思う季節の日本語」(2012年10月6日)のアンケート調査で13位いわし雲(写真)が入り、読者から「いわし雲はのどかで幼いころを思い出します。父母に手をつながれて見たいわし雲、うれしくて今でも思い出すと手にぬくもり感じます」(埼玉、66歳女性)とあった。

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正岡子規(1902年、34歳で没、写真)は、俳句雑誌「ホトトギス」(1897年)の中で「春雲は綿の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く」と、季節の違いによる雲のことをこのように表現している。

 先の天声人語で紹介があった北原白秋の詩、白秋詩歌集第五巻童謡集」1941年(昭和16年)発行)より「雲の歌」の全文は、次の通り。        

 青空高う散る雲は 纖(ほそ)い巻雲(まきぐも)、真綿雲、鳥の羽のやうな靡き雲(なびきぐも) 白い旗雲、離れ雲。 

 一刷毛、二刷毛まだ寒い すうと幕引くレエス雲、日暈月暈(ひがさつきがさ)湿らせて 春さきの雲、氷雲。

 水脈(みお)の泡波、うろこ雲、はるばるつづく日の入りは いつも夕焼け、月あかり、雁が飛びます、わたります。

 日の輪月の輪かがやかす 高い層雲(かさぐも)、帷雲(とばりぐも)、灰いろ雲の濃い雲も たまには薄すり、青の帯。

 葡萄鼠の霧の雲、水と天(そら)との間(あい)の雲、風の層雲(かさぐも)、わかれ雲、地にはとどかず、棚の雲。

 寒い黒雲(くろくも)、冬の雲、かぶさりかぶさる雲の塊(くれ)、時どき、お母さんの眼のやうな 青いお空を透かしてる。

 むくりむくりと湧く峯は、雲のヒマラヤ、銀のへり、お経もらひか、天竺へ、犬、猿、坊さま、豆の馬。

 雷雲(いかづちぐも)はおそろしい、晝も神鳴り、旱り雲、宵には稲妻、朝は虹 おどろおどろの暴風雨雲(あらしぐも)。

 迅い飛び雲、日の光、それでも雨雲、乱れ雲、霙(みぞれ)がふります、雪がふる、ぱらぱら霰も(あられ)もころげます。         
マントヴァーニ楽団/碧空(YouTube)


トワ・エ・モア/空よ(1970年)




五輪真弓/空(1986年)

 



雲を愛でる【その2】

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雲の上

雲海に浮かび上がる天空の城

 「天空の城」といえば、宮崎駿のアニメ「天空の城ラピュタ」(1986年公開、写真左)のモデルになったスペインの近く、フランスの「天空の要塞都市コルド・シュル・シエル(写真中央)そして、ペルーの「空中都市マチュピチュ」写真右)

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井上あずみ/「天空の城ラピュタ」より「君をのせて」


イメージ 4 雲海(写真)とは山や航空機など高度の高い位置から見下ろしたとき、雲を海に例える表現。

 山で見られる雲海は、山間部などでの放射冷却によって霧、層雲が広域に発生する自然現象雲の海に山々が島のように浮かんでいるように見えることから雲海と呼ばれる。

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 「雲海」を初めて見たのは小学校の6年生のとき、広島県東広島市河内町入野にある竹林寺(写真、地図)という標高約500mのところにある山間部のお寺に林間学校で行った時のことだ。

 自分がいる所より雲の方が下にあるのにとても驚いたものだ。

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 雲海に浮かぶ「天空の城」として、日本で最もトレンディなのは、兵庫県朝来市和田山町「竹田城跡」、別名「日本のマチュピチュ」と呼ばれているお城(写真)だ。

 雲に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている竹田城跡だが、15年前までは「無名の山城」だった。それが、GoogleのCMや、高倉健主演の映画「あなたへ」(2012年)の舞台にもなり、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケも行われたことから人気が沸騰、さらに、外国人旅行者の間でも、日本の新たな観光スポットとして話題を呼んでいるようだ。

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ノンちゃん雲に乗る

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 「ノンちゃん雲に乗る」は、1951年に出版された石井桃子(2008年、101歳で没、写真)の児童文学作品。

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 1955年に鰐淵晴子(現在72歳)の主演で映画化された。この映画は、前年から病気療養していた原節子の復帰作としても注目された。(画像)

 あらすじはこうだ。8歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんと兄ちゃんが自分に黙って出かけたので、悲しくて泣いていた。木の上からひょうたん池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまう。気がつくとそこは水の中の空の上。雲の上には白いひげを生やしたおじいさんがいて、熊手ですくって助けてくれた。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族の身の上を打ち明ける。舞台には作者が幼いころ遊んだ浦和の町の神社や池が使われている。雲の上の世界の描写にはアニメーション合成技術が使用されている。

黛ジュン/雲にのりたい(1969年)


ジェットストリーム

 社会人になって初めて寮生活を送ったとき、不安な夜を癒してくれたのが、城達也のナレーションとフランク・プゥルセル「ミスター・ロンリー」で始まるFM東京の深夜番組「ジェット・ストリーム」だった。

 ナレーションは「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、限りない宇宙の営みを告げています」と続く。


飛行機(ひこうき)雲

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 子どもの頃はよく空を見て、飛行機雲に見とれていた。

 Wikipediaによると、飛行機雲は、ジェット機などのエンジンから出る排気ガス中の水分、若しくは翼まわりの低圧部が原因となって発生する、排煙ではなく雲である。

 航空ショーなどで、アクロバット機の航跡を見せているのは、油を焚いて作られたスモークであり、飛行機雲ではない。

 なお、ひこうき雲ができるということは、空気が湿っているということなので、長く消えないときは天気がくずれる可能性が高いのだそうだ。

荒井由実/ひこうき雲(1973年)



夕焼け雲

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 秋の空は空気が澄み夕焼けが美しく、また日の長かった夏から徐々に日没が早くなっていくため夕焼けをとくに意識しやすい。
  俳句においては、「夕焼け」は「朝焼け」とともに夏の季語であり、秋の夕暮れを詠むときは「秋の夕焼け」などとする。(写真)

 ちなみに、10月10日現在、東京の日没は17時13分、日の出は5時43分だ。

 夕焼けで赤く染まった雲を「夕焼け雲」と称する。なお、日の出の頃に東の空が同様に見えるのは朝焼けという。

 夕焼けに関して、古来より「夕焼けの翌日は晴れ」ということわざがあるが、これは比較的正しいと言える。日本上空では、偏西風の影響により雨雲は南西から北東へと移動していく。そのため、夕方に西の空が晴れ渡った夕焼けの翌日に、雨雲が来る可能性は低くなるからだ。

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 先日、仕事の帰りがけ、地元できれいな夕焼け雲を見たので、スマホで写した
(写真)が、建物が邪魔をしてうまく撮れなかった。

 清少納言『枕草子』のなかで「秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり」と記している。

 夕焼けは空や山々、町並みを赤く染めあげて美しいものであるが、明るい昼間の時間が終わり暗い夜がやって来る合図でもあり、比較的短時間で終わってしまう現象である。

 そのため夕焼けの情景は文学や楽曲、映像作品において儚さやせつなさ、悲しさ、寂しさ、別れ、衰退や没落、老いや近づく死などをあらわすものとして用いられる。

石川さゆり/夕焼けとんび(原曲:三橋美智也、1953年)


島津亜矢/夕焼け雲(原曲:千昌夫歌、1976年)


 夕焼けは何故か郷愁を誘われる。

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 西岸良平の一連の作品に冠せられたタイトル『夕焼けの詩』(三丁目の夕日)など、まさにその象徴であるところからの命名であろう。(画像)

 「子供の頃友達と遅くまで夢中になって遊んでいて、帰宅する時に夕焼けを見た」といった共通体験から、子供時代を懐かしむときの表現としても多用される。三木露風の童謡の『赤とんぼ』中村雨紅『夕焼小焼』がある。

リカルドサントス楽団/赤とんぼ


フレーベル少年合唱団/夕焼け小焼け


 夕焼け、特に日没時は短時間ながら叙情的な光景であり、日本全国に多数の名所がある。日本の夕陽百選も選定されているそうだ。

 この前NHKで放送していたが、松山に6年半も住んでいたのに知らなかった。

 多くの鉄道ファンをはじめ、“一度は降りてみたい駅”と言われる愛媛県伊予市にある無人駅「下灘駅」。かつては“日本一海に近い駅”でもあり、駅を降りれば目の前いっぱいに瀬戸内の美しい海が広がる。そして、夕日の絶景スポットとしても広く知られているという。

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 さらに鉄道と食事を楽しみたい人には、「伊予灘ものがたり」での旅がおすすめです。内装はレトロモダン、趣向を凝らした作りになっている。車内では、食事やアテンダントのサービスを受けられる。ただ、一日数本のみの走行なので、「早めの予約を」ということのようだ。
 
 利用者の要望に基づき、下灘駅での停車時間を従来より延長しているという。

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森山良子/歌ってよ夕陽の歌を(1975年)









雲を愛でる【その3】

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 「雲を愛でる」の第三弾は、「雲についてのあれこれ」。

雲」のことわざ・熟語を使った衆議院議員選挙

 この度の衆議院議員選挙は「国難選挙」などと称し、雲の上をつかむような理由で解散した安倍政権。

 落ち目の民進党との対決で楽勝と高を括ったものの、希望の党の出現で風雲急を告げる事態となった。

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 希望の党と民進党では勢いに雲泥の差があった。ところが、口は災いの元小池代表(写真)の民進党出身者受け入れの際の「排除宣言」により潮目が変わった。勢いに暗雲が立ち込めてきたのだ。

