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長寿社会【その2】

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 前作、長寿社会【その1】で、日本が世界でも経験したことのない勢いで少子高齢化が進んでいて、2015年の日本人の平均寿命は女性87.05歳、男性80.79歳だが、33年後の2050年には、平均寿命は女性90歳男性84歳で、100歳以上は100万人を突破するという予想まであることをお伝えした。

団塊の世代

 何と言ってもその主役は、我々「団塊の世代」である。

 「団塊の世代」とは、第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)に生まれて、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のことである。

 連合国軍占領下の日本で誕生し、実の父親が戦死して母子家庭となった例や、本土空襲などの戦災体験がない世代である。また、昭和40年代にヒット曲となった戦争を知らない子供たち」に象徴される「戦争を知らない世代」「初の戦後生まれ」である。

杉田二郎/戦争を知らない子供たち(1970年)


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 その名前は、作家の堺屋太一(現在82歳、
写真)が通商産業省鉱山石炭局在籍時の1976年に発表した小説『団塊の世代』の中で用いたことから、「団塊の世代」という用語とともに、団塊の世代が日本社会に及ぼす大きな影響が一般にも認識された。なお、アメリカでも同様の現象が見られており、こちらは「ベビーブーマー」と呼ばれている。

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 確かにそのときは異常だった。

 学校は大幅な生徒数の増加に、急きょ「プレハブ校舎」(写真)を建てて対応を図った。

 自分の高校は11組あり、1クラス50名なので、1学年で550名も生徒がいた。

 当時は「受験戦争」と呼ばれるほど生存競争は厳しく、高石ともや「受験生ブルース」(1968年)の歌詞が他人事とは思えなかった。

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 一方で、地方農村や旧産炭地(ちょうどその頃エネルギー革命で多くの炭鉱が閉山した)の中学校・高等学校卒の若者は、高度経済成長期で働き口が豊富だった東京や大阪などの大都市へ集団就職(写真)した。

 彼らは「金の卵」と呼ばれ、工場や商店などといった中小零細企業で大勢雇われ日本経済の底を支えた。

高石ともや/受験生ブルース(1968年)


井沢八郎/あゝ上野駅(1964年)


団塊の世代と現在の出生数の違い

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 厚生労働省が6月2日発表した人口動態統計によると、2016年に生まれた子どもの数(出生数)は97万6,979人となり、1899年に統計をとり始めて以来はじめて100万人を割り込んだ。出産適齢期にあたる女性の人口が減り、少子化に歯止めがかからない。

 ちなみに「団塊の世代」の3年間の年間出生数は260万人を超えている

 1947年生まれは267万8,792人、1948年生まれは268万1,624人、1949年生まれは269万6,638人であり、3年間の合計出生数は約806万人にのぼるという。(右図参照)

団塊の世代が引き起こしている課題

 次は、総務省調査による2017年1月1日現在の日本の年齢別人口構成比のグラフである。

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 その中では、おおよそ団塊の世代に当たる65歳~69歳の人口が突出している。

 「団塊の世代」はいろんな問題を抱えてきた。

 まずは、かつて2007年問題」というのがあり、2007年になると団塊の世代が60歳の定年退職することで働き手が不足するという懸念があった。これは、法律の改正により、団塊の世代が基礎年金をもらえるようになるのは、63歳~65歳に引き上げられた。そのため、年金がもらえるようになる年まで、退職後も働き続ける人が多く、この問題はさほど深刻なものではなかった。

 さらに「2012年問題」という、雇用延長して65歳になり、年金をもらい始める年になると、仕事を辞める人が増えるのではないかという懸念が新たに生まれた。これも深刻なものにはならなかった。不況の影響により、技術力の低下というマイナス面がある一方で、人件費が削減できたというプラスの面もあるためである。 

 しかし、今後も大きな問題を抱えている。2022年頃以降には後期高齢者(75歳以上)となり、一定の部分は社会的入院や要介護者になり、年代とともにその比率は高まっていき、社会保険の負担がさらに増えるだろうと考えられているからである。
 昔は、長寿といえば敬われたものである。

 しかし、これだけ高齢者の比率が高まれば、逆に厄介者扱いされてもおかしくない。それでは、これから我々高齢者はどのような生き方をしたらいいのだろうか。

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 そのヒントを探して、現在、五木寛之(現在84歳、写真)のこの3冊を読んでいる。

 「嫌老社会を超えて」(2015年、中央公論新社)、「うらやましい死にかた」(2000年、文藝春秋)、「余命」2015年、祥伝社)である。

 次回は、この書籍の感想を中心に、老後の在り方について語っていきたい。

めまい=熱中症!?

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 最近、自分の年齢を改めて感じさせる事件(!?)があった。

 拙ブログ、近況報告【2017年7月9日】でお知らせした通り、今月から「マンション管理人」として第?回の仕事人生を再開している。

 今は、これが自分の人生で最後の仕事だと思っているが、世の中そう簡単には行かない。

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仕事に就く前に「めまい」発症

 6月21日投稿の拙プログ急病から回復でも述べているが、仕事に就く前の研修が行われる前日の日曜日に突然激しいめまい吐き気に襲われ、救急車で病院に運ばれた。

 結果は、良性発作性頭位眩暈症(りょうせいほっさせいとういめまいしょう)という病気で、内耳の中の古くなった耳石(カルシウムの粒)が三半規管(バランスのセンサー)の中に迷い込み、頭を動かしたときにセンサーが誤作動を起こすことによって発症する。老化現象の一つだそうだ。(図)
めまいの種類

 めまいに苦しんでいる人が多いのは病気になって知ったことだが、自分にとっては多分初めての経験。ここで少しめまいについて勉強してみよう。

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右図のように、
めまいの原因の多くは耳鼻咽喉科領域である。

1.内リンパの貯留…内耳を満たす内リンパが過剰になる(内リンパ水腫)と、内耳の働きが異常となり、めまいを生じる。めまい、難聴(とくに低音の聞こえが悪い)や耳鳴り、耳がつまった感じなどの症状があらわれることがある

 代表的な病気メニエール病

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2.内耳の中の浮遊物…前庭にある耳石のかけらがはがれ、半規管内に入るとめまいが生じる。発症は急激で、突然にぐるぐる回るような、強い回転性のめまいが起こる

 代表的な病気良性発作性頭位めまい症

3.前庭神経の炎症…平衡感覚に関係する前庭神経が炎症を起こすとめまいを生じる。

 代表的な病気前庭神経炎

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神経内科領域のめまい

 脳血管の障害…小脳や脳幹に出血や梗塞が起きると、めまいを生じることがある。

 代表的な病気脳卒中(脳出血、脳梗塞)、椎骨脳底動脈循環不全

内科・循環器科領域、その他のめまい

1.頸椎(首の骨)の病気…頸椎の摩耗などによって、身体のバランスをとるための手足からの情報が十分に脳に伝わらないと、めまいを生じる。

 代表的な病気脊柱管狭窄症、後縦靭帯骨化症

2.血圧変化…血圧が急激に変動すると脳へ送られる血液量が不安定になり、めまいが生じる。

 代表的な病気起立性低血圧、高血圧、不整脈

3.その他…不安・心配ごと、低血糖、貧血によってもめまいを生じることがある。
めまいを再発

 それは奇跡的に次の日に直りホッとしていたが、それから約1ヶ月近く経った7月14日(金)の朝、また激しいめまいに襲われ、起き上がることが出来ない。

 同じ病院に行くと、先生から「これ『熱中症』じゃないの」と言われた。そう云えば思い当たる節もある。

 慣れない仕事の上、やたら頑張った。こんな暑い日が続く毎日なのに、清掃や巡回で屋外にいることが多かった。相当無理をしていたのだ。

 ただし、熱中症そのものかというと、ちょっと違う感じもする。

 熱中症の初期症状は、「めまいや立ちくらみ」、「大汗をかく」、「筋肉痛や足がつる」、「頭痛や吐き気がする」、「疲れや倦怠感がある」、「痙攣する」、「意識がもうろうとする」、「体温が高くなる」など。

 前述の良性発作性頭位眩暈症の可能性もあり、結局、正確な病名は分からずじまいだったが、着任早々1週間休んでしまった。

 それで、公休もあったが、今日は7月23日だというのに、まだ10日しか働いていない。

 病院の女先生からも言われた。「もう若くないんだから、自覚しないといけませんよ」

 「もう20年もエアコンのない生活を送っている」というと、呆れた顔で「こんなに暑いのに、この歳でそんな生活はもう無理ですよ」とダメを押された。

 確かにその通りだ。まだ、過去の幻像に浸っている。自分を過信をしていて、このぐらいで倒れるとは思っても見なかったのだ。
TBSテレビ「ゲンキの時間」

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 今日(7/23)7時からのTBSの番組「ゲンキの時間」を見ると、健康カプセルゲンキの時間【熱中症のような脳梗塞ラクナ梗塞と腎臓病 】を放送していた。

 めまいを感じて「熱中症」だと思っていたが、実は違っていたという事例。

【夏特有の2大病1】脳梗塞

 ある50代の男性は夏の暑い時期にめまいやふらつきという熱中症に似た症状を感じたが、
ただ「軽い熱中症にでもかかったかな」とそのまま放置した。ところが翌朝左手にしびれを感じて病院を受診し、脳梗塞と告げられた。実は脳血栓の季節別発症頻度を見ると夏(6~8月)が1番多いそうだ。

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 夏の脳梗塞の主な原因は脱水で、その目安は体重の約2%不足している場合が軽度、5%が中等度、7%以上が高度となる。図)

 軽度の症状はのどの渇き、だるさ。中等度は口の中が渇きねばねばする、尿量が少なすぎる。高度の脱水では意識朦朧、血圧低下を引き起こす。この状態は命にも関わるので注意が必要である。

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 また、脳梗塞による死亡率が急上昇するのは32度を超える気温だということ。

 1日の水分補給両は1.5L以上が理想とされる。

 脱水予防の3つのポイントとして、就寝前にコップ1杯の水を飲むお酒の飲み過ぎは避ける汗をかいた場合はしっかりと水を飲むことがあげられる。

【夏特有の2大病2】腎臓病

 ある40代の男性は趣味のマラソン大会に出場することを楽しみにしていたが、大会の2・3日前に風邪気味になってしまった。布団にくるまって汗をかき、大会当日は熱も下がって体調も問題なかったので5kmマラソンに参加した。そしてラスト1kmでスピードを上げようとしたところ、ぼーっとしてきたので軽い熱中症かなと思ったものの、ゴール手前で倒れて救急車で病院に運ばれた。そして告げられた病名は急性腎障害だった。

 腎臓病の原因も脱水で、腎臓は特に夏の暑い時期に患いやすい臓器だという。脱水状態になると血液の量が減り、血圧が低下するが、血圧が下がると血液をろ過する圧力が低下して老廃物がたまってしまう。尿毒素が急激に溜まった状態が急性腎障害だということ。

 また、頻尿になると夜寝る前に水を飲まないで寝てしまいがちだが、夏っは寝汗をかいてしまうので脱水になり、血液がドロドロになり、腎臓病になりやすくなってしまう。そしてこの状態を放っておくと脳梗塞になってしまうことも。

 ざっくりまとめると「水分補給を」ということに尽きる。
 自分もいろんな病気の可能性もあり、重大な病気でなくてラッキーだった。しかし、油断は出来ない。どんな病気が待ち受けているか、もう分からない年代に突入したということだ。

 まだ朝は少しめまいが続いていて、高じないか怖い毎日。

 疲れを溜めないこと、暑いところに長くいないことに注意だが、とにかくこまめに「水分の補給」をしていきたい。そして、寝る前にコップ1杯の水を飲むことを忘れない様にしよう。
 
 いつまでも自分は若いと過信しないことだ。

 一つだけ救いがあった。仕事仲間から「長く続ける仕事だから無理をしないで働くこと」と励まされたことだ。ちなみに周りはみんな団塊の世代だ。

五木寛之

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 同じ年代の有名人がバタバタと亡くなる中、五木寛之氏(現在84歳、写真)が元気だ。彼は「人生五十年というのは正しい。それ以後はオマケと考えて感謝の日々を送るべきだ」と言っている割にはその「オマケ」の人生が長い。

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 今から42年前の1975年、彼がまだ現在の歳の半分の42歳のとき、日刊ゲンダイでエッセイ『流されゆく日々』を始めたが、2008年に通算8,000回の世界最長コラムとしてギネス世界記録に認定され、この7月28日現在、10,216回と、今もなお連載中だ。


 拙ブログで検索すれば「五木寛之」こんなにヒットする。

 何と、33作「五木寛之」登場しているのだ。

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 もっとも、2001年には映画化され、33作のうち7作も登場する「大河の一滴」(1998年)は「この世にしぶとく生き残った者は、全て『善キ者』たちの死によって生き長らえている『罪深き者』たちなのだ」というフレーズがほとんどである。

 ちなみに下表の挿入テキストの黒字は小説・随筆、青字は音楽関係だ。
 
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 五木寛之は、主に「人生のヒント」、「大河の一滴」、「下山の思想」等、「人生」と、百寺巡礼」(2008年、講談社文庫、写真)、百の旅千の旅」「旅のヒント」等、「旅」をテーマにした「小説家・随筆家」であると同時に、音楽にも造詣が深く、「作詞家」としても有名である。

 音楽のエピソードではこんなものがある。

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「演歌」「艶歌」とも「怨歌」ともいう。「怨歌」は彼が圭子(2013年、62歳で没)の歌を聴いて評した造語で、その経緯を怨歌の誕生」(2013年、双葉文庫、写真)という実名小説でこのように描いている。
 
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 「藤圭子(写真)という新しい歌い手の最初のLPレコードを夜中に聴いた。彼女はこのレコードを一枚残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。

 日本の流行歌などと馬鹿にしている向きは、このLPをためしに買って、深夜、灯りを消して聴いてみることだ。おそらく、ぞっとして、暗い気分になって、それでも、どうしてももう一度この歌を聴かずにはいられない気持になってしまうだろう。

 ここにあるのは、<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である」

藤圭子/圭子の夢は夜ひらく(1970年)




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五木ひろし(現在69歳、写真左)の命名者である山口洋子(2014年、77歳で没)は、苗字の「五木」を五木寛之から頂戴したものだったが、改名後のデビュー作である「よこはま・たそがれ」で、この7月21日に79歳で亡くなった平尾昌晃(写真右)と初顔合わせをした。これは、ロカビリー歌手から作曲家に転身した平尾にとって、初めての演歌作品でもあった。

 なお彼は、五木ひろしに「ふりむけば日本海」(1971年)という曲を提供している。



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この人も今年の4月12日に亡くなった、ペギー葉山(83歳で没、写真)と五木寛之の話題。

 2010年、「自らの人生を振り返った時、希望がわくような歌にしたいね」と、45年の付き合いの、五木寛之と相談して、NHK「ラジオ深夜便」の1月、深夜便20周年記念曲として作られた「夜明けのメロディー」は、彼女のヒット作品として、約40年ぶりのオリコンチャートインを果たす快挙を成し遂げた。 


そしてこんな曲も彼の作詞によるものだ。

 立原岬のペンネームで「旅の終りに」(1977年、歌:冠二郎)等も作詞した。また、五木寛之の名では「青年は荒野をめざす」(1968年、歌:ザ・フォーク・クルセダーズ愛の水中花」(1979年、歌:松坂慶子「金沢望郷歌(2005年、歌:松原健之などの作詞を手がけている。




 五木寛之は1932年(昭和7年)生まれだが、どんな有名人がいるのだろうか。

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 上段は現存の男性。から、稲盛和夫(実業家)、露口茂(俳優)、渡部恒(政治家)、若山弦蔵(声優)、三浦雄一郎(冒険家)、田中邦衛柳澤愼一仲代達也(俳優)、石原慎太郎(政治家)、神津善行(作曲家)

 中段は、現存の女性。から、惠子渡辺美佐子有馬稲子(俳優)、木元教子(エッセイスト)、寿美花代野村沙知代(タレント)、久保菜穂子岩崎加根子(俳優) 
 
 下段は故人。カッコ内は没年と没年齢。から、谷啓(2010年、78歳)、
船村徹(2017年、84歳) 、宇井純(2006年、74歳)、真鍋博(2000年、68歳)、石堂淑朗(2011年、79歳)、小室直樹(2010年、77歳)、安田伸(1996年、64歳)、谷幹一(2007年、74歳)、高千穂ひづる(2016年、83歳)
 現在、五木寛之のこの3冊を読んでいる。

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 「嫌老社会を超えて」(2015年、中央公論新社)、「うらやましい死にかた」(2000年、文藝春秋)、「余命」2015年、祥伝社)である。

 次回は、この書籍を参考に長寿社会【その3】を投稿する予定だ。

長寿社会【その3】

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 厚生労働省は2017年7月27日、2016年分の簡易生命表の概況を発表した。それによると2016年における日本の平均寿命は、男性が80.98歳、女性が87.14歳で、いずれも過去最高になった。2015年と比べると、女性は0.15歳、男性は0.23歳延びて、男女とも世界2位だったという。
 
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 このグラフにはないが、平均寿命の一番古いデータの1891年-1898年で、男性42.80歳、女性44.30歳。

 織田信長によるものが有名な、敦盛の一節「人間五十年」よりも短い。

 戦前は、1918年から世界的に大流行したスペイン風邪、そして1923年に発生した関東大震災、そして、もちろん第二次世界大戦の影響を受け、「50歳ライン」を超すことはかなわなかった。

 のように、戦後初となる1947年調査で、初めて男女とも平均寿命が50歳を超えている。
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 平均寿命とは別に、平均余命という見方がある。

 例えば、図のように2016年の時点で67歳の男性は、今後さらに平均で18年近く、85歳まで生き続けるという試算ができる。

 健康寿命健康余命という見方がある。

 いくら長生きといっても、寝たきりではありがたい話ではない。

 WHOでは健康余命について「病気やけがなどで完全な健康状態に満たない年数を考慮した、『完全な健康状態』で生活することが期待できる平均年数」と定義している。調査時点でゼロ歳における健康余命が健康寿命となることは、寿命の概念と同じ。

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 日本が平均寿命でトップレベルにあることは良く知られているが、平均健康寿命は低いのではとの話も耳にする。

