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東急田園都市線

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 縁というのだろうか、通勤を中心に田園都市線を利用することが多い。(写真)

 田園都市線は、渋谷駅(東京都渋谷区)から中央林間駅(神奈川県大和市)までを結ぶ鉄道路線。渋谷から中央林間まで27の駅があり、各駅停車だと55分かかるが、駅間が平均2分と、短いのが特徴だ。

 田園都市線は踏切のない路線として有名で、駅の数の割に早いのはそのせいもあるのだろう。

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社会人になり立てのころの田園都市線

 1971年、社会人になってすぐに通勤で田園都市線を利用した。本社が渋谷、社員寮の最寄り駅が溝の口駅だったからだが、寮が藤が丘に移って、本社が目黒区青葉台に移転しても、田園都市線だった。

 当時渋谷ー二子玉川間は鉄道が無かった。

 それで、本社が渋谷のときは下図の通り、二子玉川駅から大井町線に乗り換え、自由が丘駅経由、東横線渋谷駅まで行くという、大回りをしていた。

 目黒区青葉台が本社のときはもっと大変だった。東横線に乗るまでは同じだが、渋谷の手前の中目黒駅で降りて青葉台本社まで歩くか、バスに乗るという、もっと面倒だった。

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 その、渋谷ー二子玉川間が開通したのは、自分が松山で勤務していたときの1977年だった。(写真)

 なお、この区間の「新玉川線」という名称は、2000年まで使われ、その後「田園都市線」に統合された。

 そして、田園都市線の地下区間(旧新玉川線の区間)である池尻大橋駅ー用賀駅には、電車の中からでもどの駅かが分かるように、駅ごとに色分けされたタイルの工夫がされている。

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●池尻大橋…なんとなく「柿色」
●三軒茶屋…商業施設の賑やかさ「レモン色」
●駒澤大学…駒沢公園にちなんで「若葉色」
●桜新町…桜が多いので「さくら色」(写真)
●用賀…多摩川が近いから「みず色」

 ちなみに、色のついたタイルは、ホームの出口に近くなるほど太くなるそうだ。(今まで知らなかった!)

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「金妻」で全国的に有名になった田園都市線

 首都圏で屈指の混雑路線で知られる田園都市線だが、45年前の当時も通勤時は大混雑で、ときどき窓ガラスが壊れるほどだった。

 そのころは「田園都市」という名前通りの、のんびりした街並みが続く田舎路線だった。

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 TBSテレビ「金曜日の妻たち」(1983年)は、『不倫ドラマ』として、『金妻(キンツマ)』の略称でも広く知られ、放送日の金曜夜10時には主婦が電話に出ないとまでいわれるほど大ヒットした。(写真)

 そして、ドラマの舞台が田園都市線沿いということも話題になったが、特にたまプラーザ駅は、このドラマでイメージが高まった。 

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 本作はシリーズ化され、翌1984年には第2シリーズ、1985年には第3シリーズが製作された。第1シリーズから人気が高く話題を呼んだが、特に第3シリーズにおいては小林明子(現在59歳、写真)のデビュー曲「恋におちて -Fall in love-」が主題曲としてドラマと共に大ヒット、この曲で第27回日本レコード大賞作曲奨励賞を受賞した。

小林明子/恋におちて-Fall in love-(1985)


地方から本社に転勤したときの田園都市線

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 その20年後、地方勤務の最後は山口県の営業所長だったが、東京本社営業のスタッフとなり転勤することになった。

 実は転勤が怖かった。20年前でも窓ガラスが割れるほどだったのに、今はもっとひどいだろう。その通勤地獄に耐えられるだろうか…。

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 今でも田園都市線では平日の朝・夕のラッシュ時間帯に激しい混雑が発生している。

 朝ラッシュ時の最混雑区間は池尻大橋駅 → 渋谷駅間で、最混雑時間帯の平均混雑率は2016年度で184%(7:50 - 8:50の間に通過する列車の平均)である。(写真)

 これは、東京メトロ東西線小田急小田原線に次いで首都圏の大手私鉄路線では3番目に高い数字だという。

 それでも、今から45年前の方が凄かったような気がする。

 混雑の改善には、車両が増設されたり、電車が増発された企業努力もあるのだろう。

 当時と違うのは1970年当時は無かった携帯電話ヘッドホンステレオの普及だ。今は混むだけではなく、騒音のトラブルが一段と増えている。
満員電車の解消実現に向けて

 今やすっかり落ち目になって話題にも乗らなくなった小池東京都知事だが、思い出してみよう、「都民ファースト」は、「7つの0(ゼロ)を目指します!!」という公約を掲げていた。

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 その一つ、
満員電車ゼロ対策」では東急は、東京都が実施する朝の通勤ラッシュの緩和プロジェクト「時差Biz」(写真)と連動し「グッチョイモーニング」と総称する朝ラッシュ混雑緩和に関する取り組みを行った。

 今年の7月11日~21日の平日に田園都市線で「時差Bizライナー」特急列車が史上初めて運行されたのだ。

 どうやら評判は芳しくないようで、そのときだけのアドバルーンに終わりそうだ

 27ある駅を次々と飛ばし、中央林間から長津田あざみ野溝の口のみに停車し、渋谷に到着するという画期的な試みだったが、その割には時間が短縮されなかったようだ。

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 これは田園都市線ではないが、他にも『満員電車がなくなる日』の著者である阿部等氏が提唱した「2階建て通勤電車の導入」という方策がある。しかしこれは、コストがかかりすぎるという問題や乗り降りで不便が生じるという問題があり、現実的には難しいと言われている。

 希望の党でごたごたが続いているドサクサで、公約のことが話題になっていないが、その他を含めどうなっているのだろうか。

最近、遅延事故の多い田園都市線

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 再発防止策策定、東急電鉄に指示 トラブル続発で国交相(朝日新聞、11月18日)という記事が。

 東京都の東急田園都市線で列車が止まるトラブルが、10月19日朝と11月15日朝に相次いで起きたことを受け、石井啓一国土交通相は17日の会見で、再発防止策やトラブルが起きた場合の旅客輸送の方法を検討するよう東急電鉄に指示したことを明らかにした。石井氏は「多くの利用者に迷惑をかける。輸送障害が続発していることはまことに遺憾」と述べた。東急電鉄は15日のトラブルについて「送電線の被覆が破れて鉄製の支えに電気が流れ、ショートしたことが原因」と説明している。

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 実は、自分も11月15日については電車遅延の被害を受けた一人である。

 田園都市線池尻大橋-駒沢大学駅で同日午前5時35分ごろ停電が発生し、渋谷-二子玉川駅で計155本が運休。12万6000人に影響が出たという事故だ。

 通勤先は二子玉川駅のすぐ先、振替の電車はない。バスに乗る手もあったが、長蛇の列。それに道は混んでいる。

 246号線沿いに歩けばいいのだが、どの位時間がかかるか分からない。それでも歩いた方が早いだろう。予想外に近かった。丁度30分で目的地に着き、始業時間ぎりぎりセーフだった。
何かと縁の深い田園都市線

 今も長津田桜新町間の通勤で使っている田園都市線はどこの駅も何かと関わり合いがある。

 住んだところは、溝の口藤が丘青葉台。会社は渋谷池尻大橋

 過去4回入院したことがあるが、いずれも同じ病院だが藤が丘だった。

 中央林間から渋谷まで27駅あるというが、全ての駅で降りたことがあり、何らかの思い出が残っているというのも不思議なことだ。




神奈川県の鉄道

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 自分のふるさとは広島県だ。しかし、転勤のためとぎれたこともあるが、社会人になってから移り住んだ神奈川県と年数の差が広がっている。前者は22年だが、後者はもう30年で完全に神奈川県民になろうとしている。

 ただし、生まれ育ったふるさとは何よりも代えがたいもののようで、野球は絶対に広島カープである。

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 ところで、クルマは42歳で横浜に単身赴任した際放棄したので、行動範囲はやや狭くなったが、鉄道を利用する機会は増えた。

利用鉄道

 一番多く使った鉄道はJR横浜線だ。

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 続いて前作東急田園都市線で紹介した、東急田園都市線。この二つを比較してみると、下表の通りだ。

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 田園都市線は、
渋谷駅から中央林間駅まで27の駅があり、各駅停車だと55分かかるとしたが、JR横浜線は東神奈川駅から八王子駅までほぼ同じ時間の54分、こちらは20なので、平均2分42秒で、田園都市線の平均2分に比べると、駅間に要する時間は長い。

 それに田園都市線は全駅で降りたことがあるが、JR横浜線は4つも知らない駅がある。ただし、沿線沿いに住んだのが3か所、会社も3か所あるので、田園都市線より路線との縁が深い。

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 前2線に続き、小田急線、東急東横線、JR南武線、JR京浜東北線、京王線、JR中央線はよく利用した鉄道だ。

 それからぐっと減って、みなとみらい線、JR東海道線、横浜市営地下鉄というところだろうか。

 京浜急行、相模線、相鉄線、鶴見線を利用することは少ない。

 もちろん、横須賀線など神奈川県の南部、御殿場線など西部の鉄道はもっと少ない。


 JR横浜線沿線に住んでいて東京に出かける場合、何線に乗ったらいいかときどき判断に迷うことがある。

 今住んでいるところからは、新宿方面は小田急、渋谷方面は田園都市線が一般的だが、その中間ではどちらを使ったらいいか、今年の3月から4月の2ヶ月間通った霞が関は迷った。

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 表にしてみるとこんなところだ。実は、町田と長津田の中間の成瀬に住んでいるとこれが使えるのだが、自分の家は町田に近くその間を考慮しなければならないので、この比較は正確ではない。

 結果的には運賃よりも、駅数と所要時間の方を優先して小田急線を利用した。小田急線もラッシュ時は混むが、何となく田園都市線の方が混雑度が高いイメージがあったのもその理由だ。
小田急線

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 小田急線は、以前沿線の登戸に会社があったので4年間、通勤に利用していた。その登戸には停まらないが、快速急行というのが凄い。新百合ヶ丘から下北沢まで15駅あるが、それを一気にすっ飛ばして行くのだから爽快だ。多分他の鉄道では考えられないのではないだろうか。

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 その小田急線は、来年の3月に複々線化によるダイヤ改正で大幅に便利になる予定だ。記事の主な内容は次の通り。

◆小田急線、複々線化工事完了でダイヤ改正

 計画以来、半世紀。少しずつ工事が進んでいた小田急線の複々線化(道路で言うと4車線工事)が、最後まで難航していた梅ヶ丘~下北沢~代々木上原間の工事完了に伴い完成する。これまでも、梅ヶ丘~和泉多摩川間は複々線によりスピードアップや電車増発はなされてきたが、下北沢付近の工事未完成がボトルネックとなって、抜本的な改善とはなっていなかった。

◆電車大増発に、直通電車増加、さらには時間短縮も

 複々線の完成に伴い、とくに朝のラッシュ時の増発が可能になったことで、混雑率の緩和が期待される。試算によると、ラッシュピーク時の200%近い混雑率が150%程度に緩和されるという。また、下北沢付近の工事未完成もあって、低速運転を余儀なくされていた状態が解消され、スピードアップが実現。町田~新宿間最大12分の短縮となる。

 そして、電車の増発が可能になったので、これまで直通電車が多いとは言えず、乗り換えを余儀なくされていた多摩線、江ノ島線からの利便性が大幅に向上する。すなわち、各線からの都心への直通電車が大幅に増加し、乗車駅から都心の目的地まで座ったまま通勤できる可能性が増大する。地下鉄千代田線との直通運転も増加、通勤急行、通勤準急、快速急行など多様な列車種別を設けることで利用者のニーズに応えられるようになる。

◆特急ロマンスカーも一層魅力的に

 小田急というと、日常的に利用していない人にとっては、箱根への行楽に乗るロマンスカーが身近な存在かもしれない。ロマンスカーも複々線化工事完成で恩恵を受け、一層魅力的となる。

 実は、沿線の宅地化が進み、通勤客が増加し、通勤電車が飽和状態になるにつれて年々スピードダウンしてきた歴史があった。今回のダイヤ改正で、新宿から小田原まで、町田にも停車しないノンストップの最速列車「スーパーはこね」が、土休日は倍増の一日4本となり、そのうち3本は、小田原までの所要時間が1時間を切って59分。待望の50分台実現である。

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 中央林間南林間東林間(右図)

 小田急電鉄の路線図を見ると、「林間」と名乗る駅が目に付く。相模原市から大和市にまたがるエリアにあり、住所にもなっている。この辺りに伝わる由緒ある地名なのだろうか。

 調べてみると、それはかつて小田急が進めた壮大な都市計画の名残だった。遷都論まで飛び出した構想の全貌を探った。(以下要旨)

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 何ともスケールの大きな林間都市。一連の計画を主導したのは小田急の創業者利光鶴松(1945年、81歳で没、写真)だった。

 利光は衆議院議員などを務めた政治家だ。鉄道事業に進出し、小田急を創業した。新宿から小田原まで80キロ超をわずか1年半で敷設した手腕は当時、大きな話題となったという。

 小田急電鉄の社史、「小田急五十年史」によると、利光社長が林間都市を構想したのは大正中期以降。小田急線の計画と並行して考えていたらしい。当時、渋沢栄一が田園都市会社を設立し、息子の渋沢秀雄らが中心となって田園調布「田園都市」を建設した。後に東京急行電鉄の母体ともなるこの計画が、利光社長を刺激したという。

 社史によると、利光社長はさらに大きな構想を抱いていた。林間都市に首都を移転するというプランだ。東京郊外こそこれからの時代の中心となる――。利光社長にとって、林間都市は理想の都市像だった。

■東京から1時間 不況重なり分譲進まず

 中央林間駅は1929年(昭和4年)、
中央林間都市という駅名で開業した。小田急が推進した『林間都市計画』の中心だった。林間という名前は、この辺りがかつてカラマツなどが生い茂る雑木林だったことに由来している。小田急は中央林間、南林間、東林間に合計80万坪(260万平方メートル)もの用地を取得した。中央林間と南林間を高級住宅地とし、東林間には工場を誘致。さらには小田原線の座間駅付近にも20万坪(66万平方メートル)ほどの土地を買収して「新座間遊園地」をつくる構想を練っていた(資料はつる舞の里歴史資料館に展示)

 しかし、鳴り物入りで始まった林間都市計画は思うように進まなかった。

 折しも昭和恐慌から戦争へと突き進む時代。不況下で購入後に解約する人も多かったという。関東大震災直後、郊外への関心が高まった時代に開発を進めた東急とは対照的なタイミングの悪さだった。

 1941年(昭和16年)、小田急はついに決断を下す。中央林間都市、南林間都市、東林間都市の駅名から「都市」を外したのだ。その理由について1980年(昭和55年)発行の社史はこう記す。
 「雄大な駅名に反して肝心の『都市』の建設は一向にはかどらず、林間都市と呼ぶにはへだたりがありすぎた」

 壮大な計画は、こうして道半ばで進行を止めたという。

■小田急、東急の中央林間接続に異議

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 中央林間が再び注目されたのは、昭和30年代になってから。そのきっかけとなったのが、東急・大井町線の中央林間延伸だった。現在の田園都市線だ。

 実は、この延伸計画が浮上したとき、小田急は異議を唱えている。

 東急がまとめた「多摩田園都市 開発35年の歴史」によると、1960年(昭和35年)、計画を説明する公聴会を前に、小田急は東急に対してこんな文書を送った。

 「貴社申請の終点予定地中央林間およびその周辺は弊社の新宿線の勢力圏内と考えられますので、貴社の終点予定地を弊社江ノ島線の鶴間以南に変更されたいと存じます。なお大和・鶴間地区は、工場誘致等の計画があり、将来の発展が予想されており、地元民もこの方を歓迎している情勢にありますので、貴社にとってもかえって好都合かと存じます」

 要請を受け、東急は既に免許を受けていた「溝ノ口(当時)~中央林間」のうち、「長津田~中央林間」間について工事を見送った。「多摩田園都市 開発35年の歴史」はその理由について、ルートの確定ができなかったこと、土地買収が進行途中であったことと並び、「終点予定地の変更を求めた小田急電鉄の申し入れを考慮に入れた」と書いている。

 しかし再検討の結果、中央林間での接続を決める。ただ東急・中央林間駅の設置場所がなかなか決まらなかったことなどから開業はずれ込み、1984年(昭和59年)、ようやく田園都市線は中央林間まで開通した。ここから中央林間は一気に開発の度を早めていく。