 一時は雲を突き抜けるような勇ましさだった小池代表だが、東京都知事選挙のような標的を明確にせず、ワンマン体制で保身に走る姿が透けて見え、拒絶反応が現れたものと思う。

 雲の上の人が落っこちた感じだ。さて、小池さんもここで黙ってはいないだろう。名誉挽回、起死回生の策に期待したい。

 お粗末でした。


 今、巷ではこんな歌が流行って(?)いるという。小池(お池)にハマってさあ大変~♪と歌うようだ。


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 10月13日現在、まだ40%の選挙民は態度を明らかにしていないものの、自公が公示前より多い300議席をうかがう勢いで、小池代表の頼みの綱だった東京23選挙区でも自公が有利で、希望の党の全敗もありうる様相だという。


 個人的にはがっかりだ。
漫画「浮浪雲(はぐれぐも)」今年9月で完結

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 1973年に始まった漫画家ジョージ秋山さん(74歳)の代表作「浮浪雲」(写真)が、2017年9月20日発売の第1039話をもって、44年間におよぶ連載を終了した。

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 最終話は、浮浪雲の不在を案じる周囲をよそに本人がひょうひょうと現れ、無言で海辺にたたずむ場面で終了。「はぐれぐもひとつ 青い空 潮騒寂し」の一句で締めた。

 自分が若いころ「ビッグコミックオリジナル」(小学館)は愛読書(漫画?)の一つで、同時に発売されていたゴルゴ13を代表作とする「ビックコミック」よりも好きだった。もちろん、浮浪雲はその中でも大好きな漫画の一つだった。

 同誌においては「あぶさん」水島新司。2014年終了)、「三丁目の夕日」西岸良平)、釣りバカ日誌」やまさき十三/北見けんいち)など人気作品が多く、見ごたえがあった。

 ときは幕末。主人公の「浮浪雲」は元々は武士であったが、現在は東海道・品川宿の問屋場「夢屋」の主人。仕事は二の次で、何を言われても暖簾に腕押しであり、女を見れば老若美醜にお構いなく「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞をやることで有名。見かけは髷をきちんと結わず、女物の着物を身に着けた所謂遊び人の風体をしている。風習や物事に一切囚われず飄々としているが、実は柔軟かつ強靭な精神力を持つ。また、老若男女を問わず、非常に人を惹きつける魅力を持ち、有事の際には「雲が一声掛ければ、東海道中の雲助が集まる」と噂されている。自由気ままな遊び人ながら義俠心もある主人公を軸に市井の喜怒哀楽を描き、さらりと語る人生訓も好評だった。

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 1977年度の花園大学の入試問題にも使われたほか、渡哲也(現在75歳)主演(1978年、テレビ朝日、妻のかめ女役は桃井かおり写真左)と、ビートたけし(現在70歳)主演(1990年、TBS、同・大原麗子写真右)で、2度テレビドラマ化されたこともある。

 楽しみにして見たドラマだったが、正直言って期待外れだった。このキャラクターをこなせる俳優は皆無だろう。
雲助

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「浮浪雲」の解説の中にもあった「雲助」とは、江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕籠かきに携わった人足のこと。蜘蛛助と書くこともある。(画像)

 雲助という言語の由来は定かではないが、一説によると、人足たちが定住せずに「雲」のように周辺をさまようからだとも言われている。また、(モグリのため)宿場の外れの街道沿いで客を待ち構える様子が、蜘蛛が網をはっているようであるからという説もある。

「足下を見る」という言葉は弱みにつけこむことを指すが、これはたちの悪い雲助が客の草履を見て、擦り切れている(=もう歩けない)場合に高い金額をふっかけたということに由来する。派生語として「雲助根性」という言葉があるが、これは他人の足下を見るような行為、考え方を指す。

雲助が事件となり物議を醸したのは、横山やすし「雲助」事件

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 1977年、関西お笑い界で人気者であった横山やすし(1996年、51歳で没、写真)が、乗車したタクシー運転手に対し「お前ら、今でこそ運転手と呼ばれとるが、昔で言えば駕籠かき雲助やないか」と言い、運転手から侮辱罪で訴えられた。刑事事件としては、大阪地検で不起訴になったが、後の民事訴訟で大阪高裁は、10万円の慰謝料支払いを命じた。
浮雲

 「浮雲」は、空に浮かんで漂う雲。転じて、不安定でどこへ漂うか分からない身上の形容としても用いられる(和歌では「浮き」は「憂き」の掛詞によく使われる)。

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 二葉亭四迷(1909年、45歳で没、写真左)の長編小説「浮雲」写真右)は1887年(明治20年)から1889年にかけて発表。一、二篇は、金港堂から刊行、三篇は「都の花」に連載した。
主人公の文三とその従姉妹のお勢、友人の本田の3人の姿を中心に描かれている。言文一致の文体(ダ体)で書かれた日本の近代小説の始まりを告げた作品で、四迷の代表作。

 内海文三は融通の利かない男である。とくに何かをしくじったわけでもないが役所を免職になってしまい、プライドの高さゆえに上司に頼み込んで復職願いを出すことができずに苦悶する。だが一方で要領のいい本田昇は出世し、一時は文三に気があった従妹のお勢の心は本田の方を向いていくようである。お勢の母親のお政からも愛想を尽かされる中、お勢の心変わりが信じられない文三は、本田やお勢について自分勝手に様々な思いを巡らしながらも、結局何もできないままである。

石原裕次郎/赤いハンカチ【遠い浮雲よ】


怖い入道雲(積乱雲)

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 数ある雲の中で印象深く怖かったのは、何と言っても入道雲だ。

 この映像は60倍速のようだが、子供の頃目の前で起きた入道雲はもっと動きが早く、この世のものとは思えない程気味が悪かった。

 何しろ田舎で高い建物がない時代、空全体が見渡せたのでいろんな現象がワイドスクリーンのように眺められたものだ。


(Wkipedia参照)


 


 

  

気づき

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 会社にいるころは、社員に対する階層別研修を担当していた。階層別研修とは、新人、中堅、管理職とか立場によって人材の育成を行う研修のことである。

 その成果を測るのは難しい。これですぐに売り上げが上がるわけでもないし、研修を受けた2~3日後は人が変わったようになるが、ときが経つにつれ元の木阿弥になる人は何度も見てきた。

 事務局をするだけでなく、自分自身も何度も受けたが、印象に残っている研修は少ない。

 「研修はする必要がない。もっとも効果的な研修は『人事異動』だ」という言葉があることも承知している。一面では正しいと思っている。

 それでもいくつかの研修は自分を変えた。

 その一つは今から20年前、当時ある会社から分社化し、その新会社の管理部長として夢に燃えていたころのことだ。

 研修会社も研修場所も自分が探した。1泊か2泊の泊りがけで行った管理職研修だった。

 その講師は1人1人の管理職に対して「あなたは何をする人か」というテーマで、仕事は各部門の協力がないとできないことと、「気づき」の重要性を語っていた。

 その中で「気づき」は一生忘れない言葉になった。

 その講師によると、「『気づき』は誰にもできるものではない。10人に一人ぐらいの割合だ。だから、研修の効果は誰にもあるものではない」とまで言い切っていた。

 以来、「気づき」ということには人一倍意識をしてきたつもりだ。

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 それが、最近図書館でこんな本を見つけ早速借りて読んでいる。柳田邦男「気づき」の力―生き方を変え、国を変える―(2008年、新潮社、写真)だ。

 帯封には「行き詰った日本人へー食品偽装、医療崩壊、教育危機…便利さやお金を追及した結果、我々を待っていたものは—。いま、変わるために必要なこと」

 あとがきの一部には「今求められているもの、それは価値観の転換であり、心の持ち方の転換だ。それ以外の何ものでもない。そのことに『気づく』必要がある」

 とある。
 気づきには2つあるという。(http://www.saga-ed.jp/kenkyu/kenkyu_chousa/h22/09_seikatu/kiduki.htm参照)

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最近の気づき

 通勤の途中、電車内の広告に目が留まった。駒澤大学の「支援しない支援」というフレーズだ。

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 強い者が弱い者を助ける。「支援」という言葉で思い浮かぶのは、きっと、そんなイメージではないでしょうか。

 福祉の分野であれば、国家資格を持った社会福祉がクライエント(相談者)の問題を分析し、適切や指導や助言を行う。

 それはいま、多くの現場で行われていることです。

 支援者に専門知識が必要なのは間違いありません。しかし、たとえば、不登校に悩む子どもやお母さんに対して、その「問題」を分類し「正しく」説明することに、どれほどの意味があるでしょうか。

 科学的に正しいということと、それを伝えることは同じではありません。「正しさ」は時に、人を傷つけるのです。

 クライエントが抱える問題の専門家は、クライエント自身です。支援者に出来るのは、その言葉に耳を傾け、同じ時間、同じ場所、同じ物語を共有すること。

 このような考え方をナラティブ(物語)・アプローチといいます。

 クライエントを理解してから支援するのではなく、一緒にいることで、少しずつ、お互いのことを理解していく。

 福祉の現場には、いま、「支援しない支援」が必要ではないかと思います。
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 駒澤大学:文学部 社会学科 社会福祉学専攻 教授 荒井造道氏(44歳、写真)のこの言葉には目から鱗が落ちる思いだ。