 しかし実際にはのように、平均健康寿命でも他国から群を抜く形で最上位にあることが分かる。

 2015年の平均健康寿命のトップは日本で74.87歳、次いでシンガポールの73.88歳、韓国の73.17歳と続く。上位陣は大よそ単純な平均寿命上位国と変わらないのが特徴だが、ある意味当然の結果でもある。なおイギリスは71.44歳、アメリカ合衆国は69.08歳、中国は68.53歳となっている。
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 もう一つは平均健康余命。ゼロ歳時の平均健康余命が平均健康寿命となるが、この図は60歳における平均健康余命を算出したもの。例えば日本では21.12年とあるので、2015年時点で60歳の人は、あと21年ほどは健康な状態を維持できるであろうと試算されている。

 60歳時の平均健康余命でも日本がトップ。次いでフランスの20.28年、シンガポールの20.17年と続く。随分と差が出ているように見えるが、縦軸の最下部分が18年なので、実のところ上位20カ国でも差異は3年足らずでしかない。とはいえ、日本が群を抜いて高い値を示しているのも、また事実ではある
。(参照:日本の平均寿命の推移をグラフ化してみる(最新)、平均健康寿命の国際比較をグラフ化してみる(2017年)(最新) 

 今更ながらではあるが、これを見て分かるように、日本は以前は「経済大国」と呼ばれたときもあったが、今は人類が経験したことのない「長寿大国」になっているということだ。

 世界に例がないだけに、日本がこれからどうしたらいいか国民的議論をしていかなければならない時期だというのに、それを主導すべき「政治」といえばスキャンダル合戦の真っ最中で、私利私欲の世界に堕落しきっている。
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 五木寛之「嫌老社会を超えて」(2015年、中央公論新社、写真)は、これからの国の在り方、我々「年寄り」の生き方について、鋭い提案を与えてくれる本だ。

 要旨を述べてみよう。
老人は「弱者」ではなくなった

 長老は人数が少なく、ある種貴重な存在だったからリスペクトされる「長老」たりえた。今や、右を向いても左を向いても高齢者が目に入る環境にあっては、もはやありがたくもなんともない。有り難いどころか「疎ましい」だけという状況が生まれている。

 そして、人間は自分より「弱い」存在には優しくなれる動物である。高齢者も本来弱者であるが、今ではそういう常識が通用しなくなっている。現代日本に生きる高齢者層は、数の上でメジャーになっているだけでなく、とにかく元気で活発、なおかつ、非常に目立つ。

 公的年金医療保険。今の高齢者は、この二つの社会保障制度の恩恵を、フルに享受できる世代である。

 その結果、老人に対する同情に代わって生まれたのが、下の世代からの「反感」であり、嫌悪」の感情だろう。

 その典型は、年金暮らしなのに立派なクルマを運転して、あげくの果ては「逆走」して他人に迷惑をかけているというのに、今の若者は「クルマが欲しくても、経済的にとてもそんな余裕がない」ないのが実態である。
「貯め込む」高齢者

 「下流老人」という言葉が生まれている一方で、気ままに海外旅行に出かけたり、高級車を買ったりする「豊かな老人」の存在が目立っている。

 その「豊かな老人」と裏腹の関係にあるのが、少子化が深刻と呼ばれる「貧しい若者」である。子作りはおろか、結婚もせず、いや出来ずに一生を送る人間がどんどん増えている。

 そんな状況にもかかわらず、彼らは年金が保障された「豊かな」高齢者世代を背負わねばならず、団塊の世代のリタイヤによって、負担はますます重くなっていく。若者世代の多くが「暗澹」とした気分にならない方がおかしいだろう。

 その老人たちは、「加齢」によって、自分たちに向けられる嫌悪感に「鈍感」になりそれにほとんど気付いていない。平たく言えば「空気を読まなく」なるのだ。

 やがて「搾取する「老人階級」と、「搾り取られる」「若者」との間で新しい階級闘争が起きる懸念が生じている。

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(これは余談)
【図解・社会】振り込め詐欺など特殊詐欺の被害額推移
 
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 以前は、
オレオレ詐欺」だったが、今は振り込め詐欺」が主流のいわゆる「特殊詐欺」は、のようにいまだに被害が治まらない。 
 
 2014
年の565億円余りをピークに2年連続の減少となったが、昨年(
2016年)はそれでも406億3千万円の被害があり、依然として高水準にある。

 65歳以上の被害は前年より400人増の1万1,041人で、全体の8割近くを占めた。声掛けによる水際阻止は最多の1万3,140件に上り、約192億円の被害を防いだ。

 なけなしのお金を奪われた人にはお気の毒としか言いようがないが、老人はこれだけ「貯め込んで」いるということだろう。
「ドローン」とカナリア

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2010年4月、首相官邸の屋上で、無人機「ドローン」が発見される事件が起きた。(画像)数日後、福井県在住の40代の男性が自首して逮捕されたが、彼がネット上で自筆のマンガを公開していたことを(五木氏が)編集者の一人から聞いた。

 これが、ネットの世界では「おもしろい」とかなり話題になったそうだ。

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『ハローワーカー』というマンガに描き出されているのは、タイトルからも分かる通り、若者の失業者が主人公のストーリー。そこには、究極の嫌老社会、世代間の熾烈な階級闘争が展開されている。

 少子高齢化に悩む日本で、20××年に「老人駆除法」が施行される。厚生労働省は、失業中の若者を雇って「増えすぎた」高齢者対策として「老人駆除部隊」を結成し、「老人狩り」に乗り出す。報酬は歩合制で、一人「処分」するごとに1万円。そうやって、あらゆる手段を使って高齢者を「間引き」、浮いた年金や医療費は、出産や育児、教育費のどに振り向けるという。この施策は奏功し、出産祝い金が500万円まで引き上げられた日本の出生率は、戦後最高を記録、第3次ベビーブームに沸き立つ。…(画像)
不安な時代

 本は、世界に冠たる「豊かな国」であるが、人々はみな「漠たる不安」にさいなまされている。

 地震、津波、噴火といった自然災害から、病気、老後、年金破綻、テロ、戦争、ハイパーインフレ、国家財政の破綻、地球温暖化と、どれもこれも、いま一つ現実感をもって捉えられないけれども、「いずれ必ず来る」と脅かされているものばかりだ。

 そんな不安を2011年3月11日の出来事が「巨大化」させた。あの大震災は、日本人が久しく忘れていた自然の脅威をまざまざと呼び覚ましただけではなく、大津波によって引き起こされた原発事故は、先端技術の信じがたい危うさとともに、この国で最も「優秀」だと信じられていた人たちの無能ぶり、いいかげんさをも満天の星の下に晒すことになった。

 世界に類のないほどの高度経済成長を達成し、バブル景気とその崩壊を経験した今、目の前に見えているのは明らかに「下り坂」である。

 いや、日本はまだまだ発展する、という人がいる。円安で日本を訪れる外国人が増え、口々に「日本は素晴らしい国だ」と言っているではないか。2020年、東京オリンピックの開催が決まったではないか…と。

 だがしかし、人々は「宴の後」に何が待っているのかに、薄々気付いているのではないだろうか。

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 古代ローマの詩人、ユウェナリス(画像)が当時の世相を評して残した「パンとサーカス」
。権力者から与えられるパン=食糧と、サーカス=娯楽に満足し、権力に対する政治的な批判精神を喪失したローマ市民を揶揄した言葉がその答えの一端だ。

 週替わりのように人々の耳目を集める国会議員の不祥事や「失言」、学校の先生や警察のセクハラ、芸能界のスキャンダルなどというのもまた、興味の尽きない「サーカス」に他ならない。

 みんながするべき心配から意識的に目をそらし、お気楽に日々を送る日本の現実を、私(五木氏)は「心肺停止」社会と名付けた。現実を直視しようとしないのは、自分たちの足下で進行している事態が、あまりにも深刻なものである裏返しだ、ともいえる。
人生の「下山」について

 歴史が登山に例えられるが、日本の経済が「下り坂」に移行していることと同じく、人生の下山を意識して生きなければならない。

 その「下山」の時期については、格好の「教科書」に古代インドのヒンズー教に生まれた概念がある。人生には四つの「時期」に分けられ、それぞれの時代には、それにふさわしい生き方、役割があるという考え方だ。

 まだ気持ちは現役なのに、体の衰えをはっきりと自覚せざるを得ないというのは、皮肉ではあるが、人は、ともすれば老いたこと、老いに向かいつつあることから目を逸らそうとする。「そんなことはない」と心の中で強がったりもする。自らの「老い」をきちんと認めることが大切である。
 これからが重要である。

嫌老社会に生きる。「嫌老」から「賢老」への転換を。

 「老人階級」が階級として世の中に受け入れられる条件。それは、「自立すること」だ。

 まず、一定以上の収入のある豊かな人々は、「年金を返上」すればいい。何歳になろうとも、働ける人は働く。そして、十分な収入があるのなら、その分年収は減らすようにする。年金をもらわないことを「損だ」と考えるのではなく、ちゃんと社会に還元するのだ。

 高齢になってもそれなりに働き、「稼ぎがあるから、今のところは年金はいらないよ。国のお金は、若い人の子育てや教育に回して欲しい」と言い、それを実行する老人に対して「ヘイト」感情を抱く人間がいるだろうか。

 二つ目の提案は「選挙権の委譲」である。少なくとも100歳を過ぎたら選挙権は悠然と下の世代に譲り、政は彼らに任せる。

 世の中には、高齢者の知恵や技術を生かせる仕事が、まだたくさんある。反対にビルの清掃とか警備とか、本来若い人の方が適している力仕事の類を高齢者が引き受けている、というミスマッチもある。

 「老人が感じる本当の不便さ」が分からない今の社会にビジネスチャンスが潜んでいる。

 例えば「みんなが満足できる補聴器」、「物が挟まらない入れ歯」、「高齢者専用の自動車」など。高齢者自身の手によって、それを世界市場で売り出す。「ニッポンといえば、高齢者をケアする製品やサービスで右の出るもののない国」というブランドが確立されたら、世界が日本を見る目がガラリと変わるだろう。

 高齢者にお金を注ぎ込むのではなく、中心になって稼ぎ出してもらうという「逆転の発想」は、若者の職を奪うどころか、彼らにより高付加価値の仕事を提供することにもつながっていくはずだ。
 自分はこの考え方に全面的に賛成だ。

 今日(7/30)のTBSサンデー・モーニングで、安倍内閣の「受け皿」についての議論があった。そこでは『これまで「受け皿」という発想で政権交代が失敗した、これからもその考え方では失敗が続くだろう』という意見があった。

 その通りだと思う。

 今の政治家をガラガラポンにして政党の再編成を図るのが成功するとは思えない。

 しかし、国民には政治不信のマグマが渦巻いている。そのマグマがドイツの「ナチス」を生んだり、今の世界でも起きている、極端なポピュリズムやファシズムに走るのが怖い。

 その場しのぎや自分のことしか考えない政治家を廃して、今や世界が経験したことのない高齢化社会になった日本の将来を真剣に見据えた、既成概念や既得権益とかのしがらみのない「新政党」が政権を握って欲しい。

 「トリクルダウン」などという妄想に走る今の政権にはとても任せるわけにいかない。

 

 

長寿社会【その4】

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 前作、長寿社会【その3】では、 五木寛之「嫌老社会を超えて」(2015年、中央公論新社)だったが、今回の記事は「余命」2015年、祥伝社、写真)を参考にしている。主な内容は次の通り。

第1章 「余命」を前向きに考える(余命とは余裕をもって残された時間、「これが自分の天寿だろう」と感じたときこそ、幸せとはいえないのが、長寿者の大半、「人生五十年」という言葉の重さ)
第2章 人はどのように死んでいくのだろうか(いまは、「終活」の時代、長生きは、本当にめでたいことか、延命だけが残された唯一の道なのだろうか、他)
第3章 人には、逝き時というものがある(死ぬ時間がどんどん先に延びていく、巨大な産業となった医療の世界 他)
第4章 死を避けない。自分の逝く年を決めてみる。(今年見ている桜を、あと何回見ることができるか、自分はどう逝くか。それを考えてみることは悪いことではない 他)
第5章 死をイメージしてみる(心の準備とは、死をありありとイメージすること、死のレッスンができるかどうか ほか)
 「終活」という言葉は、2009年(平成21年)、『週刊朝日』から生み出された言葉とされているが、すっかり定着し、今や社会の大きな潮流となっている。

 老人にとって、これからの人生について、「よい生き方」ではなく、よい逝き方」、人生をどう閉じたらいいかの方に関心が高まってきているのだ。

 振り返ってみると、自分は「終活」についての関心が疎かった。-いや、怖いから、考えるのを意識的に避けていたのだと思う。

 もうすぐ4年になる心筋梗塞で手術したときも、そのときすでに65歳だったというのに、死ということを真剣に考えなかったし、もっと仕事を続けられものと信じていた。

 昨年末会社を辞めた時も、自分はまだ会社に貢献できるはずだと未練たらたらだった。

 7月からマンション管理人になり、この時期に病気に罹ったこともあり、老化を実感し、ようやくそんなギラギラした感情から目が覚めたようだ。

 まだ身体のふらつきがあり、最近ブログ作りもネタは山ほどあるのに、集中力に欠け、筆が思うように進まない。辞めるつもりはないが、身体の変調を感じている。

 ところで、職場は同世代=団塊の世代ばかりである。それが、雇用延長期限の65歳からではなく、定年の60歳から働いている人が多いのに驚いている。

 ところが、彼らは自分とは違い、冷静に自分が置かれた立場を理解し、きちんと将来の生活設計を立てているように思え、感心している。
 これからはどんな病気や災難が待っているかもしれない。

 テレビや雑誌などで、100歳近い高齢者が元気でマラソンや水泳に励んでいる姿が紹介されるのは、それが珍しいからだという。

 80歳になった人は少なくとも8つ以上の病気を抱えていると言われるそうだ。

 他人に考え方を強制するつもりはさらさらないが、個人的には、重病になって家族の負担をかけて生きるつもりはない。「老々介護」と言われ、介護疲れで介護する方が先に亡くなるようなことだけは避けたい。

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 認知症について、
認知症対策でお知らせした通りだが、日本では65歳以上の認知症の人は462万人以上で、軽度認知障害と呼ばれる予備軍の400万人を含めると、認知症の人は高齢者の4人に1人を占め、今後も増えると見込まれる。

 五木氏に言わせると、認知症は、人生の老醜を意識しないですむ神の摂理という説もあるそうだ。なにしろ本人は、自分を意識していない。ぼけるということは、無残にもここまで衰えた自分というものを実感せずに済む、神の摂理というわけだ。

 それでも、父や祖母の悲惨な姿を見ているだけに、出来れば認知症にはなりたくない。

 予防できる認知症、9つの要因2017年07月20日)という記事があった。

 認知症の3件に1件は、生活習慣など生涯を通じて脳の健康のために意識的に行動することで予防できる――。英医学誌ランセットにこのほど掲載された研究が指摘した。

<認知症の予防可能な要因のリスクの度合い>

 中年期の聴力低下…9% 中等教育の未修了…8% 喫煙…5% うつ…4% 運動不足…3% 社会的孤立…2% 高血圧…2% 肥満…1% 2型糖尿病…1

 予防が可能とされる上記要因のリスク度を合計すると
35%になる。残りの65%は個人の努力では変えられないリスクだという。

 *この項目で予防可能ではないことも結構あるね。
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ガンも怖い。「ガン」については、厚労省の最新のデータは右図の2016年(平成28年)だが、圧倒的に死因の第一位になっている。

 何人も「ガン」で親しい友人を失ってきたことで、他人ごととはとても思えないし、二人に一人の可能性があるというからには、ガンになると想定した方が早い。

 自分は、ガンになったらこうしようと思っている。

 辛くても抗がん剤は使わない。亡くなる間際の延命処置は取らない。植物状態になり、意識がないのに生きる必要はない。これだけは決めている

 葬式も必要ない。灰は海に流してくれたらいい。墓もいらない。

 家族はどう思うか分からないが、これ以上負担はかけたくない。
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 小学生の頃、「死」のことばかり考えていた。何か辛いことがあるとすぐ「死んでやる!」とばかり自殺」という言葉で逃げを図っていたが、実は「死」がたまらなく怖かった。

 肉体が滅びたらどうなるのだろうか。芥川龍之介「蜘蛛の糸」(1918年、写真)を読んでさらに怖さが募ったものだ。

 今は少し変わってきた。長い闘病生活で死の恐怖を毎日続けた場合は分からないが、死への恐怖も薄らいできた。「死」については、みんな平等なのがいい。

 できれば元気で長く生きて、働けるうちは働ける人生にしたい。今の仕事は最低5年勤める。これが当面の目標だ。


桜新町・サザエさん通り

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サザエさん通り

 全国には「サザエさん通り」三つあるそうだ。自分は今、そのうちの一つ、「サザエさんの町」と言われる、東京都世田谷区桜新町「サザエさん通り」を通り、通勤している。

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 桜新町は、日本初の女性プロ漫画家として知られる作者の長谷川町子(1992年、72歳で没、写真右)が長年にわたって住み続けた町。

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 ちなみに、桜新町は信託会社がこの地で分譲住宅を販売し、街の新たなシンボルとしてを植樹させたことからその名がついたそうだ。

 国道246号に程近いセブン-イレブンは、以前は「三河屋」という酒店で、漫画に登場する「三河屋さん」のモデルだった。(画像)

 今から32年前の1985年に開園され、彼女が姉妹で収集した美術作品を展示する長谷川町子美術館」も、この地にあり、桜新町駅から、徒歩7分で行けるところにある(写真)

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 残りの二つは
福岡市にある。その通りがある早良区は、以前住んだことのある街だ。
サザエさんの作者・長谷川町子は幼少期と戦中、戦後を福岡で過ごした。終戦の翌年に当たる1946年、「サザエさん」が初めて発表されたのも、福岡の地方紙「夕刊フクニチ」の紙面だった。

 桜新町「サザエさんが育った町」だとすれば、福岡「サザエさんが生まれた町」である。
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桜新町へのアクセス

 桜新町への交通アクセスは右図の通りだが、よくよく自分は東急田園都市線に縁があると思う。

 過去、会社(渋谷、池尻)や住まい(川崎・溝の口、横浜・藤ヶ丘、青葉台)は沿線上にあった。
長谷川町子美術館

 一昨日帰りがけに「長谷川町子美術館」に立ち寄った。一般の入場料は600円だが、65歳以上は500円だ。

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 今の時期は子供の夏休みということもあり、通常は美術作品だが、マンガ・サザエさんの展示と、家族向けの特別イベントを実施している。(図)

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 例えば、ミニボーリングの点数により景品を提供したり、カツオくんの同級生の花沢花子(画像左)の家業の「花沢不動産」が分譲したあさひが丘の土地に、くじ引きで各々がマジックで塗った家のミニチュアを配置する場所が指定され、ジオラマ型の地図に置くことが出来るという趣向だ。

