厚生労働省は2017年7月27日、2016年分の簡易生命表の概況を発表した。それによると2016年における日本の平均寿命は、男性が80.98歳、女性が87.14歳で、いずれも過去最高になった。2015年と比べると、女性は0.15歳、男性は0.23歳延びて、男女とも世界2位だったという。
このグラフにはないが、平均寿命の一番古いデータの1891年-1898年で、男性42.80歳、女性44.30歳。
織田信長によるものが有名な、敦盛の一節「人間五十年」よりも短い。
戦前は、1918年から世界的に大流行したスペイン風邪、そして1923年に発生した関東大震災、そして、もちろん第二次世界大戦の影響を受け、「50歳ライン」を超すことはかなわなかった。
図のように、戦後初となる1947年調査で、初めて男女とも平均寿命が50歳を超えている。
平均寿命とは別に、平均余命という見方がある。
例えば、図のように2016年の時点で67歳の男性は、今後さらに平均で18年近く、85歳まで生き続けるという試算ができる。
健康寿命や健康余命という見方がある。
いくら長生きといっても、寝たきりではありがたい話ではない。
WHOでは健康余命について「病気やけがなどで完全な健康状態に満たない年数を考慮した、『完全な健康状態』で生活することが期待できる平均年数」と定義している。調査時点でゼロ歳における健康余命が健康寿命となることは、寿命の概念と同じ。
日本が平均寿命でトップレベルにあることは良く知られているが、平均健康寿命は低いのではとの話も耳にする。
しかし実際には図のように、平均健康寿命でも他国から群を抜く形で最上位にあることが分かる。
2015年の平均健康寿命のトップは日本で74.87歳、次いでシンガポールの73.88歳、韓国の73.17歳と続く。上位陣は大よそ単純な平均寿命上位国と変わらないのが特徴だが、ある意味当然の結果でもある。なおイギリスは71.44歳、アメリカ合衆国は69.08歳、中国は68.53歳となっている。
もう一つは平均健康余命。ゼロ歳時の平均健康余命が平均健康寿命となるが、この図は60歳における平均健康余命を算出したもの。例えば日本では21.12年とあるので、2015年時点で60歳の人は、あと21年ほどは健康な状態を維持できるであろうと試算されている。
今更ながらではあるが、これを見て分かるように、日本は以前は「経済大国」と呼ばれたときもあったが、今は人類が経験したことのない「長寿大国」になっているということだ。
世界に例がないだけに、日本がこれからどうしたらいいか国民的議論をしていかなければならない時期だというのに、それを主導すべき「政治」といえばスキャンダル合戦の真っ最中で、私利私欲の世界に堕落しきっている。
五木寛之著「嫌老社会を超えて」(2015年、中央公論新社、写真)は、これからの国の在り方、我々「年寄り」の生き方について、鋭い提案を与えてくれる本だ。
要旨を述べてみよう。
●老人は「弱者」ではなくなった
長老は人数が少なく、ある種貴重な存在だったからリスペクトされる「長老」たりえた。今や、右を向いても左を向いても高齢者が目に入る環境にあっては、もはやありがたくもなんともない。有り難いどころか「疎ましい」だけという状況が生まれている。
そして、人間は自分より「弱い」存在には優しくなれる動物である。高齢者も本来弱者であるが、今ではそういう常識が通用しなくなっている。現代日本に生きる高齢者層は、数の上でメジャーになっているだけでなく、とにかく元気で活発、なおかつ、非常に目立つ。
公的年金と医療保険。今の高齢者は、この二つの社会保障制度の恩恵を、フルに享受できる世代である。
その結果、老人に対する同情に代わって生まれたのが、下の世代からの「反感」であり、「嫌悪」の感情だろう。
その典型は、年金暮らしなのに立派なクルマを運転して、あげくの果ては「逆走」して他人に迷惑をかけているというのに、今の若者は「クルマが欲しくても、経済的にとてもそんな余裕がない」ないのが実態である。