 これも「気づき」の一つだろう。






 

 

ブラック研修

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 最近は「黒(ブラック)」という文字を使った言葉がよくやり玉にあげられ、可哀そうな気がする。

 中には黒字黒帯とか、いい意味に使われることもあるのだが、政治経済の分野では特に悪者にされやすい。

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 例えば、ブラックボックスブラックリストブラックサイトブラック企業

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 過去の苦い
「検閲」を思い出させる、黒一色に塗りつくされた公文書の数々はつい最近の出来事だ。これはTPP追及時の写真だが、築地の豊洲移転、森友・加計事件では「のり弁」(写真左)という言葉になり、「黒」はすっかり日本の隠匿文化の象徴として定着した感がある。

 1967年のことだったが「黒い霧解散」というのもあった。今度も「モリ・カケ」黒い霧解散と揶揄されても仕方がない。

 そして、ここのところせっかくの記録的「株高」なのに、その異常さに、ちょうど30年前のブラックマンデーの再来前夜かとささやかれている。

 ところで、朝日新聞10月16日に人格否定の「ブラック新人研修」とは 自殺で労災認定もという記事があり目についたので、その内容の一部を紹介したい。

 ゼリア新薬工業の新入社員だった男性(当時22)が新人研修中に自殺し、労災認定されていた。遺族が8月、記者会見して明らかにした。研修の一部を委託された会社の講師から、意に沿わない告白を強要されたことなどで精神疾患を発症。強い心理的負荷が自殺の原因と認められた。参加者の心を壊す研修の実態とは――。

 男性は2013年4月1日、ゼリア社にMR(医薬情報担当者)として入社。同10~12日、新入社員を対象にした「意識行動変革研修」を受けていた。

 「弱みをさらけ出せ」

 遺族や代理人弁護士によると、講師にそう迫られた男性は、吃音(きつおん)を同期の社員らの前で「告白」させられた。

 「吃音ばかりか、昔にいじめを受けていたことまで悟られていたことを知った時のショックはうまく言葉に表すことができません」

 「しかもそれを一番知られたくなかった同期の人々にまで知られてしまったのですから、ショックは数倍増しでした。頭が真っ白になって、その後何をどう返答したか覚えていません」

 男性は研修日記にそう綴ったが、参加者によると、感極まって涙を流す受講者も多数出る異様な雰囲気の研修だったという。

 その後も長時間の研修や自主学習を強いられた男性は同年5月19日、自宅に帰る途中で自殺した。男性の研修参加報告書には、講師が赤ペンで書きこんだコメントが残っていた。「いつまで天狗やっている」「目をさませ」

 「人格を否定し、それまでの価値観を破壊するような『ブラック新人研修』はこの10年間で増加傾向にある。ひどい労働環境でも辞めない様に、最初に順応させる狙いがある」という。…

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 ブラック研修」という熟語があることを初めて知った。

 若いころは営業マンだったので「営業研修」があった。その中の一つに精神力を鍛える研修もあった。一人一人がホースを持ち、大声をあげながら教室の床をたたいて回る。

 良かったという感想を述べる社員もいた。今から思うとこれもブラック研修だったのだろう。

 この件に関して、前作、気づきで社員研修のことに触れていたので、次に述べる自分が受けたある研修を紹介したい。

 「営業研修」の後階層別研修」を2回受けた。今から30年も前の30代後半、福岡営業所で係長をしていた頃の話だ。

 それがブラック研修かどうかは今でも分からないが、内容は朝日新聞の記事によく似ている。

 長い間勤めていた会社は、ある一社が階層別研修を一手に引き受けていた。年間ウンゼン万円払っていたという噂だった。 

 この研修を、彼らは「感受性訓練」と称していた。

 リクルートマネジメントソリューションズによると、「感受性訓練とは、別名ST(Sensitivity Training)と呼ばれ、周囲にいる人の気持ちや集団のダイナミズムを感じとり社会的感受性を高める訓練のことを指す。自他や集団の内面を診断し、場面に適した行動を自由にとれるようになることを狙っていて、1グループ10~15名前後で、面識がなく職業や年齢、背景などが異なるメンバーで編成されることが多い。 一般的には、トレーナーより議題や訓練の進め方が提示されることはほぼなく、受講者自らが訓練から何を得るか、訓練をどう進めていくかを考えなければならない」とあり、れっきとした学問のようだ。

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 研修の一環で、一人を受講生の集団で囲み様々な質問を投げかける場面がある。この写真は裁判所風景なのでちょっと違うが、こんな感じだ。

 虚勢を張らない素直な自分をさらけることを目的とするのだろうが、途中で気分が悪くなったり、泣き出す社員が出て来る始末だ。

 ある社員に対して講師は「あなたはもうボケている」と言っていたので、どうしてそんなひどいことを言うのかと聞くと、「彼にはそんなことを言っても気が付かない。それがボケている証拠だ」と言い返された。

 彼とは隣の布団で寝るので、その夜はどう声をかけていいのか困ったものだった。

 もう一つ鮮明に覚えていることがある。

 講師からみんなに「血液型の違いで性格が異なると思っている人は手を挙げて下さい」という問いがあった。

 誰も手を挙げなかった。自分は実はそう思っていない少数派(?)に属するが、そのとき手を挙げた。「みんな手を挙げないが、血液型の違いで性格が異なると思っている人は多いと思います」

 くだんの講師は語気強くこう言った。血液型の違いで性格が異なると思うのは、『宗教』と一緒で思い込みにすぎない」

 どのシーンで言ったか忘れたが、講師に対して堪忍袋の緒が切れて、遂に「こういう研修はいやだ」と言ってしまった。

 講師は、「この研修を理解しない人がいるのでは研修をする意味がない」と言い残して途中で帰ってしまった。

 その後、自分はその会社では7人いる人事部のマネージャーになった。

 人事部のマネージャーになると自動的に「トレーナー」という研修のサポート役を与えられる。

 ところが、自分だけは研修会社の反対に遭い任命されなかったのだ。

 その後会社に経営危機が訪れるといつの間にかこの研修は無くなっていた。

 一般的に3Kと呼ばれ、真っ先に経費削減のやり玉に挙げられる「広告費」「交際費」「教育費」のアルファベットの頭文字の「K」を取ったものの一つを地で行っていたのだ。

 この経験が「勇気ある勲章」だったのか「一生の恥さらし」だったのかは分からないが、あの頃も正しいと思えば我を通そうとする自分がいて、今となってみれば懐かしい思い出の一コマである。

良い黒(ブラック)【その1】

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 前作、ブラック研修では悪いイメージばかりの(ブラック)だったが、名誉挽回のため、良い黒(ブラック)の特集を組んでみた。

生活圏の近くにあった

滝山 

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 1946年に発表された若林慧(1987年、84歳で没)著作の「エデンの海」は3度映画化されたが、その舞台となった場所は、自分が小学3年生から中学1年の1学期まで住んでいた、広島県竹原市忠海地区だった。(写真はその記念碑。拙ブログ「エデンの海」参照)
 
 長い人生の中でたったの4年間。しかし、この多感な少年時代の思い出は、今でもはっきりと心に焼き付いている。

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 そこは目の前が
瀬戸内海、後ろは小高い山が迫る田舎町。
 

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 その小高い山が滝山(標高270m、写真)だった。

 子どもの足でやっとたどり着いた山頂は、天平年間(730年)、僧行基の創建と伝えられる観音堂に、鎌倉時代の名作・十一面観音像がある。

 眼下に広がる瀬戸内海は絶景中の絶景で、大久野島、芸予諸島・四国連山が一望できる。
瀬川

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 そこから移った呉市には3度引っ越したが、最後に住んだ阿賀地区には瀬川の下流が流れ込んでいた。

 黒瀬川は、流域面積238.8 km。東広島市のほぼ中央に位置する虚空蔵山(標高666m)に源を発し、並滝寺池から東広島市内を南流、呉市に入った後もそのまま南流し、呉市広多賀谷と呉市阿賀南の境界から斎灘(いつきなだ、瀬戸内海)へと注ぐ。

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銀と

 会社に入り、東京の本社から愛媛県・松山市に人事異動で、オーディオメーカーの営業マンになったのは1974年、25歳のときだった。

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 ステレオはセパレートステレオ(写真左)からシステムコンポーネント(別名:シスコン写真右)に代わっていた。

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 自社は「シスコン」は後発で最初は売れなかったが、銀と(写真)というキャッチフレーズで売り出したKラインというシリーズがヒットした。

 1975年頃発売された、スピーカーのサランネットが「黒色」、そのボックスとラックの色が「銀色」でカッコよかった。

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他の色との組み合わせ

 「銀と黒」の組み合わせは珍しいが、よくあるのが「黒と白」「黒と赤」の組み合わせだ。

と白

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 白混交(混淆)」(善いことと悪いことの区別をごっちゃにすること)、白分明」(善と悪がはっきりと区分されていること)、「転倒(事実を捻じ曲げること)、「風白雨」(暴風雨のこと)などがある。これは黒がちょっと不利だ。

◎レトロになるが、テレビ」写真左)「白写真(写真右)というのもある。

と黒

◎会計上の「赤処理」

 会計情報を訂正する方法の1つ。 いったん計上した金額を修正したい場合に、元の金額を直接修正するのではなく、元の金額を帳消しにするマイナスの金額(赤)と、正しいプラスの金額(黒)の2つを新たに計上する。 これにより訂正の記録を残すことができる。