 あさひが丘の家の場所が決まると、「2017年度あさひが丘分譲権利証(画像右)が手渡される。「長谷川町子美術館」での写真。
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桜新町商店街

 この町おこしを推進しているのは「サザエさん通り」に面している「桜新町商店街」だ。

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 サザエさん通りの命名は、「長谷川町子美術館」開園2年後の1987年(昭和62年)だ。

 そして駅前にサザエさん一家の銅像が設置されたのが2012年(平成24年)(写真は西口にある銅像の一つ)。

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 毎年、商店街主催の色んなイベントがあり、楽しみだ。昨日(8/3)はサザエさんの街 桜新町まちバル 2017が行われた。前売り券3,500円、当日券4,000円で、以下の25店舗の料理やスイーツを楽しめるようだが、迷った末今回は参加を見送った。 

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 春には桜新町居住の水前寺清子さんも参加して「さくらまつり」(写真左)が行われるようだし、秋には「ねぶた祭り」(写真右)があるようだ。通勤の楽しみが増えた。

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マンガ「サザエさん」

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 サザエさんは国民的人気があるだけに、今でも話題に事欠かない。

サザエさんの謎

 11月22日は「いい夫婦の日」。1988年に制定「いい(11)ふうふ(22)」の語呂合せに由来している。

 アンケートサイト「みんなの声」に登場した調査「アニメで『いい夫婦』といえば?」に集まった意見をチェックしてみたところ、
1位と2位を独占したのはサザエさん一家の2カップルだった。トップ5はこの5組。

1位 『サザエさん』の波平とフネ(5029票)
2位 『サザエさん』のマスオとサザエ(3417票)
3位 『クレヨンしんちゃん』のひろしとみさえ(1290票)
4位 『天才バカボン』のバカボンのパパとママ(1151票)
5位 『魔女の宅急便』のおソノさんとフクオ(814票)

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 ところが、2004年発行の
サザエさんの謎」世田谷サザエさん研究会、写真)は、平々凡々の理想的な一家だと信じていた向きには、結構ショッキングな話がある。

 誰かに話したくなる!実は悲しい過去を背負った、明るい磯野家の知られざる設定によると、家系は次のようになっているが、どうやら「いわくつき」のようだ。

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 【フグ田サザエ】24歳、【フグ田マスオ】28歳、【フグ田タラオ】3歳、【磯野波平】54歳、【磯野フネ】52歳、【磯野カツオ】11歳、【磯野ワカメ】9歳の年齢構成に、漠然と疑問に思っていたことが氷解した。

 しかし、波平(画像)がたったの54歳だったというのはいまだに不思議で、団塊の世代だと言っても決して違和感のない風貌だ。

「ずいぶん高年齢の両親の元に産まれてカツオもワカメも大変だね」

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1.【サザエさん一家の血液型の豆知識】サザエ、カツオがB型。マスオ、ワカメ、フネがA型。タラと波平がO型 ん?
この波平とフネ間にB型が生まれるはずがない。このサザエさんとカツオはいったい誰の子なんだ。

2.【サザエはフネと波平の出会う前の前妻の子】 サザエは、連載漫画の始まった1946年で当時23歳と描かれてあったから推論すると、サザエが生まれたのは1920年代で、フネと波平の出会う前ということになる。急には信じられないような話ですが、実際に波平さんにはサザエさんを生んだ後で病気か事故で亡くなってしまった妻がいたのは事実のようだ。

3.【
なぜサザエとカツオは年が離れているのか
サザエさんとカツオ君の年齢差が13歳(原作16歳)あるのは、フネが後妻で、サザエとカツオは異母兄弟だから。

 …それ以上は、ネットを見てください。
テレビアニメ「サザエさん」
 
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・1969年(昭和44年)10月5日にフジテレビ系列で第1回が放送開始して以来、国民的な番組として今もなお継続中である。基本放送枠は、日曜18:30枠と、当初から変動が無く固定されており、同一の放送時間で続いている番組としては最長である。

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 48年も続く長寿番組だけに、レギュラー出演者の中で声優が放送開始以降、一度も変わっていないキャラクターはサザエ加藤みどり、現在77歳、写真左タラオ貴家堂子(さすがたかこ)、現在76歳、写真右のみである。
・世界的にはBlue Monday(ブルーマンデー、「青の月曜日」)と言われ、休日明けの物憂い月曜日として広く認識されているが、日本では「サザエさん症候群」という言葉があり、日曜6時半の「サザエさん」は、「あしたからまた学校(あるいは仕事)かあ……」といった憂鬱な気持ちとともにある。
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・番組当初からスポンサーだった経営再建中の東芝(写真)だが、どうやらCMを継続する方針のようだ。

 しかし、負債が資産を上回る債務超過に陥るなど危機的な財務状況にあるだけに、予断は許されない。
 サザエさんが身近になって、とても嬉しいというのが今の心境だ。





ギターが題名の曲

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 「ギターは日本の歌をどう変えたか」(サブタイトル:ギターのポピュラー音楽史北中正和著、2002年、平凡社新書、写真)という本を読んだことがある。

 日本の音楽のみならず世界の音楽に大きな影響を与えたギターという楽器にスポットをあてた内容でもある。

 「はじめに」で語られる
「二十世紀後半以降のポピュラー音楽がギターなしに語れない」という言葉には異論がないところだ。

 たとえば1950年代以降に登場したエルヴィス・プレスリー、チャック・ベリーベンチャーズビートルズローリング・ストーンズボブ・ディランがギターと出会わなかったところを想像してみれば…」という文章がそれをよく表している。
 本書は大きく「ギターの歴史/基礎知識編」「日本のポピュラー音楽とギター」で構成されている。

 そのうち「日本のポピュラー音楽とギター」は「1945年まで」と「戦後から現代へ」とに分かれて記述される。

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 ヨーロッパの楽器が日本で演奏されたのはフランシスコ・ザビエル(画像)の布教活動に伴う聖歌演奏あたりが最初ではないかと言われ、豊臣秀吉がリュートの演奏を聴いた記録があるとのことだ。

 二十世紀初頭にはジャズが紹介され日本最初のジャズギタリストは坂井透ということだ。ただしこの頃のギターはあくまでもリズム楽器。

 日本において最初にギター演奏を録音、レコード化したのはハワイのミュージシャンであり、その中でもアーネスト・カアイという人の存在が大きかったようだ。

 その後のことは、
拙ブログ第465話:ギターその8(最終回)で、次の項目別に載せている。

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 写真左より、「古賀メロディ」「
ハワイアン」「カントリー」「ロカビリー」「エレキ・ブーム」「カレッジ・フォーク」「グループ・サウンズ・ブーム」 

ギターの歴史

 弦楽器のルーツはである。古代の壁画や彫刻等の資料からBC.3700年以前あたりに、ギターに類似する弦楽器が出来ていたとされている。

 この時期の弦楽器と言うのは大きく分けて二種類あった。

 1つは、弦に木の実等の"共鳴箱"をつけて音を出すタイプの楽器(ピンナムタオ、セレベスの棒琴、グリンバオ、シタール、リュート)。

 もう1つは、
弦同士を共鳴させて音を出すタイプの弦楽器(キタラ、ロッタ、クロッタ、ハープ、リラ、等)。

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 ギターと言うのは、これら二つの要素を持ち合わせた楽器であり、BC.3000年頃には、原型となる"串状ネックリュート"が完成。

 この
画像BC.1400-1300年あたりのヒッタイト時代、アラジャ・ヒュユク遺跡で見つかった最古のレリーフ(写真)

 その後、ペルシャが弦楽器の故郷となる。

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 バルバット(barbat。写真)は、古代のペルシャの弦楽器。ボディの背中が丸っこくなっている(ラウンドバック)のが特徴。

 アラビアのウード(oud)は、バルバットが起源であるが、今日ではバルバットとウードの区別は曖昧になっている。
アラビアの伝統音楽で演じられるときウードとよび、ペルシャの伝統で演じられるときには現在のウードもバルバットと呼ばれているようだ。

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 ヨーロッパでは中世からバロック期にかけて使われたリュート(写真右)はバルバット/ウードが原型。

 一方、東へはアフガニスタンを通って中国へ伝来したのが琵琶(ピパ pipa)である。 日本の琵琶(びわ biwa、写真左)はその中国から伝来したもの。

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 ムーア人のイベリア半島占領によってリュートがヨーロッパへ伝わり、15世紀になると、パバーンやガリアルド等の舞曲で使用され、15-16世紀における最もポピュラーな楽器となった。

 しかしスペインへと伝わったリュートはそれほど支持されず、ビウエラ(写真)と呼ばれる楽器へと変化していった。

 中世におけるビウエラというのは弦楽器の形態全般を示す言葉で、その中の楽器がヨーロッパで発展し、スペインの舞踊に改良され、現在で言うギターへと進化をしていく。

 ギターという言葉がこの世で最も早く登場した文献は、13世紀の"薔薇物語"における『ギターレ』だそうだ。(「楽器の歴史」「知っておきたいギターの歴史について」参照)
ギターが題名にある曲

小林旭(78歳)は今も健在だ

 昨日(8/5)のNHK「第49回思い出のメロディー」は懐かしい曲のオンパレードだった。

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 中でも歌手生活60周年を記念して何曲も歌った、マイトガイこと小林旭(現在78歳、写真上段左から3番目)の健在ぶりに唸った。

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 そこでも歌っていた『ギターを持った渡り鳥』(画像)は、1959年公開の小林旭主演映画で、彼が同名の主題歌を歌っていた。彼がまだ20歳のときのことだ。

 元・刑事で今はギターを持って「流し」をしている主人公・滝伸次が見知らぬ土地(本作は北海道函館市が舞台)にやってきて、そこに在住する女性と知り合い、その街で暗躍する黒幕をやっつけて、また別の街へと旅立つという作品ので、以降1962年まで合計8作の『渡り鳥シリーズ』が制作された。

 彼と過去何かとうわさのあった、相手役の秋津由紀こと、浅丘ルリ子(現在77歳、写真上段左から4番目)も同番組に出演し「愛の化石」を歌っていた。

 谷村新司は、小林が「渡り鳥シリーズ」でギターを爪弾く姿に憧れ、音楽活動を開始したという。
小林旭/ギターを持った渡り鳥(1959年)


北島三郎(現在80歳)も健在だ

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 昨年(2016年)頸椎症性脊髄症のため、9月12日に手術を受けていたが、昨日(8/5)の八王子まつりでも元気な姿を見せていた。(写真)
 

 彼とギターとの関係は切っても切り離せない。1954年、17歳で北海道の高校を中退後上京し、渋谷を拠点に「流し」を始めた。

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「流し」というのは、音楽がラジオでしか楽しめなかった昔、居酒屋にギターを抱えて流行歌を歌っていた人々のことである。(写真)

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 その流し
を6年。3曲で100円だった仕事をしながらデビューを目指す。当然、苦労は尽きない。普通の家の3畳の一間。その家へ訪ねていくと、出てきたのがそこのアパートの大家の娘さん。現在の奥さん雅子さんだった。いつもお腹を空かしていた彼に、何かを作って部屋に持ってきてくれた。1959年に結婚したが、北島は定収がなく、夫人の両親から結婚を反対されたが、今から思えば想像もつかない話だ。
北島三郎/ギター仁義(1963年)


日本のフォークを

チェリッシュ/白いギター(1973年)


千賀かほる/真夜中のギター1969年)


エレキギターによる曲を

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 どちらの曲も、今は芸能界を引退、ロサンゼルスに在住している元歌手、女優、タレントの小山ルミ(現在64歳、写真)が1971年に歌った。

 「さすらいのギター」は、作詞:千家和也/作曲:J.A.Schatrow「二つのギター」は、有名なロシア民謡を、同じく千家和也が作詞している。

ザ・サウンズ/さすらいのギター




ザ・ムスタングス/二つのギター(Two Guitars)



カントリーソングでスティール・ギターの曲を

バーバラ・マンドレル/スティール・ギター・ラグ


タミー・ウィネット/クライイング・スティール・ギター


最後は、今は懐かしい映画主題曲を

ペギー・リー/映画「大砂塵」テーマ曲 ジャニー・ギター1954年)


ドン・コーネル/映画「群衆の中の一つの顔」ママ・ギター1957年)






私が選んだ日本のフォークソングベスト5

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 以前、私が選んだカントリーソングベスト5という特集をしたことがあるが、それになぞらえて、今回は危険を冒して!?「私が選んだ日本のフォークソングベスト5」を特集してみたい。

 「危険を冒して」と言ったのは、そもそも日本のフォークソングの定義が明確でないからだ。

 いろんな資料を参考にしてを作ってみた。これに異論があることは重々承知している。

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なお、1972~3年以降は「ニューフォーク」、1975年以降は「ニューミュージック」とも言われている。

また、ニッポン放送他全国ラジオネットワーク加盟の各局で1971年~1986年に放送されていたラジオ音楽番組、または日本テレビ系列で1977年~1982年に放送されていた音楽番組「コッキーポップ」と、それに連動していた同じくヤマハ主催の「ポプコン」(POPCON、ヤマハポピュラーソングコンテスト)(1969年~1986年)も一大ジャンルをなしていた。ちなみに、司会、パーソナリティも両番組共通して大石吾朗が務めていた。

 主なアーティストは次の通り。この人たちがいなかったら、日本の音楽界は一変したと思うような、そうそうたるメンバーだ。

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 NSP 石川優子 河島英五 中島みゆき 雅夢 紙ふうせん 加藤登紀子 パンダフルハウス 谷山浩子 高岡美智子 佐野元春 八神純子 円広志 森川美穂 丸山圭子 小林千絵 長渕剛 麻里絵 世良公則&ツイスト 新居昭乃 辛島美登里 りんけんバンド イルカ 葛城ユキ 上条恒彦 浜田良美とスペシャルリザーブ 因幡晃 根田成一 あみん 松田晃 クリスタルキング 渡辺真知子 五輪真弓 もとまろ 中沢京子 高木麻早 佐々木幸男 (Wikipedia参照)

 今回、上記については、フォークソングの対象から外している。

それでは、「独断と偏見」に基づいた「私が選んだ日本のフォークソングベスト5」を。

五つの赤い風船/遠い空の彼方から(1966年)

イメージ 3 五つの赤い風船(~1972年)といえば、「遠い世界に」(1969年)が代表曲だが、遠い空の彼方に」も、何度聴いても飽きない素敵な曲。

 歌詞も素晴らしい。日本の「反戦歌」の最高傑作だと思う。

 この曲、実は「五つの赤い風船 フォークアルバム第1集」で歌ったのは、今は亡き「フーコさん」という愛称で知られた藤原秀子さんだった。

 
その、レコードジャケット(写真)、左から西岡たかし(リーダー、現在73歳)、長野たかし(ベース)、藤原秀子(ボーカル、2013年、67歳で没)、東祥高(シンセサイザー、2012年、64歳で没)。

 なお、彼女は東祥高と結婚し、グループ解散と共に引退した。しかし、二人ともすでに鬼籍に入ってしまった。

イメージ 4 次の映像は2000年再結成した、五つの赤い風船青木まり子さんのボーカルによるものだ。

 曲は原曲を少しアレンジしている。オリジナルは抒情的な感じだが、これはアップテンポで、青木まり子の野太い声も曲にマッチしている。自分はこの方が好みだ。

 ちなみに新メンバーは、写真左から、竹田裕美子(キーボード)、中川イサト(ギター)、西岡たかし(ボーカル・ギター)、元シモンズ・青木まり子(ボーカル)。現在も全国でコンサートやイベントで活躍中だ。

イメージ 6イメージ 5 伴奏に「ヴィブラフォン」(写真右)を使っていて、それが幻想的な雰囲気の曲に仕上げているのも素敵だ。

 ついでに言えば、彼らの代表曲の「遠い世界に」「オートハープ」(写真左)のイントロも耳に心地よい。

(青木まり子さんの映像)
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赤い鳥/竹田の子守歌 (1971年)

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 赤い鳥」は、1969年に結成したフォーク・グループで、大方の想像通り日本児童文化運動の父」と呼ばれる、鈴木三重吉(1936年、53歳で没、写真左の童話集「赤い鳥」(写真右)から名前を取った。

 なお、1918年(大正7年)7月1日に創刊された「赤い鳥」だが、現在、日本童謡協会はその7月1日「童謡の日」と定めている。

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 フォーク・グループの「赤い鳥」は最初、後藤悦治郎(写真左端)平山泰代(写真左から2番目)の二人が日本民謡を独自のやり方で取り上げたデュエットだった。

 山本俊彦(写真真ん中)新居潤子(写真右から2番目)(1973年4月に山本と結婚し、山本潤子)は、谷村新司らと「ヒルビリー・シンガーズ」というコーラス・グループをやっていて、アマチュアコンサートで一緒になったとき、後藤に音楽性を買われ、大川茂(写真右端)を合わせた五人編成で「赤い鳥」が結成されたが、各人がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。

 「竹田の子守唄」は実在の伝承曲を原曲にうたごえ運動とともに広まった楽曲のカバーだが、1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。この曲と共に「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得した。

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 1971年2月発売の「竹田の子守唄/翼をください」(写真)が発売3年で100万枚を突破する大ヒットになり、B面だった「翼をください」も約30年以上にわたり小学校の音楽の教科書に採用され、現在でも合唱曲として有名である。

 ところが「竹田の子守唄」その後、被差別部落地区に伝わる子守唄を元にしているという理由で自粛され、長い間テレビ・ラジオから姿を消すことになり、ようやく1990年代に封印が緩和されたいわくつきの曲となった。

 1974年に路線の対立で解散したが、後藤悦治郎(現在71歳)・平山泰代(現在70歳)夫妻は「紙ふうせん」山本俊彦(2014年、67歳で没)・山本潤子(現在67歳)夫妻と大川茂(現在71歳)は、ハイ・ファイ・セット」(1994年解散)を結成した。山本潤子は今でも活躍している。(Wikipedia参照)


はしだのりひことシューベルツ/風 (1969年)

 はしだのりひこ(現在72歳、写真の左)は伝説のフォークグループのザ・フォーク・クルセダーズ」を1968年に解散後、5年間の間に目まぐるしくグループを変えた。

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 それは、最初のグループで、「風」「さすらい人の子守唄」のヒットで有名な「はしだのりひことシューベルツ」のベース、井上博(写真の右)が急死したからである。
 