 東急の田園都市計画に触発されて始めた中央林間の開発が、東急との接続によって息を吹き返す。何とも皮肉な展開ではある。

■「都市」の時代に「林間」名乗る

 現在、中央林間は小田急、東急合わせて約20万人が乗り降りする神奈川県の中核都市の1つとなっている。小田急の社史は記す。

 「三駅は『林間』の時代に『都市』であり、『都市』の時代に『林間』を名乗るという皮肉な結果となっている」

 都市開発は一筋縄ではいかない。今も街のあちこちに息づく計画の名残は、複雑な要素が絡み合う計画の難しさを物語っている。

鉄道の進化

 毎日のように鉄道に乗っていると、ふと鉄道の進化を感じることが多い。

 そのポイントは3つ。安全使いやすさアメニティだ。

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 安全面では、ホームドア、ホーム柵の設置。(写真)ここのところ田園都市線(11/25)、横浜線(11/27)と、立て続けに人身事故が起き、電車が遅れた。神奈川県の駅はまだ遅れている。一日でも早い設置が望まれる。

 それでも、ちょっとした工夫が施されていることに驚かされることがある。

 つい最近のことだが、窓のカーテンに変化に気づいた。昔はカーテンは途中で止める位置が決まっていた。今は自由な位置で止まる可変型である。

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 つり革・つり手も変化している。つり革といえば丸形だったが、今は三角形のものが増えている。(写真)

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 トレインチャンネル(写真)とは、2002年に東日本旅客鉄道(JR東日本)の首都圏線区において、通勤形電車内に設置した液晶ディスプレイ(LCD)を用いた電子広告(デジタルサイネージ)である。

 その後、首都圏では東京地下鉄の「Tokyo Metro ビジョン」、東京急行電鉄の「TOQビジョン」、西武鉄道の「西武スマイルビジョン」など、今は多くの電車にトレインチャンネルが導入されている。

 電車内の退屈しのぎ、ニュース、天気予報などの情報を得るのには最適である。

 これから鉄道はどんな進化を遂げるのだろうか。

 ところが、車内放送は録音した声を入れるのが普通だが、ときどき車掌が声を発している。テレビで知ったことだが、これは、お客がつい聞き流すことを防止する策だという。

 デジタルの時代だとは言え、最終的にはアナログで終わるというのが世の常である。
ザ・ブルー・ハーツ/トレイン・トレイン(1988年)






学校の先生

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 昨日(11/28)に妻と病院に行ってきた。どうも早合点したようで、当日にも入院するかも知れないと思い、仕事では本日交代の人を頼んでいたが、12月12日(火)に入院、検査とその結果により手術、14日(木)には退院することに決まった。


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 今から4年前の2013年の9月にカテーテル手術をした急性心筋梗塞だったが、今は狭心症という病気のようだ。(心筋梗塞【その2】)結果、もう一つ、血管の中にステント(写真)が加わるかもしれない。

 それで、今日は今の仕事で働き始めて初めての連休だ。火曜日と日曜日が公休。毎日肉体労働なのに、もうこの歳で連休のないのは辛い。

 閑話休題、今回は「先生」についての話題だ。

「先生」と言えば真っ先に「教師」と思う

 以前にもお伝えしたことがあるが、自分の父は小学校の教師だった。実は妻の父もそうで、父は教頭まで、妻の父は校長まで務めた。ちなみに二人ともすでに鬼籍に入っている。

 父が教師というのは誇りだった。今は死語となったかも知れないが、昔先生は「聖職」と呼ばれていたが、妻の父も同じく、本当に先生らしかった。

 当時の教師の給料は安く、貧しい生活だったが、田舎では名士であり、尊敬されていた。

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 戦争のための学童疎開で一家は広島県の片田舎に引っ越しし、生徒数が少ないため、5人の兄弟姉妹は全て父親の担任を経験した。一学年が授業を受けているとき、その間もう一学年は自習しているという、複式学級(写真)だった。

 学校では「先生」と呼び、家では「お父さん」と呼ぶダブルスタンダード。とても照れ臭かったことを覚えている。
何故「教師」を目指さなかったか

 広島県は当時「西の広島、東の長野」と呼ばれるほど、教員を輩出している土地柄。

 ところが、5人も兄弟姉妹がいるのに、一人も父の跡を継がなかった。父親は口にこそ出さなかったが、自分は末っ子で最後の期待の星なのに、さぞや残念だったと思う。

 先生は給料が安いというイメージで、貧乏生活はいやだと思う側面もあるが、本当は違った。

 教師を目指さなかった理由は、「人に教える自信がなかったこと」「人前であがる性格」に尽きるのだ。

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 写真のような朝礼で、大勢の人の前に立って話すのは、自分にはとても無理に思えた。

 今も得意とは言えないが、年の流れは人を変える。今更無理なことではあるが、「自分が教師だったら」と思うことはある。

 最近電車の中で見ることがあるが、以前ももらい泣きする歌という題名で紹介した、くらしの友社「つたえたい心の手紙」第9回優秀作品

 (福島)「心の手紙」コンテストで郡山の女性銀賞(朝日新聞、2017年2月22日号)の記事から。

 長い学校生活のスタートに、良い先生に出会えた――。郡山市鶴見坦2丁目の事務員塩田陽子さん(52)はそんな思い出をつづり、「くらしの友」社(東京都)主催の「つたえたい、心の手紙」コンテストで銀賞を受賞した。

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 「たった1年間の先生だけど」と題し、郡山市立芳山小学校1年の担任だった小沼郁子先生に宛てた。(写真は、
塩田さんも参加した小学1年の遠足の記念写真。児童の後ろに立つのが小沼郁子先生=郡山市の酒蓋公園、卒業アルバムより、塩田陽子さん提供)
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 また電車の中で泣いてしまいそうな感動的な話だが、ふと気づいたことがある。

 担当していただいた先生に矢を放つようなことで恐縮だが、ここまではしなくていいが、自分は不運にも尊敬した先生に巡り遭わなかったから教師を目指さなかった」のかもしれない。
 最近もあった事件だが、先生自らが生徒をいじめていたという話を聞くと、本当に悲しくなってしまう。「命を大切にする授業」の必要性を強く感じる。

イルカ/まあるいいのち(1980年)


いい「教師」とは 

 これは「いじめ」とは言わないが、自分が中学時代、体育の時間、整列をしていたとき、隊列が崩れていたのか、先生から足を強く蹴られたことがあった。何故蹴られないといけなかったのか非常に憤慨し、心の傷は今も続いている。その先生の顔はまだ覚えている。意味のない体罰は一生嫌な思い出として残るものだ。

 ところで、父も義父も定年退職後、民間企業で勤めたが大変苦労をしたという。

 どうやら「上から目線」のくせが抜けなかったようだ。

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 教育評論家の尾木ママ(70歳、写真)の「子どもと同じ目線に立つ」(画像)という姿勢が大切なのだろう。

 その尾木ママも言う。

 教師を志望する人も減っている。教育の世界に高い志を持って進もうにも、過酷な現実が待っている。

 「教員試験の倍率は、昔の半分くらいになりました。今は、保護者対応が大変。それと、やっぱり上からの管理が、昔と全く違う。昔は校長と教頭が管理職で偉くて、あとは皆平等。今は人事査定とかで評価・ランク付けされるから大変なんですよ」

 世界標準、競争主義脱却が言われる中、「個に寄り添う教育」の必要性を訴える。

 「国際的にいえば、それが常識。インクルーシブ教育といいますけども、子どもが100人いたら、100通りのアプローチがある。それぞれに応じた個別的な教育があるのに、日本では、一斉教育を強化している」
いい「教師」の見本の映画 

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 いい教師の見本のような映画として、拙ブログ
体罰についてで紹介したのは、シドンー・ポワチエ(2017年、90歳で没、写真左)主演の「いつも心に太陽を」1967年)、ウーピー・ゴールドバーグ(現在62歳、写真中央)主演の「天使にラブ・ソングを」1992年)と、大石先生役で主演した高峰秀子(2010年、86歳で没、写真右)主演の「二十四の瞳」だったが、ここでは最後の「二十四の瞳」を。

 主演・高峰秀子の芸歴は長い。1929年、5歳のとき映画「母」の子役でデビュー以降、戦前・戦後を通じて日本映画界の大スターとして活躍した。デビューから1937年(13歳)までの子役時代、日本のシャーリー・テンプルと呼ばれ、天才子役の名を欲しい儘にしている。 
 
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 彼女の人気を決定付けた映画は、1954年(昭和27年)に小豆島(地図)を舞台として撮影された壺井栄原作、木下恵介監督の不朽の名作「二十四の瞳」(写真右)だった。19歳から38歳までの大石先生役を演じ分けた高峰秀子さんの名演が光ったが、これで瀬戸内海の小島・小豆島の名前が全国津々浦々に知られるようになった。

 そして、「二十四の瞳」の撮影で当時木下の助監督をしていた松山善三と出会い、1955年結婚し、生涯の伴侶となった。

 物語はこうだ。

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 1928年(昭和3年)、大石先生は新任の女教師として小豆島の岬の分教場に赴任する。一年生12人の子供たちの受け持ちとなり、田舎の古い慣習に苦労しながらも、良い先生になろうとする大石先生。

ある日、大石先生は子供のいたずらによる落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂、長期間学校を休んでしまうが、先生に会いたい一心の子供たちは遠い道のりを泣きながら見舞いに来てくれる。

 しばらくして、大石先生は本校に転勤する。その頃から、軍国主義の色濃くなり、不況も厳しくなって、登校を続けられない子供も出てくる。やがて、結婚した先生は軍国教育はいやだと退職してしまう。

 戦争が始まり、男の子の半数は戦死し、大石先生の夫も戦死してしまう。また、母親と末娘も相次いで世を去る。

 長かった苦しい戦争も終わり、大石先生はまた分教場に戻り教鞭を取ることになる。教え子の中にはかつての教え子の子供もいた。その名前を読み上げるだけで泣いてしまう先生に、子供たちは「泣きミソ先生」とあだ名をつけた。

 そんな時、かつての教え子たちの同窓会が開かれる。その席で、戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら(オリジナル版では指差す位置がずれ、涙を誘う)全員の位置を示す。真新しい自転車を贈られ、大石先生は胸が一杯になり、涙が溢れてきた。その自転車に乗って大石先生は分教場に向かう…。(Wikipedia 参照)



 
今の卒業式にはいろんな歌が歌われるようだが、この「仰げば尊し」が一番いいと思うのは歳を取った証拠だろうか。
 

「教師」の大変さ今昔

 自分が子供のころ見た教師も大変だった 当時、学校の先生は交代で当直(宿日直)をしていた。父のいる学校に行き一緒に泊まったことがある。学校は広く、真っ暗で気味が悪い。まるで「肝試し」をしているようだ。よくこんなことやっていたと思う。

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 そして、広島県は多島海。

 父が単身赴任した三原市沖にある芸予諸島の小さな島の一つ、佐木島(地図)にある鷺浦小学校にも、小さいころなぜか一人で行き、泊まったことがある。父はいつもカマボコばかりをおかずにして食べていた印象が残っている。

 当時も教師は大変だったと思うが、それでも、今の方がもっと厳しい気がする。
 本日(11/29)の朝日新聞朝刊にこんな記事が。

 文部科学省は公立学校の教員の長時間労働を緩和するため、勤務時間の上限を検討し、ガイドラインとして学校現場に示す方針を決めた。来年前半にも作成するという。数値目標を出すことで、多くの教員が「過労死ライン」の勤務時間に達している現状を改める狙いがある。

■授業以外の仕事も「仕分け」

 教員の働き方改革を議論する中央教育審議会の会議で28日、中間まとめ案が示され、おおむね了承された。この案に文科省がガイドラインを示すことなどが盛り込まれた。

 文科省の2016年度の調査では、残業が月80時間以上の状態が続いているなど「過労死ライン」に達している教諭が小学校で34%、中学校で58%に上った。長時間労働への危機感が高まるなか、「残業は月45時間以下」(長野県)、「週の在校時間が60時間を超す教員をゼロにする」(東京都)などの目標を打ち出す教育委員会も出ており、文科省はこうした例を参考に上限の検討を進めるという。また、学校現場に対しては、勤務時間の適切な管理を求める。

 中間まとめ案では、学校や教員が担ってきた、授業以外の仕事も「仕分け」した。例えば「登下校の通学路の見守り」「放課後や夜間の見回り」などは学校以外が担い、教員の負担減につなげるべきだとしている。とりわけ中学で教員の負担となっている「部活動の指導」は、外部指導員の活用を広め、将来的には学校ではなく地域が担うことも提案した。

 教育行政の要求により、学校現場の仕事が次々と増やされてきたことへの「反省」にも言及した。中間まとめ案では、文科省が新たな業務を加えるような制度改正をする場合は、既にある業務と調整する必要があるとして、教員の仕事量を一元的に把握・管理する部署が文科省内に必要だと指摘した。

■残業代、踏み込まず

 教員の長時間労働の原因の一つは、残業代を出さない代わり、月給の4%を一律で上乗せする給与体系にあると指摘される。残業代が出ないため勤務時間の管理がおろそかになり、時間外の意識も薄くなりやすいためだ。

 ただ、中教審の中間まとめ案はこの問題について「引き続き議論を進める必要がある」との表現にとどまり、抜本的な対策には踏み込まなかった。

 4%の上乗せは1971年に成立した「公立学校教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)で決められ、長年変わっていない。

 法改正を求めるグループの一員で、中教審の会議を傍聴した公立高校の男性教員は「現状に合っていない法律であり、維持したままでは(現場は)救われない」と批判。部活についても根本的な改善策を示さなかったとして「質の高い学びのためには、授業に専念しなければいけないのに」と不満を語った。

 ただ、給与制度を変えようとすると、巨額の財源が問題になる。会議では現状の勤務時間をもとに上乗せ分を大幅に引き上げた場合、国だけで年間約3千億円も支出が増えるという試算が文科省から紹介された。
 学校や教師が行っている仕事は上記以外にも多い。「質の高い学びのためには、授業に専念しなければいけないのに」という声があるのは当然だ。

 また残業代を出さない代わり、月給の4%を上乗せとあるが、これは月5時間程度の残業代に過ぎない。

 やっぱり自分に教師はムリだったのかな。

森昌子/せんせい(1972年)


先生と言われるほどの…

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 前作は「学校の先生」だったが、会社で働いていたとき「先生」と呼んでいたのは、顧問弁護士、税理士、司法書士、社会保険労務士、研修の講師だった。

 先生」とは辞書によると、

1 学問や技術・芸能を教える人。特に、学校の教師。また、自分が教えを受けている人。師。師匠。「国語の先生」「ピアノの先生」

2 教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう語。呼びかけるときなどに代名詞的に、また人名に付けて敬称としても用いる。「先生がたにお集まりいただく」「先生、お元気ですか」「鈴木先生」

3 親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。
「ははあ―今日は宅(うち)に居るな」〈漱石・彼岸過迄〉

4 自分より先に生まれた人。年長者。

 とある。上記の4が原義だという。
 ところで、【先生と言われるほどの馬鹿でなし】という言葉がある。

 〔先生という敬称が必ずしも敬意を伴うものではないことから〕 先生と言われて気分をよくするほど、馬鹿ではない。また、そう呼ばれていい気になっている者をあざけって言う言葉。

 だが、もちろんこれは顧問弁護士など最初に「先生」と呼んだ人を指しているわけではない。

 しかし、そろそろ先生という言い方を広げるのは止めて、「教師」だけに限定した方がいいように思う。

 特に代議士に対しては、「先生」と呼ばない運動を起こした方がいい。先生と呼ばれ有頂天になっているのではないか。

 今の国会の「ごますり」質問や、いつまでも続く「舌禍事件」を見ていると、とても「先生」と呼ぶに値しない政治家のレベルの低さに、ため息が漏れそうだ。

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 質問時間の配分の変更について、昨年の国会で質問時間が余り「般若心経」を唸っていた自民党議員がいた(画像)のでどうなるのかは想像はしていたが、先日テレビを付けたら自民党山本一太参院議員が質問しているところだった。(画像)