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◎フランスの作家スタンダール(1842年、59歳で没、画像)の、実際に起きた事件などに題材をとった長編小説「赤と(Le Rouge et le Noir、1830年)。サマセット・モーム『世界の十大小説』の一つにこの小説を取り上げている。

 ナポレオン没落後、軍隊での栄達の道が閉ざされた時代の野心ある青年ジュリアン・ソレルが、策謀と強固な意志を武器に家庭教師、神学生、貴族の秘書を経て、その娘との結婚により社会的成功を得ようとする直前、昔の恋人レナール夫人の告発により挫折。復讐のため彼女を狙撃するが、獄中で彼女の真情を知り、死刑前の数ヵ月を平安と幸福のうちに過す。理知と情熱の両面をもつエゴチスト (自意識家) の複雑な性格の分析と王政復古期のフランス社会の鋭い批判によって、フランス近代小説の最初の傑作とされる。

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 また、ルーレットの回転盤(写真)の色を表し、一か八かの出世に賭けようとするジュリアンの人生をギャンブルにたとえているという説もある。しかし、作者は題名の由来について特に明言していない。

日本では、鶴田浩二の歌による「赤とのブルース」(1955年)という曲がある。




 

  

 


良い黒(ブラック)【その2】

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「黒」の付く苗字

 幸い黒」の付く苗字で過去に悪い印象を持った人はいない。どちらかというと「漆黒」のような渋いイメージがある。

有名人ではこんな人がいる

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黒の付く苗字の歌手の歌

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①上記のメンバーには入っていないが、黒木憲(2006年、64歳で没、写真

 130万枚も売れた彼の最大のヒット曲「霧にむせぶ夜」(1968年)。https://www.youtube.com/watch?v=eBriT5O3EBE 彼の息子は黒木憲 ジュニア(51歳)と名乗り活躍している。


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大黒摩季(48歳、写真

 2010年8月24日に13枚目のアルバム「すっぴん」の発表とともに1996年には発覚していた子宮疾患の治療のため、2010年10月末で無期限活動休止を発表した。しかし、2015年11月に子宮全摘出の手術を受け、長年患ってきた子宮疾患を完全克服した。

 本年の9月27日、復帰後初なおかつ、デビュー25周年記念第一弾シングルとして「Lie, Lie, Lie,」がリリースされた。この曲は、名探偵コナンのオープニングとして8月5日より起用されている。


「黒」の付く歌(日本編)

黒百合の歌(1953年)

 放送のある時間帯は、銭湯を空にしたといわれる伝説のNHKのラジオ番組「君の名を」(1952年)。

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 その番組の主題歌として作成された織井茂子(1996年、70歳で没、写真)が歌う同名曲だったが、番組で放送されることはなく、翌1953年に発売されたレコードが番組の人気に支えられ順調に売り上げを伸ばした。

 さらに同年に岸惠子佐田啓二主演で松竹により映画化(写真)され、主題歌として使われると、この曲は空前の大ヒットとなり、総計110万枚の売り上げを記録した。

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 続く、映画「君の名は」の第2部主題歌「黒百合の歌」、佐田啓二とのデュエットである第3部主題歌「君は遥かな」もヒットし、織井茂子は全国的なヒット歌手としてスターダムにのし上がった。

 「黒百合の歌」は北原三枝扮するアイヌの娘・ユミの気持ちを歌ったもので、歌詞にある「ニシパ」はアイヌ語で恋人の意。

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 「恋の花」アイヌ民族の伝説 好きな人への想いを込めた百合(写真)を、その人の近くに そっと置き、その人が 誰が置いたのか知らずに手にすれば 二人は 必ず結ばれるといわれいる。

 黒百合というものの、実際の色は濃紫。自然界には純黒の植物は存在しないといわれている。園芸の専門家たちが黒いバラや黒いチューリップを作り出そうとしているが、いまだに成功していない。花言葉は「恋」「呪い」。


黒い花びら(1959年)

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 「おミズ」という愛称で親しまれた水原弘(1978年、42歳で没、写真)のデビュー曲「黒い花びら」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)は、第1回日本レコード大賞を獲得、発売初年に30万枚、総合計57万枚という当時としては大ヒット作となった。

 また第10回NHK紅白歌合戦に初出場。その後も3年連続で紅白に出場を果たし、独特の甘い“低音”で一世を風靡した。 ここでは藤圭子の歌を。


黒の舟唄(1971年)

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 作家・野坂昭如(2015年、85歳で没、写真) は、火垂るの墓』(1967年)、アメリカひじき』(1967年)、『一九四五・夏・神戸(1976年)などの作品で「焼け跡闇市派」と呼ばれた。また「黒メガネのプレイボーイ」姿でマスコミをにぎわした。

 「黒の舟唄」元はヴァージン・レコードから3,000枚限定でプレスされた自主制作盤『鬱と躁』の収録曲だが、後に多くの歌手にカバーされており、中でも長谷川きよし加藤登紀子が知られている。


「黒(ブラック)」の付く歌(海外編)

黒い瞳のナタリー

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 フリオ・イグレシアス(74歳、写真)は、スペイン出身の歌手。3億枚を超えるレコード・セールスを記録し、ギネスブックに載り「史上最も多くのレコードを売ったアーティスト」の称号を持つ。

 「黒い瞳のナタリー」(Natalie)は、1982年郷ひろみ哀しみの黒い瞳」でカバーした、彼の代表曲。


黒いオルフェ(カーニバルの朝)(1959年)

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 「
黒いオルフェ」は、ヴィニシウス・ヂ・モライスによる1956年の戯曲「オルフェウ・ダ・コンセイサゥン」マルセル・カミュ監督により映画化したもので、フランス・ブラジル・イタリアの合作映画。1959年カンヌ映画祭グランプリ、1960年米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。ギリシア神話のオルペウス(オルフェ)とエウリュディケ(ユーリディス)の物語の舞台を、カーニバルで盛り上がる公開当時のブラジル、リオデジャネイロに移している。

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 アントニオ・カルロス・ジョビン(1994年、67歳で没、写真)が手がけたサウンドトラックにはルイス・ボンファによる「カーニバルの朝」(「黒いオルフェ」と呼ばれることも多い)をはじめとしたボサノヴァの曲が含まれている。

マント・ヴァーニ・オーケストラ/黒いオルフェ
 

黒くぬれ!(1966年)

 「黒くぬれ!」 (Paint It, Black) は、ローリング・ストーンズの1966年のシングル。ジャガー=リチャーズ作詞作曲。イギリス、アメリカ両国でシングルチャートの1位を記録した。イギリスではシングルで、アメリカでは『アフターマス』に収録されリリースされた。

 「赤い扉なんか見たくない 黒く塗ってしまいたい ほかの色はもういらない みんな黒に変わればいい 明るい夏の服を着た女たちが通り過ぎる 俺は顔を背ける 俺の中にはまだ 暗闇が居座っているから 黒ぬりの車の列  花も彼女も二度と戻っては来ない 道行く人が振り返っては すぐに目をそらす 子どもが生まれるのと同じように ありきたりのことだから 俺はといえば 心まで黒くぬりつぶされてしまった…」と歌う。


ブラック・マジック・ウーマン(1970年)

「サンタナ」にとって初の全米1位獲得アルバム。ブラック・マジック・ウーマン/ジプシー・クイーン」は、フリートウッド・マックのカヴァーとガボール・ザボのカヴァーのメドレーだが、レコーディングはそれぞれ別の日に行われた(前者は6月4日、後者は6月5日)。「ブラック・マジック・ウーマン」はシングルとしてもリリースされ、全米4位のヒットとなる。第2弾シングル「僕のリズムを聞いとくれ」は全米13位。


「黒(ブラック)」の付く飲み物と言えば…

 何と言ってもコーヒーブラックコーヒー」を飲むと何となく大人になったと感じたものだ。

 英語でblackとは日本と同様、何も加えないことを指すこともあれば、砂糖の有無については問わずに乳製品を加えないコーヒーを指すこともある。また、日本国内で販売されている缶コーヒーで、いくつかの商品は「加糖ブラック」と表記されている。

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 サントリー・ボス シルキーブラック 400gボトル缶(写真)は、「しっかりとしたコーヒーの味わいと、なめらかな飲み口が特長のシルキーブラック。 当社独自のエスプレッソ抽出技術により、さらに香り高く、飲みやすく進化しました。 仕事中や、ちょっと気分転換したい時など、どんな時にもぴったり合う無糖ブラックタイプのシルキーです」というのがうたい文句。

 松田聖子「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」(1983年)を使ったCMは圧巻だった。


「黒」を使った国旗

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ヨーロッパには紋章文化があり、紋章を作る慣習などを体系化した「紋章学」という学問がある。その中に次のようなルールがある。

 1.紋章の色は金属色と原色の2種類
2.金属色は金(黄色)と銀(白)の二つ
3.原色は青・赤・紫・黒・緑の五つ
4.金属色同士、原色同士が隣同士に配置されていはいけない。

 ドイツの黒・赤・黄の横三分割旗は、1813年にナポレオン軍と戦ったプロイセンの学生義勇兵の制服につかわれていた、赤い肩章と金のボタンが付いた黒いマントに由来している。