それでも、次の
「はしだのりひことクライマックス」では「花嫁」はしだのりひことエンドレス」では「嫁ぐ日」と、スマッシュ・ヒットを続けた。
 
 妻の看病に専念したとされる時期もあったことから「主夫」としての活動が話題になったこともある。
しかし、はしだ自身も病気になり現在復帰する見込みはないという。 

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「はしだのりひことシューベルツ」のデビュー曲「風」は、青春の旅立ちのやるせなさを歌った曲。勇んで旅に出たのが当時吹き荒れた学園闘争(写真)とすれば、挫折は闘争の終わりである。

 その虚しさをこの歌は「ただ風が吹いているだけ」というフレーズでうまく表現している。

 「風」は学園闘争に敗れ、挫折し疲れはてた若者たちの心の中を吹き抜ける、正に「風」だったのだ。


加藤和彦と北山修/あの素晴らしい愛をもう一度(1971年)
 
 
ザ・フォーク・クルセダーズのプロデビューに当たっては逸話がある。1967年、もう一人メンバーに誰を加えるか、加藤和彦北山修の意見は違っていた。

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 北山は後にジローズで「戦争を知らない子供たち」を歌った、声が良くスター性のある杉田二郎を推薦したが、加藤ははしだのりひこの加入を主張し、かくして、この背が不釣り合いなトリオが誕生した。(写真)

 その1年後に解散した後、北山修(現在71歳、写真右)は学業に戻り、加藤和彦(2009年、62歳で没、写真左)は作曲家として独り立ち、はしだのりひこは前述のようにシューベルツを結成して別々の道を歩んだ。

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 「あの素晴しい愛をもう一度」は、北山修が作詞、加藤和彦が作曲し2人の連名で発表した歌曲。
この曲のオリジナル録音のきっかけは、当時東芝音楽工業のディレクター新田和長(現在72歳、写真)がフォークルの再結成を図って加藤・北山の両人にはたらきかけたものであるとされる。しかしその後、夢が現実になることはなかった。

 加藤和彦は晩年、うつ病に悩み、2009年、長野県軽井沢町のホテルで首をつって死亡しているのが見つかった。パソコンで打った遺書らしきメモがあり、軽井沢署は自殺とみている。


森山良子/この広い野原いっぱい(1967年)

 森山良子(現在69歳)が元気だ。

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 テレビ朝日系「世界の村で発見!こんなところに日本人」ではレギュラーで、世界の各地に出かけている。

 2017年7月18日(火)の3時間SPでは、「中米メキシコ 隠された港町に住むたった一人の日本人女性」を探す旅に出た。(写真)

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 「この広い野原いっぱい」は、森山良子が千代紙などを売る東京・銀座の老舗の店に書かれていた詩が気に入り、30分で曲をつけたもので、19歳を迎えたばかりに発表したデビュー曲となった。

 見渡す限りの大自然を、すべて捧げるかわりに、あなたからの手紙が欲しいと願う内容である。
 
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 作詞者の
小薗江圭子(おそのえ・けいこ)さん(2011年、76歳で没)は、画家としての活動も多く、とりわけ「オバケちゃん」(写真)の絵本シリーズの挿絵で高い人気だった。

 彼女が学生時代に自身が出演していたラジオ番組で本曲をオンエアしたところ、これが評判を呼ぶ。

 彼女の才能に惚れ込み「日本のジョーン・バエズ」として売り出そうとしていた当時のレコード・プロデューサーが、バエズの宿泊先に押しかけて直談判したところ、公演での共演が可能になったと伝えられている。その公演がテレビ中継された結果、森山良子の知名度は一気に高まったという。

 その数日後にデビューシングルとして発売されたのが、この歌だった。
この曲は、小学校の音楽の教科書にも採用され、1974年にNHK番組の『みんなのうた』でも採用されて全国的に放送されている。

 森山自身はジャズシンガー志望であったが、本曲をフィリップス・レコードから1967年1月2日にリリースするとヒットソングとなり、その後、彼女は『今日の日はさようなら』『恋はみずいろ』『禁じられた恋』など、次々とヒットを飛ばし「フォークの女王」の名をほしいままにした。


 皆さんのベスト5はどんな曲ですか。



空港、飛行機の曲

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 陸路での出会いと別れで代表的な場所は「駅」、空路では「空港」ということになるだろうか。

出会いと別れの場の「空港」 

 映画でも別れとなると、「駅」というシチュエーションが多い。拙ブログでもシネマの名匠と旅する駅」でそのシーンを載せたことがある。今は「空港」も一般的な出会いと別れの場になっている。

 それで有名なのは「アジアの歌姫」のこの曲だ。

テレサ・テン/空港(1974年) 


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 以前、華人歌星伝説「テレサ・テンが見た夢」平野久美子著、1996年、晶文社)(写真)という本を読んだことがある。

 彼女は42歳で不慮の死を迎えたが、いかにその人生が波乱万丈だったかが分かる。もう、あれから24年も経った。

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 テレサ・テン(Teresa Teng)という名前は、1974年に日本でデビューした時名乗ったアメリカ風の芸名である。本名は麗筠(デン・リーユン)というが、中国語の芸名は麗君である。北京語の発音では「デン・リーチュン」広東語発音で「ダン・ライグァン」という。台湾の出身だが、両親は大陸出身のいわゆる「外省人」である。父親は国民党軍の陸軍中尉だった。

 彼女自身生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では
「軍人の恋人」というニックネームがついていた。

 文化大革命(1966年-1976年)や天安門事件(1989年)にも出会い、民主化運動のシンボルとして奉られる一方、中国共産党からも利用され、「二つの中国」のはざまに翻弄された人生だった。

 日本での活動は、1979年、日本入国の際に違法の手続きで取得したインドネシアのパスポートを使用したことが発覚、国外退去処分になったときを挟んで、前半と後半に分かれる。
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 前半は1974年、既に台湾や香港で成功をおさめていたので交渉は難航したが、当時の日本ポリドールレコード制作部長の舟木稔写真右テレサ・テン)の熱意が実り、「今夜かしら、明日かしら」という曲でデビューを果たした。

 続く第二弾の「空港」が大ヒット、日本レコード大賞新人賞を獲得、このヒットにより彼女の名前は日本全国に知れ渡った。

 後半は、国外退去から5年後の1984年再来日から、1987年に住居を香港に移すまでの3年間。レコード会社をトーラスレコードに移籍、日本でリリースした「つぐない」「愛人」がそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ」が200万枚を売る大ヒットとなる。

 1989年、アジアを離れて単身、フランスのパリに移り住む。中国への思いをさらに深めるようになり、1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。

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 1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳だった。富と名声を得ながらも、晩年は孤独な独身生活を送っていた。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。(Wikipedia参照)

 日本人ではこの曲。

中森明菜/北ウイング(1984年)


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 康珍化が作詞し、林哲司が作曲と編曲を手掛けた中森明菜「北ウイング」は、1984年、スタジオ・アルバム『ANNIVERSARY』からの先行シングルとして発売された。

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「北ウイング」とは、成田国際空港(当時の呼称は新東京国際空港)の第1ターミナルの北部分の呼び名である。(写真)

 候補として、「ミッドナイトフライト」、「夜間飛行」などもあったが、中森の提案によりこのタイトルに決定された。中森はこれについて、松任谷由実「中央フリーウェイ」に影響を受けたと明かしているという。

 なお
この楽曲は、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』で、1984年1月19日から1984年2月16日の放送で5週連続1位を記録した。

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 同番組では、歌詞の内容からこの楽曲に登場する便は、当時夜出発の便として運航されていた、日本航空の成田発アンカレッジ経由ロンドン・ヒースロー国際空港行きのJL401便ではないかと指摘している。(写真)

 そして、デュエットの定番曲。

桂銀淑&浜圭介/北空港(1987年)


映画の主題曲から

ロニー・アルドリッチ/映画「大空港」のテーマ(1970年)


ケニーロギンス/「トップ・ガン」のテーマ(デンジャー・ゾーン)(1986年)


飛行機の中で浮かんだ曲

ジュリー・ロンドン/ミスティ(Misty)


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 「ミスティ」は、ジャズ・ピアニストのエロル・ガーナー(1977年、53歳で没、写真)によって1954年に作曲されたバラードで、ジャズにおける代表的なスタンダード・ナンバーの一つとなっている。

 彼がニューヨークからシカゴへ空路移動中のとき、霧中を飛行する旅客機の窓外を眺めているうち、唐突に魅力的なメロディを着想したそうだ。

 しかし彼は、ほとんど我流でピアノ演奏を習得した人物で、楽譜の読み書きができず、機内で楽譜を書いて曲を記録できなかった。そのままではメロディを忘れかねないと思い、シカゴに飛行機が着陸するまで、思いついた曲を必死に反芻し続け、空港からはホテルにタクシーで急行した。ホテルのピアノで着想したメロディを弾き、急遽借り出したテープレコーダーで録音したことで、メロディは失われずに済んだという。

 この逸話と、曲を聴いたガーナーの友人が「霧のようにぼんやりした曲だ」と評したことから『ミスティ』という題名がつけられた。同年、ガーナー自身のピアノ演奏が録音されて世に出ている。

 元々インストゥルメンタルとして作曲されたが、ほどなく作詞家のジョニー・バークにより歌詞がつけられ、ジョニー・マティスの歌唱によりポピュラー・ソングとしてヒットしたことで、広く知られることになる。(Wikipedia参照)

<歌詞>

 Look at me (あたしを見て・・・) I’m as helpless as a kitten up a tree (まるで高い木の上に登って、降りれなくなった子猫みたい) And I feel like a clinging a cloud
(そして雲にでもしがみついているような感じよ)
I can’t understand(理解しきれないわ) I get misty just holding your hand (目の前が霧に包まれてしまうの。ただあなたの手をにぎっただけで)

 Walk my way (あたしはそのまま歩いていたの)
And a thousand violins begin to play(すると一千ものバイオリンが響き渡った)Or it might be the sound of your hello
(いえ、それはあなたがハローって声をかけただけかも)
That music I hear (そんな風にさえ聴こえてしまう) I get misty the moment you’re near (霧がかかってぼーっとするの、あなたのそばにいると) 和訳/篠塚ゆき)
乗ることが出来ない飛行機

フランク・プウルセル/夢の飛行コンコルド


 
鳴り物入りでスタートしたコンコルドだったが2003年に全機が退役した。

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「夢の飛行コンコルド」といわれ、イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機・コンコルド(Concorde、写真)は、美しいデザインや、通常の旅客機の飛行高度の2倍もの高度を、マッハ2.0で飛行。初飛行は1969年3月1日。原型機4機を含め、20機が製造された。

 開発当時は世界各国のフラッグ・キャリアから発注があったものの、ソニックブーム(大音響)などの環境問題・オイルショック、開発の遅滞やそれに伴う価格の高騰、また大量輸送と低コスト化の流れを受けてその多くがキャンセルとなった。2000年7月25日に発生した墜落事故、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロによって、低迷していた航空需要下での収益性改善が望めなくなった事で、2003年に全機が退役した。

AKB48/365日の紙飛行機(2015年)


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 子どもの頃よく作って遊んだ
「紙飛行機」(写真)

 連続テレビ小説としては今世紀最高の視聴率を記録した『あさが来た』(2015年度下半期)の主題歌、「365日の紙飛行機(2015年)について、2016年1月29日にAKB48が出演したミュージックステーション』で、司会のタモリが「普通の人はパッとあれだけ聴いたら(彼女たちの曲だと)分からないよ」と評している。センターポジションは初めて山本彩が務めた。

 <歌詞>

 「♪人生は紙飛行機願い乗せて飛んで行くよ 風の中を力の限り ただ進むだけ その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか それが一番大切なんだ さあ 心のままに 365日」

 「♪星はいくつ見えるか 何も見えない夜か 元気が出ない そんな時は 誰かと話そう 人は思うよりも 一人ぼっちじゃないんだ すぐそばのやさしさに 気づかずにいる」

最後は今も続いているご長寿「人気ラジオ番組」

城達也/ジェット・ストリーム(ラストフライト)

 
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 FM東京の24時から始まる深夜の音楽番組「ジェットストリーム」の名ナレーションで鳴らした城達也(1995年、63歳で没、写真)。

<ナレーションは次の通り>

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 遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海(写真)の上を、音もなく流れ去る気流は、限りない宇宙の営みを告げています。

 満点の星をいただく果てしない光の海を、豊かに流れゆく風に心を開けば、煌く星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。

 光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。

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 日本航空が、あなたにお送りする音楽の定期便「ジェットストリーム

 皆様の、夜間飛行のお供を致しますパイロットは、わたくし、城達也です。

 彼が27年間の最終出演となった1994年12月30日の際発した言葉が印象に残ってる。

 前の映像では8分33秒頃から始まる「長い間本当にありがとうございました。…では皆様さようなら既に食道がんに犯されていた彼は、その2ヶ月後に帰らぬ人となった。

手拍子の曲【その1】

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 今月の4日から始まったロンドンの世界陸上も、もう終盤戦だが、サニブラウン・ハキーム選手(18歳、写真)の200m走も決勝には進んだものの、世界の壁は厚かった。それでもまだ18歳という若さ。伸びしろはたっぷりありそうで期待が持そうだ。

 日本は陸上競技が苦手で、唯一お家芸の男女マラソンに期待という時代が続いたが、それも今は昔、凋落の激しさには目を覆うばかりだ。

 ついつい、以前テレビのドキュメンタリーで見た、人見絹枝(1931年、24歳で没)のことを思い浮かべてしまう。

 彼女は日本人女性初のオリンピックメダリスト(2位)。100m、200m、走幅跳びの元世界記録保持者。スポーツ万能で、他に円盤投げ砲丸投げやり投げ走高跳び中距離走でも世界のトップクラスだった。

 奇跡としか言いようがないが、こんな選手が出て来たら、日本の陸上界とそれを見る国民の目は一変するはずだ。もちろん、自分も熱狂してテレビにくぎ付けになるのは間違いない。
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 まだ、女性がスポーツをすることに偏見が強かった戦前、彼女にとって、あまりにも辛い24歳の短い一生だった。

 この写真は有名な、1928年のアムステルダム五輪・女子800m走で、リナ・ラトケ(右)と競り合う人見絹枝(左)だが、長らくオリンピックの父・クーベルタン男爵らの反対で見送られてきた女性の陸上競技への参加が初めて認められ、女性への門戸開放という点で大きく進歩した大会であった。

 しかし、この女子800mではレース後に多くの参加選手が倒れ、その苛酷さを理由にして200mより長い女子陸上競技は1960年代まで実施が見送られたという。
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 ところで、三段跳びなど跳躍競技で観客に手拍子を求めるのは今や日常的風景になっているが、これは、三段跳び世界記録保持者ウィリー・バンクスが、1981年スエーデン・ストックホルムでの陸上競技大会で行ったのが起源だという。(写真)

 あのゆったりとしたリズミカルな手拍子を編み出したのは、何と酒に酔った観客のおかげだった。

 当時はまだ競技会にヘッドフォンを持ち込む選手が少なかった時代だったが、彼はソニーウォークマンのヘッドフォンを装着していた。Funkadelicというバンドによる「Not Just Knee Deep」という曲のギターソロを録音して、士気を高めるために聴いていた。

 最初のジャンプのために助走路のスタート地点に立ち、いつものように3回手を叩いて、両拳を振る動作を行った。ところが、彼が手を叩くと、それを真似したスタンドの5人の酒に酔ったファンも3回手を叩いた。

 ムッとして後ろを振り返り、こう思った。「なんて馬鹿げているんだ。ヨーロッパで最後の三段跳び大会なのに、なんてことだ」 気を取り直して、再びいつもの3回の手拍子をすると、またあの酒に酔ったファンが3回手を叩いて返した。怒りがパワーになったのか、この後、私は16.80mに届くような跳躍をすることができたそうだ。(国際陸上競技連盟IAAFの陸上コンテンツサイト 『SPIKES』2014.8.19掲載記事 より) 
 ところで、「拍手」という行為はいつから始まったものだろうか

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 Wikipediaによると、拍手(写真)が成立するためには、2つの条件が必要で、ひとつは手が自由に使えること、もうひとつは、手を叩くという行為に何らかの意味を持たせることが出来ることであり、この条件が揃うことで拍手が成立するという。(京都大学霊長類研究所の松沢哲郎教授

 その意味で霊長類も餌を要求するときなど相手の気を引く目的で手を叩く。人間の場合の拍手は、更に手を叩くことにより賞賛・賛意・歓迎・喚起・感激・感謝といった感情を伝えることにある。

 江戸時代までの日本では、観劇等で音を立てることを作法に反すると考えていた。それで、雅楽、能(猿楽)、狂言、歌舞伎などの観客は拍手しなかった。

 明治時代になり西洋人が音楽会や観劇のあと「マナー」として拍手しているのに倣い、拍手の習慣が広まったものと推測される。1906年(明治39年)に発表された夏目漱石の小説坊っちゃん』には「(坊ちゃんが)教場へ出ると生徒は拍手をもってむかえた」との記述がある。どうやら、日本で拍手する習慣は最近出来たことのようだ。

「世界的に産業社会が確立していない地域では拍手の習慣が未発達である」とする。拍手をするためには少数対多数つまり大勢の人たちの前で少数の人たちが何かをするという状況が必要だからだ。(国立民族学博物館の野村雅一教授
 手拍子拍手は違う。

 手拍子はリズムに乗せて打つわけで、拍手はランダムだ。ちなみに、拍手は拍手でも ゆっくりと手をたたくことを欧米では Slow Handclapといって「不満や退屈を表わす観客の表現」なんだとか。ブーイングに近いもののようだ。


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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によると、「手拍子」(写真)とは、踊りを伴う音楽などで、演奏者、踊り手、または観衆が手をたたいてリズムをとる行為をさす。リズムをとる他の動作とともにあまり重要でない一要素をなすのが一般的で、手拍子を独立した要素として強調する文化は少ない。原始音楽では手拍子が重要視されそうではあるが、足拍子に比べ手拍子は、音響、陶酔効果ともに小さく、木の枝などの自然物を打ち合わせただけでも大きな音を出せるので、手拍子を強調することは少ない。手拍子の強調は他の拍子手段を抑制する特殊な音楽的伝統の産物とみるべきであろう。日本音楽で手拍子が独立した要素になったのは、能楽などで足拍子、リズム用楽器に象徴的意味をもたせた結果、非特定的なリズム表現に手を用いる傾向が生じた結果だろう。