 その醜悪さにすぐにテレビのスイッチを切ったのは言うまでもない。こんな国会では何の進歩もない。

 思わず、植木等「ゴマスリ行進曲」(1965年)のセリフが口について出た本国会は、別名「ゴマスリ国会」、山本一太議員には「日本一のゴマスリ議員」という称号を与えよう。そして、みんなでこんな歌を歌おう。 

 「♪ サァー 皆んなそろって 楽しく 元気に ゴマをすりましょう! ゴマをすりましょ 陽気にゴマをね(ア・スレスレ) 口から出 まかせ 出放題 手間もかからず 元手もいらず すればこの世に…♪」 
 
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 世襲候補が全て悪いという訳ではないのだろうが、いまだに日本では、選挙で当選するためには
親から受け継いだ後援会「ジバン(地盤)」親議員の知名度カンバン(看板)」そして親の資産カバン(鞄)」という「三バン」や、昔は「陣笠議員」と呼ばれたものだが、いわゆる「数合わせ」のためのタレント議員が横行し、知性、教養、識見などは二の次になっている。

 以前から揶揄されていることだが、代議士が職業化し、政治屋となっている。

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 今年の国会は通常国会の150日(1/20~6/18)、安倍首相の「解散」の一言で終わった臨時国会の1日(9/28)、そしていま開かれている特別国会の39日(11/1~12/9)
だが、その間彼らは何日、何時間働いたのだろうか。

 もちろん、土日・祝日の勤務はない。少し調べてみたがよくわからない。年間会期は190日。本当に働いたのは多分半分の約3ヶ月の95日ぐらいだろう。ただし、これは推測だ。怒り出す人がいてもおかしくはない。だれか彼らの時給を出して欲しいと思う。

 それにしても、こんなにうま味のある商売は滅多にないだろう。

イメージ 7 思い出すのは、今や薄口タレントと呼ばれ、テレビの人気者・杉村太蔵(38歳、写真)。

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 2005年の郵政選挙で当選し、「小泉チルドレンの代表格」だったが、失言というか自由奔放な発言を連発し、世間のヒンシュクを買った。例えば、「早く料亭に行ってみたい」、「真っ先に調べたのは国会議員の給料。2500万円ですよ」、「念願のBMWが買える」等。でも、彼は本音を言っただけだった。
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 今、評論家・佐藤優著の「危機を克服する教養」(2015年、角川書店、写真)を読んでいる。

 彼曰く

 日本には『反知性主義』という奇妙な妖怪が徘徊している。

 反知性主義とは、「合理性、客観性、実証性を軽視もしくは無視し、自分の都合がいい断片的事実や根拠のない伝説をつなぎ合せて作った物語を信じるという態度を指す」

 「高等教育を受けていても、反知性主義的主張をする人は少なくない。それは、高等教育の基本にある合理性、客観性、実証性とは別のところから反知性主義が生まれるからだ」

 反知性主義者は、「状況はよく分からないけれども、ぼく(わたし)の言っていることが絶対に正しい」という幼児性を脱却しない心理にとらわれている。それだから、理性や事実など知性の言葉で反知性主義者を説得しようとしても無駄だ。反知性主義者が知性自体を信じず、憎んでいるからだ。

 それでは、いつから反知性主義という妖怪が、日本社会、特に政界を徘徊するようになったのであろうか。私は、2012年12月の民主党から自民党への政権再交代第二次安倍晋三政権の誕生が転換点だったと考えている。(中略)

 反知性主義の影響が拡大すると、主観的に日本人が危機から抜け出そうと真摯に努力すればするほど、より多くの危機を招くことになる。

 という。今は正に安倍首相が言うのとは別の意味の「国難」の時代である。

 まあ、いずれにしても(会うこともないだろうが)自分は代議士に対して「先生」とは呼ばないつもりだ。

 多分、自分の人生で今の国会は最低のレベルに達している。


鼻歌(ハミング)

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 音楽が好きで良かったと思うのは、くつろいでいるときはもちろんだが、疲れたとき、イライラしているとき、音楽は心を癒してくれるからだ。
 
 そんなとき、ハミング(鼻歌)口笛を吹く場合もあるが、こんなことをしている人を見てギョッとすることもあるので、人がいる時は決してしない。心の中で歌うことはよくある。

 口笛については過去、拙ブログ、第284話:口笛の音楽口笛の音楽【その2】で紹介したので今回はハミング(鼻歌)ついて。

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ハミングと鼻歌の違い

 ハミングhumming鼻歌の違いについての定義には諸説があるようだ。YouTubeでこんな動画があった。これが正しいのかどうかは分からない。


ハミング(鼻歌)は健康に良い

 日本鼻歌振興会~ハミングジャパン~という組織があり、鼻で呼吸をすると、身体に良いことだらけだという。

 それによると、

 人類は、その進化の過程において400万年ほど前に言語、発声、発話の能力を獲得したと言われています。

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 しかし、言語の獲得による弊害として本来空気清浄機としての機能を備えた鼻で行うべき呼吸を口においても行えるようになってしまいました。

 口で行ってしまう呼吸は温度や湿度を調節される事なく、またホコリや塵、空気中に存在する無数の病原菌やアレルギー物質も除去される事なく、そのまま咽頭や気管支等の粘膜に吹き付けられ、さらには肺に取り込んでしまいます。

 しかし、本来の鼻呼吸は外気に適度な湿度を加え寒い空気は暖かく熱い空気は冷却し、たとえ-20℃の外気であっても体温近くまで加熱すると言われています。実にその差は+50℃以上にもなるそうです。

 また、オイルフィルターのように鼻腔は多層構造をしていてその粘膜には無数に生えた繊毛が動的な空気のフィルタとして回転運動をし付着した異物を絡め取って清浄化し、また咽頭に環状に点在するワルダイエル扁桃リンパ輪に至っては付着した細菌を識別するセンサーとしての機能が働き抗体生成の司令塔として免疫機能をも発揮しています。

 そして、薄く傷つきやすい鼻の奥の粘膜には、その薄さを利用して頭部へ流れる血液の冷却装置として薄い血管が無数に走り熱に弱く電気伝導性の高い神経細胞の塊である脳を(集積回路CPUのファン冷却さながらに)効率よく冷却しています。

 さらに、目頭、目下の内部には舞い飛ぶ蝶のような立体構造をした副鼻腔という空間が存在し、弦楽器の胴体のように増幅音と反響音を生成し良い声、響く声、相手によく聞こえよく通る声を発声できるようになっています。

 また、鼻腔の適度な音響による振動が視床下部や脳下垂体を刺激すればその振動はホルモンバランスを整え、胃腸を刺激すればサーチェイン遺伝子を活性化し若返りのホルモンと言われている成長ホルモンを分泌します。(中略)

 鼻歌は上記全てを解決する呼吸法を自然に身に付け“自然”に出来るようになる人間にとって素晴らしいことこの上ない自然行動なのです。

 とある。
ハミング(鼻歌)逸話 

チャイコフスキー/アンダンテ・カンタビ―レ

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 ロシアの作曲家・チャイコフスキー(1840年~1893年、53歳で没、写真) は、妹アレクサンドリアが結婚し住んだウクライナの首都キエフより100kmほど南にある町、カーミアンカがことのほか気に入り、1870年代には毎年のように同地に滞在し、そこで多くの曲が生れた。
 
 彼はウクライナの民族音楽・民謡を研究し、自分の作品に取り入れた。「アンダンテ・カンタビ―レ」(1871年)は、妹宅で働いていたペチカ職人が鼻歌で歌っていたウクライナ民謡を元にした曲だそうだ。
 



YMO(イエロー・マジック・オーケストラ )/ライディーン

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 1980年ごろのテクノブームに火をつけたのは、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)だった。(
写真左から、細野晴臣高橋幸宏坂本龍一

 
大ヒットとなった「ライディーン」(1980年)は、居酒屋で高橋幸宏鼻歌で歌ったのを、坂本龍一がメモに書き起こして作られたという。


侍ジャイアンツ

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 「侍ニッポン」は1931年(昭和6年)に発表された郡司次郎正(ぐんじ じろうまさ、1973年、67歳で没)の小説(写真)
同作は5回も多数映画化・リメイクされた。
 
 そして、その同名の主題歌(作詞:西條八十、作曲:松平信博)は徳山によって歌われ、一世を風靡した。


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 同曲は、はるか40年後、1970年代の日本テレビ系列のテレビアニメ「侍ジャイアンツ」(1973年~1974年)の主人公・番場蛮(画像)の定番の鼻歌唄:富山敬にまで影響を及ぼした。

 劇中で蛮がバッターボックスに向かう際にしばしば
♪球を打つのが野球やならば~あの娘のハートがなぜ打てぬ~♪という替え歌を歌っていたが、著作権上の理由によりビデオ版発売時に鼻歌に差し替えられ、以降の映像ソフトや近年の再放送でも差し替え後のものが使用されている。

ハミング(鼻歌)の曲

アニメ・ちびまる子ちゃん主題曲「ハミングが聞こえる」

 ちびまる子ちゃんと言えば「おどるポンポコリン」というイメージだが、第74話(1996年6月2日)〜第179話(1998年6月28日)は、作詞:さくらももこ / 作曲・編曲:小山田圭吾 / 歌:カヒミ・カリィ「ハミングが聞こえる」がオープニングを飾る主題歌だった。


テレビドラマ「七人の刑事」主題曲
 
 「七人の刑事」(1961年~1969年)は、TBSで放送されたテレビドラマ。警視庁捜査一課の刑事7人の活躍を描く刑事ドラマ。ゼーク・デチネなる男性のハミングによるオープニング・テーマが有名だった。


エンヤ/マーブル・ホールズ(1991年)

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 「癒し系音楽の女王」エンヤ(56歳)は1961年、アイルランドの北部、ドニゴール州のグウィドー(地図)に生まれ、父がバンド、母が音楽教師をしていた影響もあり、音に囲まれた環境で育ち、ピアノを身につけた。その後大学でクラシック音楽を学びこれが音楽的基礎となっているそうである。
 
 レコーディングでは様々な楽器を自身で演奏するマルチプレイヤーでもある。アイルランドの伝統的な文脈の上で、テクノロジーを活かした作曲を行っている。144チャンネルのデジタル・マルチトラック・レコーダを活かした、壁のように立ちはだかる多重コーラスが特徴的である。"Orinoco Flow"の世界的大ヒットにより、ニューエイジ・ミュージック・ブームの火付け役となった。

 

 自分がハミング(鼻歌)(と言っても声に出すことはほとんど無いが)する歌は絶えず変化している。

 最近はこの曲をよく歌う。最近では安井かずみⅡで紹介した曲だが、千葉紘子の歌ももちろんうまいが、安井かずみがこんな曲を33歳の若さで作詞した、その才能に驚いている。

千葉紘子/折り鶴(1972年)You Tube

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数字と言葉のトリック【その1】

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 統計が好きだ。ブログでも統計を取って、その結果を紹介している。

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 安倍首相の言う「印象操作」(画像)とは意味が違うが、印象で物事を捉えるのが全て悪いとは思わない。

 しかし、「数字はうそをつかない」という言葉もある通り、往々にして感覚だけでは判断ミスを犯しやすい。

統計データを盲信してはいけない

 ただし、統計データを信じすぎると痛い目に合うことも知っておく必要がある。

 まずは、元になる数字や、計算式を間違えている場合があることだ。

 そして、過去のデータと比較するとき、そもそもその基準が違うことだ。政府がいうGDPとか物価指数は異なる母集団があるので、現在と同じ母集団に置き換えないと意味がない。

 自分に都合のいい数字だけを言って、悪い結果を報告しないこともある。株価は上がったが、国民の実質所得は下がったことなどだ。

 一番悪質なのは、結論が先にあり、それから遡り計算式を組み立て、意図的な結果にしてしまうことだ。森友学園のゴミ処理費用の計算方式
(図)はその典型的な例だ。

 日本人は数字に弱いという。数字を一方的にまくしたてられると、それを信じてしまう傾向がある。詐欺師がよくやる手だ。これが一番怖い。

 自分は長い間営業をしていたが、出来るだけデータを用いて営業活動を行おうとしていた。

 それだけに、統計データが持つ威力と、危なさを十分理解しているつもりだ。
YAHOO!ブログ・アクセス解析の疑問

 YAHOO!ブログのアクセス解析(図)は読者の傾向を見る上で参考になり楽しみの一つではあるが、これとて100%データを信じているわけではない。

 何度か訪問者数の記録がおかしいことがあった。修正したとのことであったが、以来、その数値を完全には信用しなくなった。

 訪問者の年代と性別の分析(図)もあるが、これって訪問者はみんな年齢や性別を明らかにしているのだろうか。もしそうだとしても、本当のことを言わない人もいるのではないだろうか。


 そしてPV(ページ・ビュー)、記事アクセスベスト10の合計と、訪問者数との乖離が大きい場合、どう考えたらいいのだろうか。

 例えば、これは12月3日(日)の記録だ。この日はPV(730件)も訪問者数(414人)もいつもより多い。この1ヶ月ではPVは11月12日(910件)、訪問者は前日の12月2日(530人)に次ぐヒット数だ。


 その理由は明らかだ。

 「悲しくてやりきれない」などのヒット曲で知られるフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の元メンバーで、フォーク歌手のはしだのりひこさん(本名・端田宣彦)が12月2日、で死去(享年72歳、写真中央)したからだ。


 その日のアクセスNo.1は、「身長の違いが目立つコンビ・グループ」。上の写真の通り、メンバーのきたやまおさむさん加藤和彦さんがいずれもノッポで、はしだのりひこさん身長差のことをブログに投稿したからである。

 この日のベスト10の合計が296、訪問者数414との差は118。414-296=118) これ以外の記事を118人から見ていただいているということなのだろうか。

はしだのりひこ/①風②花嫁③悲しくてやりきれない④青年は荒野をめざす


 実は最近こんなことがあった。

 よくやっていることだが、この「数字と言葉のトリック」はすぐに作れないので、作成途中で「非公開」(左図)にして完成すると公開しょうと思っていた。ところが、右図のように、12月6日の「記事アクセスランキング」にこの記事が載っているではないか。次の12月7日も5位、8人が閲覧していることになっている。





 










 これでは「非公開」の意味がない。それとも、非公開でも見ることが出来る人たちがいるということだろうか。

言葉のトリック

 ところで、長所と欠点は裏腹の関係にある。長所は欠点につながり、欠点は長所につながることも承知していた。自社に都合のいい数字だけを言って営業をしたことがあるのは事実だ。

 若いころ、当時の商売道具であるオーディオ(写真)を売り込むとき、機能が多い商品は「いろんな使い方が楽しめる」、機能の少ない商品は「シンプルなのは音が良く、故障が少ない」と言っていた。

 「詭弁」という言葉がある。一見正しそうに見えるが誤っている論理のことをいう。一方、一見誤っているように見えるが、実は正しい論理のことを「逆説」というのだそうだ。

 以前からおかしいと思ったことがある。最近どこかの会社が摘発されたようだが、紳士服のチラシでよく見たものだ。「今回限り、定価の〇〇引き」。いつ定価で売ったことがあるんだ。

 最近のテレビは通販オンパレードだ。フレーズは決まっている。「このテレビを見て30分以内に申し込んだ人だけに半額で提供」とか、「92%の人が良かったと言っている」など。92%の分母は何を指すのか。

 「送料無料」という表現もおかしい。無料にしてくれる運送業者があるとでもいうのだろうか。「送料含む」とすべきである。

詐欺師との出会い

 詐欺師と出会ったことがある。

 消火器(写真)を売り込むのだが「消防署の方!から来た」というのだ。言葉としては間違ってはいないかも知れないが巧妙な詐欺だ。「警察署」や「税務署」も使えるかもしれない。制服らしきものを着ていたらもっと危険だ。

数字と言葉のトリック【その2】

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 一昨日(12/12)心臓の検査入院をしましたが、カテーテル検査の結果、異常なしということで、昨日(12/13)退院しました。一泊二日の「病院旅行」をした感じです。

 今後とも宜しく願いします。

 ところで、参った、参った!!ブログをやっと完成したと思ったら、本来伝えたい後半の重要なところが全て消滅してしまった。「前作」という言葉で表現しなければならなくなった「数字と言葉のトリック【その1】」だが、実は一度では作成出来なかったので、一旦「非公開」にして保存し、何日もかかって後半の記事を追加した。