 ベルギーの国旗の原型は、オーストリア・ハプスブルク家への抵抗運動として起こった1789年のブラバント革命のときの、黒・黄・赤の三色旗といわれている。当初は、横三分割旗だったが、1831年に独立した際、現在の縦三分割旗が国旗として制定された。この3色は、ブラバント公国の赤い舌と爪を持つ黄色い獅子が黒字に描かれた紋章に由来している。

 エストニアの黒は抑圧された民族の歴史を表わしている。

イスラーム教の黒旗は、ムハンマドが戦闘で掲げていたものとされ、極めて肯定的な意味を持つ。

 預言者時代には黒旗と白旗が用いられたといわれ、ウマイヤ朝は白旗、アッバース朝は黒旗、そしてシーア派は緑旗で知られている。

天皇賞の本命「キタサンブラック」

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 史上2頭目の天皇賞3勝目を狙う1番人気馬の御存知、サブちゃんの「キタサンブラック」は、本日15時40分の出走。競馬ファンには堪えられないひと時だ。



天地真理

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 朝日新聞土曜版be on Saturdayの記事はこの紙上で何度も紹介してきた。自分にとって貴重な情報源だ。

 その中で、「もう一度流行歌」というシリーズものがある。
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 10月14日は「ひとりじゃないの(天地真理)」だった。天地真理(現在65歳、写真)は4年前の2013年に、ブログで特集したことがあったが、改めて懐かしさと、新事実を知ることになったので再度取り上げることにした。天地真理参照)

 記事は次の通り。

 真理ちゃんといえば「元祖女性アイドル」。最大の魅力はスマイルで、歌のうまさは二の次という印象もありました。でも、実は高校で声楽を学んだ本格派だったって知ってましたか?

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 天地真理さんが存在を知られたきっかけは、歌番組ではなくドラマ「時間ですよ」(画像)に出演したことだった。舞台である銭湯の従業員役のオーディションを受けたが、演出の久世光彦さんが「新たな役を作る」と特別枠で採用。元マネジャーで、現在はコンサートの企画・制作などを手がけるハンズオン・エンタテインメント社長の菊地哲榮さんがふり返る。

 「初回の台本には役が載ってなくて、実際の放送でも10秒くらいしか映らなかった。久世さんには『ひどいじゃないか』って文句を言ったんだけどね」

 結果的には、この「ちょい見せ」が功を奏した。テレビ局に「あの娘は誰?」という問い合わせが殺到したのだ。

 ここからセリフがどんどん増え、白いギターを弾きながら、歌声を披露するシーンが定番に。ドラマが始まってから3カ月後の1971年10月、満を持して発売されたデビュー曲
「水色の恋」は、オリコンの週間チャートでいきなり3位を記録した。


 「ひとりじゃないの」は翌年5月発売の3枚目のシングルだ。作詞の小谷夏は、久世さんのペンネーム。菊地さんによると、本人から「詞を書かせろ」と言われ、恩人の頼みだからと承ったそうだ。


 彼と2人で旅に出て、サビの「ひとりじゃないって すてきなことね」へと続く歌詞には、少し問題もあった。天地さんのキャッチフレーズは「白雪姫」。所属事務所には、男性とつきあっていることをあからさまにした歌はNGという不文律があったからだ。

 「社長にそのまま見せたら却下されていたのを、何とかごまかして発売しちゃったんだ」と、菊地さん。結果は、2枚目の
「ちいさな恋」に続いて1位を獲得。天地さんにとっては最大のヒットとなった。


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 今回、天地さんとは会えなかったが、書面で丁寧なコメントを寄せてくれた。

 「『水色の恋』の次に好きな歌です。当時は忙しくてその場で初めて譜面を見てすぐにレコーディングの本番でした。スタジオにあるピアノで音を確認しながら歌いました。サビの高音のところをうまく歌えるように、何度も練習したことを覚えています」

 えっ。本人のなかのランキングでは、デビュー曲の方が上だったの?

声楽を学んだ高校時代

 「水色の恋」は元々、デビュー前に通ったボーカル教室で覚えたフォークソング。天地さんは当時、フォーク歌手として売り出されたと認識していたという。

 「デビュー曲がヒットして、その後アイドルと言われるようになり、曲も変わっていったのです」

 さらにさかのぼると、卒業したのは東京の国立音大付属高校声楽科で、特徴的なファルセットもクラシックを学ぶ中で身につけた。

 「週に2回、学校と先生のご自宅で個人授業を受けました。校内で有名なとても素晴らしい先生でした」

 実際にデビュー盤を聴くと、落ち着いた曲調もあいまって、その発声はどこかクラシック風だ。アンケートでも、歌唱力を再評価する声が目立った。

 「可愛いだけのアイドルなどと言われていたけど、最近聴き直して、『癒やしのファルセット』にほれ直した」(福岡、58歳男性)、「40年たってその歌唱力が素晴らしいことにやっと気づいた」(神奈川、63歳男性)、「天地真理は歌が下手と言われ続けました。本来は豊かな感受性と美しい声で歌に命を吹き込める素晴らしいシンガーでした」(千葉、54歳女性)。

 天地さんはアイドル時代をこう述懐する。「当時、ファンの声援があまりにも大きくて、歌に集中するのが大変でした。家に戻ると、化粧を落としながら涙がぼろぼろこぼれてきて、いつも泣いていました」

 アイドル扱いは不本意だった? そう単純ではない。コメントはこう続く。

 「忙しくて窮屈な生活だったこともありますが、その時に頭に浮かんでいたのはファンの皆さんの顔や声。それらが頭を過(よ)ぎり、こんな私で申し訳ないという思いでした。今思うと、あれが私の青春でした」

 ひとりじゃなかった。

  天地真理さん、南沙織さん、そして小柳ルミ子さんは新三人娘と呼ばれた。同時代以降の主なアイドル歌手は下表の通り。(年齢は+3~4歳と見てください)

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 現在、天地真理さんは川崎市の高齢者向け住宅で寂しい老後を送っているようだが、1973年のブロマイド年間売上枚数が女性部門で1位になるなど、1970年代前半は国民的スーパーアイドルとして一世を風靡した

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 また、人気アイドルとしてキャラクターグッズ(下敷きなどの文房具やトランプなどの玩具)が多数つくられ(写真左)、さらにはブリヂストンサイクルからは自転車「ドレミまりちゃん」(写真右)なども発売された。今では当たり前となったアイドルグッズのはしりといえる。
 
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 ヒット曲は主に『森田公一とトップギャラン』で知られる森田公一(現在77歳、写真)が手掛けていた。

 彼の作曲では「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「若葉のささやき」「恋する夏の日」「空いっぱいの幸せ」「恋人たちの港」「恋と海とTシャツと」「想い出のセレナーデ」からなる一連の大ヒット曲を発表する。

 なお、オリコンシングルチャートでは「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「若葉のささやき」「恋する夏の日」の5曲が1位を取っており、この記録は、後に松田聖子に破られるまで女性ソロシンガーでの最多記録であった。

 1973年「春の選抜高校野球甲子園大会」において「虹をわたって」が入場行進曲に選ばれ、天地も同センバツ大会の開会式にゲスト出演した。


天地真理/若葉のささやき(1973年)


天地真理/若葉のささやき(1973年)



天地真理/想い出のセレナーデ(1974年)


 ところが好事魔多し。1977年、甲状腺機能不調などを理由に東京・港区三田の東京専売病院に緊急入院、約1か月後の2月20日には退院するもののひきつづき休養生活に入り、芸能活動を約2年半にわたり休業した。

 どうやら休養期間中は単に心身を休めるのではなく、東京音楽学院に定期的に通ってレッスンに励み、また繁忙期には楽しめなかったショッピング・絵画製作・ひとり旅などを満喫し充実した日々を過ごした。休業中といえどもナベプロ恒例の新年会には欠かさず出席していた。

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 1983年(当時31歳)、「私が雪だった日」を歌うことにより、「白雪姫」時代の終幕を飾りアダルトへと路線変更し、同年12月にセミヌード写真集を、また1986年にはヌード写真集を発売。にっかつロマンポルノ『魔性の香り』(原作:結城昌治、監督:池田敏春、写真)に主演(滝村秋子役)。1986年、アダルトビデオ『危険なレッスン』(監督:渡辺優)を発売した。

 1990年代前半には太りぎみとなり、明石家さんま司会の番組にしばしば準レギュラー出演、天然風のキャラで人気を博す。その後、減量に成功し痩身法についての著書『スリムになるってステキなことネ 天地真理の白雪姫ダイエット』(双葉社、1997年)を出版したり、ダイエット商品の広告で雑誌に頻繁に登場したりするようになる。1997年7月、ヘアヌード写真集『東京モガ』を発売。同年、岩下志麻主演の松竹映画『お墓がない!』(監督:原隆仁)に出演(未亡人敏江役)。(Wikipedia 参照)

近況報告【2017年11月5日】

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 前回の近況報告が8月25日だったので、約2ヶ月ぶりの報告である。

 その間、「大きな変化があった」とまでは言いにくいが、もちろん変化は起きている。

仕事

 「マンション管理人」の仕事も4ヶ月が過ぎた。もうすっかり慣れたと言いたいところだが、まだまだ悪戦苦闘の日々だ。

 ブログの巻頭の「一言メッセージ」で次のような文言を綴っているが、その通りである。(ここでは3ヶ月としている)

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 身体が慣れていないのか、他に理由があるのか、足腰を始めとして体中が痛く、いまだに辛い毎日が続く。