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 笏(しゃく)拍子(写真)などのリズム楽器を意味する「拍子」が先に導入され、手拍子がのちに造語されたとみられることは、日本音楽の展開に伴う手拍子の特殊化を物語っている。片手に扇子などを持ち他の手を打つ、シンバル類楽器を打つ、などを手拍子とよぶのは、拍子の意味が変化し「手拍子」が成立したあとに生じた現象だろう。観衆の手拍子が音楽に部分的に参加する風習も演奏会形式との近代的複合である。[佐々木明]

 手拍子足拍子が歌詞に出て来る曲がある。それがこの曲。

森の小人

 今では代表的な戦後童謡の一つとして知られている「森の小人」だが、作曲家・山本雅之<蟻の進軍>という詞に1939年、戦時歌謡向けに作曲したもので、曲のメロデイーは殆ど変わっていないが、題名と歌詞はいくつもの変遷を経て出来上がった。

 ところが、日本軍が南方戦線において連日連勝を続けている当時の時世がら「蟻の進軍」の題はまずい、という話になり、レコード化が取りやめられた。

 その後、玉木登美夫作詞により<土人のお祭り>として内容を変えた。

 「♪椰子の木蔭でドンジャラホイ シャンシャン手拍子足拍子 太鼓叩いて笛吹いて 今夜はお祭りパラオ島 土人さんが揃ってにぎやかに アホイホーイよドンジャラホイ♪」と言う歌詞で、1941年、秋田喜美子の歌で発売したが、戦時下あまり売れなかった。

 戦後、多くの童謡が戦意高揚の詞があるとしてGHQにより発禁とされる中で、<土人のお祭り>には問題となる言辞はないということで即発売しようとしたところ、「詞の中の<土人>と言う言葉が差別的である」と待ったがかかった

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 そこで「♪森の木陰で ドンジャラホイ シャンシャン   手拍子・足拍子 太鼓叩いて笛吹いて 今夜はお祭り夢の国 小人さんが揃ってにぎやかに アホイホーイよドンジャラホイ♪」と、 歌詞の一番を現在のものにし、曲名も「森の小人」と変え、1947年佐藤恵子の歌にて発表されると一躍人気を得て、レコードやラジオを通じて広く一般に知られるようになった。(Wikipedia参照)

近藤圭子/森の小人(1947年)


 手拍子と言えばこの曲。

幸せなら手をたたこう

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 「幸せなら手をたたこう」
は、スペイン民謡を原曲とする日本語の歌。日本では1964年に坂本九(1985年、43歳で没、写真)が歌ってヒットした。童謡としても親しまれている。ちなみに、明日(8/12)は、彼の日本航空123便墜落事故32年目の命日にあたる。
 
 作詞は早稲田大学人間科学部名誉教授の
木村利人。元々は木村が学生時代フィリピンでボランティア活動をしていた際に原曲を耳にし、木村が帰国の途に着いた際にこれに詞をつけたものが元になっている。
 
 これが仲間内の愛唱歌として歌われていたのを偶然坂本九が耳にし、作曲家・いずみたくの元にうろ覚えのまま持ち込み、それを元にいずみが採譜してレコード化、全国的にヒットすることとなった。(Wikipedia参照)

 翌1965年の春には、第37回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲にも使用された。2007年には文化庁が発表した日本の歌百選に選出されている。いずれも坂本九が戦時中疎開をしていたゆかりの地・茨城県・笠間市内にある、JR水郷線友部駅3-5番線、岩間駅1番線、笠間駅2,3番線の発車メロディとして使用されている。

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西六郷少年合唱団/幸せなら手をたたこう(1964年)


 手」の力の大きさを歌った曲。

ひとりの手

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 「ひとりの手」は、アレックス・コンフォート(英語版)の詩“One Man's Hands”ピート・シーガーがメロディをつけたもので、当時の反戦や人種差別撤廃を訴える歌になっており、日本語の歌詞は本田路津子(現在68歳、写真)自身が訳したもの。

 彼女の澄んだ歌声は素晴らしく、8月7日の拙ブログ私が選んだ日本のフォークソングベスト5に入れ忘れたことを後悔している。

<歌詞>

 一人の小さな手 何もできないけど それでも みんなの手と手をあわせれば 何かできる 何かできる 一人の小さな目 何も見えないけど それでも みんなの瞳でみつめれば 何か見える 何か見える 一人の小さな声 何も言えないけど それでも みんなの声が集まれば 何か言える 何か言える 一人で歩く道 遠くてつらいけど それでも みんなのあしぶみ響かせば 楽しくなる 長い道も

本田路津子/ひとりの手(1971年)


 次回は、手拍子の歌【その2】です。


 

手拍子の曲【その2】洋楽編

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 手拍子は何も日本だけの専売特許ではない。

 英語で手拍子ハンドクラップ(Handclap)といって、洋楽も探してみると結構見つかる。手拍子をするだけあって、明るい曲ばかりだ。

 その中で、一番最初に思い出すのはこの曲だ。

ベンチャーズ/レッツ・ゴー(1965年)


 続いてこの曲。

サンタ・エスメラルダ/悲しき願い(1977年)


 フラメンコで手拍子をパルマ(Palma)という。

ジプシー・キングス/バイラメ(Baila Me) 


ジプシー・キングス/バンボレオ(Bamboleo)


 ロック界も手拍子の曲は多い。

Chubby Checker/Let's Twist Again (1961年) 


The Beatles/I Want To Hold your Hand(1963年)


The Beatles/Ob-La-Di, Ob-La-Da(1968年)


Queen/We Will Rock You(1977年)


 カントリーソングの名曲。

John Denver/Thank God I'm A Country Boy(1975年)


<歌詞>

 Well life on the farm is kinda laid back Ain't much an old country boy like me can't hack It's early to rise, early in the sack Thank God I'm a country boy
(そうさ 農場で過ごす人生なんて 酒に酔ってるようなもの あくせくと働かない僕のような 年のいったカントリー・ボーイにゃピッタりさ 朝は早く起きて 寝るのも早い カントリー・ボーイに生まれてよかったよ)

 Well a simple kinda life never did me no harm A raisin' me a family and workin' on a farm My days are all filled with an easy country charm Thank God I'm a country boy
(まあ単純な感じの人生で傷つくこともない そんな人生で家族を養い農場で働くんだ 毎日が気楽な田舎の魅力にあふれてるんだ カントリー・ボーイで生まれてよかったよ 神様!)

 Well I got me a fine wife I got me an ole fiddle When the sun's comin' up I got cakes on the griddle Life ain't nothin' but a funny funny riddle Thank God I'm a country boy
(そうさ 僕には素敵な女房と なじんだヴァイオリンがある 太陽は昇る頃に 僕はお菓子をグリドルで焼く 人生はまるで楽しいなぞなぞみたいだ 神様 僕はカントリー・ボーイに 生まれたことを感謝します!)

手拍子の曲【その3】邦楽編

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 外国にもあるのかも知れないが、日本の手拍子は別名「合いの手」と呼ばれる、下世話な飲み会の経験ばかり思い出される。

 まだカラオケがないころ、飲み会と言えば手拍子をたたきながら歌う「春歌(しゅんか)」という猥歌記憶しか残っていない。

 その中で一番有名な曲は「ヨサホイ節」「ヨサホイ数え歌」とも呼ばれる。当時、男性は誰でも知っていなければならない歌だった。

 元歌はまじめな歌であったが、数え歌形式の替え歌になって普及し、現在では春歌やコミックソングとして扱われる。
作者は不詳であるが、1924年(大正13年)に広島の演歌師頭領・秋月四郎が歌い始め、その後全国的に広まったといわれる。

 ところがこの元歌の歌詞は現在ほとんど歌われることはない。全国に広まるうち、一つ出たわいのよさほいのほい~ 二つ~」というような数え歌形式の替え歌になり、若者たちの間でもてはやされてきた。「ヨサホイ節」は日中戦争から太平洋戦争中にかけても、軍隊や芸妓の間でも歌い継がれた。戦後もしたたかに生き延び、学生や若者の酒席の騒ぎ歌として愛唱されてポピュラーな春歌となり「艶笑数え歌」とも名付けられた。

 1967年には、大島渚監督『日本春歌考』の中で春歌の代表のひとつとして取り上げられ、それ以来、特に若者たちに注目を浴びることになった。「春歌」という言葉が定着したのはこの映画以降といわれる。(Wikipedia 参照)

 宴会の席には女性も参加する。当時は「セクハラ」とか「パワハラ」とかという言葉も無かった。春歌も、裸踊りも「まあ~いやね!」で済まされる古き良き時代!?だった。

 この時の伴奏が「手拍子」である、1拍目と3拍目にたたく。これら猥歌は、「4拍子系の3連符で、分解すると12ビート*」だ。歌っている本人は 12ビートなんて分かっちゃいなくても、このリズムは手拍子に乗りやすい。 1拍目と3拍目にたたいて、2拍目と4拍目の隙間は手をこすり合わせるのである。3拍子系の歌は手拍子には合わない。「私家版楽器辞典」参照)
 そして、通常の歌も手拍子をとる曲が流行っていた。例えばこんな曲だ。

春日八郎/お富さん(1954年)


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 「お富さん」は春日八郎(1991年、67歳で没、写真)の歌で、1954年8月に発売され、その年に大ヒットした歌謡曲である。作詞:山崎正、作曲:渡久地政信

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 歌舞伎の『与話情浮名横櫛』(通称:切られ与三郎画像)からセリフを大量に取り入れている。

 ただし作曲した渡久地は歌舞伎のことはあまり知らず、むしろ当時最新の音楽であったブギウギのリズムを基に、沖縄音楽・カチャーシーの要素も織り込みながら曲を書いた。その軽快なヨナ抜き音階のメロディーは大当たりとなり、「粋な黒塀」「見越の松」「他人の花」といった仇っぽい名詞句を、何も知らない子供までもが盛んに歌った。

 自分はこの頃5歳だったが、意味も分からずよく歌っていたのを今でも覚えている。ただし、何か艶っぽい話だろうなということは感じていた。「ませていた」のだろうか。

 なお、1970年代のディスコブームの折、たまたま来日していたメンフィスのファンクグループ、エボニー・ウェッブに、ディスコ風のアレンジをした「お富さん」を歌ってもらい、1977年11月に「ディスコお富さん」として発売されてリバイバルヒットし、発売2週間で20万枚を売り上げた。この曲は2000年代以降にディスコ歌謡の名盤として再評価されている。
(Wikipedia参照)

三波春夫/チャンチキおけさ(1957年)


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 「チャンチキおけさ」は、三波春夫(2001年、77歳で没、写真)が1957年6月に歌謡界へ名乗りを上げたデビュー曲。200万枚を超える大ヒットを記録し、一躍人気歌手の仲間入りを果たした。今日では、夏祭りの歌・盆踊りの曲としても親しまれている。

 戦後4年間のシベリア抑留から解放された三波春夫は、浪曲師・南篠文若として活動していたが、演歌大衆歌謡が流行し始めていた新たな時代の流れを読み取り、芸名を「三波春夫」と改め歌謡界へ名乗りを上げたのだった。

 「チャンチキおけさ」の歌詞では、故郷を離れて働く出稼ぎ労働者らが、路地裏の屋台で安酒をあおりながら、遠い故郷に思いをはせて、しがない我が身のやるせなさにため息をつく男たちの人生の悲哀が描かれている。

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 なお、「チャンチキ」とは、皿のような形をした金属製の打楽器(写真)。摺鉦(すりがね)、当たり鉦(がね)、コンチキ、チャンギリなどとも呼称される。阿波踊りでも用いられている。
「チャンチキおけさ 三波春夫」参照

「♪知らぬ同士が 小皿叩いて チャンチキおけさ♪」とばかり、宴会では、手拍子ではなく、小皿をたたくのも有りだった。

 民謡を音楽的に分類すると、「手拍子と共に歌う歌」「一人で歌う歌」の2つに分けられる。手拍子を取り、大勢で歌う歌は、多くが踊りを伴い、2拍子の曲となっている。(「日本民謡について」参照)

大塚文雄/会津磐梯山


市丸/真室川音頭


三橋美智也/炭坑節


 手拍子が活躍する盆踊りの時期がやってきたね。(拙ブログ・盆踊りの現在参照)(写真は南米・アルゼンチン・ラプラタの盆踊り)

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出だしの楽器演奏が印象的な曲

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 「人は見た目が9割」竹内一郎著、2005年、新潮新書、写真)がベストセラーになるご時世、9割とまでは行かないにせよ「第一印象」が大切なのは、音楽も一緒である。

シンバル

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 1964年というから、15歳。高校1年生のときだった。シンバル(写真)「出だし」で始まるこの曲を聴いたときの衝撃は大きかった。すぐにレコード屋に走ったことを今でも覚えている。

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 それは、
ルヴィ・ヴァルタン(現在72歳、写真)が18歳のとき発売した「アイドルを探せ」という曲。

 顔も可愛い。彼女は「元祖フレンチ・アイドル」といわれ、「パリの妖精」とか、後にCMの「レナウン娘」を歌ってからは「イエ・イエの女王」とも呼ばれた。

 間違いなく大ヒットする予感がして、その通りとなった。

 彼女は同年フランス映画「Cherchez l'idole(アイドルを探せ)」に出演、主題歌となった「La plus belle pour aller danser」(邦題は映画タイトルと同じ「アイドルを探せ」、フランス語原題は「踊りに行くのに一番の美人」という意味)を歌い、ハスキー・ボイスと容貌でたちまちスターとなる。

 彼女はデビュー後56年経った今も現役で、今年の9月にはフランス・パリのオランピア劇場で公演。フランス主要都市を巡演する予定である。

 これまで20回近く来日しているが、滞在中のラジオ・インタヴューで、これほど長い間現役で活動することが出来るそのモチベーションを保つ秘訣を聞かれて、「変化すること」「常に新しい事にチャレンジすること」 と言ったという。何時までも前向きな人生だ。(Wikipedia参照)

シルヴィ・バルタン/アイドルを探せ(1964年)


 シンバルだったら素人でも分かるが、「出だし」におやっと思うものの、その「楽器名」が分からないことが多い。

オートハープ

 この曲もつい最近まで楽器名を知らなかった。

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 拙ブログ・私が選んだ日本のフォークソングベスト5で、五つの赤い風船「遠い空の彼方に」の伴奏にヴィブラフォンを使っているのを紹介したが、その際、以前から気になっていた、彼らの代表曲の「遠い世界に」の出だしの楽器を調べたてみたらオートハープ(写真)だというのが分かった次第である。

 オートハープという楽器は知らなかったが、一連のコードバーを持つ弦楽器で、その名前にもかかわらず全くハープではなく、むしろツィターだという。

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 オートハープは、アメリカではブルーグラスとフォークの楽器として使用されてきた。

 最も有名なのは、1927年から1943年まで活躍した、カーター・ファミリー(The Carter Family) の メイビル・カーターサラ・カーターによって使用されたことである。(写真ではサラ・カーターが持っている(Wikipedia参照)
五つの赤い風船/遠い世界(1969年)
 

  パーカッションはこんなにあるが、音楽ではいろんな楽器が混ざっている場合が多いので、何を使っているのか分かりにくい。

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カスタネット&カウベル 

 オールデイズの定番曲「リトル・ダーリン」は、1957年にモーリス・ウイリアムスザ・グラジオラスのリーダー ) が作詞・作曲したドゥーワップ調のR&Bで、同年に自演のレコードをリリース、全米11位だったが、これをカナダのオンタリオで1953年に結成された4人組・ザ・ダイヤモンズがカヴァー、軽快な曲調に加えて愉快なパフォーマンスが受け、本家を押さえて1957年の夏には6週間連続全米2位の大ヒットとなる。

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 ここで使っているカウベル(写真)とは、牛(カウ)などの家畜の首に付ける、金属製の鐘鈴(ベル)のことである。楽器として用いる場合には、そのまま用いる場合と、改良して用いる場合がある。いずれも、打楽器、体鳴楽器に分類される。中の舌をなくし形も四角く角張らせ、口がつぼまるよりもむしろ開口部が広くなったような形をしたものが、特にラテン音楽で多用される。この楽器は手に持つか専用のホルダーに固定し、木製のばちなどで叩いて音を出す。(Wikipedia参照)

ダイアモンズ/リトル・ダーリン(1957年)


ギロ

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 ウーゴ・ブランコ(2015年、74歳で没、写真)はベネズエラの有名なアルパ奏者。1958年に発売された「コーヒールンバ」(Coffee rumba)は世界的にヒットした。

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 ギロ(写真)は、ヒョウタンの内側をくりぬき外側に刻みを入れて棒でこすったり叩いたりして演奏する。刻みはヒョウタンの長手方向に垂直に入れられ、それを何本も並べてぎざぎざにする。その部分に木や金属、象牙や動物の角などの棒をあて、ヒョウタンを上下させることにより、棒でこすり、「ギー」(長いとき)、「チャッ」(短いとき)というような音を出す。(Wikipedia参照)


ウーゴ・ブランコ/El Cigarron(1962年)


板ムチ

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 NHK大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)の原作は、大衆文学の重鎮である大佛次郎の同名の大作「赤穂浪士」。主役の大石内蔵助に大映の看板俳優で後に国民栄誉賞を受賞する長谷川一夫(1984年、76歳で没、写真を担ぎ出し、歌舞伎界や新劇界の大物、歌謡界の人気アイドルまでも起用し、前作花の生涯」を上回る豪華キャストの競演で話題を集めた。

 赤穂四十七士たちの討ち入りを決意するまでの苦悩や葛藤、彼らに関わる人々の思惑などを1年間かけてじっくりと描き出す大河ドラマならではのストーリー展開で、その結果視聴率は優に30%を超え、浪士の討入りが放送された回には視聴率53.0%という大河ドラマ史上最高視聴率記録をも打ち立てた。

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 ここでは、芥川也寸志(1989年、63歳で没、写真)のテーマ曲も話題となった。この曲は芥川が新東宝映画『たけくらべ』(1955年)の主題曲を使い回ししたものだったが、板ムチ(写真)によるビシッ、ビシッという音が討ち入りの厳しさを感じさせ、視聴者の共感を得て、レコードも発売された。現在でも「忠臣蔵といえばこの音楽」というイメージが定着している。(Wikipedia参照)

ストリングス パープル・クリスタル/「赤穂浪士」テーマ曲(1964年)


ヴィブラフォン

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 最後は奇しくも「時の人」坂本九(1985年、43歳で没、写真)の代表曲。


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 1985年8月12日午後6時56分に墜落した羽田発伊丹行きJL123便(ボーイング747SR-100型機)には、乗客509人と乗員15人の524人が乗り、乗客乗員520人が亡くなった。8月12日で32年が経った。