 「下書き」(画像)で一時保存しておく方法もあるが、それを信じて何度画面が消滅したか知れない。Yahoo!ブログではよくあることだ。

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 それで、作成まで時間がかかる場合は右図のように「非公開」にして、何度も「決定」のボタンを押し記事を追加していったが、今回それが通用しなかった。

 後半の記事をアップしてようやく完成できたと思い、最終的に「公開・決定」のボタンを押すと、後半が全くアップできていない。

 それでも怖くて、途中までの記事を「メモ帳」にコピーして保存することもあるのだが、それを忘れていた。不覚といえば不覚だが、記憶をたどって「その2」にチャレンジするしかない。

 追記:引き続きパソコンの調子が悪い。

 その1】について画像は幾つもあるのに、画像一覧ではこの一つしか表示されない。どうしたことか。

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 【その2】もおかしい。入力画面と表示画面が違うのだ。アップしたとき後半が表示しない。それで後半は【その3】とした。

 後半の記事とは、現在の政治経済についての数字と言葉のトリックのことだ。

世論調査のウソ(拙ブログ「世論調査」参照)

 世論調査については、前から疑問に思っていることがある。

 一つは、電話による世論調査が果たして今の時代に適合しているのかということ。

 世論調査の主流はRDD方式といって、最近は携帯電話も対象に含まれるようになったそうだが、有効回答率の低さも含め、どれだけ信ぴょう性があるか疑問に思っている。

 そして、世論調査をしたメディアにより結果が大きくブレているのにも不信感が募る。例えば保守系と呼ばれる読売新聞、産経新聞と、リベラル系と呼ばれる朝日新聞、毎日新聞との結果の違いは、その読者層の違いが影響しているのではないだろうか。

 二つ目は、質問の仕方選択肢の作り方で自分たちに都合のいい答えを誘導していないかどうかということだ。
 
 以前、会社の研修の際講師が、単語の組み合わせを変えるだけで文章の印象がすっかり変わってしまう血液型についての例を出して説明していた。あたかも違う文章に見えるのだ。

 これは「テロ等準備罪法案」に置き換えた例だ。YesとNoの順序を入れ替えると、世論調査の回答は劇的に変わるはずだ。

 例えば、『あなたは、「テロ等準備罪法案」を、今の国会で成立させるべきだと思いますか、そうは思いませんか』と、『あなたは、「テロ等準備罪法案」を、今の国会で成立させるべきではないと思いますか、成立させるべきだと思いますか

 どうですか。質問を少し工夫するだけでアンケートの結果も変わるはずです。

経済統計のウソ

 実際、政府も経済統計が実態とずれていることを認めている。


 「日本の各省庁が継続して調べている統計は、600以上あるとされます。政府系以外にも、民間シンクタンクなどが統計を出しています。日本全体の経済活動を総合的に示すのが、内閣府が調べるGDPの統計です。前期などと比べた増減を比率で表すのが成長率で、速報は四半期ごと、確報は年1回発表します」
 
 「(どうして見直すことになったのかは)麻生太郎財務相が2015年10月の経済財政諮問会議で、消費や賃金といった統計の精度を高めるよう提案したのが一つのきっかけでした。一例として挙げたのが家計調査です。家計調査は約9千世帯に家計簿をつけてもらっています。回答者が、こまめに調査用紙に記録できる専業主婦や高齢者に偏り、弱めの基調を示しやすいという趣旨の指摘でした」

 「あらためて浮き彫りになったのは、統計を取り巻く社会環境の変化です。家計調査のように、家庭のお金の出し入れを紙に書いて協力してくれる人は減る傾向にあります。個人情報保護法マンションのオートロックも調査員を阻みます。予算や人員の確保も厳しく、国の統計職員は16年度、約1800人とじりじり減っています。ほかの国と比べると、15年で英国の約半分、米国の約7分の1という水準にすぎないようです」
アベノミクス成功のウソ

 日本人はキャッチコピーに弱い。それが和製英語カタカナ英語であればなおさら実態とかけ離れ、効果が高い。「アベノミクス」は正にその象徴だ。

 そして、日本は「言霊の国」。ネガティブなことは決して言わない。言ったことは実現する、実現して欲しくないことは決して口にしない、という「言霊信仰」が支配している。

 だから、昨年の5月27日、伊勢志摩サミットでの議長国・安倍首相の記者会見で「『リーマン・ショック』(2008年)以来の世界不況」と発言したときは誰もが驚いた。

 結局、2017年4月の消費税増税先送りの地ならしに話したことのようだったが、世界のヒンシュクを買ってしまった。

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 作家の佐藤優(57歳、写真)はその著書「危機を克服する教養」(2015年、角川書店)で次のように述べている。

 第2次安倍政権は徹底したポピュリズム政策を取っている。特に株価と内閣支持率を結びつけるというマジックに政治エリートとマスメディアが引っかかった。

 「マルクスが『資本論』で喝破したように、株は擬制(架空)資本に過ぎない。株自体は、何の価値も生み出さない。そもそも資本主義は生産を基本とする運動によって利潤を獲得していく。これを現実資本の運動と言い換えることも可能だ。『持っているだけで儲けになる』という株は、現実資本から株式資本に利潤が移転しただけの擬制資本に過ぎない。こんな簡単なトリックで世の中を動かそうとしているところに反知性主義の特徴がある」
有効求人倍率のウソ


 「この春、大学を卒業した皆さんの就職率は過去最高です」「正社員の有効求人倍率は調査開始以来、初めて1倍を超えました」――。

 安倍首相がアベノミクスの成果を誇るたびに口にする常套句だ。雇用環境が劇的に改善したかのようだが、厚労省によると、9月の正社員有効求人倍率(季節調整値)は1.02倍に過ぎず、1倍超えは全都道府県の半数のみ。最低の沖縄は0.48倍、それに次ぐ高知は0.70倍に沈んでいる(いずれも原数値)。やっぱりデタラメなのか。

 採用シーンに20年以上携わる「プロ人事」である人材研究所代表の曽和利光氏に実情を聞いた。

雇用環境の実態を見るなら「離職率」

――安倍首相は過去最高水準の企業収益を理由に、「正社員になりたい人がいれば、必ずひとつ以上の正社員の仕事がある」と繰り返しますが、実態はどうですか。

 そもそも、雇用環境の実情を見る上で有効求人倍率を持ち出した議論は雑駁な印象です。確かに、数字の上では有効求人倍率は上がっています。ただ、それは好景気の結果というよりは構造的な人手不足によるもので、少子高齢化対策がうまくいっていないためです。

数字と言葉のトリック【その3】

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――労働人口はこの20年で800万人以上減っています。

 分母が求職者数、分子が求人数だとすると、分母にあたる若者は減る一方なので有効求人倍率は相対的に上がります。雇用政策の成功によって有効求人倍率が上がっているわけではありません。2008年のリーマン・ショック以降の不景気で企業が求人を絞っていたため、こうした社会構造の変化による人手不足が表に出てこなかっただけなのです。景気動向に左右されるのは中途よりも新卒採用なのですが、この大きな流れで見れば新卒の就職率が上がるのも当然です。

――新卒の求人状況はどうですか。

 リクルートワークス研究所の調査結果によると、18年3月卒業組が対象の大卒求人倍率は1.78倍で前年とほぼ同水準です。大卒求人倍率で1.6倍を超えると売り手市場と呼ばれます。しかし、従業員数5000人以上の大企業の求人倍率は0.39倍で、圧倒的な買い手市場です。1番人気の金融業は0.19倍。広告やウェブ、IT系の情報サービス業は0.44倍。一方で、製造業2.04倍、建設業9.41倍、小売りなどを含む流通業11.32倍。業種によって大きな開きがある。

 就職できればどこでもいいということであれば、職に就けるのかもしれません。しかし、求職者と求人側のニーズに明らかなギャップがある中で、それをないまぜにして平均化し、景気が上向いて幸せな就職が増えていると結論付けるのは乱暴でしょう。学生が殺到するいわゆる大企業の場合、競争率はおおむね100倍。100人の求人に対し、1万人が受験している状況です。

――狭き門です。

 毎年50万~60万人ほどの学生が就職活動する中、大企業に入社する学生は10万人ほど。およそ8割の学生が中小企業に就職するのですが、大半の学生が難関の大企業を含め、トータルで100社以上も受験します。エントリーシートを書き上げるだけでも、1社あたり2~3時間の労力がかかるんです。

 求人倍率が表しているのは最終的にどこかに就職した結果の数字に過ぎず、そこに至るまでの苦労が加味されていない点でもピンときません。雇用環境の実態を見るために追わなければいけない数字は求人倍率ではなく、離職率の方でしょう。

 ――入社3年以内の離職率が中卒7割、高卒5割、大卒3割といわれる「七五三現象」は改善しているのでしょうか。

 足元でいえば、変化はありません。景気が良くなって希望通り、あるいは希望に近い仕事に就けたとなれば定着率は上がるはずですが、頭を抱えている企業は少なくありません。早期離職をテーマにしたイベントを開くと、企業関係者がかなり集まります。特に飲食サービス業の早期離職は5割を超えます。
景気拡大のウソ


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 主要100社を対象に朝日新聞が11月に実施した景気アンケートで、国内の景気の現状を「拡大」「緩やかに拡大」とみる企業が計9割に達した。企業の景気判断が改善する一方、客観判断とは別に、戦後2番目とみられる長さで続く景気拡大を「実感」できるか尋ねると、44社が「あまり実感と合わない」と答えた。

 調査は年2回。各企業の経営トップへの面談を原則に、11月13~24日に実施。98社から回答を得た。

 国内の景気の現状では、前回調査(5~6月)ではゼロだった「拡大している」が2社に。「緩やかに拡大している」も前回から11社増えて88社になった。

 みずほフィナンシャルグループの飯田浩一常務は「もともと好調だった自動車産業に加え、半導体など電機セクターがよい。五輪やインバウンドの需要も日本経済を牽引(けんいん)している」と好況の背景を語る。

 2012年12月に始まった景気拡大は「いざなぎ景気」を超えて戦後2番目の長さとなる見込み。企業側の受け止めを聞いたところ、「大いに実感と合っている」が1社、「ある程度、実感と合っている」は51社。

 ただ、「あまり実感と合わない」も多い。その理由としては、「賃金が十分に伸びていない」(26社)、「社会が成熟し、需要が拡大しにくくなっている」(18社)が多かった。
 「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長は「株価が上がってバブルなだけ。海外市場を相手にしたところばかりよく、日本の景気自体はよくなっていない」と指摘する。

 調査が主要100社というのが曲者だ。

 いつも思うのは、こういった調査が日本の99.7%を占めている中小企業が入っていないということだ。従業員数も70.1%もあるというのに、本当に景気は良くなったのだろうか。賃金はアップしたのだろうか。
 
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 「トリクルダウン」と言って富裕者や大企業を豊かにすると、富が国民全体に滴り落ち、経済が成長するという骨董無形な理論は破綻している。

 都合の良い理論やデータに国民は騙されてはいけない。

吉田拓郎/ペニーレインでバーボンを





なぜ国難の時期に衆議院を解散、総選挙を行ったか

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 12月15日(金)の朝日新聞の13面にこんなべた記事があるのに気づいた。


 米誌フォーリン・ポリシー(電子版)は(12月)13日、北朝鮮の当局者が、核実験やミサイル発射を60日間停止すれば米国との直接対話の道が開けるとの「約束」を、米国が破ったと不満を訴えていると報じた。

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 元職を含む複数の米政府当局者の話として伝えた。ティラーソン米国務長官(写真)は(12月)12日、「前提条件なしで会う用意がある」と述べたが、北朝鮮側は対話への関心を失っているという。


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 同誌によると、実験の60日間の一時停止は米国務省のジョセフ・ユン北朝鮮政策特別代表(写真)が今秋、提案した。

 北朝鮮は9月15日に弾道ミサイルを発射した後、2カ月以上、核・ミサイル実験を停止。ところがトランプ米政権は11月20日、北朝鮮を
テロ支援国家」に再指定した。北朝鮮は11月29日、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を発射した。

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 一方、国連のグテーレス事務総長(写真)は、10月20日にホワイトハウスを訪れた際、トランプ氏に国連高官の訪朝を提案。国連のフェルトマン事務次長(政治担当)は今月5~8日の訪朝で李容浩(リヨンホ)外相らと会談。北朝鮮側とは対話の継続で一致したが、具体的な確約は得られなかった。

 とある。通りで選挙期間中、北朝鮮の核・ミサイル実験が無かったんだ。
 
「国難」解散の真相

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 その言葉に驚いた人も多かった。安倍晋三首相が9月25日の記者会見で口にした「国難突破解散」(写真)。大義なし、自己都合という世間の衆院解散への批判に、少子高齢化と北朝鮮の二つの問題を挙げ反論したかに見える。いずれも深刻な問題だが、それが本当の解散理由なのか、国民の誰もが疑問を持ったことだろう。

 国家予算700億円、つまり税金を投入して総選挙を行い、自身にかかる森友疑惑、加計疑惑をかわす「ご意向」であることは見えていた。「もりかけ解散」だった。

 10月末予定だった会計検査院の検査発表は結果的に11月22日になったが、そこで何かが露呈する前に逃げ切る有田芳生参院議員が命名した「わが逃亡解散」である。

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 今にも北朝鮮との間で戦争が起こりそうだと煽り、緊迫した状況の中で衆議院解散を行い、長い間政治の空白状態を作り、トランプ大統領まで日本に呼ぶなんて、気でも狂ったのかと思っていた。

 核実験やミサイル発射を60日間停止することを知っているから、この時期に安倍首相はしれっとして、官邸を留守にして彼とゴルフに興じていたんだ。(写真)
全国瞬時警報システム(Jアラート)

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 これも唐突だった。8月18日8月18日午前11時に実施した全国瞬時警報システム(Jアラート)の情報伝達訓練には中国・四国地方の 9 県及び 202 市町村が参加した。(写真)

 グアム(地図)を標的にしているので、その上空を通過するであろうとその地を選んだのだが、対象になった住民は突然のことで大混乱だっただろう。

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 だから、国民には危機意識が生まれないのだ。


 北朝鮮が8、9月に発射した弾道ミサイルが北海道上空を通過した際、全国瞬時警報システム(Jアラート)の緊急情報を受けて地下への避難など身を守る行動を取った人が5%台にとどまったことが、政府が13日に公表したインターネット調査で明らかになった。

 調査は8月29日と9月15日に緊急情報を流した12道県の住民5千人ずつを対象に2回行った。「実際に避難した」との回答は8月が5・4%、9月が5・6%で、「不必要と考え、避難しなかった」は8月48・2%、9月50・8%だった。

 避難しなかった理由(複数回答)は「意味がないと思った」が最も多く、8月44・3%、9月46・3%だった。「どこに避難すればよいか分からなかった」(8月37・6%、9月32・9%)が続いた。
 この記事に日本のどこのメディアも注目しないのが不思議だ。

 鈍いのだろうか。

日野原重明氏が最期に残した言葉

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 言い方を変えれば「辞世の句」というのだろうが、偉人の最後の言葉には印象が残るものが多い。

 例えば、

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べー卜ーヴェンドイツの音楽家、1827年、56歳で没、画像

彼は1815年、45歳の時に、完全に聴覚を失った。1826年秋頃から腹水がたまり始め、12月20日に最初の腹水穿刺が行なわれた。翌3月23日、医者は彼に死が近付いていることを告げた。彼の顔は変り、やがて周囲の友人に言った。「友よ拍手を。喜劇は終った」そのあと彼はつぶやいた。「残念だ、全く。遅すぎたよ」

3月26日の午後、ウィーンの街に雷雨が襲った。彼は雷にむかって右手を上げたが、やがて倒れた。死因はアルコール嗜好による肝硬変であるという。

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ゲーテ(ドイツの小説家、劇作家、1832年、82歳で没、画像

 1832年3月16日、ゲーテは風邪をひき、床についた。22日午後11時30分、椅子の隅に身を寄せかけたままで亡くなった。窓を開けてくれ。明りがもっと入るように」と言ったのが最後の言葉である。「もっと明りを」という印象的な言葉はこれに基づいている。

 などだ。
イメージ 1 最近は、2012年のノーベル賞生理学・医学賞受賞者・山中伸弥氏(55歳、写真)が10月15日のテレビ朝日のバラエティ番組・金スマで紹介した、金スマ山中伸弥教授が勇気を貰えた日野原先生105歳の言葉だ。