 中途半端に終わらせることが出来ない性格で、一生懸命掃除をしているつもりだ。夏は熱中症にやられ、今は落ち葉が凄いのでとても大変だ。仕事が終われば上着まで汗びっしょりになり、風邪を引かないのが不思議なほどである。 

 ただし、最初に掲げた「清潔さで最高のマンションにする」ことと、「マンションの住民とのコミュニケーションを最高のものにする」という目標はいささかの揺らぎもない。

 自己満足かも知れないが、マンションがきれいになるのは気持ちがいいし、マンションで親しい人も増えてきた。どちらもまだまだ発展途上だが、これは嬉しいことだ。
健康

 体中が痛いのとは別に、身体の異変を感じている。いつもフラフラするのだ。

 10月15日の朝、家で血圧を調べると上が183あった。(下は83)次の日は173あり、病院に行った。実は心筋梗塞で手術後4年経ったが、安定しているということで紹介状をもらった7月からその病院にも行かず、薬も飲んでいなかった。

 渋々10月17日にそこに行き、調べてもらったが悪玉コレステロールが多い(172)。

 10月31日にはCTスキャンの検査を行い、その2週間後の11月14日に結果を聞く。

 仕事は肉体労働であり、巡回など歩く時間も多く、体重は4㎏減った。1ヶ月1㎏の割合だが、これはまだまだ減りそうだ。
生活

 生活は激変した。老後の切り詰めた生活。長い間好き勝手な人生を送ってきたので、慣れるのに四苦八苦している。

 食費は月2万円以内に抑えたいので、帰りがけにちょっと飲みに行くことはない。500円以内に抑えたいお昼の食事は悩むところだ。お昼の休憩時間、基本的に外出することが出来ない、電子レンジなど調理器はないというのが今の条件だ。

 一番安いのは「パン」という結論に至った。しかし、このパンは食パンや菓子パンで、サンドウィッチではない。最近週刊誌などで「パン食は危険」という記事が出回っていて心配している。確かに菓子パンばかりでは身体によくないと思う。

 ご飯は家で用意できる。管理室には電子レンジがないので冷たいが、「惣菜」があればいい。ところがコンビニでは思ったようなものがない。

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 それがファミリーマート「お母さん食堂(写真)という惣菜シリーズが発売されたというニュースがあり期待した。

 しかし、今のところアイテムも少なく、本当に惣菜に力を入れているとは思えない。それで、昼食メニューは試行錯誤をしている。

 携帯電話は失敗だった。今使っているスマホは月8,000円ぐらいだが、会社を辞めた時、ガラケーにすべきだった。それに換えるにも、一時的に中途解約手数料がかかるし、1ヶ月は新旧で二重の料金が発生する。今はどうするか迷っている。

楽しみ

 最後は、こんな状況下でささやかな楽しみをどうやって持つかということだ。

 その一つは、通勤の電車で乗り換えは一度あるが、長い方の電車の「行き」35分は朝早いので確実に座れ、「帰り」も途中からは座れることだ。その間に「読書」が出来る。

 そして1週間5日勤務のうち、金曜日だけは「ゴミの回収がない」日だ。その日だけは喫茶店で「モーニングコーヒー」が飲める。たった15分だけだが心が癒されるひとときだ。

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 だが、それもコンビニで100円コーヒーイートイン(写真)で飲めるのを知ると、それもいいかと思ってしまう。

 やはり究極は、長い時間拘束される「今の仕事」に楽しみを見つけることになってしまう。

 ちょっとしたことでもいい、毎日新しい発見をすること、これを求めて46年間働いてきた。これは今でも続いている。一見単調に見える仕事でも毎日変化はある。今の仕事は辛いことも多いが、新しい発見の連続である。

 マンションには若い家族が多い。目の前の道路は、小学校がすぐ近くにあり通学路でもある。何時の時代でも子どもは本当に可愛い。今は子どもとあいさつを交わすのが一番の幸せかな。

 最近、小学生の女の子たちがこんな歌を歌いながら学校から帰っているのを見て驚いた。

倍賞千恵子/かあさんのうた(1956年)


 こんな歌、学校で教えてくれるのだろうか。ホッコリした気持ちになったのは言うまでもない。 


 




15歳

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 突然ですが、15歳のときのことを思い出してみた。

アンジェラ・アキ「手紙~拝啓 十五の君へ~」

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 特に大きな意味があるわけではない。ある同世代のブログ友だちから、
アンジェラ・アキ(現在40歳、写真)の「手紙~拝啓 十五の君へ~」(2008年)という曲のカラオケ歌っているという話を聞いて興味が湧いたからだ。

 「手紙~拝啓 十五の君へ~」は、第75回NHK全国音楽コンクール・中学校の部(2008年)の課題曲として書き下ろされた『手紙』(編曲:鷹羽弘晃)を自身の歌唱用にアレンジした曲(編曲は自身が担当)。

 楽曲のキャッチコピーは「あなたは、『未来の自分』に手紙を書いたことがありますか?」

 今から10年前の30歳を迎えたアンジェラの手元に、母から届いたのは、多感な15歳の頃に未来の自分自身に宛てた「手紙」だった。「僕」が悩みを未来の自分に宛てて、“手紙”を書くことによって今を生きていくということを表している。歌詞の内容から卒業ソングとしても歌われている。

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 2015年には、中田永一が2011年に発表した小説『くちびるに歌を』が、ガッキーこと新垣結衣(写真中央)を主演に映画化され、公開となった。

 原作小説は本曲とアンジェラ・アキ自身をモチーフに現代版『二十四の瞳』として評価された作品で、映画の主題歌も本曲となっている。

 
長崎県五島列島の中学校に臨時の音楽教師として赴任して来た柏木ユリ(新垣結衣)は嫌々ながらも合唱部の顧問を引き受け、そこで中学生たちと交流をしていく。中学生である彼らがそれぞれ抱える不安や悩みと向き合い成長するとともに、教師である柏木自身も変わっていく青春物語だ。


15歳とは

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 15歳は一般的には中学三年生から高校一年生にかけての期間。(図)

 自分は1949年3月30日生まれなので、1964年4月から1965年3月までを指す。

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 日本では義務教育期間が終了するとき。

 初めて高校進学という受験戦争の洗礼を受けた。当時、晴れて入学すると、両親からのお祝いは「腕時計」(写真)というのが相場だった。


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 その15年後ぐらいからか、自分がオーディオの営業マンだった頃は、それが「ステレオ」(写真)に代わり、15’s(フィフティーンズ)と呼ばれた入学需要で、毎年3月~4月が年間の売上げのピークとなり、30万円クラスのステレオが飛ぶように売れたものだ。

 
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 15歳は古代から中世における元服(写真)の年齢。

 Wikipediaによると、栃木県、石川県、愛媛県、宮崎県、熊本県や、その他一部の地域にある中学校は、今でも中学2年または3年になると学校行事として「立志式」「立春式」「少年式」「元服式」を行なっているという。
 大河ドラマや時代小説によると、幼いころに結婚する大名は多いが、特に女性は政略結婚のせいか、幼妻が多い。

 例えば、織田信長の妻、濃姫は14歳。豊臣秀吉の妻、高台院も14歳。側室で有名な淀殿は19歳。徳川家康の妻、築山殿は15歳だった。

 大河ドラマ「江」の主人公・崇源院は初婚は9歳(ただし子供を産んだのは徳川秀忠と再婚した22歳ごろ) 。同じく大河ドラマ「利家とまつ」の主人公、まつこと芳春院は前田利家に嫁いだのが数えで12歳、つまり11歳。翌年には子供を生んでいるため12歳で出産したことに。(【日本人女性】結婚年齢はこう変わった!参照)

 これはそれとは関係ないが、こんな童謡も。

小鳩くるみ/赤とんぼ十五で姐(ねえ)やは嫁にいき】(1921年)


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 「赤とんぼ」【1921年(大正10年)】は日本の三大詩人の一人、三木露風(1964年、75歳で没、写真)が、故郷である「播磨の小京都」と称される、兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれ、『樫の木』に最初に発表した。その後、童謡集『真珠島』で一部修正する。この詩に、1927年(昭和2年)、山田耕筰が曲をつけた。

 露風は5歳の時両親が離婚することになり、以降母親とは生き別れで祖父に養育されることになったが、実際は子守り奉公の姐やに面倒を見てもらい、そのときの印象を歌にしたものだ。

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15歳は反抗期真っ只中

 自分もこのころは反抗期の真っ只中だった。幸か不幸か不良にはならなかったが、何もかにも無性に腹が立つことがあった。

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 尾崎豊(1992年、自死により26歳で没、写真)のファースト・アルバム「十七歳の地図」(SEVENTEEN'S MAP)(1983年)。初版プレスは1300枚で、オリコン史上、発売からミリオンセラー達成まで最も時間がかかった(10年3ヶ月)アルバムだが、ファーストシングル「15の夜」など、彼自身は「ファースト・アルバムを超える作品が作れない」と発言しているほど、後の代表作が多数収録されている。

 鬱屈した10代の感情を歌い上げた楽曲群は若者たちに受け入れられ、現在でも再発が繰り返されている作品である。この歌は尾崎が14歳の時に、尾崎の同級生で友人の一人が髪が長いという理由で中学校の教師にバリカンで髪の毛を刈られたことに反発して、仲間と共に実際に家出した経験を基に作られ、当初は「14の夜」と作詞したかったが、それでは語呂が悪いため、「15の夜」としたという。その仲間たちとよく集まり、歌詞にもある家出の計画を立てた場所は練馬区にある向山公園である。

 プロデューサーの須藤晃は後に著書でこの歌の歌詞について、「誰も書いたことのないような、ティーンエイジャーのための、ティーンエイジャーによる、ティーンエイジャーの詞だった」と書き著している。(Wikipedia参照)


1964年はどんな年?