 その中の一人が坂本九だった。

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 三十三回忌にあたる12日は早朝から、多くの遺族や関係者らが墜落現場となった群馬県多野郡上野村御巣鷹山を訪れた。(写真)

 2012年2月の社長就任以来、社長として6回目の慰霊登山となったJALの植木義晴社長は午後1時26分すぎ、山頂付近にある「昇魂之碑」に献花した。

 「事故以降に入社した社員が94%になり、当時事故を経験した社員はたった6%。われわれの使命は事故を風化させることなく、事実をしっかりと心に刻み、安全運航に全力を尽くすこと」と、安全への誓いを新たにした。

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 「上を向いて歩こう」(別名:スキヤキ、SUKIYAKI)の作詞は永六輔(写真左)、作曲は中村八大(写真右)

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 ビルボード誌では、1963年6月15日付に、現在においても日本人のみならずアジア圏歌手唯一となる週間1位を獲得。同誌の1963年度年間ランキングでは第10位にランクインした。

 ところが、矢崎泰久「わが青春の永六輔」によると、「上を向いて歩こう」は60年安保闘争で亡くなった「樺美智子に捧げる鎮魂歌のつもりだった」、ヒットして、「永さんの胸中は複雑そのものだった」とある。

 後に数多くのアーティストによってカバーされ、いまだに外国人によるモノマネのネタにもされる。坂本の突然の航空機事故死や永六輔のメモリアルソングとしても、よく用いられる。

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 2011年7月に公開されたアニメ映画『コクリコ坂から』(写真)の挿入歌として採用され、やはり同年に起こった東日本大震後にコマーシャルメッセージに使われた。

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 イントロで使っている、ヴィブラフォン(写真)マリンバ木琴と大きく異なる機能は、共鳴パイプの上にファンが電気モーターによって廻っており、それによって音のふるえ(ヴィブラート)を起こし、この楽器特有な甘い音色を出すところで、ヴィブラフォンという名前で呼ばれるのは、ここに起因する。

坂本九/上を向いて歩こう(1963年)






酒の肴

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 最近は、めっきり酒量が減った。年金生活で手元不如意になったのと、お酒の付き合いが減ったことが原因だが、お酒には習慣性があり、飲まないでいると飲まなくて済んだり、たくさん飲めなくなった。…歳のせいもあるのだろう。

 30年来の行きつけだったスナックから電話があり、久しぶりに出かけたが、お酒もさしておいしいと思わないし、カラオケも喉がつかえて何曲も歌えない。もうとても以前のような午前様はムリだ。

 元々根っからの酒好きという訳ではないからだろうか。

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 本当の酒好きは、升酒「塩」を肴にして飲む。(写真)

 そんな人も周りにいたが、肝臓を悪くして早死にをしてしまった。自分は、酒に肴が無くては飲めないタイプだ。

酒の肴

 「肴」(さかな)とは、酒を飲む際に添える食品を意味する語。「酒肴(しゅこう)、酒にあてがうことから主に関西では「アテ」という。自分はもっぱら「おつまみ」と呼んでいた。もともと副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字をあてていた。酒のための「な(おかず)」という意味である。


 なお、魚類のことを「さかな」と呼ぶのは、肴から転じた言葉であり、酒の肴には魚介類料理が多く使用されたためである。古くは「うを」(後に「うお」)と呼んでいたが、江戸時代頃から「さかな」と呼ぶようになった。
酒の肴には定番があった

 その行きつけだったお店もそうだが、酒の肴には定番品があった。

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 ビール枝豆や、ワインチーズなどは今でもそうだが、日本酒には「あたりめ」(するめ、写真)があたりめー(注:これ、一応おやじギャグです)のようについてきた。

 ちなみに、「あたりめ」と「するめ」は同じもので、昔の商人が、損をするという意味の「する」と似ていたため、縁起をかついで「あたり」を使い、「あたりめ」になったと言われている。「あたりめ」と「するめ」は呼び方が違うだけだ。

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 ウィスキーには「レーズンバター」「ピスタチオ」がついてきた。(写真)

 これらを見かけないのは、今やお酒の主流が「日本酒」や「ウィスキー」から「焼酎」に代わったせいもあるのだろう。
枝豆

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 ビールのお供「枝豆」(写真)は、近年の健康志向にともなう日本食ブームの影響もあり、最近は日本語名の「edamame」と呼ばれ、海外でインターネット検索された和食キーワードランキングで「sushi」「ramen」に挟まれ、「edamame」が2位を獲得。健康食として世界に注目される食品になっている。アメリカン・フットボールや野球を観戦しながらつまむ食べ物として、スタジアム内の売店でも買うことが出来るところもある。中華料理では毛豆と呼ばれ、豆干毛豆炒黄瓜などの食材としても広く使われている。

 豆自体が世界各国で食されており、親しみやすい味であること、自ら皮を剥くという変わった食べ方、皮自体も柔らかく食べやすいという理由から食されている。 また、子供の食育の一環としても食されており、野菜を食べない子供が、枝豆が飛び出る姿が面白く、遊びながら食べられる・小さいサイズで口に入れやすい・柔らかいという利点がある。
だだちゃ豆

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だだちゃ豆(写真)は、枝豆の一種だが、山形県庄内地方の特産品。江戸時代に越後から庄内に伝わった品種を選抜育成したもので、明治の後期に誕生したとされる。

 さやの毛が茶色で、くびれも深く、見栄えは必ずしも良くないが、甘味と独特の濃厚な風味を持っており、香りも強い。やや小粒の状態で出荷され、短めの時間で茹で上がる。

 栽培する土地が合わないと風味が落ちてしまうことから、生産地が限られている。収穫期も短く、保存も困難だったため、長らく幻の豆と呼ばれたが、近年の輸送手段の向上等により全国的に知られるようになった。特に人気があるのは鶴岡市・
白山(しらやま)地区のものである。

 「だだちゃ」とは庄内地方の方言で「おやじ」「お父さん」を意味する。江戸時代、献上された枝豆に対して庄内藩の殿様が「この枝豆は、どごのだだちゃの作った豆だや?」と尋ねたことから、それ以来「だだちゃ豆」と呼ぶようになったという説など、諸説ある。

 今では全国的に有名になった「だだちゃ豆」だが、早くから知っていたのは訳がある。以前勤めていた会社の工場が鶴岡市にあったことと、くだんのスナックのママが鶴岡市出身だったからである。そのとき食べたときの感動の味は忘れられない。

 今が旬の収穫時だ。http://www.dadacha.jp/参照)
お酒のつまみが登場する歌

八代亜紀、舟唄

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 クラリネットの物悲しい演奏で始まる「舟唄」八代亜紀(現在66歳、写真)の代表曲のひとつ。

 八代の歌としては初の男歌だったが、阿久悠作詞、浜圭介作曲の本曲を初めて八代が聴いた時、最初のフレーズを聴いただけで「必ずヒットする」と直感したという。

 歌詞は、
神奈川県の俗謡として花柳界で歌い慣わされていたダンチョネ節」からの本歌取をしている。

 1981年に製作された映画『駅 STATION』降旗康男監/東映)の劇中では、居酒屋で高倉健倍賞千恵子が見ている紅白で八代が歌う場面が挿入されている。

 「♪お酒はぬるめの燗がいい」「♪肴はあぶったイカでいい」という歌詞が冒頭に登場するが、八代本人は「あぶったイカは好きなものの、酒は呑めない」とのことだ。

 今は亡き酒好きの義父がよく歌っていた歌で、この歌を聴くたびに義父のことを思い出す、感傷的になる曲だ。

八代亜紀/舟唄(1979年)


河島英五、野風増・時代おくれ

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 河島英五(2001年、48歳で没、写真)が、男の強さや哀しさ、優しさ、父親としての心情を唱いあげた数々の曲は、時代を越えて男性の共感を呼び、歌い継がれている。若いころにギターを持って世界を放浪し、庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合った経験が、河島英五の音楽の礎を築いている。

 内外のミュージシャンが驚くほどパワフルな音量と大声で唱いあげる姿、「男らしさ」にこだわった歌詞が特徴。

 コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置いた。

 歌手の長女・河島あみるの結婚式に参列後の2001年4月16日、肝臓疾患のため急逝した。亡くなる2日前にライブに立ったのが最後の仕事だった。亡くなる前日に体調を悪くし、病院に運ばれるも既に手遅れの状態で家族に看取られ息を引き取った。

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 告別式終了後の出棺の際、棺の上に遺影が置かれ、参列者から「英五」の連呼が起こった。

 河島の墓は彼の故郷・奈良市の十輪院に建てられており、墓石には生前、河島が手帳に書き残した夫人への感謝のメッセージが刻まれている。

 なお、河島の忌日となった4月16日は『桜風忌』と呼ばれている。(写真)

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「野風増(のふうぞ)は、1980年に本曲の作曲家・山本寛之によってリリースされた曲である。

 「のふうぞ」とは中国地方(主に岡山県)などでのやんちゃ・生意気などという意味の方言である。それに「野風増」という漢字をあてられている。

 山本寛之がリリースした5年後に、河島英五らによってカヴァーされヒットした。

 歌詞には、息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたいという内容があったが、河島本人は歌詞通りに息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。(右歌詞)

河島英五/野風増(1985年)


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「時代おくれは、
河島英五のCBS・ソニー移籍第1弾として発表されたシングル盤である。オリコン誌でのチャート・アクションは目立った記録を残してはいないが、同年の『日本有線大賞』では「特別賞」を受賞した。

 
白鶴酒造のコマーシャルソングに起用された楽曲で、酒場を舞台に、自身の生き様を静かに見つめ考える男性の心情を描いている。作詞は阿久悠、作曲は森田公一

 発売年である1986年は、のちにバブル景気などと呼ばれる空前の好景気の入口にあたり、流行を追った「トレンド」なる言葉がはやりつつあった時代の最中、「時代おくれの男になりたい」とあえて綴られた歌詞が特徴のひとつとして挙げられる。

 「酒と泪と男と女」
と並び、彼の代表曲のひとつになっている。

河島英五/時代おくれ(1986年)


坂本冬美、能登はいらんかいね

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 坂本冬美(現在50歳、写真)の「能登はいらんかいね」は作詞:岸元克己、作曲:猪俣公章

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<歌詞>

 欠けた徳利に たらこのつまみ(写真)酒の注ぎ手は 見そめたあの娘 能登はいらんかいねー ふるさと能登はヨー 寝酒三合に 口説きを混ぜて 今夜は輪島の 夢をみる

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 能登はもう44年も前になるが、一度、傷心の「能登一周」一人旅をしたことがある。

 この歌が生まれた17年前の話である。その年、一生の思い出になる失恋をした。

 そのとき泊った民宿で、悲しさと寂しさのあまり枕がぐっしょりと濡れたことを思い出した。

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 その民宿の名前は忘れたが、場所は曽々木海岸といって、当時の旅行誌「アルパインガイド」で「日本一夕陽が美しい場所」
と書いてあった。

 そしてその日、一人でふて寝していると、太鼓の音が聞こえる。何だろうと行ってみると、この曲中にもある「御陣乗太鼓」(写真)だった。今調べてみると「名舟大祭」といって、今年は7月31日と8月1日に行われたようだ。

 人に逢えばいつか別れがやって来る。そんなことを思うゆとりなど当時は欠片もなかった。能登といえば、青春時代の辛い思い出が蘇って来る。

坂本冬美/能登はいらんかいね(1990年)


 こんな文章や映像を見ながら、ビールの肴にしているところだ。

ダニーボーイ(Danny Boy)

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 ダニーボーイ」(Danny Boy)は、誰も知らないアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」(Londonderry Air)から、事実上の国歌になり世界中に広まった名曲。 様々な歌詞によって歌われ、特に「ダニーボーイ」のタイトルのものが有名である。

 「あなたが戦いから戻るのを、死んでも待っているから、どうか帰ってきてください」という、戦争に赴く息子を思う親の気持ちを切なく歌い上げる切ないメロディーは、アイルランド国民のみならず世界中の人々の心を魅了して止まない。

 「ロンドンデリーの歌」のタイトルは北アイルランドの州の名に由来する。

 この曲はロンドンデリー州(デリー州)リマヴァディジェイン・ロスにより採譜され、「アイルランドの古代音楽」(1855年)という書物に収録され、「ロンドンデリーのジェイン・ロスの収集による」無名の曲=「ロンドンデリーの歌」として知られるようになった。

 彼女が聴いたのはタイトルも歌詞もない器楽曲としての演奏だったが、いつどこで誰から聴いたのかなどについて謎が多く、詳しいことはわかっていない。

デリー/ロンドンデリー名称論争

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ロンドンデリー(Londonderry)は、デリー (Derry、「カシの森/カシの木」の意)とも呼ばれていて、州、行政区、都市の名前だが「デリー/ロンドンデリー名称論争」というのがあり、法律上は、都市と州の名称は「ロンドンデリー」であり、地方行政区画の名称は「デリー」である。(はロンドンデリー州)

 デリーという名称はナショナリストが好んでいて、北アイルランドやアイルランド共和国のカトリック教徒の間で幅広く使われ、逆にユニオニストの間ではロンドンデリーという名称が好まれるが、日常会話では市内に住むほとんどのプロテスタント教徒はデリーと言っているそうだ。
 
<州> ロンドンデリー州 (County Londonderry、人口約24万人) は、アルスター地方にある州。アルスター地方は9州あるが、北アイルランドには6州あり、3州はアイルランド本国。州都はコールレーンである。

行政地区>デリー・シティ・アンド・ストラバン(Derry City and Strabane、人口約15万人)は、イギリスの北アイルランド北西部の行政区。 2015年4月1日に、デリー地区とストラバン地区が合併して設置された。
 
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<都市>
ロンドンデリー
(人口約8万5千人)は、北アイルランドで2番目に大きく、アイルランド島において4番目に大きい都市でもある。

 こんなに複雑なのは理由がある。

 まずは1613年。ジェームズ1世の勅許状により都市になることが承認され、デリーの前に「ロンドン」を付ける形で市名がロンドンデリーに変更された。デリーという都市名がより一般的に知られているが、ロンドンデリーという都市名も一般的に使用されていて、法的名称として残っている。
 
 そして有名な、北アイルランド紛争IRAという過激集団もいた。アイルランド島の北はイギリスの領土という問題だ。

 1960年代の後半から1990年代にかけ、宗教差別を発端としたユニオニストナショナリスト両勢力の私兵組織が騒乱やテロを繰り返す、いわゆる「北アイルランド問題」が巻き起こり、1972年にストーモント議会が廃止されてイギリス政府による直接統治が始まった。1990年代になると和平への道が模索されはじめ、1998年になるとユニオニストおよびナショナリスト政党、私兵組織とイギリス、アイルランド両政府によってベルファスト合意が形成され、これに基づいて全政党が参加する北アイルランド議会が設置され、その後は概ね平穏のようだ。
ダニーボーイの誕生

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 ダニーボーイの作詞者は、弁護士であり有名なソングライターでもあったイングランド出身レデリック・エドワード・ウェザリ(1929年、80歳で没、写真)と言われている。

 彼がダニーボーイの歌詞を創作したのは、第一次世界大戦を数年後に控えた1910年、彼が62歳のとき。最初は、彼自身が作曲したメロディでダニーボーイを発表してみたが、どうも受けが悪く、しばらくの間お蔵入りすることになってしまう。

 そうこうしているうちに2年が経過していた1912年のある日、アメリカに移住していた義理の妹が、彼の元にあるメロディを送ってきた。彼はこのメロディーを聞くや否や、すぐにこれが2年前に自分が発表した「ダニーボーイ」の歌詞にピッタリのメロディーであることに気付いた。メロディーが変わったので歌詞にもいくつかの修正を加えた上で、1913年に新生「ダニーボーイ」として発表したところ、そのメロディーの素晴らしさと歌詞の切ないストーリーとが相俟って、たちまち多くの人の絶賛を浴びることとなったという。
ダニー・ボーイの人気の広がりの秘密…アイルランド移民

 アイルランドの主要輸出品は移民という言葉もあるぐらい、アイルランド移民は全世界に散らばっている。
 
 アイルランドは言わずと知れたカトリックの国で、ヨーロッパの西北の果てという地理的条件も重なり、厳格なローマ・カトリックが色濃く残る数少ない地域のひとつとなっている。

 イギリスの支配を受けていたアイルランドは、イギリスの国教会(プロテスタント)から厳しい宗教的迫害を受け、数多くのアイルランドのカトリック教徒が命を落とし、これらの迫害から逃れるために、数多くのアイルランド人達が新大陸を目指した

 アイルランド本国の全人口が約390万人であるのに対し、アメリカに約3,000万人、カナダに約500万人、オーストラリアに約500万人のアイルランド系の人々が住んでいるといわれ、祖国の人口をはるかに凌いでいる。

 しかし、この移民は、希望に胸ふくらます新しい門出というような前向きなものではなく、宗教的な弾圧、
1845年から1849年の数年間にわたって発生した「ジャガイモ飢饉」(The Great Famine)による深刻な食料不足、イギリスの圧制などに苦しむ人々が、「これ以上この国にいては生き続けることができない」という切実な想いから、やむを得ず行なうものだった。

 そして、アメリカでは、メキシコ戦争が終結してから間もない1848年の初め、獲得したばかりのカリフォルニアで金鉱が発見されることで、ゴールドラッシュの時代がやって来る。

 アメリカ国内では、誰もが一攫千金を夢見てはるばる西部へと荒野を幌馬車隊で長旅を続けることになるが、何もアメリカのみならず、アイルランドを含めた世界中の人々がこの黄金獲得を目論んでアメリカ新大陸へと移住していったのだ。

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 映画「タイタニック」(1997年)で、レオナルド・ディカプリオ(現在48歳、写真)は、アメリカに新天地を求める貧しいアイルランド青年役を演じた。なお、彼はアイルランド系ではない。

 アメリカ大統領・ジョン・F・ケネディロナルド・レーガンビル・クリントンもアイルランド系。「西部劇の神様」ジョン・フォード監督もアイルランド系で、ジョン・ウェインを多用した理由は、彼もまたアイルランド系だったからだと言われている。

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 そのほか、ハリソン・フォードクリント・イースト・ウッドグレース・ケリートム・クルースラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

 こちらは移民ではないが、最近ではゴルフのローリー・マキロイ(28歳、写真)も北アイルランド出身だ。
ダニーボーイの歌

 それでは、曲をいくつか。

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若いころ、シル・オースティン(2001年、71歳で没、写真)の演奏するこの「ダニーボーイ」が大好きだった。後半の盛り上がりが凄い。