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 「生きていくあなたへ」(幻冬舎、2017年、写真)は、今年の7月18日に亡くなった105歳の医師、日野原重明氏が、その半年前に語った最期の一冊だが、山中教授が感銘を受けた三つの言葉があるという。

1.迷った時は、遠くを見つめる

 人生苦しいことあり、山あり谷あり、辛いとき判断を失ったときは、冷静に遠くを見ること。それにより明日が開けるという意味。

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 当時34歳の新進の医者だった日野原氏は、東京大空襲第二次世界大戦、1945年)で、多くの被災者を救えなかった苦い経験がある。

 その想いが、過大な設備と揶揄された1992年の大災害に備えた新病棟の建設で、50年後の無差別テロ・地下鉄サリン事件(1995年)の患者の収容・治療に役立った。(写真)

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 山中教授もiPS細胞を研究するとき、多くの批判を浴びた経験がある。

 日野原氏の「新しいことを始めるとき、そしてまわりの人がそのことを理解せず反対されたとき、『遠くを見つめる』ことを思い出してください」という言葉は胸に響いたという。
2.人生を人々に捧げる

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 日本初のハイジャック事件だった、よど号ハイジャック事件(1970年)の人質になった日野原氏はその時に死を覚悟した。

 4日後に韓国・金浦空港で解放された(写真)が、「僕はあのとき一度死んだのだと思っています」「それからの命は与えられたもの」とし、その事件以来、自分のためではなく、人のために命を捧げようとした。
3.人生最期の言葉は「前に進んでいこう」

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 北海道開拓時代、クラーク博士(1886年、59歳で没、写真)は「ボーイズビーアンビシャス(少年よ、大志を抱け)」という言葉を残し北海道を去って行ったが、日野原氏が残したい言葉は、感謝に満ちた気持ちで、「キープオンゴーイング」だという。人生どんなにつらくても、明日がある。前に向いて進もうというのだ。
 この本は1,000円(税別)と手ごろである。まだ買っていないが、座右の書にしたいほどだ。

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 それにしても、日野原氏はもちろんだが、
「友情 平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」(山中伸弥、平尾誠二・惠子共著、文春新書、2017年、写真)の著者・山中教授も凄い人物だ。



日野原重明氏の思い出

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 前作、日野原重明氏が最期に残した言葉で紹介した「生きてゆくあなたへ」(105歳 どうしても遺したかった言葉)(写真)を早速買って読んだ。

 対談形式になっていて、日野原重明氏が、一つ一つその質問に答えている内容だ。

 第1章:死は命の終わりではない 第2章:愛すること 第3章:ゆるすことは難しい 第4章:大切なことはすぐにはわからない 第5章:未知なる自分との出会い

 という構成になっている。
拙ブログ記事の日野原重明氏

 実は、拙ブログには日野原氏のことを書いている記事が結構あるのだ。のように前作日野原重明氏が最期に残した言葉を除いて20作もある。

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記事のテーマで多いのが「私の証 あるがままいく」

 朝日新聞土曜版・beの連載「私の証 あるがままいく」に関する記事が多い。

 彼がこのコラムを書き始めたのは、今から15年前の2002年10月5日、91歳のときだった。

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 聖路加国際病院の理事長時代の2000年に「新老人の会」を発足させ、翌年の2001年に『生きかた上手』(写真)を出版、120万部ものベストセラーになり、老いてからの人生をますます豊かで実りあるものにしようと、アクセルを踏みこんだころのことだ。

 拙ブログではその10年後の、「100歳・私の証 あるがまま行く」からで、2012年2月11日の「ゆるす」ということという記事が初回だった。


 この「105歳 私の証・あるがまま行く」は、日野原氏が亡くなった7月18日の後、読者の皆様に最後のごあいさつ(7/29)で最終回となったが、その後も11月11日まで4回ほど連載を続けた。
「新老人の会」と平和主義

 「私(日野原氏)が2000年に「新老人の会」を発足させたのは、『老人』や『高齢者』という呼び名が有償か無償かに関係なく現役で社会に貢献できる人に、不必要な劣等感を与えると考えてのことでした」「日本人が長く用いてきた世代別の呼称の定義を次のように変えて、各世代を若返らせることを提言したいのです」
 
 少年:5~17歳、成年:18~34歳(選挙権は18歳に変更)、壮年:35~74歳(定年は75歳に変更)、老年:75~99歳、百歳者(センテナリアン):100歳以上

 自分は「生涯現役」という言葉が好きだ。この、日野原氏の提言でどれだけ勇気をもらったことか。健康で働けるうちはともかく働くことだ。

 そして、「新老人の会」のミッションの一つは、「すべての世代に平和の尊さとカントの『非戦』の精神を広め、平和の実現のために軍備を廃し、人的資産で世界に貢献しようという運動」である。

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 「新老人の会」のスローガンは、(1)愛し愛されること(2)創(はじ)めること(3)耐えること で、「子どもたちへ平和と愛の大切さを伝えること」をミッションとして活動し、未来の平和をつくる小学生の子どもたちに「いのちの授業」(写真)を行っていた。

 
 
「104歳 私の証・あるがまま行く」では2016年3月19日3月26日の2回に渡って安倍政権の改憲に反対する言葉を述べている。(以下は、日野原重明氏が遺した安倍政権の改憲に反対する言葉! 「押しつけ憲法論」も真っ向否定参照)

 「12年前の憲法調査会公聴会」というタイトルがついたこの文章の冒頭、日野原氏はまず、天皇皇后両陛下がフィリピン訪問の際に日本人戦死者、フィリピン人兵士双方の碑と墓を訪問したことに触れたうえで、こう宣言する。

 現在、国会では憲法改正について議論になることも増えていますが、私は自らの経験から今後も一貫して日本国憲法の大切さを主張しつづけていきたいと思っています

 そして、日野原氏は2004年の憲法調査会公聴会に公述人として参加した際、「押しつけ憲法論」を否定し、制定からここまで、日本国民が日本国憲法をしっかりと守る努力をしてきたのか、と問いかけたことを明かしている。

 〈憲法改正を訴える人たちは、この憲法をアメリカに押し付けられたものだと言うのですが、憲法は私たち国民の合意のもとで制定されたものです。その憲法を私たち国民はしっかり順守し、実践してきたと言えるのでしょうか〉

 日野原氏は、憲法前文にある「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という文言を挙げ、こう訴えたという。

 〈我が国は平和を目指す国際社会の中で、日本国憲法前文がうたう「名誉ある地位」を占めてきたとは到底、言えない。私たちはそれを強く反省しなければならないし、また何をもってそれを償うかを考えなければならない〉

 しかし、こうした訴えにもかかわらず、その後、憲法軽視はどんどんエスカレートし、第二次安倍政権でとうとう改憲が政治日程にのぼることになった。こうした動きに抗するように日野原氏は、記事の中でこう訴えている。

 〈名誉ある地位は形式的なことで手に入るものではなく、具体的な労力、行動、犠牲を伴います。人を愛するとき、相手のすべてを「ゆるす」という犠牲が伴うのと同じです。それにより争いは避けられ、全体の安全が保たれることがあるのです。そのリーダーシップをとれる人がもっと日本に出てこなければなりません。武力で武力を制することはできません。別の手段を考えるべきなのです〉
 〈憲法の目的は、国民のいのちを安全に保つことであって、憲法に定められた主役は「日本国民」です。押しつけどころか、私たちのいのちを武力以外で守る賢い仕組みです〉

 〈今この時期、どうしても皆さんに私の考えをお伝えしたくて、筆を執った次第です〉

 こう結ばれているこの文章からは、日野原氏の切実な危機感が伝わってくるが、しかし、その思いは安倍政権に届いているのだろうか。

日野原重明氏の遺作「生きてゆくあなたへ」

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 前々作、聖路加国際病院名誉医院長で、105歳10ヶ月の長い人生を7月18日に閉じた日野原重明氏が最期に残した言葉で紹介した「生きてゆくあなたへ」(105歳 どうしても遺したかった言葉)(写真)を早速買って読んだ。

 この本は、対話形式になっていて、日野原重明氏が、一つ一つその質問に答えている内容だ。

 2016年12月29日から、年末年始を除き1月31日までの1ヶ月間、ほぼ毎日、自宅のリビングルームで行ったインタビューを元に作られている。

 そしてそれは、第1章:死は命の終わりではない 第2章:愛すること 第3章:ゆるすことは難しい 第4章:大切なことはすぐにはわからない 第5章:未知なる自分との出会い

 という構成になっている。今日の新聞に広告が載っていたが、すでに30万部以上売れているという。
 いくつかキーワードとされる言葉がある。

 1.「愛」、「希望」これは彼が敬虔なクリスチャンであることの影響が大きい。

 いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのはです。(新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 十三章十三節)

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 彼が人生の50年以上を捧げた聖路加国際病院の「聖路加」は、イエスの弟子で医者だった福音書を書いた「聖ルカ」(画像)からきている。

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 設立者のルドルフ・トイスラ―(1934年、58歳で没、写真)が遺した理念で、「聖路加病院は病気を治療する場所ではない。神の愛によって患者の苦しみを癒やす場所である」と言っている。

 あなたの希望を分かち合うために、あなたの時間を使うことが愛です。(書斎のファイルから)

 待ち望むこころ、その希望を持つことで 私たちには生き抜く力が与えられる。(書斎のファイルから)

 あなたの心の中の希望を小さく分けて、その一番小さいものが まず叶えられるよう祈りましょう。(書斎のファイルから)

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 <そもそも愛って何ですか?>

 愛とは、人間の生きる目的、すべてだと思います。僕はクリスチャンですが、聖書に「神は愛です」とあります。愛が神様そのものなのです。愛を求めるということは神を求めることに他なりません。(中略)

 人は、愛なしに生きていくことはできません。そして、その愛を与え合う社会こそ、平和な幸せな社会なのだと信じています。
 <すべての人をゆるしてきたのですか?>

 ゆるすということを考えるとき、僕は「恕す」という漢字を思い浮かべます。よく使われる許すでも赦すでもないのです。「恕す」という漢字に、ゆるすという本質的な意味を感じるからです。

 この漢字は、心の上に如くという文字が載っていますね。つまり、ゆるすとは、誰かに許可を出すとか悪いことをした人をゆるすということではなく、「相手のことを自分のごとく思う心」という意味なのです。

 相手を自分のごとく思うということは、相手をゆるすことが自分をゆるすということに他なりません。だからゆるすのは相手のためだけではなく、自分のためにする行為なのです。

 ゆるせない心を持ち続けるのはしんどいことです。だからゆるすことで、私たちは楽になれるのです。

 2.「平和」。真の平和主義者だった。

 <本当に世界平和を実現させることが出来ると思いますか?>

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 僕の年若い真の友の一人に、ペー・チェチョルさん(48歳、写真右)という韓国人のテノール歌手がいます。

  クリスチャンであるペーさんは、歌う前に神様にこう祈るそうです。

 「私のために歌わぬように あなたのために歌う私でいられますように」

 ペーさんの歌声の後ろには、多くの人の思いと祈りがありました。それが彼を支え、世界で初めての奇跡(甲状腺がんの回復)が起こったのです。

 僕はそのことの中に、世界平和があると思うのです。

 人と人とのつながりは国と国との関係を凌駕します。

 相手の国に、自分の家族のごとく思える人がたった一人でもいればいい。そんな人が一人また一人と増えて来たら、国と国との平和は必ずもたらせると信じています。


 3.「長寿」、「死」。

 「生きる」とは死に近づくこと。死の床で死を彫刻することはできない。死に至る前に、その死の顔づくりが自分でなされていなくてはいけない。(書斎のファイルから)

 <自分の死はこわい>

 僕は、そう遠くない未来に自分が死ぬという事実を、とても恐ろしいことだと感じています。(中略)

 死ぬということは人間にとって、また僕にとっても経験していない「未知」の部分なので恐ろしいのだと思います。自分が経験したことのないことについては確信が持てないからこそ、恐れの気持ちがわいてくるのでしょう。

 もしあなたが、僕と同じように、死をこわいと思っているとすれば、それはごくごく自然な感情です。死を前に取り乱すことは恥ずかしいことでもなんでもありません。(中略)

 僕たちは死ぬことから逃れられないし、逃れなくてもいい。死だけを凝視するのではなく、目を背けるのでもなく、ただただいま生きている自分の命を輝かせていくこと。それこそが死と一つになった生を生きるということなのです。
 <年をとっても若く元気でいられるコツは?>

 お若いですね、とか元気ですね、といっていただけるのは、素直に嬉しいものです。

 僕は、食べることや健康習慣だけでなく、美容にもそれなりに気を使っているのです。実は、この年末に、肌のしみとりにもチャレンジしてみたのです。人間には外見を整えることで、人に会いたくなったり、積極的な気持ちがわいてきたりするという心が備わっているのだと実感します。

 そういった外見の若さというのも大事ですけれど、もし僕が若々しいといわれるのだとすれば、いちばんの原因は、常に新しい自分との出会いを大切にすごしているからではないかと思います。

 過去の自分にこだわり、自分のやり方はこうだとか、自分はこういう性質だ、ということを決めずに過ごしています。だから毎日が自己発見の連続なのです。

 <長生きをして幸せか>

 (長生きをしてよかったと思えるのは)100歳を超えたあたりから、自分がいかに本当の自分を知らないでいたかということを感じるからです。

 世の中でいちばんわかっていないのは自分自身のことだ、ということに気づくことが出来ました。これは、年を取ってみないと分からない発見でした。(中略)

 人生の午後が長いということは、幸せなことです。物事の真理というのは、すぐには分かるものではないと実感しています。時間をおき、繰り返し考えることで、後になってだんだん本当の意味が姿を現すのです。
 4.「出会い」。

 <友人について>

 実は、僕は友達が多いほうではありません。確かに数多くの人に出会い、交流を重ね、そのたくさんの出会いは僕の中で宝となっているのですが、本当の友達というのは、ごく少ないといっていいでしょう。(中略)

 では、本当の友達とはいったいどんな存在なのでしょうか。

 僕にとっては、僕のために祈ってくれる人です。

 誰かのために祈る行為とは、相手を自分のことのように思うということです。(中略)

 では、そのたった一人の友を見つけるためにはどうしたらいいのか…。大切なのはインスピレーションです。もし誰かと出会って、この人だと感じたら、その感覚を信じてみて下さい。
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 5.日野原氏が大好きな作品、サン=テクジュベリ(1944年、44歳で没、写真)の小説「星の王子様」(1943年出版)からの引用が多いのも特長だ。
 多くの人がこの本から貴重な人生の教訓を得ることが出来るはずだ。

 映像は2年前のクリスマスコンサート

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 「生きてゆくあなたへ」あとがきにも寄稿している輪島東太郎氏(54歳、写真)が司会している。

 彼は、先の映像の2014年日韓合作映画「ザ・テノール〜真実の物語」のエグゼクティブプロデューサーを務めたが、映画では伊勢谷友介が演じた。


巨星墜つ

 日本は「アンチエイジングの星」と言われた大きな心の支柱を失った。

 こんな人は二度と出て来ないかも知れない。

 日野原重明氏のご冥福をお祈りします。合掌。

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 (小田桐昭氏画)

この1年

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 今年も押し迫ってきた。さすがに早朝の電車も人数が少ない。本日午前中で御用納めだ。

 ようやく仕事が落ち着いたので、今年を振り返ってみた。

 ちょうど1年前足掛け8年勤めた会社を辞めた。

 あんなに思い入れが強かったというのに、すっかり昔のことのように思えてしまうのはどうしたことか。

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 自分の部屋にはその思い出が一杯詰まっている。
 は会社のパーティ写真集。退職の記念に、ある女性社員が作ってくれた。昨年の10月は自分がハロウィン・パーティを主催した。
 は元の部署で行った居酒屋での送別会で、部屋に飾ってあった垂れ幕の一部。
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 後ろ髪を引かれる思いからようやく吹っ切れて、前に向いて歩けるようになったということだろうか。

 今年もいろいろなことがあった。以下の4つの観点からこの1年を振り返ってみたい。

仕事

 もうすぐ69歳になる。年金だけでは生活できないので、退職後も仕事をしないといけなかった。下図のように、50歳以降も転職慣れしているとは言うものの、さすがに今度は人生史上空前の厳しさを覚悟していた。

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 それが
幸運にも、さしたる就活もしないで、7月からマンション管理人の仕事にありつけ、半年が経ったのだ。