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◎ときは高度成長時代所得倍増政策で名をはせた首相の池田勇人(写真)は、1964年にはOECD加盟も果たした。

 それでも大卒の初任給は今の十分の一の2万円だった。
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◎1964年は東京オリンピックが行われた年。 

 東京オリンピックの開催を旗印に首都高速道路が8月1日に開通。

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 東京・大阪間の新幹線の営業開始はオリンピック開催直前の10月1日だった。東京駅と新大阪駅で朝6時に超特急「ひかり号」が発車、東京駅では石田国鉄総裁が テープカットをした。 (写真)

「ひかり」の愛称は一般公募の56万中2万票を集めて一位になった名前で、開通当初は「ひかり」は1日14往復。東京ー大阪の運賃は1.180円、超特急料金が 1.300円。所要時間は、超特急「ひかり」で4時間だった。

 東京オリンピックの開催期間は10月10日~10月24日の2週間。

 8月21日、ギリシャで採火式、聖火リレーがスタート。タイのバンコクでカトマンズからの聖火と合流し、那覇に運ばれた。

 アジア初のオリンピックとなった東京大会の参加国は大会史上最多の94ヵ国、参加選手・役員は7,495人を数えた。この大会で始めて通信衛星を利用したテレビ実況が行われた。

 会場は、 国立霞ヶ丘陸上競技場、 駒沢総合運動場を中心に埼玉、神奈川、千葉、長野の各県にまたがって30会場が新設または改造された。  

 日本選手のメダル獲得は、金16、銀5、銅8個。

 重量挙げでは、三宅義信が世界新記録で金メダルに輝き、参加選手7人全員が入賞、レスリングでは5階級で金を獲得した。

 体操男子は、前大会に次いで団体で優勝したほか、個人でも金銀各3を獲得した。

 柔道では無差別級決勝で神永がオランダのヘーシンクに敗れたほかは、3階級とも順当に優勝した。

 そして女子バレーボールでは、「東洋の魔女」が23日夜に行われた決勝で宿敵ソ連を倒した。

 男子マラソンでは、円谷幸吉があと200mのところで抜かれて3位だったが、28年ぶりで陸上競技でのメダル獲得だった。

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 しかし、私にとって東京オリンピックの最大の思い出は、バレーボール「東洋の魔女」でも、柔道のアントン・ヘーシンクでもない、和製スーザこと、古関裕而(1989年、80歳で没、写真左作曲のオリンピック行進曲である。ラジオ放送でおなじみのアナウンサー・鈴木文彌(2013年、88歳で没、写真右)の名調子と共に、感動の開会式を。


◎音楽的には1962年に「ラヴ・ミー・ドゥ」でレコード・デビューしたビートルズが絶好調のころで、1964年は、Can't Buy Me Love 、I Feel Fineなどがヒットした。
 
 また、トンキン湾事件などでベトナム戦争が泥沼化する中、アメリカではBlowin' in the Wind 「風に吹かれて」、The Cruel War「悲惨な戦争」 (Bob Dylan)、We Shall Overcome 「勝利をわれらに」 (作詞:ピート・シーガー)、Where Have All the Flowers Gone?「花はどこへ行った」 などの反戦歌が流行った。
 
 日本では御三家橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)を初めとする青春歌謡の真っ只中だったが、東京オリンピックの影響で爆発的にヒットしたのが美空ひばり「柔(やわら)」だった。
 
 これは美空ひばりの全シングルの中で最高売り上げ記録となった。

ビートルズ/Can't Buy Me Love (1964年)


ピーター・ポール&マリー/風に吹かれて(1964年)


美空ひばり/柔(1964年)


 不安も多かったが、夢のある時代だったね。

 

1964年

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1964年はどんな年?

1.日本経済
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 ときは高度成長時代所得倍増政策で名をはせた首相の池田勇人(写真)は、1964年にはOECD加盟も果たした。

 それでも大卒の初任給は今の十分の一の2万円だった。

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 家電製品は大きく変わった。

 戦後間もない1950年代後半の「三種の神器」と言われた商品は、テレビ洗濯機冷蔵庫だった。

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 そして、1960年代半ばの「いざなぎ景気」の時代には、カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) の3種類の耐久消費財が新・三種の神器(画像)として喧伝された。これら3種類の耐久消費財の頭文字が総てCであることから、3Cとも呼ばれた。

 中でも普及が早かったのは1964年の東京オリンピックを境に売れ出したカラーテレビで、一番遅かったのはクーラーだった。
3.精神論が横行していた時代
 
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 1964年に行われた東京オリンピックにはいくつかの功罪があった。

 今の過酷な長時間労働につながる「根性論」の横行である。

 バレーボール全日本女子を率いた大松博文や、レスリング日本代表を率いた八田一朗が精神論を前面に出した、いわゆる鬼コーチによる厳格な練習方法が成果を挙げた影響が大きい。(写真)

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 漫画の世界では「巨人の星」(写真)を代表とする、「スポ根」という言葉が生まれ、スポ根ものでは、しごきカリスマ的指導者鉄拳制裁がいわば三種の神器であり、読者にカタルシスを与える道具となった。
 
 そして、1960年代後半から1970年代初頭にかけてスポ根漫画を原作としたテレビドラマが登場し、柔道を題材とした『柔道一直線』や、バレーボールを題材とした『サインはV』や水泳を題材とした『金メダルへのターン!』などが人気作品となった。

4.東京オリンピック

 1964年は東京オリンピックが行われた年。 

 東京オリンピックの開催を旗印に首都高速道路が8月1日に開通。

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 東京・大阪間の新幹線の営業開始はオリンピック開催直前の10月1日だった。東京駅と新大阪駅で朝6時に超特急「ひかり号」が発車、東京駅では石田国鉄総裁が テープカットをした。 (写真)

「ひかり」の愛称は一般公募の56万中2万票を集めて一位になった名前で、開通当初は「ひかり」は1日14往復。東京ー大阪の運賃は1.180円、超特急料金が 1.300円。所要時間は、超特急「ひかり」で4時間だった。

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 東京オリンピックの開催期間は
10月10日~10月24日の2週間。

 8月21日、ギリシャで採火式、聖火リレーがスタート。タイのバンコクでカトマンズからの聖火と合流し、那覇に運ばれた。

 アジア初のオリンピックとなった東京大会の参加国は大会史上最多の94ヵ国、参加選手・役員は7,495人を数えた。この大会で始めて通信衛星を利用したテレビ実況が行われた。

 会場は、 国立霞ヶ丘陸上競技場、 駒沢総合運動場を中心に埼玉、神奈川、千葉、長野の各県にまたがって30会場が新設または改造された。  

 日本選手のメダル獲得は、金16、銀5、銅8個。

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 重量挙げでは、今年度の文化功労賞を受賞した三宅義信(77歳、写真)が世界新記録で金メダルに輝き、参加選手7人全員が入賞、レスリングでは5階級で金を獲得した。

 操男子は、前大会に次いで団体で優勝したほか、個人でも金銀各3を獲得した。

 柔道では無差別級決勝で神永がオランダのヘーシンクに敗れたほかは、3階級とも順当に優勝した。

 そして女子バレーボールでは、「東洋の魔女」が23日夜に行われた決勝で宿敵ソ連を倒した。

 男子マラソンでは、円谷幸吉があと200mのところで抜かれて3位だったが、28年ぶりで陸上競技でのメダル獲得だった。

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 しかし、私にとって東京オリンピックの最大の思い出は、バレーボール「東洋の魔女」でも、柔道のアントン・ヘーシンクでもない、和製スーザこと、古関裕而(1989年、80歳で没、写真左作曲のオリンピック行進曲である。ラジオ放送でおなじみのアナウンサー・鈴木文彌(2013年、88歳で没、写真右)の名調子と共に、感動の開会式を。


5.音楽の世界

リバプールサウンド

 リバプールサウンドとは、それらのバンドがロンドン出身だろうがマンチェスター出身だろうが「1960年代前半にアメリカでヒットを飛ばしたイギリスのバンド」を指す、日本独自の呼称のようだ。

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 1964年にエド・サリバン・ショー出演(写真)で幕を明けたビートルズのアメリカでの驚異的な成功(72%という、アメリカTV番組史上最高の視聴率を獲得)が呼び水となって、ビートルズと同じリヴァプール出身のジェリー&ザ・ペースメイカーズサーチャーズをはじめ、イギリス各地のバンドが次々とアメリカへと渡り、1964年から1965年にかけてビルボードのヒットチャートの約半分がイギリスのバンドで占められるという現象が起き、アメリカの音楽業界はこれをブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)と呼んだ。

 英米では、特にリヴァプール出身のバンドを指して、その地が河口のマージー川に由来してマージービートと呼び、ロンドンやマンチェスターなど他地域のバンドも含めた場合はブリティッシュビートという総称で呼ぶのが一般的だという。(Wikipedia 参照)
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上段:左よりアニマルズ、サーチャーズ、ホリーズ、キンクス、デイヴ・クラーク・ファイヴ
下段:ヤードバーズ、ピーター&ゴードン、ゾンビーズ、マンフレッド・マン、ザ・フー
ビートルズ/Can't Buy Me Love (1964年)