 彼は、米国フロリダ州ダネロン生まれのアフリカ系米国人。テナー・サックス奏者(ジャズ・ブルース・R&B)、バンドリーダーとして活動した。


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ケルティック・ウーマン(Celtic Woman)は、アイルランド出身の女性で構成される4人組の音楽グループ(過去には5人組、6人組の時代もあり)。結成後、ツアーやスケジュール等によりメンバーが変遷している。
現在は次の通り。タラ・マクニールスーザン・マクファーデンマレード・カーリンイーハ・マクマホン(写真)


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キリ・ジャネット・テ・カナワ(現在73歳、写真)は、ニュージーランド・ギズボーン生まれのオペラ歌手、声楽家。ヨーロッパ人とマオリ族の血を引いているが、生みの親は不明である。ごく幼いころにアイルランド人のネルとマオリのトーマス・テ・カナワ夫妻の養女となる。

 オークランドのセント・メアリーズ・カレッジにてオペラ指導者のデイム・シスターメアリー・レオの指導を受ける。メゾソプラノ歌手として活動を始め、その後、ソプラノ歌手へ転身する。男性でいう勲位(ナイト)の女性版である大英帝国勲章(デイム・コマンダー)を授けられ、ニュージーランド勲章、オーストラリア勲章も授与されている。2006年にヴィクトリア大学ウェリントンより名誉博士号(音楽学)を授与されている。2004年にサミュエル・バーバーの歌劇『ヴァネッサ』を最後にオペラ歌手を引退する。オペラ歌手引退後も引き続きイギリスを中心に、リサイタル、コンサートへ出演をしている。オペラのほか、オーケストラとの共演、収録CDを多数発表している。



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アンディ・ウィリアムス(2012年、84歳で没、写真)は、我々団塊の世代では、NBCで1962年から9年間、自らの名前を冠した音楽バラエティ番組『アンディ・ウィリアムス・ショー(日本ではNHK、1966年~1969年)でおなじみの歌手だ。


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ジャッキー・エヴァンコ(現在17歳、写真)は、アメリカ・ピッツバーグ出身の歌手。クラシカル・クロスオーバーの分野で活動している。
  
 2009年1月にラスベガスで開催されたタレント大会で優勝。その後音楽プロデューサーであるデヴィッド・フォスターにより歌手デビュー。同年のナショナル・クリスマス・ツリー点灯式の際にはバラク・オバマ大統領と共演した。

 2010年放送のアメリカズ・ゴット・タレントでは決勝まで勝ち進み、決勝ではアヴェ・マリアを歌い、準優勝。

 2011年10月来日し、日本テレビ「行列のできる法律相談所」(12月4日放送)、「スッキリ!!」(2012年1月11日放送)に出演し、「天使の歌声」を披露した。

 2017年1月20日に行われたドナルド・トランプのアメリカ合衆国大統領就任式において、国歌斉唱を行った。





野際陽子

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 野際陽子さん
(写真)が亡くなって早いもので、もう2ヶ月が経った。

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 彼女の追悼記事としてはやや遅いが、図書館で借り彼女が還暦ときの処女作「脱いでみようか」(1996年、扶桑社、写真)を読んだところなので、投稿することにした。内容については後述する。

 2014年に初期の肺腺癌と診断され手術したが2015年に再発したため、再手術で腫瘍摘出手術を行っていた。その後、2017年5月8日に肺炎を併発したため再入院したが、容態は回復する事なく2017年6月13日に東京都内の病院で死去、享年82(満81歳没)だった。

 テレビドラマでは『やすらぎの郷』が、映画では『いつまた、君と 〜何日君再来〜(2017年6月24日公開)が遺作となった。
やすらぎの郷

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 生前最期の撮影現場となった、4月3日から放送中の倉本聰のオリジナル脚本作品『やすらぎの郷』(テレビ朝日系 月~金 午後0:30~0:50)の収録には入院前日の5月7日まで参加し、収録の合間に鼻にチューブを付けながらも最後まで毅然と演じきった。(写真)

 同ドラマは、“業界人”専用の老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台に、全盛期の映画、テレビ界を支えた俳優、作家、ミュージシャン、アーティストたちが繰り広げる、ノスタルジー漂う人間喜劇。シニア世代が直面するさまざまな問題もユーモラスに描いている。9月末まで放映の予定という。

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 主題歌には、8月23日シングル発売の中島みゆき(65歳、写真)の「慕情」。第15週の放送より、たびたび、次の彼女のヒット曲が使用されている。

 『ファイト!』(第72話、第74話)、『時代』(第74話)、『アザミ嬢のララバイ』(第76話、第78話)、人生の素人(しろうと)』(第97話、第99話)


 野際陽子は、元女優の井深凉子役で出演。6月21日に放送された『やすらぎの郷』にて、冒頭のみだったが、最後の出演シーンが流れ、ネット上で注目を集めた。 

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 写真前列左より、有馬稲子(85歳)、八千草薫(86歳)、倉本聰(82歳)、石坂浩二(76歳)、浅丘ルリ子(77歳)、加賀まりこ(73歳)五月みどり(77歳)。後列左より、松岡茉優(22歳)、草刈民代(52歳)、常盤貴子(45歳)、野際陽子、藤竜也(75歳)、ミッキー・カーチス(79歳)、山本圭(77歳)、名高達男(66歳)。

 野際陽子さんの訃報を受け、「やすらぎの郷」の6月16日(第55話)の冒頭部分で、「心よりご冥福をお祈り申し上げます」と野際さんを追悼するテロップが流れた。
徹子の部屋

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 黒柳徹子(83歳)とNHKアナウンサー時代から親交が深かった野際陽子は、2000年代以降は節目・特別版などに招かれており、昨年7月17日に放送された「黒柳徹子だけが知っている THEテレビ伝説60年史」には“ご意見番”として出演、1977年の初出演から最終出演となった2017年2月2日まで計21回に亘って出演した。なお、
ゲスト出演21回は女性ゲストでは最多だった。
 
 6月16日昼0時からの「徹子の部屋」は、放送が予定されていたコロッケに代え、野際さんのこれまでの出演回を振り返る追悼特集を放送。そして、同番組の後・昼0時30分からは野際さんがレギュラー出演する「やすらぎの郷」の第55話が放送された。

 さて、「脱いでみようか」の読後感である。

鬼姑(?!)の処女作「脱いでみようか」

帯文」にこんなことが書かれてある。

 「初エッセイ集で明かされる野際陽子の謎やいかに」58歳で戸籍筆頭者となった著者・野際陽子。同居老犬チコとの関係は…。大酒の報いとは。肉体の美を求め、あるいは闘い、泣く女に、バチ当たりの夏休みを経て、いよいよ日暮れ前/

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 この本を読んでみないと何のことか分からない。

 ネットの読後感想を見ると、がっかりしたという意見があった。

 千葉真一(78歳、写真)と共演した人気テレビ番組「キーハンター1968年~1972年)での馴れ初め、そして別れの理由とか、佐野史郎(61歳)が熱演した「冬彦さん」という息子を溺愛する意地悪な姑役を演じた「ずっとあなたが好きだった」(1992年))の思い出や、その翌年に放送された「誰にも言えない」で再び佐野と義母役で共演した際、佐野とのキスシーンのことなど、ミーハー的な興味を持つ人には物足りなかったかも知れない。

 自分は彼女のユーモアや本音が聞けて結構面白かった。

写真は、キーハンターの主題曲で野際陽子が歌う「非情のライセンス」


脱いでみようか」の概要

 冒頭で、22年近くの結婚を終了したことを述べ、実は幼いころは11人も同居家族がいて、人生前半の30年は独り暮らしにあこがれていたことを思い出しているが、大家族で育った良さも感じている。そのとき1994年、彼女が58歳のときだった。

 それから、たったひとりの同居人である、不愛想で年老いた柴犬・チコとの生活が始まる。
 戦争の思い出もある。1945年終戦の夏、彼女は9歳、当時は国民学校といった小学校4年生だった。

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 家族は東京・杉並区の天沼3丁目(今の天沼2丁目)に住んでいたが、学童疎開で、1944年の夏休み前に、自分だけが母の実家のある石川県・津幡(地図)という小さな町に1年間疎開した。そのときの自由奔放な生活が笑わせる。

 なお、彼女は、2016年11月23日、石川県河北郡津幡町の広報特使を委嘱されている。

 その後東京に戻るが、空襲が激しくなり、また津幡疎開する羽目になる。

 戦後、東京に戻って戦後を迎えたが、欲しいものはない時代だったが、成りたいものはたくさんあった。

 まずは、アメリカ人になりたかった。それは、彫の深い顔と長い手足の身体が欲しかった。アメリカ人が無理なら混血児になりたかった。

 その他ピアニストヴァイオリニストバレリーナ、そして一人っ子になりたかった。

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 「オーケストラの少女」One Hundred Men and a Girl、1937年)というアメリカ映画を観てからディアナ・ダービン(2013年、91歳で没、写真)に憧れて、ソプラノ歌手になりたかった。

 彼女は、1930年代から1940年代のハリウッド映画で活躍した、カナダ人の女優・歌手である。


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 なお、「オーケストラの少女」は彼女の第2作だが、当時フィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者として有名な、レオポルド・ストコフスキー(1977年、95歳で没、写真)を本人役で引っ張り出し、きちんと演技までさせ、世界中で大ヒットした。『アンネの日記』の著者アンネ・フランクは、第二次世界大戦中に隠れ家の自分の部屋の壁に女優ダービンの写真を貼っていた。隠れ家はそのまま保存されており、ダービンの写真は現在もそのまま貼られているそうだ。

 実は、前作ダニーボーイ(Danny Boy)で選曲に迷ったが、ディアナ・ダービンの歌も有力候補だった。この曲も聴いてください。


 話が横道にそれそうなので、元に戻そう。

 最後に男の子と机を並べたのは12歳のときで、あいつらはまだガキだった。(本人の言葉)

 1954年の春に立教大学の学生になった。そこで、生まれて初めての幼いけれど悲しい恋をした。一目ぼれだった。

 以来彼に心は翻弄されたが、上級生の美人に奪われた。ところが、「私は彼はもう恋人ではなくなったの。あなたも長い間随分辛い思いをしたでしょうけど、あなたがまだ彼を愛しているのなら、彼をあなたにお返しします」

 と言われ、薄々不幸せになることは分かっていても、唯々諾々とまた付き合うことになる。

 「18歳の初恋は、初恋としては遅いものだったが、多分遅かったためにそれだけ激しかったと言えるかもしれない。

 しかし、あの日々ほど正直に生きたことはなかったし、心に嘘をつかないことはたとえ悲しみが苦しみに押しつぶされそうになっていても、清々しいことだということを私はあの青春から学んだ」と述懐している。

 それから文章はまだまだ続く。
 「おわりに」では、何か書くということは、自分を少し裸にすることだと予てから思っていたのと、私がここ1,2年「史上初の還暦ヘアーヌード写真集をだすゾ!」という冗談を持ち芸(ネタ)にして結構受けていたので「脱いでみようか」というタイトルにしたそうだ。

 決して「脱ぐ」という字に釣られて売れるんじゃないかというさもしい気持ちでつけたのではありません。念のため。

 とある。

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 Wikipediaを見ると、驚くほどたくさんのドラマに出演している。

 演技には安心して見ていられる安定感があった。死ぬ間際まで演技者として働く。彼女は俳優「戦士」だったんだと思う。

 ご冥福をお祈りします。合掌。




クラシックのような音楽

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大いなる西部

 今日(8/20)BS放送で「大いなる西部」(1958年)を観た。自分は、どちらかというと、映画はそっちのけで、この主題曲の方が大好きだった。

 作曲がもっと前だったら、クラシックの名曲になったのでは、と思うほどダイナミックな音楽だ。

 映画はグレゴリーぺック(2003年、87歳で没、写真左端)が主演だが、そのほか「ローマの休日」(1953年)、「ナヴァロンの要塞」(1961年)、「西部開拓史」(1962年)など。「アラバマ物語」でアカデミー主演男優賞を受賞した。
 
 主な共演者は以下の通り。彼は、共同製作者としてウィリアム・ワイラー監督と組み、「ベンハー」、「十戒」、「猿の惑星」などの主演で有名なチャールトン・ヘストン(2008年、84歳で没、写真中央)と、身長190cmという大男同士の格闘を演じた。

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イメージ 2 テーマ曲は、本作でアカデミー作曲賞(ドラマ・コメディ映画音楽賞)にノミネートされたアメリカ・ニューヨーク出身の作曲家、指揮者のジェローム・モロス(1983年、69歳で没、写真)。

 映画音楽の主題曲16本の他、クラシック作品もあり、「フランキーとジョニー」(1948年)などの5曲のバレエ、2台のピアノのためのソナタ、弦楽四重奏曲などがあるという。 道理でこんな音楽が作曲できるはずだ。

 クラシックと見紛うような作品は映画音楽のテーマ曲に多い。

ある日どこかで
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 この曲を作曲したジョン・バリー2011年、77歳で没、写真)は時代が変わっていたら、間違いなくクラシックの作曲家として大成していると思う。

 それが、どうしても彼には007シリーズのイメージが付きまとっていて、あのような勇ましい音楽を作曲する人が、なぜこんなに美しい音楽を作るのか不思議に思う。実は、007シリーズを通じてのオープニング曲「ジェームズ・ボンドのテーマ」は彼の作品ではない。これはモンティ・ノーマンという人が作曲したもので、ジョン・バリーは編曲を行っているのみである。

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 あの「スーパーマン」でおなじみの、クリストファー・リーヴ写真中央) と、007 死ぬのは奴らだ」のボンドガール、ジェーン・シーモア (写真右)主演のSFロマンス映画、「ある日どこかで」1980年)で彼は音楽監督を務めていたが、ここでは、その劇中で使われていたラフマニノフの名曲、パガニーニの主題による狂詩曲Op.43・第18変奏(通称:「パガニーニのラプソディー」) (1901年)が売りだった。 

 ところが、ラフマニノフファンに怒られそうだが、自分はジョンバリーのこの主題歌の方が好きで、ブログに掲載したあと何度も聴いたものだ。(拙ブログ、ジョン・バリー「ある日どこかで」参照) 


 こちらは、ラフマニノフの名曲、パガニーニの主題による狂詩曲Op.43・第18変奏(通称:パガニーニのラプソディー」)。もちろん、素晴らしい曲だ。


クラシックとポップスの違い

 ところで、クラシックとポップスの違いとは何だろうか。


 クラシックとは重音楽であり、伝統的な意味合いが強いものを指すが、ポップスとは軽音楽であり、商業的な意味合いが強いものという違いがある。

 クラシックはまた再現音楽とも言われており、譜面通りにきっちりと演奏することが何よりも大切。一般の人たちに売れる曲を作るというよりは、数人の人でもいいので美しいと言われるようなものを作るということに意義を見出しているジャンルでもある。

 それに対して、ポップスはいかに今の人たちの趣味嗜好に合うような音楽を作り出し、買ってもらえるかということに重きを置いている。またクラシックとは違い、基本的にしきたりはないため、自分の発想で新しいものを作り出していくことには柔軟な姿勢を見せるのも特徴の一つ。
 ということだが、それでもクラシックとポップスの境目は分かりにくい。

 そこで、クラシカル・クロスオーバーというジャンルが生まれている。

 このジャンルの起爆剤となったのは、サラ・ブライトマンアンドレア・ボチェッリのデュエット「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」(1996年)と見られている。この曲は全世界で2,500万枚以上を売り上げたとされ、このジャンルのスタンダードになった。

 今、このジャンルを売り物にしている歌手や曲が多い。


スペクタクル映画

 スペクタクルの語源は、ラテン語のSpectaculum(実際に見て壮観な)で、見て壮観な映画、絢爛豪華なセットや衣装の史劇やミュージカル、すさまじい数のエキストラ、派手な天変地異や戦争のシーン、驚嘆の特撮映像等を総じていうもので、特に基準はないようだ。

 スペクタクル映画」と言われている音楽の多くがシンフォニック音楽で、クラシックに近い。

 いくつか聴いてみよう。

マックス・スタイナー/映画「風と共に去りぬ」主題曲 (1939年)


ミクロス・ローザ/映画「ベンハー」主題曲(1959年)
 

アーネスト・ゴールド/マキシム・映画「栄光への脱出」主題曲(1960年)


  モーリス・ジャール/映画「アラビアのロレンス」主題曲(1962年)


ジョン・ウィリアムズ/映画「スター・ウォーズ」主題曲


 やはり、今でもクラシックとポップスの垣根はよく分からない。(Wikipedia参照)

 

行進曲はクラシックなのか

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 前作、クラシックのような音楽で、ポップスとクラシックの境界線について問題提起をしたつもりだが、現代でもクラシックとポップスの作曲家に別れていて、その作曲家もクラシックとポップスに「相互乗り入れ」をしている。

 余計なお世話だが、どの曲がクラシックでどの曲がポップスなのか、果たしてはっきりと区分けが出来ているのだろうか。

 曖昧さが顕著なのが、「行進曲」ではないかと思う。
 「初めてのクラシック」を参考に、クラシックの音楽年表を作ってみた。
 
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 これも時代の区分けが曖昧なことが改めて良く分かったが、この表では、1890年頃からのクラシックでは「近代音楽」1920年頃から「現代音楽」というカテゴリーになるという。

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 ポピュラー音楽(ポップス)は1880年ごろからアメリカで始まったそうだが、ワルツ王・ヨハンシュトラウス2世(1825年~1899年、写真)の曲など、本当だったらポップスのジャンルに入るのではないかと思う。

クラシックの行進曲

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彼の父であるワルツの父・
ヨハン・シュトラウス1世(1804年~1849年、写真)の代表曲であるラデツキー行進曲(1848年)もポップスの部類だ。
 
ヨハン・シュトラウス1世/ラデツキー行進曲(1848年)


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イギリス近代音楽に偉大な功績を残したイングランドの作曲家、指揮者のエルガー(1857年~1934年、写真)の作曲した管弦楽のための行進曲集「威風堂々」(Pomp and Circumstance)作品39は、彼の死後、21世紀初頭に未完の第6番が補筆完成されて新たに加えられた。

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 一般的に知られているのは、第1番あるいはその中間部の旋律「希望と栄光の国(Land of Hope and Glory、
画像)で、現在、イングランドの国歌は、連合王国の国歌『女王陛下万歳』がしばしば使用される。しかし、これを変更したいと要望があり、イギリス第2の国歌」「イギリス愛国歌」と称されるほど愛されている曲である。

エドワード・エルガー/「威風堂々」第1(1901)



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「双頭の鷲の旗の下に」(Under the Double Eagle)作品159は、オーストリアの軍楽隊長・作曲家の、ヨーゼフ・フランツ・ワーグナー(1856年~1908年、写真)が1902年に作曲した行進曲。「双頭の鷲の下に」と呼ばれることもある。同世代のジョン・フィリップ・スーザにちなんで、オーストリアのマーチ王」とも呼ばれる。リヒャルト・ワーグナーと区別するため、J.F.ワーグナーと表記される。ワーグナー一族とは関係ない。

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 題名にある「双頭の鷲」(写真)とは、オーストリア=ハンガリー二重帝国の象徴である。現在ではオーストリア陸軍第2師団の公式な行進曲に採用されている。日本では運動会などの行進曲としてよく用いられる。


J.F.ワーグナー/双頭の鷲の旗の下に(1902)


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ジョン・フィリップ・スーザ(1932年、77歳で没、写真) は、アメリカの作曲家、指揮者。100曲を越える行進曲を作曲したことから、「マーチ王」と呼ばれる。

 次の曲は誰もが一度は聴いたことのある有名な曲ばかり。これはクラシックのようだ。

1.剣闘士(1886年)2.忠誠(1888年)3.ワシントン・ポスト(1889年)4.士官候補生(1890年)5.自由の鐘(1893年)6.マンハッタン・ビーチ(1893年)7.キング・コットン(1895年)8.エル・カピタン(1896年)9.星条旗よ永遠なれ(1896年)10.無敵の鷲(1901年)11.美中の美(1908)

ジョン・フィリップ・スーザ/雷神(1889年)


 ここでは載せられなかったが、その他、ヴェルディ:歌劇 「アイーダ」より”凱旋行進曲”、ワーグナー:タンホイザー大行進曲、チャイコフスキー:スラヴ行進曲、メンデルスゾーン:結婚行進曲、モーツァルト:トルコ行進曲、ベートーヴェン:トルコ行進曲、シュランメル:ウィーンはいつもウィーン、チャイコフスキー:「くるみ割り人形」より“行進曲”、 ショパン:ピアノ・ソナタ第2番より第3楽章「葬送行進曲」、ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」第2楽章“葬送行進曲”、ベルリオーズ:ラーコッツィ行進曲(ハンガリー行進曲)、ケネス・アルフォード:行進曲「ボギー大佐」、シューベルト:軍隊行進曲、タイケ:行進曲「旧友」など、たくさんのクラシックの行進曲がある。

芸術音楽=クラシック、大衆音楽=ポピュラー音楽(?)