 朝5時台後半に家を出かけ、週5日、7時間労働の勤務にも慣れた。居住者だけでなく近隣の住民の方とも親しくなり、今は何とか仕事を続けていく自信がついたところだ。

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 6月の研修初日に、後で良性発作性頭位眩暈症という病気であることが分かったが、強烈なめまいに襲われ、救急車で運ばれたことから始まり、熱中症心臓病まがいで入院するハプニングにも見舞われた。

 もう若くはないことも実感させられたが、仕事をしなかったらもっと老化が進んだろうと思う1年でもあった。

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 ところで今日初めて、通っているマンションの屋上から富士山の美しい姿をみた。写真

 今まで毎日点検で上がっているというのに、そのパノラマ風景を見る心の余裕もなかったのだ。楽しみが一つ増えた思いだ。

 たくさんの小事件も経験したが、何とか乗り越えることが出来た。仕事については、それまで「心技体」が充実しているかどうかという条件はあるが、73歳5年間続けられるのを目指したいと思う。
生活

 この歳でフルタイムで働いているのは、前述の通り、生活のためだ。収入の減少に輪をかけて、今年は税金や社会保険料が前年度の収入を引きずるのが痛い。

 収入が去年までより大きく変わったのに、生活水準を一気に変えられないことに悩んだ1年でもあった。もう外で飲むことも無くなった。

 今年の2月に、20年ぶりに引っ越ししたのも生活を変えた。いくつもの大型店が近くにあり、買い物が便利になったことと、何よりも大きな図書館が近くにあるのが良かった。

政治

 今の政治には本当にがっかりだ。安倍政権が繰り出す「人づくり革命」「1億総活躍」をはじめとする大げさなキャッチフレーズも欺瞞的で腹が立つ。

 穏やかな言葉が影を潜め、「愛国」「反日」「国賊」「売国奴」といった、異質な他者を排除するような言葉が乱発される風潮も嫌だ。

 悲惨な戦争を経験し、平和を訴えてきた人たちが次々と亡くなり、戦争大好き人間が闊歩するような日本であってはならない。

 政治家に「最後は金目でしょ」と舐められない日本にしようよ、と言いたい。
ブログライフ

 最後にこの1年のブログライフだが、昨年(2016年)はパソコンが壊れたせいもあり年間130作と少なかったが、今年は今作まで167作と昨年より37作増えたが、一時の一日一作の勢いはすっかり影を潜めてしまった。

 ネタの数は減っていないのだが、作成能力と体力の衰えを感じている。そして、仕事がきついのでブログ作成にあまり時間を割けないという点も大きな要因だ。

 そのギャップにいささかいら立っている。でもいつかは会心作を作りたいと思っている。
 今年はまだ1日あるので、これが今年最後にはならないかも知れませんが、来年もよろしくお願いいたします。
  



 

今年は戌年

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 明けましておめでとうございます。今年の初ブログです。本年もよろしくお願いします。 

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 今年は戌(いぬ)年、戌年は十二支の中では11番目に位置している。

 えとの「戌年」生まれの人は、男性が475万人、女性が502万人で総人口に占める割合は7.7%、十二支の中で最も少ない976万人となったそうだ。

 また、48歳の誕生日を迎える1970年生まれが最も多い一方、少子化の影響で新成人の割合は8年連続で1%を割り込んだという。
年男・年女

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 年男・年女の有名人には、ジャーナリストの田原総一朗(1934年生)のほか、タレントの堺正章や衆院議長の大島理森(いずれも1946年生)、史上初の「永世七冠」を達成した将棋の羽生善治(1970年生)、レスリングの吉田沙保里(1982年生)、メジャーに挑戦する大谷翔平(1994年生))がいる。その他、以下の人たちだ。

●1922年(大正11年)96歳(2018年)
・女性:内海桂子、瀬戸内寂聴
●1934年(昭和9年)84歳(2018年)
・女性:中村メイコ、司葉子、牧阿佐美、広中和歌子、金美齢、ソフィィア・ローレン、ブリジット=バルドー 、ナナ=ムスクーリ 、シャーリー=マクレーン

・男性:宝田明、藤子不二雄・A、権藤正利、森山周一郎、隆旗康男、筒井康隆、谷道夫(デュークエイセス)、前田憲男、堤義明、山崎正和 、宇野亜喜良、森岡賢一郎、ケーシー高峰、財津一郎、白木みのる、ジョージ=チャキリス 、パット=ブーン 、フランキー=ヴァリ、ジョージ=シーガル、ハンク=アーロン
●1946年(昭和21年)72歳(2018年)
・女性:倍賞美津子、鳳蘭、岸ユキ、島かおり
・男性:西川きよし、倉田保昭、下条アトム、苅谷俊介、岡本富士夫
●1958年(昭和33年)60歳(2018年)
・女性:森昌子、樋口可南子、宮崎美子、原田美枝子、芦川よしみ、岩崎宏美、久本雅美、萬田久子、相本久美子、かとうかず子
・男性:辰巳琢郎、玉置浩二、高橋ジョージ、陣内孝則、小室哲哉
●1970年(昭和45年)48歳(2018年)
・女性:工藤静香、中山美穂、永作博美、清水美沙、マライヤ・キャリー
・男性:西川貴教、原田泰三、岡本隆史、宮迫博之、宮藤官九郎、上田晋也、阿部サダヲ
●1982年(昭和57年)36歳(2018年)
・女性:深田恭子、真木よう子、吉井玲、吹石一恵、大塚愛、加藤あい、三船美佳
・男性:向井理、藤原竜也、綾野剛、小栗旬、相葉雅紀、瑛太
●1994年(平成6年)24歳(2018年)
・女性:広瀬アリス、二階堂ふみ
・男性:山崎賢人、ジャスティン・ビーバー
戌年の意味

1.「戌」は「滅びる」を意味する「滅」で、草木が枯れる状態を表しているという見方もあるが、実際は「植物が育っていき、花が咲き、実をつけ食べごろが過ぎた後、自分の実を落として、本体の木だけは守る」、すなわち「新しい命を守る」という意味があるそうだ。
2.犬は人との付き合いも古く、忠実で親しみ深い動物。
3.犬はお産が軽いとされることから、安産については「戌の日」が吉日とされている。
4.戌の干支の特徴として、“勤勉で努力家”とある。
12年前の戌年(2006年)には何があったか

1.政治:小泉内閣が解散し、9月26日安倍内閣が誕生したが、1年で投げ出し、翌年の8月27日までの短命内閣に終わった。
①小泉内閣の政治姿勢
・1月4日、【靖国問題】小泉首相は年頭記者会見で「一国の首相が一国民として戦没者に哀悼の念をもって靖国参拝をする」と述べ、政治問題である「首相の靖国参拝」を「一個人の心の問題」にすり替えた。
・7月6日、【北朝鮮】北朝鮮の弾道ミサイルの発射に関連し、小泉首相が「ついている。プレスリーの所に行っている時にテポドンが撃たれたら格好が悪かった」と語った。
②軍事問題
・7月5日、【北朝鮮】北朝鮮が初めて日本海に向け計7発の弾道ミサイルを発射。
・10月9日、[北朝鮮]初の核実験を実施。 10月:安倍内閣・麻生外相が日本の核保有論議について「議論をしておくのも大事なことだ」と発言。
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・11月5日、【イラク】フセイン元大統領(69歳、写真)に対しシーア派住民虐殺の「人道に対する罪」で死刑判決。12月26日、控訴棄却で確定。12月30日、バグダットで絞首刑の死刑執行をしたが、その処刑場面の録画の一部がテレビで放映された。 
③安倍内閣の政治姿勢とスキャンダル続出
 小泉政治を継承したが、格差是正の世論の高まりからなし崩し的に政策を変えていった。一方で「戦後レジームからの脱却」と称して戦前に回帰し戦争のできる国を目指した。また、総裁選での協力者の入閣が目立った論功行賞人事で、「お友達内閣」、「少年官邸団」、「私の内閣」などと揶揄され、スキャンダルが続出した。
・12月21日、【公務員宿舎入居問題で辞任】 政府税制調査会の本間正明会長が「一身上の都合」を理由に辞任した。 公務員宿舎を格安で借りホステスの女性と同棲していることが「週刊ポスト」により明らかになり、18日付けで官舎を退去したが、批判の声が噴出していた。 任命責任を問われた安倍首相は「辞任は本人の意思」とし一身上の都合という言葉を連発した。
・12月27日、【行革相が辞任】 佐田玄一郎行政改革担当相が、政治資金収支報告書で不適切な会計処理があったことを認め、引責辞任することを表明した。
2.経済
①ライブドア事件
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・1月16日、ライブドアの子会社が、株価をつり上げる目的で虚偽の事実を公表した疑いがあるとして、東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が、東京・六本木の本社や堀江貴文社長(当時33歳、写真)の自宅などを証券取引法違反の疑いで家宅捜索、23日、粉飾決済、偽計取引等、証券取引法違反の容疑で、堀江ら4名を逮捕した。
・1月24日、小泉首相は、参院本会議での代表質問で、ライブドア堀江社長の逮捕に関連して「衆院選で党幹部が堀江氏を応援したこととは別問題だ」と述べ、党総裁としての責任を否定した。
・2月16日、【送金指示メール問題】 民主党の永田寿康議員が衆議院予算委員会で、ライブドア堀江前社長が武部自民党幹事長の次男へ3000万円の振り込みを指示したメールが存在すると発言。明確な根拠がなかった。
②耐震強度偽装問題
・1月17日、衆議院国土交通委員会が、構造計算書偽造問題に関連して、ヒューザーの小嶋進社長の証人喚問。
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・4月26日:警視庁と神奈川県警、千葉県警の合同捜査本部が、耐震強度偽装問題に関わったとして、姉歯秀次元一級建築士(写真)、木村建設社長、イーホームズ社長ら計8人を逮捕。
③格差拡大
・1月31日、【弱者切り捨て】 猪口邦子少子化担当相が「『負け組』の人は立派だ。その人たちは戦ったのだから。本当に反省すべきは『待ち組』だ」と述べ、「戦わない人々」を「反省すべき」存在とした。
・2月1日、小泉首相は、参議院予算委員会で「格差が出ることが悪いとは思わない」「今までが悪平等だった」と発言し、弱者を配慮しない姿勢を明確にした。
④IT革命
・1月28日、JR東日本がモバイルSuicaのサービスを開始。
・3月31日、NTT東日本、NTT西日本のICカード公衆電話とICテレホンカードが廃止。
・4月1日、地上波デジタル放送の1セグメント放送「ワンセグ」が開始。
・10月24日、携帯電話の番号ポータビリティ制度開始。
3.スポーツ
・第20回冬季オリンピック:【開催地】トリノ(イタリア) 【期間】2月10日~26日
・第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開幕
4.墓碑銘
 加藤芳郎[漫画家](1.6)、 3代目三遊亭圓右[落語家](3.22)、 松野頼三[政治家](5.10)、 田村高廣[俳優](5.16)、 岡田眞澄[タレント](5.29)、 今村昌平[映画監督](5.30)、 岩城宏之[指揮者](6.13)、 橋本龍太郎[元首相](7.1)、 吉田玉男[文楽、人間国宝](9.24)、 丹波哲郎[俳優](924)、 多々良純[俳優](9.30)、 柳家小せん[落語家](10.10)、 ポール・モーリア[作曲家](11.3)、 内山田洋[歌手](11.3)、 斎藤茂太[精神科医](1120)、 灰谷健次郎[児童文学作家](11.23)、 岸田今日子[俳優](12.17)、 青島幸男(12.20) プロフィール、 ジェラルド・R・フォード[米、元大統領](12.26)、 サダム・フセイン[イラク、元大統領](12.30)(ザ・20世紀2006年参照)

今年の重要課題

・何と言っても北朝鮮問題だ。

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 再放送だったが、昨年の12月26日(火)19時00分~20時50分 NHK・BS1スペシャル「沖縄と核」(画像)を見た。

 まだアメリカ統治下のころ、沖縄におかれていた核兵器。東西冷戦が激化する中、最大1300発の核兵器が置かれ、世界最大級の核拠点となっていたことを知った。




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 1971年の沖縄返還交渉(写真)で翌年に復帰を果たしノーベル平和賞を受賞した佐藤元首相だったが、自ら何度も確約した「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した。

 今や日本は米国の属国と見誤るごとく、彼らの言いなりの国になってしまった。(これをいぬ年にちなんで「ポチ」というのは犬に失礼というものだ。)

 これは米朝の問題で、日本には被害がないなどとのんきなことを言っている場合ではない。まずは2月に大きな波がやって来る。2月9日 - 2月25日 の平昌オリンピック、2月16日の朝鮮民主主義人民共和国発足70周年が一つの山場である。
犬の話題あれこれ

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 犬はオオカミを祖先とし、最古の家畜とされる。補助犬や災害救助犬としても活躍。世界に700~800種類いるといわれる」また、世界全体では4億匹の犬がいると見積もられている。血液型は8種類。

 元来は、住居の見張り、次いで狩猟の補佐などのために家畜化されたと考えられるが、現在はほとんどが愛玩用であり、日本ではおよそ5世帯に1世帯がイヌを飼っている。

 長い年月をかけて交配が試みられ、ダックスフント、トイ・プードル、ブルドッグなど、用途に応じたさまざまな品種が開発されてきた。イヌは人間によって最も人為的改良をくわえられた動物であると言える。

 「シェイプシフター」(変身動物)と呼ぶ研究者がいるように、小さなチワワから大型のセント・バーナードまで、幅広いサイズと形態をもつ。

 自分は犬を飼ったことが一度もない。実はウンコが大の苦手である。健康診断では検便のことでいつも気が重くなる。便を取るとき、いつも吐き気を催すのだ。動物を飼うのは便の始末にネックに感じている。

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 しかし、周りは犬を飼っている人が多い。ペットに心が癒される気持ちはよく理解できる。

 こんな写真を見せられたら、可愛いと思わないはずがないではないか。

1.有名な犬

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・1889年ツン(薩摩犬) -西郷隆盛のウサギ狩時の愛犬である雌犬。(写真)
 
 上野恩賜公園に立てられた銅像にその銅像が寄り添って立てられた。

 (製作者は後藤貞行、モデルは仁礼景範海軍中将の飼い犬である雄犬)

イメージ 7・1900年 ニッパー(フォックス・テリア) - 円盤式蓄音器の発明者ベルリナーが感動した以前の飼い主の声に耳を傾ける肖像画を商標登録し、現在でも日本ビクターなどに使われている。(写真)

(His Master's Voice, HMV の商号はこれによる)

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・1934年4月 忠犬ハチ公(秋田犬) - 主人(東京帝国大学農学部教授の上野英三郎博士)の帰りを渋谷駅においてその死後も待ち続ける姿が話題となり、同駅前に銅像が立てられた。(写真)



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・1958年 タロ、ジロ(樺太犬) - 南極越冬隊のイヌぞり用に南極に連れて行かれ、かの地で生き延びた。(写真)

 当時使われ、現在船の科学館に係留展示されている南極観測船「宗谷」、また東京タワーに銅像がある。


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 ・2011年 プースケ - ギネス公認の世界最高齢記録を保持していた日本の犬。(写真)
 2011年12月5日、老衰により26歳で死亡。世界歴代記録としては第9位。
2.犬の寿命
 
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 イヌは10歳になると老犬の域になり12歳から20歳程度まで生きる。

 ただし犬種や生育環境によっても異なり、基本的に大型犬のほうが小型犬よりも短命である。
 また、一般的には屋外飼育よりも室内犬のほうが長命の傾向があり、純血種よりも雑種のほうが長命と言われる。歳を取るスピードは若いほど早く成犬となってからは緩やかになる。

 イヌの年齢をヒトの年齢に換算する方法は諸説あるが、科学的根拠に基づいたものではなく必ずしも正確ではない。目安として、小型犬は生後1年でヒトの約17歳、生後2年で約24歳、大型犬は生後2年で約20歳、それ以降は小型犬で1年につきヒトの4歳程度分、大型犬は5から6歳程度分、歳を取ると考えられる。
 
 転じて、年単位で数年分に匹敵する急速に発達した科学技術(パソコン・携帯電話等)を指して「ドッグイヤー」と呼ぶことがある。
3.人気の犬種

 1990年代以来のペットブームの中、イヌは高い注目を集めてきている。

 人気犬種は時代によって変わるが、1990-2000年代に話題を呼んだ犬種としては、シベリアン・ハスキー、ゴールデン・レトリバー、ウェルシュ・コーギー、ブルテリア、ダルメシアン、チワワなどが挙げられる。ブームに比例してドッグウェア(犬に着せる服)も様々な多様化したブランドが進出し、これもまたブームとなっている。

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 チャールズ・シュルツの漫画『ピーナッツ』の「スヌーピー(ビーグル)」(写真)佐々木倫子の漫画『動物のお医者さん』の「チョビ(シベリアン・ハスキー)」、ディズニー映画『101』によるダルメシアン、アイフルのテレビCMに出演した「くぅ〜ちゃん(チワワ)」など、テレビ・映画・漫画などの影響で、期せずしてブームとなった犬種もある。

 なお、ペットとしての名前は、「ココ」「モモ」「チョコ」の順に多い。
4.犬の曲

犬のおまわりさん(1960年)


アーサー・プライヤー/口笛と犬(1905年)


映画「わんわん物語」より挿入歌「ベラ・ノッテ」(1955年)


映画「101匹わんちゃん」より「Wherever You Are」(1961年)


Baha men/Who Let the Dogs out??