デイヴ・クラーク・ファイヴ/ビコーズ(1964年)



◎反戦フォーク

 また、トンキン湾事件などでベトナム戦争が泥沼化する中、アメリカではBlowin' in the Wind 「風に吹かれて」、The Cruel War「悲惨な戦争」 (Bob Dylan)、We Shall Overcome 「勝利をわれらに」 (作詞:ピート・シーガー)、Where Have All the Flowers Gone?「花はどこへ行った」 などの反戦歌が流行った。

ピーター・ポール&マリー/風に吹かれて(1964年)



◎モータウン旋風

<モータウン旋風の時代背景>

 1964年から、66年まではデトロイト発の
モータウン旋風と呼ばれる、R&Bが吹き荒れた。

 そのころ、政治的には、アメリカは激動の時代だった。

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 1961年ジョン・F・ケネディ(写真左)が大統領に就任、1962年のキューバ危機は無事乗り越えたが、1963年に46歳の若さで暗殺される。

 1964年、公民権法両院を通過成立。マルティン・ルーサー
・キング牧師(写真中央)ノーベル平和賞受賞するも1968年、39歳の若さで暗殺される。

 1965年、マルコムX(写真右)演説中に暗殺される。この人も39歳の若さだった。

 1966年、ヴェトナム・ハノイに空爆LSD使用禁止法案可決。

 1967年、全米80都市で黒人暴動が起こり、三度目の『長く暑い夜』となる。

<スプリームスの活躍>

 モータウン旋風の立役者は何と言っても、ザ・スプリームス

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 ザ・スプリームス(The Supremes、写真)は、アメリカの黒人系女性ボーカル・グループ。1959年結成、1977年解散。長い活動期間の中で所属レコード会社や音楽性は何度か変わっているが、その全盛期は1964年から1969年までである。

 オリジナルメンバーは、ダイアナ・ロスメアリー・ウィルソン、フローレンス・バラードにベティ・マグロウンの4人。ベディはすぐバーバラ・マーティンに替わり、そのバーバラも抜けて1961年、ザ・スプリームスと改名してモータウンと契約した頃には3人組となっていた。その後、1969年のダイアナ脱退前の最後のシングルとなった「Someday We'll Be Together (邦題:またいつの日にか)」まで、合計12作の全米No.1ヒットを生み出した。

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 右の表を見て欲しい。これは1964年から66年までの3年間のビルボードの調査で、トップに立った曲のうち、ビートルズ(黄色)モータウン歌手の一覧である。なお、モータウンのうち、スプリームスだけは、緑色の網かけをしている。

 これによると、ビートルズはさすがに12曲あるが、スプリームスも8曲で、大健闘している。そして、その他のモータウン歌手は合わせて4曲である。

 なお、
エルヴィス・プレスリーは1960年の除隊後、映画の出演が多く、ラスヴェガス万才を始め、この3年間で8作品も主演している。しかし、この間音楽でトップは1度もない。

 ビーチボーイズは作曲家でリーダーのブライアン・ウィルソンがビートルズのアルバム、ラバー・ソウルに衝撃を受け、対抗心を燃やした。そして、今では高い評価を受けているものの、1966年にペット・サウンズというアルバムを作ったが、今までのイメージと違ったため、当時は受け入れられず、精神不安定状態に陥っていたという。この間のトップは、アイ・ゲット・アラウンドを含め3曲である。

ザ・スプリームス/愛はどこへ行ったの(1964年)


◎その他の洋楽

ニニ・ロッソ/夜空のトランペット(1964年)


フォー・シーズンズ/悲しきラグ・ドール (1964年)


◎邦楽

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 日本では御三家橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦写真)を初めとする青春歌謡の真っ只中だったが、東京オリンピックの影響で爆発的にヒットしたのが美空ひばり「柔(やわら)」だった。
 
 これは美空ひばりの全シングルの中で最高売り上げ記録となった。

橋幸夫/恋をするなら(1964年)


美空ひばり/柔(1964年)



◎その他の邦楽

ペギー葉山/学生時代(1964年)


岸洋子/夜明けのうた(1964年)


 不安も多かったが、夢のある時代だったね。



近況報告【2017年11月21日】

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 今から2週間前の11月5日に近況報告【2017年11月5日】を投稿したばかりだというのに、また近況報告である。

健康

 前回「健康について、体中が痛いのとは別に、身体の異変を感じている。いつもフラフラするのだ」とし、10月31日には心臓のCTスキャンを行い、その2週間後の11月14日に結果を聞く」と報告した。

 その結果がどうやら思わしくないのだ。来週の火曜日(11/28)に妻と病院に行き、当日になるかどうかは分からないが入院し、場合によると再度心臓の手術を行うことになりそうだ。

 診察時にCTの画像を見ると、心臓に近い血管が細くなっている。

 それに、心臓疾患の前兆かどうかは分からないが身体の不調は今も続いている。

 ところが、採血の結果では、下表の通り、ここ10年間で一番肝機能脂質代謝の数値が良くなっている。

 唯一悪化したのが悪玉コレステロール(LDLコレステロール)だったが、たった1ヶ月の間に劇的に改善している。172から72まで下がっているのだ。数値が偶然100違うこともあり、本当は係員の転記ミスではないかと疑っている。

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 病院に行った理由の一つの血圧の上が183あった(下は83)のは、今測ってみると、146(下は71)だ。

 体重も社会人になって以来ずっと増え続け、80㎏台が続いていたが、15年ぶりに70㎏台に下がった。

 これはひとえに今の仕事のおかげ(せい?)だと思う。激しい肉体労働だからだ。
生活

 生活は激変したが、切り詰めた食生活を送ると、どうしても野菜不足になりやすい。ご飯、パン、麺類ーいずれも炭水化物ばかりで、これは身体に良くない。

 まだ職場での食事方法のいいアイディアは生まれていない。
出会い

 ほとんど仕事場と家との往復なので、出会いは少ない。

 それでも、ある会社の先輩招待会で紹介した、毎年この時期に行われる、会社主催のOB会に先日、仕事が終わってから出かけた。着いたのが始まる17時ぎりぎりという、きわどいタイミングだった。

 それで、自分が採用に係わった元職場の女性と話したかったが、ほとんど時間が無かった。

 それでも一言。

 8年半前、第10話:新入社員教育で紹介した話だが、自分が社員教育用に作った、100ページに及ぶ大作(!?)「〇〇会社ハンドブック」が何度も改訂されて、すでに11版となり、現在も使われているという資料を見せてくれた。今の編集担当者が彼女だという。

 それがとても嬉しかった。退社して8年以上経ったが、自分の遺産がまだ残っているのだ。

 もう一つ。すっかりご無沙汰しているが、4半世紀来の行きつけのスナックのママから電話が有り、どうしても来て欲しいという。

 それが、この先輩招待会の日と重なったので、少し遅くなったがこの会合が終わった後に出かけた。

 そこで、15年ぶりに昔の同僚と会った。彼とは親しい飲み仲間だったが、その会社の経営が傾いたとき管理職の指名解雇を行った。その対象の一人が彼で、自分は人事の責任者として、それを申し渡す役目を担った。当然彼にとっては青天の霹靂で、以来、二人の関係は完全に崩れた。15年の時はそれを水に流してくれたのだろうか。楽しいひと時ではあった。
仕事

 どんな仕事でも、今まで信じていたことが反映する。

 以前にもお伝えしたが、管理人業務の主な仕事は、清掃」「ゴミ出し」「マンション管理」である。

 求人広告でマンション管理人」というのはとても多い。中高年の再就職のターゲットになりやすい職業である。

 4ヶ月経てば感じることは幾つもある。

 まず一つは、日常は清掃」「ゴミ出し」というのが仕事の中心である。一見誰でも出来そうだ。実はそんな仕事程、奥が深いと思っている。人との質の差が生まれやすいということだ。

 自分は後半の会社人生ではずっとスタッフ業務を務めてきた。いわゆる作業とか、肉体労働はしなかったということだ。

 それは不利なこともある。設備関係に疎いのと、体力的に厳しいということだ。

 しかし、有利な点もある。この仕事は基本的に一人で行う。それで大切なのは「自己管理」である。もちろん、バレて淘汰はされると思うが、明け透けにいうと、手を抜くことが可能だということである。

 スタッフ業務を続けていると、作業に従事する人に比べ、より「自己管理」が重要だということを知る。スタッフは、人に強制や指導を受けなくても、自主的に仕事をすること、アイディアを出すことが求められているからである。

 4ヶ月も経つと、フランクに話せる住民も増えてきた。マンションには若い家族が多いのは前回の近況報告でお伝えした。にっこり挨拶をしてくれる子どもも増えた。本当に可愛いものだ。

 それでもクレームやトラブルはある。これは過去の仕事の経験が生きていると思っている。

 まずはすぐにアクションを起こすことだ。一生懸命対応を図れば、誰しも納得してくれるものだと信じている。

 嬉しいこともある。近所の老夫婦から「こんなにきれいにしてもらって、子どもの教育に与える影響が大きい」と褒められたことだ。

 目の前の道路は、小学校がすぐ近くにあり通学路でもある。
 もし健康が理由でこの仕事が出来なくなるとなれば、とても残念だ。

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