●「貯め込む」高齢者
「下流老人」という言葉が生まれている一方で、気ままに海外旅行に出かけたり、高級車を買ったりする「豊かな老人」の存在が目立っている。
その「豊かな老人」と裏腹の関係にあるのが、少子化が深刻と呼ばれる「貧しい若者」である。子作りはおろか、結婚もせず、いや出来ずに一生を送る人間がどんどん増えている。
そんな状況にもかかわらず、彼らは年金が保障された「豊かな」高齢者世代を背負わねばならず、団塊の世代のリタイヤによって、負担はますます重くなっていく。若者世代の多くが「暗澹」とした気分にならない方がおかしいだろう。
その老人たちは、「加齢」によって、自分たちに向けられる嫌悪感に「鈍感」になりそれにほとんど気付いていない。平たく言えば「空気を読まなく」なるのだ。
やがて「搾取する」「老人階級」と、「搾り取られる」「若者」との間で新しい階級闘争が起きる懸念が生じている。
2014年の565億円余りをピークに2年連続の減少となったが、昨年(2016年)はそれでも406億3千万円の被害があり、依然として高水準にある。
65歳以上の被害は前年より400人増の1万1,041人で、全体の8割近くを占めた。声掛けによる水際阻止は最多の1万3,140件に上り、約192億円の被害を防いだ。
なけなしのお金を奪われた人にはお気の毒としか言いようがないが、老人はこれだけ「貯め込んで」いるということだろう。
●「ドローン」とカナリア
2010年4月、首相官邸の屋上で、無人機「ドローン」が発見される事件が起きた。(画像)数日後、福井県在住の40代の男性が自首して逮捕されたが、彼がネット上で自筆のマンガを公開していたことを(五木氏が)編集者の一人から聞いた。
これが、ネットの世界では「おもしろい」とかなり話題になったそうだ。
『ハローワーカー』というマンガに描き出されているのは、タイトルからも分かる通り、若者の失業者が主人公のストーリー。そこには、究極の嫌老社会、世代間の熾烈な階級闘争が展開されている。
少子高齢化に悩む日本で、20××年に「老人駆除法」が施行される。厚生労働省は、失業中の若者を雇って「増えすぎた」高齢者対策として「老人駆除部隊」を結成し、「老人狩り」に乗り出す。報酬は歩合制で、一人「処分」するごとに1万円。そうやって、あらゆる手段を使って高齢者を「間引き」、浮いた年金や医療費は、出産や育児、教育費のどに振り向けるという。この施策は奏功し、出産祝い金が500万円まで引き上げられた日本の出生率は、戦後最高を記録、第3次ベビーブームに沸き立つ。…(画像)
●不安な時代
日本は、世界に冠たる「豊かな国」であるが、人々はみな「漠たる不安」にさいなまされている。
地震、津波、噴火といった自然災害から、病気、老後、年金破綻、テロ、戦争、ハイパーインフレ、国家財政の破綻、地球温暖化と、どれもこれも、いま一つ現実感をもって捉えられないけれども、「いずれ必ず来る」と脅かされているものばかりだ。
そんな不安を2011年3月11日の出来事が「巨大化」させた。あの大震災は、日本人が久しく忘れていた自然の脅威をまざまざと呼び覚ましただけではなく、大津波によって引き起こされた原発事故は、先端技術の信じがたい危うさとともに、この国で最も「優秀」だと信じられていた人たちの無能ぶり、いいかげんさをも満天の星の下に晒すことになった。
世界に類のないほどの高度経済成長を達成し、バブル景気とその崩壊を経験した今、目の前に見えているのは明らかに「下り坂」である。
いや、日本はまだまだ発展する、という人がいる。円安で日本を訪れる外国人が増え、口々に「日本は素晴らしい国だ」と言っているではないか。2020年、東京オリンピックの開催が決まったではないか…と。
だがしかし、人々は「宴の後」に何が待っているのかに、薄々気付いているのではないだろうか。