ショパン/子犬のワルツ


Wikipedia参照

ご長寿のヒーロー

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 昨年の年末にはテレビや新聞で、毎年の恒例として「墓碑銘」というタイトルで2017年にお亡くなりになった有名人の特集をしていたはずだ。(「はず」というのは、見ていないからだ)

長寿家系

 日本は今や人類史上空前のご長寿社会になった。当然亡くなる人も増えている。

 自分の家系についていえば、父はもう27年前に84歳で亡くなった。先に父が逝き、母が13年後の2003年(平成15年)92歳で亡くなったが、その子たち、すなわち自分の兄弟姉妹の5人とその配偶者に欠けた者はいない。

 自分は末っ子で今年69歳になるので、当然みんなご長寿の部類に入る。長兄は今年が年男なので、84歳になる。次兄はこの1月で80歳になる。これを見ると「長寿家系」といっても差し支えないだろう。

 しかし、寝たきりはいないが、次兄と次姉はガンを患ったことがあり、バリバリの健康家族というわけにはいかない。この歳になると身体のどこかにガタが来ているのは仕方がない。

 ただし、昨年末14年ぶりに復活し、日本中を大爆笑の渦に巻き込んだ「さんまのスーパーからくりTV」の人気コーナー「ご長寿早押しクイズ」を見たが、ここまでとぼけているのはいない。
 

平均寿命と健康寿命

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 こののように、日本人の平均寿命の長さは世界トップクラス。昨年3月には、日本人の平均寿命が過去最高を更新したことが話題となった。

 しかし見るべきものは健康寿命であり、平均寿命と健康寿命の差が大きくなればなるほど病気や介護の期間が長くなることを意味するので、一概には喜べない。見るべきは、健康寿命と平均寿命の差だ。2013年時点の健康寿命と平均寿命の差は、男性は9.02年、女性は12.04年。長生きをしても10年前後は自立した生活ができず、病気や介護で不健康な毎日を送っていることになる。

 テレビを付けるたびに健康食品や健康薬品のCMが流れる。それだけ需要があるということだ。

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 健康や医療をテーマにしたwebメディア、カラーダが行った「健康と身体に関する調査(対象:60代以上の男女200名)」で、「健康寿命を延ばすために大切なことは?」という質問に次のような結果が出た。

 「趣味を持つことが健康な身体を維持するために大切」と考える人が多いことがわかる。

1位:趣味を持つ(男性66%、女性77%)
2位:笑う(26%、58%)
3位:自然に触れる(38%、32%)
4位:旅行をする(34%、20%)
5位:仕事をする
(31%、20%)


昭和ヒトケタ世代

 「昭和ヒトケタ世代」と呼ばれる年代について、昨年の8月20日、拙ブログ・昭和ヒトケタ世代で特集したことがある。昭和ヒトケタ(一桁)とは、昭和元年(1926年)から昭和9年(1934年)までの、8年7日間のことをいう。現時点では83歳以上、91歳までが昭和ヒトケタ世代。

 天皇皇后両陛下もこの世代である。

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 来年の4月30日に退位される今上天皇は、昭和8年(1933年)、皇后美智子は昭和9年(1934年)生まれ。天皇陛下は昨年の12月23日に84歳を迎えられ、皇后陛下は10月20日に83歳を迎えられた。(写真)

 80歳を超え、こんな激務に耐えられるはずがない。それでもまだ1年以上のご公務が残っている。お疲れさまですと言いたい。
昭和ヒトケタ世代で昨年亡くなった有名人

 一昨年は、戦後の大衆文化を引っ張ってきた永六輔さん(昭和8年(1933年)生まれ、7月7日、83歳で没、写真左)、大橋巨泉さん(昭和9年(1934年)生まれ、7月12日、82歳で没、写真右)という、芸能界の巨星が鬼界に入った。

 昨年はこんな人たちだ。

●昭和前期(1926年~1929年)京唄子、ジャンヌ・モロー三浦朱門酒井広ジェリー・ルイスチャック=ベリーヒュー=ヘフナーフィデル=カストロ土屋嘉男シドニー=ポワチエロジャー・ムーア、ファッツ=ドミノ神山繁、早坂暁三遊亭圓歌

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●1930年(昭和5年)…渡部昇一
●1931年(昭和6年)…日下武史岡野俊一郎大岡信
●1932年(昭和7年)…野村沙知代船村徹 
●1933年(昭和8年)…ペギー葉山平幹二朗篠沢秀夫 
●1934年(昭和9年)…藤村俊二

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昭和ヒトケタ世代で現存の有名人

 昭和ヒトケタ世代にはこんな有名人がいる。

 まずは女性から。今も活躍していると思う有名人を網掛けしてみた。

●昭和前期(1926年~1929年)
 月丘千秋、 辻久子、石井ふく子、森英恵、中根千枝、トニー・ベネット(以上、1926年)
 菅原都々子、宮城まり子、石牟礼道子、緒方貞子、 ジュリエット=グレコ、リー=グラント (以上、1927年)
 楠トシエ、浅香光代、杉葉子、兼高かおる、 渡邊美佐(以上、1928年)
 奈良岡朋子、安藤まり子、正司歌江、草間彌生(以上、1929年)
●1930年(昭和5年)…小山内美江子、澤地久枝
●1931年(昭和6年)…八千草薫、久我美子、犬養智子、二葉百合子、山本富士子、 曽野綾子、カテリーナ=ヴァレンテ、モニカ=ヴィッティ
●1932年(昭和7年)…岸惠子有馬稲子、寿美花代、音羽美子、久保菜穂子、渡辺美佐子、岩崎加根子、木元教子、フジ子・ヘミング
●1933年(昭和8年)…黒柳徹子草笛光子、岡田茉莉子、鳳八千代、若尾文子、扇千景、海老名香葉子、大山のぶ代、マーサ三宅 、ロミ山田、オノ・ヨーコ、キム=ノバク
●1934年(昭和9年)…中村メイコ、司葉子、牧阿佐美、広中和歌子、金美齢、ソフィィア・ローレンブリジット=バルドー 、ナナ=ムスクーリ 、シャーリー=マクレーン

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 男性には、こんな人たちがいる。

●昭和前期(1926年~1929年)…
 青木光一、小柴昌俊、トニー=ベネット、江沢民(以上、1926年)
 無着成恭、 織本順吉、童門冬二、出光昭介、長谷川慶太郎(以上、1927年)
 三浦洸一、池田大作、柴田勲、久里洋二、羽仁進、ウォルター=モンデール 、バート=バカラック (以上、1928年)
 鈴木健二、津本陽、磯村尚徳、サトウ サンペイ、川久保潔、クリストファー=プラマー (以上、1929年)
●1930年(昭和5年)…曽根史郎、高島忠夫、岡田太郎、半藤一利、俵孝太郎、和久峻三、田山力哉、芦田淳、西村京太郎、有馬朗人、秋山実、クリント=イーストウッド、ジーン=ハックマン、ショーン=コネリー、ソニー=ロリンズ、ザ・デストロイヤー、ジョージ=ソロス
●1931年(昭和6年)…山田洋次、近石真介、穂積隆信、大村崑、羽佐間正雄、海部俊樹、明石康、道場六三郎、三好徹、広中平祐、すぎやまこういち、岡村喬生、猪谷千春、小野喬、陳清波、ジャニー喜多川、ミハイル=ゴルバチョフ
●1932年(昭和7年)…仲代達也、露口茂、田中邦衛、柳澤愼一、矢島正明、五木寛之、石原慎太郎、神津善行、野末陳平、稲盛和夫、鈴木敏文、藤井裕久、渡部恒三、内橋克人、森田実、屋山太郎、秦郁彦、広岡達朗、小林亜星、村木賢吉、白土三平 、本多勝一、小林完吾、志生野温夫、若山弦蔵、三浦雄一郎、ジョン=ウィリアムズ、ミシェル=ルグラン、フランシス=レイ、リトル=リチャード、ジャック=シラク
●1933年(昭和8年)…森村誠一、恩地日出夫、矢崎泰久、渡辺貞夫 、ウイリー沖山、高木 ブー 、菅原洋一 、鶴岡雅義、アイ・ジョージ、羽佐間道夫 、針すなお、浅利慶太、澤田隆治、吉田義男、金田正一、宍戸錠 、旗照夫 、クインシー=ジョーンズ、ウィリー=ネルソン 、ロマン=ポランスキー
●1934年(昭和9年)…宝田明、田原総一朗、藤子不二雄・A、権藤正利、森山周一郎、隆旗康男、筒井康隆、谷道夫(デュークエイセス)、前田憲男、堤義明、山崎正和 、宇野亜喜良、森岡賢一郎、ケーシー高峰、財津一郎、ジョージ=チャキリス 、パット=ブーン 、フランキー=ヴァリ、ジョージ=シーガル、ハンク=アーロン

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昭和ヒトケタ世代で活躍している有名人

やすらぎの郷

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 昨年の4月3日から9月29日まで、テレビ朝日系・月~金午後0:30~0:50の番組「やすらぎの郷」野際陽子(81歳で没、写真)の遺作となった作品だった。

 同ドラマは、“業界人”専用の老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台に、全盛期の映画、テレビ界を支えた俳優、作家、ミュージシャン、アーティストたちが繰り広げる、ノスタルジー漂う人間喜劇。シニア世代が直面するさまざまな問題もユーモラスに描いていた。

 題名から分かる通り、往年の大スターのオンパレード。そのうち有馬稲子さんと、八千草薫さんは昭和ヒトケタ世代だ。ご両人ともまだまだ若い。

 写真前列左より、有馬稲子(85歳)、八千草薫(86歳)、倉本聰(82歳)、石坂浩二(76歳)、浅丘ルリ子(77歳)、加賀まりこ(73歳)、五月みどり(77歳)。後列左より、松岡茉優(22歳)、草刈民代(52歳)、常盤貴子(45歳)、野際陽子、藤竜也(75歳)、ミッキー・カーチス(79歳)、山本圭(77歳)、名高達男(66歳)。

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■歌手

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 昭和ヒトケタ世代で活躍している大物歌手はほとんどいなくなった。海外ではジュリエット・グレコ(90歳)も2016年に引退した。しかし、今でも活躍している男性歌手はいる。トニー・ベネット(91歳)とフランキー・ヴァリ(83歳)だ。特に後者の公式サイトを見ると、今年一杯のスケジュールが埋まっているから驚きだ。(映像はラグドールを歌うフランキー・ヴァリ


■俳優

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・90歳の現役俳優、織本順吉(写真)

 再放送だったが、BS1スペシャル「老いてなお 花となる~織本順吉 90歳の現役俳優~」を見た。

 薄幸の父親役からヤクザまで、名脇役として2千本の映画やドラマに出演してきた彼が、今闘っているのは急激な老い。歩くこともままならず、セリフは一晩寝れば忘れることも。不安から睡眠不足が続く。それでも織本は現場に向かう。生涯現役を貫き、懸命に生きる老俳優の姿を、家族が記録したドキュメンタリー番組だ。
 ここまでして働かなければならないものか。
仲代達矢(85歳)

 年末はたまたま仲代達矢が出演しているテレビを立て続けに見た。

 一つは、BS1スペシャル「仲代達矢 命と向き合う」だ。

 「役者・仲代達矢さん。85歳のいまも現役として舞台に立ち続けている。この秋、役者として最後の覚悟で臨む舞台に立っている。亡き妻が演出を手がけた反戦劇だ。戦争を知らない時代に「命の大切さ」「平和の尊さ」を伝えたいと考えている。自らの老いと向き合いながら格闘する日々を追う」とある。

 酸素吸入とか治療をしながらの演技。体力との壮絶な戦いを演じている姿が痛々しい。何が彼を追い立てているのだろうか。

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 もう一つは、大みそかのNHK BSプレミアム・越しで日本映画の至宝「黒澤明作品」一挙放送!『年越し映画マラソン』の黒澤明監督作品『七人の侍』、『生きる』、『用心棒』、『椿三十郎』、『赤ひげ』の計5作品だ。

 彼はこの中で「七人の侍」、「用心棒」、「椿三十郎」に出演している。実は初めて見る映画ばかりだ。

 仲代達矢は俳優養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビューした。養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演で、本来は出演作にカウントすべきものではないが、この出演で時代劇の歩き方ができなかった仲代は監督・黒澤明を苛立たせ、「俳優座では歩き方も教えないのか」と罵られ、ワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい、最終的に「いいや。OK」となったいわくつきの作品だ。黒澤はこのことをすぐ忘れてたらしいが、仲代にとって強烈な思い出となり、これが映画俳優・仲代のスタートとしてしばしば引き合いに出されることとなった。

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 その後、東宝では三船敏郎に対抗できる敵役俳優として、『用心棒』(1961年)の監督・黒澤明から出演依頼を受ける。『七人の侍』出演時に黒澤から散々NGを出された記憶が残っており、「立派な役者になって、二度と黒澤組には出ない」と心に決めていた仲代は当初出演をきっぱりと固辞したが、黒澤本人に呼び出されて説得され結局出演し、洒落者だが残忍なヤクザを演じる。(写真)

 翌年の『椿三十郎』でも続けて起用され、今度は剛直な武士を演じ、仲代の風格と演技力を買った黒澤の期待に応えた。

 1957年、俳優座所属の看板女優(まもなく演出家、脚本家に転身)宮崎恭子と結婚。1975年に、彼女と共に無名塾を創立して後進の養成を開始した。1979年には俳優座を退団。以後は無名塾公演で、脚本・演出を妻に任せ、自分が出演する形で演劇を継続してきた。俳優座時代、また無名塾公演でも多くのシェイクスピア作品に主演、日本を代表するシェイクスピア俳優でもある。(妻の宮崎恭子さんについては、拙ブログ宮崎恭子(仲代恭子参照)

黒柳徹子(84歳)
 
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 最近「徹子ザ・ベスト」(2011年、講談社、写真)を読んだ。今、昭和ヒトケタ世代で最も活躍しているタレントだろう。次回はこれを元にブログを作りたいと思う。

黒柳徹子【その1】

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 前回のブログの最後にお約束した通り、黒柳徹子さんの記事を書くに当たって、昨年末にいくつかブログを作った日野原重明氏に似ているところがあるなと思った。

日野原重明氏と黒柳徹子さんの似ているところ

一つは、二人とも幼いころは手の付けられない子供だったことである。

 日野原氏の遺作「生きてゆくあなたに」を読むと、「小さいとき、おそらく2歳か3歳のころでしょうね。僕は、自分が納得できないことがあると、大人のいうことを聞かずに、2時間でも3時間でも土間で泣き叫んでいたそうです。その様子を見て母は『この子はよほどすごい人間になるか、でなければよほど悪いごろつきになるか』と笑って見ていたそうです」とある。「負けず嫌いで頑固、そのうえ優等生でも健康優良児でもない、今思うと手のかかる子どもだったと思います。母は苦労したことでしょう」

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 一方これは、800万部も売れた戦後最大のベストセラー・「窓ぎわのトットちゃん」(1981年、講談社、写真)でも語られているように、黒柳徹子の幼少期は問題児であったため、尋常小学校(現: 公立小学校)を1年生の時に退学させられ、トモエ学園1年生に転校している。