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 ところで、拙ブログ大衆音楽とはで紹介した、輪島裕介「踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽(2015年、NHK出版新書、写真)によると、音楽には「芸術音楽」ないし「真面目な音楽」と、「大衆音楽」に別れ、前者は「聴くだけで、踊ってはいけない音楽」だというのだ。

 西欧の大都市では19世紀を通じて、真面目で厳粛な公開演奏会を行うコンサートホール
娯楽的な音楽施設が明確に区分されてゆく。

 娯楽的な音楽施設は、ウィーンなら舞踏場、ロンドンならミュージックホール、フランスならキャバレー、ニューヨークならミンストレルというように、それぞれの都市で異なる形態をとった。

 そこで演奏される音楽は、前者が「高級・真面目な(≒クラシック)音楽」、後者が「低級・娯楽的な(≒ポピュラー)音楽」で、前者が古く、後者が新しいというわけではない。

 それでは、行進曲は、「芸術音楽」なのか、「大衆音楽」なのか。
ポップス(?)の行進曲

スーザ「マーチ王」で、J・F・ワーグナーオーストリアのマーチ王」ならば、日本にも「和製スーザ」がいる。

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 「とんがり帽子」(1947年)、「長崎の鐘」(1949年)、「イヨマンテの夜」(1949年)、「君の名は」(1953年)など、数々のヒットで有名な古関裕而(1989年、80歳で没、写真)である。

 彼の「オリンピック行進曲」は、数ある行進曲の中でも最も好きな曲だ。

 我々団塊世代にとって、東京オリンピック(1964年)以上に感動したオリンピック大会はなかったし、第2次東京オリンピック(2020年)も含めて、もう2度とこんな興奮を経験することは無いだろう。自分が当時15歳中学3年生のとき東京オリンピックは行われた。

 しかし、私にとって東京オリンピックの最大の思い出は、バレーボール「東洋の魔女」でも、柔道のアントン・ヘーシンクでもない、和製スーザこと、古関裕而作曲のオリンピック行進曲である。(拙ブログ、東京オリンピック(1964年)参照)

ファンファーレとオリンピック行進曲(1964年)


「栄冠は君に輝く」は、加賀大介が作詞、古関裕而が作曲した歌・行進曲で、1948年に発表された。副題は「夏の全国高等学校野球選手権大会の歌」

 この曲は、1948年の学制の改定に伴い、それまでの「全国中等学校優勝野球大会」が「全国高等学校野球選手権大会」に改称する事になったことにあわせ、更にこの年の大会が第1回大会から数えて30回目の節目の大会であったことから主催者である朝日新聞社が新しい大会歌として全国から詞の応募を募り、応募総数5,252編中から、最優秀作品に選ばれたのが加賀の詞であった。

 夏の全国高等学校野球選手権大会」の大会歌として大会の開会式、閉会式で演奏され奉唱される。更に、現在では大会の主催新聞社である朝日新聞社の告知CMや、大会中の5回裏終了時から6回表攻撃開始前のグラウンド整備時の球場内BGMとして、知名度は非常に高い。 

全国高等学校野球大会の歌 「栄冠は君に輝く」(1948)


 <ここからは余談>

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 夏の高校野球も、もう大詰め。わがふるさと、広島県の広陵高校が決勝に進出した。今日は休みだったせいもあり、珍しくテレビで野球観戦。お目当てはもちろん、中村奨成選手(画像)だ。

 今日も期待通りの活躍。甲子園史上最大のスーパースター誕生だ!もう2度と超える男は出てこないだろう!先制2ラン、同点ソロ。この日も2本のホームランを放ち名実ともに清原和博の大会記録を超える一大会6本目のホームランを記録した。そして今日だけで7打点を稼ぎ、通算17打点も2008年大阪桐蔭の萩原圭吾の15を超える大会新記録である。満足満足。大満足。


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オリンピックと言えば、「スター・ウォーズ」のテーマ曲などで知られる、ジョン・タウナー・ウィリアムズ(現在85歳、写真)のオリンピック テーマ曲。1984年のロサンゼルスオリンピック以降計3回行われているアメリカでのオリンピックで、楽曲を提供している。

・1984年
ロサンゼルスオリンピック『オリンピックファンファーレとテーマ』(Olympic Fanfare and Theme)=グラミー賞受賞。

・1996年アトランタオリンピック『サモン・ザ・ヒーロー』(Summon the Heroes)

・2002年 ソルトレイクシティオリンピック『コール・オブ・チャンピオン』(Call of the Champions)

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ロサンゼルス大会(1984年、写真)は、1980年に行われたモスクワ大会に、その前年に行われた「ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する」という理由で、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。その報復として東側諸国は本大会をボイコットした(表向きの理由は1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻に対する抗議)少し寂しいオリンピックだった。
 
ジョン・ウィリアムズ/オリンピック・ファンファーレとテーマ(1984年)


日本の戦後の行進曲

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現在も石丸幹二の司会で続いている日曜日朝9時放映中の長寿番組・テレビ朝日「題名のない音楽会」の初代司会者(1964年~1997年)の黛敏郎(1929年~1997年、写真)は、戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人として知られる。

 1997年4月10日、肺を原発巣とする転移性肝腫瘍による肝不全のため逝去した。68歳没。その二日後の「題名のない音楽会」で追悼放送。司会と懇談は岩城宏之永六輔ほか。彼が作曲した『涅槃交響曲』の抜粋ビデオが紹介され、チェロ独奏曲『BUNRAKU』が演奏された。なお、その後番組は、半年の永六輔の代理司会を経て10月にリニューアルした。

黛敏朗/スポーツ行進曲(1953年):日本テレビ


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「祝典行進曲」は、1959年に、日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人である團伊玖磨(1924年~2001年、写真)によって作曲された行進曲である。1959年、当時皇太子であった明仁親王(今上天皇)及び美智子妃(現皇后)の成婚を祝して作曲された。

 戦後日本を代表する行進曲であり、海外の軍楽隊等が日本において演奏会を行う場合には、瀬戸口藤吉「軍艦行進曲」とともに、必ずといって良いほど演奏される。現在は入学式や体育祭、卒業式などに使われることが多い。

團伊玖磨/祝典行進曲(1959年)


古関裕而も、前出の黛敏郎日本テレビのように、NHKのスポーツ番組のテーマソング、スポーツショー行進曲(1949年)を作曲、なお、レイモンド服部TBSのスポーツ番組のテーマソング、コバルトの(1951年)を作曲している。

古関裕而/スポーツショー行進曲(1949年):NHK


 実はこんなこと、音楽の世界では多いので、大してこだわっていないけどね。(Wikipedia参照)


近況報告【2017年8月25日】

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 前回の近況報告は7月9日だったので、それから約1ヶ月半ぶりの記事である。

 その近況報告【2017年7月9日】では、7月3日より、あるマンションの管理人として正式勤務を開始したことをお伝えした。

 本日はその初給料日である。

 日給制なので後払いで仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、働き始めてから食事代や交通費など、出費ばかりが重なっていくこの間の約2ヶ月をとても長く感じていた。

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 6月の研修前日に起きた「めまい」(図)は奇跡的に次の日に直った(急病から回復)が、勤務を始めて8日目7月14日(金)の朝、再び激しいめまいに襲われ、1週間休んでしまった。(めまい=熱中症!?

 ボロボロの立ち上がりである。

 したがって、今日手に入る7月分の給料は、無給の研修日の一日と、通院の一日を合わせて7日分が差し引かれているので、待望の初給料の割には手取りが少ない。
 それでも、仕事も身体も大分慣れてきた。

 管理人業務の主な仕事は、清掃」「ゴミ出し」「マンション管理」である。

 そのうちの時間と労力の多くが「清掃」と「ゴミ出し」に費やされる。

 それが、最初のうちは「適度」ということが分からず、がむしゃらに「清掃」をしていたので、この暑さのせいもあり体力の消耗が激しく、身体を壊してしまった。

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 運動不足の老体を鞭打って身体を動かしているため、「腰から足までの痛み」と、腱鞘炎になりそうなほどの「右手の痛み」で、朝は起き上がれないほどの辛さだった。(図)

 今でもまだ身体は痛いが、大分楽になってきた
 毎日シャツとズボンは汗でびっしょりになる。運動靴も歩きすぎたせいだろう、底に穴が開いてダメになった。重労働である。

 それでも、これは身体にいいことだと、自分に言い聞かせながら働いている。 

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 自分はまだ未経験だが、会社では「体力測定」を定期的に実施しているようだ。例えば「片足立ちテスト」とか。

 ネットで調べると、これは「筋肉枯れテスト」というらしい。(写真)

 実施した人に聞くと、2分間以上できると「ランクA」なのだという。

 (今(朝四時)やってみたが55秒だった。2分間を目指して、研修まで鍛えてみようかな)

 その前に、この会社のマンション管理員の実情を述べておく必要がある。何百人もいる管理員の平均年齢は70歳ぐらいのようだ。

 毎月「~便り」というお知らせが会社から来るが、今月号にこんなことが書かれてあった。

 「4月からスタートした体力測定と現任研修会は順調に推移しておりますが、皆様の『体力度』については、改めてその優秀さに感心しています。 全国的にみても、65歳~79歳の体力テストの結果は着実に上昇しており、背景の一つに継続的な運動習慣があるからとのこと。そしてこの習慣は30~60歳男性では半数以下だが、75~79歳では8割に達し、しかも増加傾向にあるとのことです」

 『働けるうちはいつまでも』という思考、価値観、主要国の中でも高齢者の就業率で最も高い我が国が、健康長寿の国となるのは必然でしょう」

 今のマンションは10階まであるが、降りるときは歩かなければならない。建物内の掃除や巡回は日に2~3回行うので、それだけでもいい運動になる

 前述のように苦しい時も続いたが、ようやく慣れ、体重も少しづつ減っているようだ。
 どんな仕事でも、目標を持って働かないとつまらないと思っている。

 拙ブログ、近況報告【2017年7月9日】でも書いたように、自分の目標は、ここを「清潔さで最高のマンションにする」ことと、「マンションの住民とのコミュニケーションを最高のものにする」ことに揺らぎはない。 

 いつもは一人でマンションを見ているので、普段の自己管理が大切。

 今は、業務に要する時間もようやく分かってきたので、毎日の「基本スケジュール表」を作り、漏れや手抜きがないよう、それに基づいて仕事をしている。

 そして、どちらかというと得意分野のマニュアル作りとファイリングにもエネルギーを費やしている。


 ところで、昨日は「アリさんマークの引越社、懲戒解雇で都労働委から「不当労働行為」と認定」という記事が新聞に載っていたが、何時まで経ってもブラック企業は後を絶たない。

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 坂本光司
「日本でいちばん大切にしたい会社」(あさ出版、写真)は、2008年創刊以来5巻発売しているが、これまで31社を紹介している。
 
 そのうち、著者の坂本氏は、本社は東京都大田区南雪谷で、川崎市高津区久地と、北海道美唄市に工場がある、チョークの製造会社、日本理化学工業を、日本でいちばん大切にしたい会社だと話している。

 50年前に知的障害をもつ二人の少女を、「私たちみんなでカバーしますから」という社員たちのたっての願いで採用した日本理化学工業。 今、この会社の障害者雇用率は、社員の7割にも及んでいるという。 
 
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積極的な障害者雇用を目指したのは、当時の社長・大山泰弘氏85歳、現在は会長、写真)。彼の名言。
 
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「人間の究極の幸せは、1つは愛されること2つ目はほめられること3つ目は人の役に立つこと4つ目は人に必要とされること」であり、「そのうち、後三つの幸福は、働くことによって得られるのです

 これが自分の「働く」モチベーションだ。

 以前にもこのブログで述べたことがあったが、出来たら生涯で50年は働きたいと思っている。失業期間もあったので、今の仕事を73歳まで勤続していればそれは達成できる。

 これから幾つもハードルがあるだろう、不安だらけである。何よりも健康維持が肝心だ。
 今日は久しぶりに八王子のスナックに行く。6月1日以来だ。こんなにご無沙汰をしたことは過去に一度もない。

 今日こそはと前から思っていたが、虫の知らせか、昨日、誰にもお店に勧誘をしないのを信条としていたママからメールが届いた。

 仕事の休みの日ということもあり、今の会社を紹介してくれた飲み友達が毎週金曜日にそのお店に寄ることは分かっているので、彼と一緒に、約3ヶ月ぶりの訪問だ。

 何だか胸がどきどきする。

 けれども、こんなことも無ければ人間生きていけないよね。
 何故か最近母のことを思い出すことが多い。

 2003年に92歳で亡くなったが、「まだまだそっちには行かないから、少し待っててね」

        武田鉄矢/母に捧げるバラード(1973年)





 





もう深酒はムリ

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 昨日(8/26)の勤務は辛かった。近況報告【2017年8月25日】でお知らせした通り、前日(8/25)は、7月から勤務した会社の初給料日だったので、6月1日以来約3ヶ月ぶりに、以前行きつけのお店だった八王子のスナックで深酒(?)を飲んだのがいけなかった

八王子の居酒屋

 その前に、16時から開いている居酒屋に立ち寄った。

 まだ2回目の訪問だが、これが「優れもの」で、ちよっと大げさかも知れないが、「八王子で働いているとき知っていたら、人生が変わっていたかも」と思うようなお店なのだ。

 そこは、カウンターだけの7席という狭さなので、常連客以外には知られていないはずだ。 

 ママは還暦を超えたぐらいのお歳か。お客は、当然(!)年配の男性ばかり。

 彼女によると、お店は16年やっていて、当初は18時からだったが、常連客の年齢が上がるとともに、早く開けて欲しいという要望が強くなり、16時に開店時間を早めたという。

 また、昼カラの帰りなどで、女性客ばかりが団体で来ることもあったが、女性で席が独占されるので、男女ペア以外は断ることにしたそうだ。

 なるほど、鋭い。

 とにかく、お代が心配なくらい次から次へと食べ物が出て来る。カラオケもすぐに順番が回って来る。

 お客と話すのが楽しい。みんな自分より年上の男性だ。どうやら、老後も清掃員や警備員の仕事をしていて、そのお小遣いでたまに飲みに来るのを楽しみにしているらしい。

 待ち合わせの男性は少し遅れてきた。17:30頃か。次の本命のスナック18:30の約束なので、彼よりも先にこのお店を失礼した。

 ビール中瓶2本と升酒を一杯。カラオケを何曲か歌い、2時間半で締めて1,700円也。

 こんなお店は経験したことがない。
元行きつけのスナック

 18:30に行く約束が少し遅れてしまった。普通19時からのお店だが、今日は21時頃団体客が来るので、早めに来て欲しいという。

 その間連絡は取りあっていたが、訪問は3ヶ月ぶりだ。別の常連客とも久しぶりに会い、何だかんだと飲んだり、話したり、歌ったりで22:30を過ぎてしまった。

 拙ブログ、近況報告【2017年8月25日】をコピーして渡し、「後で見てね」と言い残して帰った。2日後の今日、メールが届いた。

 どうやら、「日本でいちばん大切にしたい会社」で紹介された、今はチョークの製造会社、日本理化学工業の会長・大山泰弘氏の次の名言がお気に入りのようだった。

 「人間の究極の幸せは、1つは愛されること2つ目はほめられること3つ目は人の役に立つこと4つ目は人に必要とされること」であり、「そのうち、後三つの幸福は、働くことによって得られるのです」
 昨日は仕事だった。

 前の日、最寄り駅についたのが23:30。お腹が空いたので、ラストオーダーだったが、近くの食堂でラーメンを食べて家に着いたのは24時を回っていた。

 朝はいつも4時ごろ起きる。普通通りの時間に出かけるが、仕事の途中からとても身体が辛い。

 深酒のせいか、睡眠不足のせいか、あるいは両方か。

 ムリが出来ない身体になったのだろう。

 今日もほとんど寝ていた。もう若くはない。本当に身体を大切にしないといけないことを痛感した。

 明日からまた仕事だ。

 

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