古代ローマの詩人、ユウェナリス(画像)が当時の世相を評して残した「パンとサーカス」。権力者から与えられるパン=食糧と、サーカス=娯楽に満足し、権力に対する政治的な批判精神を喪失したローマ市民を揶揄した言葉がその答えの一端だ。
週替わりのように人々の耳目を集める国会議員の不祥事や「失言」、学校の先生や警察のセクハラ、芸能界のスキャンダルなどというのもまた、興味の尽きない「サーカス」に他ならない。
みんながするべき心配から意識的に目をそらし、お気楽に日々を送る日本の現実を、私(五木氏)は「心肺停止」社会と名付けた。現実を直視しようとしないのは、自分たちの足下で進行している事態が、あまりにも深刻なものである裏返しだ、ともいえる。
●人生の「下山」について
歴史が登山に例えられるが、日本の経済が「下り坂」に移行していることと同じく、人生の下山を意識して生きなければならない。
その「下山」の時期については、格好の「教科書」に古代インドのヒンズー教に生まれた概念がある。人生には四つの「時期」に分けられ、それぞれの時代には、それにふさわしい生き方、役割があるという考え方だ。
まだ気持ちは現役なのに、体の衰えをはっきりと自覚せざるを得ないというのは、皮肉ではあるが、人は、ともすれば老いたこと、老いに向かいつつあることから目を逸らそうとする。「そんなことはない」と心の中で強がったりもする。自らの「老い」をきちんと認めることが大切である。
これからが重要である。
●嫌老社会に生きる。「嫌老」から「賢老」への転換を。
「老人階級」が階級として世の中に受け入れられる条件。それは、「自立すること」だ。
まず、一定以上の収入のある豊かな人々は、「年金を返上」すればいい。何歳になろうとも、働ける人は働く。そして、十分な収入があるのなら、その分年収は減らすようにする。年金をもらわないことを「損だ」と考えるのではなく、ちゃんと社会に還元するのだ。
高齢になってもそれなりに働き、「稼ぎがあるから、今のところは年金はいらないよ。国のお金は、若い人の子育てや教育に回して欲しい」と言い、それを実行する老人に対して「ヘイト」感情を抱く人間がいるだろうか。
二つ目の提案は「選挙権の委譲」である。少なくとも100歳を過ぎたら選挙権は悠然と下の世代に譲り、政は彼らに任せる。
世の中には、高齢者の知恵や技術を生かせる仕事が、まだたくさんある。反対にビルの清掃とか警備とか、本来若い人の方が適している力仕事の類を高齢者が引き受けている、というミスマッチもある。
「老人が感じる本当の不便さ」が分からない今の社会にビジネスチャンスが潜んでいる。
例えば「みんなが満足できる補聴器」、「物が挟まらない入れ歯」、「高齢者専用の自動車」など。高齢者自身の手によって、それを世界市場で売り出す。「ニッポンといえば、高齢者をケアする製品やサービスで右の出るもののない国」というブランドが確立されたら、世界が日本を見る目がガラリと変わるだろう。
高齢者にお金を注ぎ込むのではなく、中心になって稼ぎ出してもらうという「逆転の発想」は、若者の職を奪うどころか、彼らにより高付加価値の仕事を提供することにもつながっていくはずだ。
自分はこの考え方に全面的に賛成だ。
今日(7/30)のTBSサンデー・モーニングで、安倍内閣の「受け皿」についての議論があった。そこでは『これまで「受け皿」という発想で政権交代が失敗した、これからもその考え方では失敗が続くだろう』という意見があった。
その通りだと思う。
今の政治家をガラガラポンにして政党の再編成を図るのが成功するとは思えない。
しかし、国民には政治不信のマグマが渦巻いている。そのマグマがドイツの「ナチス」を生んだり、今の世界でも起きている、極端なポピュリズムやファシズムに走るのが怖い。
その場しのぎや自分のことしか考えない政治家を廃して、今や世界が経験したことのない高齢化社会になった日本の将来を真剣に見据えた、既成概念や既得権益とかのしがらみのない「新政党」が政権を握って欲しい。
「トリクルダウン」などという妄想に走る今の政権にはとても任せるわけにいかない。