 どうやら学校での彼女のふるまいが、先生とかみ合わなかったのが原因のようだ。同じことは、俳優になったときにも起きた。

■好奇心が並外れて高いこと。

 日野原氏の最期の言葉は「キープオンゴーイング」だった。人生どんなにつらくても、明日がある。前に向いて進もうというのだ。彼の名言集「書斎のファイルから⑱」に「変化を恐れない。未知とは、変化する可能性のこと。変化していく自分を待望して欲しい」とある。

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 一方「徹子ザ・ベスト」(写真)の冒頭に「私は『好奇心』で出来ています」とし、次のような文がある。

 まずは「好奇心ほど、人を生き生きさせるものはない。私は、そう思っています」とあり、『徹子の部屋』も、『世界ふしぎ発見!』『海外コメディ・シリーズ』も。

 ひとつの仕事を20年、30年と続けてこられた理由はたったひとつ。『好奇心があったから』だと徹子さんは言う。マンネリになることなく、いつも子どものようなフレッシュな気持ちで、人の話を聞いたり、時代背景を調べたり。好奇心のままに行動することは素敵なこと」と続く。

 そして、好奇心を保つ秘訣は「人でも自分でも、無理に『こうだ』と決めつけないことだ」という。

■健康管理に気を使っていること。

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 二人とも車いすのお世話になった仲(写真)だ。彼女は2017年8月末に右大腿骨を骨折し手術を受け車いすのお世話になった。

 しかし、二人の健康に対する気遣いは並大抵ではない。彼女はスクワットやヨーガが得意で、着衣のまま水中浮揚を披露したこともある。

 彼女については、「徹子ザ・ベスト」にも書かれてあるが、「人にどう見られようと、何と言われようと、やりたいこと、好きなことを書く。それは徹子さんが過労で倒れたとき、『死ぬまで病気をしない唯一の方法』として、担当のお医者さまが教えてくれたことだった」という。 

■人道主義・平和主義者であること。

 日野原氏のことは日野原重明氏の思い出で、筋金入りの平和主義者であることをお伝えしたが、Wikipediaで彼女の肩書に、日本の女優、タレント、声優、司会者、エッセイスト、ユニセフ親善大使とともに「平和運動家」と書かれてある。

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 彼女は1984年より、国際連合傘下のユニセフ(国際連合児童基金)親善大使を務めており、現在でも精力的に活動しているが、その年間報酬は、1米ドルであるという。

 政治に興味があり、政治番組を持ちたいとの希望があるが、ユニセフ親善大使を務めている事情などから積極的に政治的意見を述べることは控えている。ただし、「100歳になった時、政治番組をやりたい」との思いもあるという。後に「100歳になった時に政治記者になりたい」とも発言した。

 「徹子ザ・ベスト」によると、「戦争は、幸せの真逆にあるものです」とし、「”幸せ”の定義は人それぞれ。でも、徹子さんの子どもの頃の幸せの思い出は、戦争によってあっけなく失われてしまった。美しいもの、楽しいもの、愛するもの。そのすべてを戦争は奪っていく。実際につらい体験をした一人として、徹子さんは、戦争の恐ろしさを伝えていくことが、自分に課せられたひとつの使命であると考えている」
 彼女は今では今やタレントというイメージが強いが、女優であり、声優だったことは意外と知られていない。

 次回はそのことについての記事にしたい。

黒柳徹子【その2】

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若かりし頃の黒柳徹子

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 1953年(昭和28年)、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科在学中(当時19歳)、「子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになりたい」と思い立って、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけたNHK放送劇団の俳優募集の広告に応募、
テレビ女優第一号の一人としてNHK放送劇団の一員となる。(当時の写真)
■ヤン坊ニン坊トン坊

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 1954年、NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)が開始した。

 同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。

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 しかし、彼女は当時からちょっと変わった話し方や、日本語がおかしいなどの理由で降板させられてしまうことが相次ぎ、自信を無くしかけていたところ、劇作家・飯沢匡(いいざわただす、1994年、85歳で没、写真)に「あなたの個性が必要なんです。そのままでいて下さい」と励まされ、NHK始まって以来のオーディションを経て、三男・トン坊役を演じて一気に有名となる。

 以後彼女は劇作家・飯沢匡を師と慕い、飯沢没後も飯沢のことを話す際には必ず先生付けで話している。


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 ところで、日本のタレントの「初代三人娘」は、「ヤン坊ニン坊トン坊」で声優として主演し、一躍人気を集めたユニットのことを指す。

 ヤン坊は里見京子(現在82歳、写真右ニン坊は、横山道代(現在は、横山通乃、81歳、写真右から二番目)、トン坊は黒柳徹子(現在84歳、写真左から二番目)。番組当初、みんな10代後半の若さだった。なお、里見京子に代わって、水谷良重(現在は2代目水谷八重子、78歳、写真左)とする場合もある。

 自分はこの番組が放送されたときまだ5歳から8歳までだったが、特徴のあるテーマソングはよく覚えている。ただし、子どもの声がみんな10代後半の若さの女性だったのを知っていたかどうかは定かでない。

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 ちなみに、歌謡界の「元祖三人娘(ジャンケン娘)」は、ほとんど同時期の昭和30年代初めに活躍した、美空ひばり(1989年、52歳で没、写真中央)、江利チエミ(1982年、45歳で没、写真右)、雪村いづみ(現在80歳、写真左)である。1955年の東宝製作の映画「ジャンケン娘」で共演。それがきっかけとなって「三人娘」と呼ばれるようになり、その後も、3人共演の映画も作られた。 

 黒柳徹子がNHK専属のテレビ女優になった1954年(昭和29年)のメディアの中心はまだラジオだった。

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 テレビはまだ日本に866台しかなかった。もちろん白黒だ。(写真)月給が9,000円だった時代にテレビは一台25万円だった。

 当時、アメリカの偉い人が来て「テレビは、世の中を変える力を持っている。永久的な平和を手に入れるカギもテレビが握っている」という言葉を信じてずっとやってきたという。
■テレビ創世期の番組
 
 創成期のテレビ番組では、1953年の「ジェスチャー」、1955年の「日真名氏飛び出す」「私の秘密」、1956年の「お笑い三人組」、1958年の「バス通り裏」などを思い出す。(「日真名氏飛び出す」のみラジオ東京テレビ(KRT、現在:TBS)、他はNHK番組)

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■黒柳徹子が出演したテレビ番組は以下の通り。

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 1955年製作の「やがて蒼空」は、作:北條誠/音楽:中田喜直/出演:内田研吉、黒柳徹子、太宰久雄、名古屋章/映画化された初のテレビ連続ドラマ。初めて主題歌を放送した。



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1958年にはテレビドラマ「お父さんの季節」で、コックを演じた渥美清の妻役に。

 この頃睡眠時間3時間という日々が続き、本番に耳鳴り、めまいがしたため医者に行くと「過労」と診断され、1ヶ月入院し途中で交代した。
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 同年12月「第9回紅白歌合戦」で初司会。当時では史上最年少(25歳)の司会者だった。

 それから22年の月日が経った1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅組司会に復帰し、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美に並び史上最多である。その32年後である2015年の『第66回NHK紅白歌合戦』では、総合司会として再度紅白の司会に復帰した。

 子ども番組では「チロリン村とくるみの木」(1956年 - 1964年)、「ブーフーウー」(1960年 - 1967年)、そして、「魔法のじゅうたん」(1961年 - 1963年)。

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 「魔法のじゅうたん」は、
当時、最新の特殊撮影技術を駆使して話題を呼んだ子ども向けバラエティ番組で、自分もよく見ていた。黒柳徹子と子どもたちが「魔法のじゅうたん」に乗って、日本各地を空から観察する。「アブラカダブラ!」の掛け声と共に、「魔法のじゅうたん」が子どもたちを乗せて空を飛び回るなど、クロマキー技術とヘリコプター撮影の映像が組み合わさり、夢あふれる映像の連続に子どもたちは夢中になったものだ。作:飯沢匡 音楽:宇野誠一郎、小森昭宏 。
 上記の
子ども番組に加えて『若い季節』(1961年 - 1964年)、『夢であいましょう』(1961年 - 1966年)などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになる。

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 50年以上前の音楽バラエティ番組「夢であいましょう」は、毎週火曜日(のち土曜日)夜10時台に生放送され、司会の中嶋弘子さん(写真)が番組冒頭で上半身を右に傾けてお辞儀をおこなう挨拶は、話題になったものである。なお、彼女は途中から産休のため降板し、黒柳徹子に司会を譲っている。


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 作詞:永六輔、作曲:中村八大のいわゆる「六・八コンビ」
「今月の歌」を中心に、この番組から「上を向いて歩こう」(坂本九、1961年)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾、1962年)、「故郷のように」(西田佐知子、1962年)、「おさななじみ」(デューク・エイセス、1963年)、「ウエディング・ドレス」(九重佑三子、1963年)など、たくさんのヒット曲が世に生まれた。

 もう番組が古いのでやむを得ないのだろうが、出演者の多くが鬼籍に入った。

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 越路吹雪(1980年、56歳のとき胃がんで没)、坂本九(1985年、43歳のときあの日航の墜落事故に巻き込まれ没)、中村八大(1992年、61歳のとき肝不全により没)、渥美清(1996年、68歳のとき肺がんで没)、フランキー・堺(1996年、67歳のとき肝不全で没)、三木のり平(1999年、74歳のとき肝腫瘍で没)、E・H・エリック(2000年、71歳のときパーキンソン病で没)、谷幹一(2007年、72歳のとき脳出血で没)、永六輔(2016年、83歳のとき肺炎で没)。レギュラーだったデューク・エイセス(写真)もついに昨年の12月をもって解散してしまった。


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 この番組の嚆矢(こうし)は日本テレビの『光子の窓』(1958年-1960年)である。草笛光子(現在84歳、写真)を主役に起用し、歌と踊りと笑いの全てを集約させた音楽バラエティ番組であった。
 
このあと『夢であいましょう』がスタートしたが、
草笛と黒柳は女性バラエティタレントの先駆者である

■舞台俳優への挑戦

1961年、舞台出身の俳優との間に演技力の差を感じていたことから、劇団に入りたいと杉村春子文学座への入団を相談し、1961年に開設された文学座附属演劇研究所に3期生として入所し演技を学ぶ。さらに1970年に出演した東宝のミュージカル『スカーレット』(帝国劇場)でブロードウェイのスタッフとともに仕事をしたことで、もっと勉強したいとニューヨークへの留学を決意。1971年の1年間ニューヨークへ留学し、メアリーターサイ演劇学校およびルイジ・ダンススクールにて演技とダンスを学ぶ。

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 1989年より「海外コメディ・シリーズ」の上演を開始(写真)。劇作家・演出家の飯沢匡の発案により黒柳の主演で毎年秋に海外の喜劇を紹介する企画で、1994年に飯沢が死去した後は主に高橋昌也が演出を手掛けて、2016年秋で30回目を数える。1997年には『幸せの背くらべ(英語: Three Tall Women)』および『マスタークラス(英語: Master Class)』での演技により第38回毎日芸術賞ならびに第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞。2013年には「永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して」の受賞理由により第38回菊田一夫演劇賞特別賞を受賞している。


熟年の黒柳徹子

 1972年、『徹子の部屋』の前身番組となる『13時ショー』(NETテレビ)の司会就任が決まり、アメリカより帰国。

1970年代には『音楽の広場』『おしゃべりオーケストラ』などのNHKクラシック音楽番組の司会も大きな比重を占めた。ユーモラスな早口は同種番組としては異色だったが、芥川也寸志、尾高忠明らソフトな語り口の専門家たちとのコンビネーションも好評で、賑々しいが訊き上手でもあるというのお茶の間イメージを定着させている。

『徹子の部屋』の放送開始を機に、「役を演じながら司会もやると混乱を招く」「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになる。

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 1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組『徹子の部屋』が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された。2015年5月27日には放送回数が通算1万回となり、上記の「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」を自ら更新し、再びギネス世界記録を受賞した。


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 1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSの音楽番組『ザ・ベストテン』が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板した)。
(Wikipedia 参照)

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■黒柳徹子の紹介番組

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〇黒柳徹子の母、声楽家でエッセイストの黒柳朝(くろやなぎ・ちょう)の自伝エッセイ『チョッちゃんが行くわよ』(1982年、主婦の友社、写真)は、自らの子育てなどをユーモラスな語り口で綴り、ベストセラーとなった。

 これは、NHK連続テレビ小説第38作目の『チョッちゃん』(1987年)としてのテレビ小説化された。主演は古村比呂(現在52歳)。劇中でたびたび登場した「…っしょ」(…でしょう)という北海道弁が流行語となり、くだけた北海道の方言として全国的に定着している。
トットてれび」(2016年)は、NHK総合の土曜ドラマ。

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 女優・タレントの黒柳徹子著の自伝エッセイ『トットひとり』(写真左)『トットチャンネル』(写真右)を原作に、テレビとともに歩み続けた黒柳の半生とさまざまな人々との交流を、自身を「筋金入りの黒柳徹子ファン」だと語る中園ミホ(現在58歳、写真)が脚本し、満島ひかり(現在32歳)の主演によりテレビドラマ化された。

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 キャッチコピーの「世の中なんだか、徹子さんが足りない」をテーマに、誕生から60年あまりの間に幾多の前例や決まり事によって縛られてしまったテレビの世界にあって何者にも縛られず自由であり続けた黒柳のごとく、かつてテレビが創造性に溢れ自由だった時代の物語を、自由かつ大胆に、様々な挑戦に意欲的に取り組みつつドラマ化しているという。
〇そして、昨年12月22日に終了した「トットちゃん!」。女優・黒柳徹子の半生とその家族の物語を大石静の脚本、清野菜名松下奈緒のダブル主演によりテレビドラマ化した。


 12月22日に放送された帯ドラマ劇場「トットちゃん!」(テレビ朝日系)の最終回が、11月23日の第38話で記録した最高平均視聴率と並ぶ7.4%を記録したことが分かった。瞬間最高視聴率は昼0時44分に記録した8.0%で、有終の美を飾った。(数字は全てビデオリサーチ調べ、関東地区)

 同ドラマでは、40年以上の長きにわたって「徹子の部屋」(毎週月~金曜昼0:00-0:30テレビ朝日系)の司会を務め、常にエンターテインメント界の第一線で活躍を続けてきた黒柳徹子とその家族の激動の昭和史を描いてきた。

 本作に登場する“昭和の大スター”役で、現代の芸能界を代表するタレントたちが続々と出演し、大きな話題を集めた。

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 22日の最終回では、来日した“恋人”カール・祐介・ケルナー(城田優)から連絡を受けた徹子(清野菜名)が、急いで葉山のホテルまで向かい、掛け替えのないひとときを過ごす。そして今度は徹子が祐介の元を訪れると申し出るも、祐介はある決意を胸に秘めていた。(写真)

 祐介の体に何が起きたのか、「離れていても愛し合える」と互いの愛を固く信じ合ってきた2人。その後、徹子があらためて祐介のスイスにある別荘へと向かうと…という物語だった。
そんな、黒柳徹子本人が長年、ひっそりと胸にしまってきた“国境を超えた恋”が描かれた本作も、いよいよ終幕のときを迎えた。

 なお、最終回にはこれまでの名シーンが盛り込まれ、父・守綱(山本耕史)と母・朝(松下奈緒)との恋や、トモエ学園校長・小林宗作(竹中直人)、森繁久彌(近藤真彦)、渥美清(山崎樹範)、沢村貞子(浅野ゆう子)、NHK職員・大岡龍男(里見浩太郎)、NHK講師・河毛博(ディーン・フジオカ)、劇作家・飯沢匡(高橋克典)ら、これまで徹子の人生を支え、導いてきた懐かしい顔ぶれが印象的なシーンと共に復活する場面も。

 黒柳自身、最終回の直前に「私は、ドラマを見ていて『ちょっと、すてき過ぎないかな?』とも思いましたが、皆さんにそう思っていただけたらうれしいです。私の半生をそんなふうにドラマで描いていただいて、本当にありがとうございました。ドラマを作ってくださった関係者の皆さまに、感謝しております」とコメントを寄せていたが、黒柳の半生を通して、若い人たちも日本の芸能界の歴史に触れることができた。

 22日に最終回を迎えると、SNSでは「まだまだ見ていたい!」「3カ月じゃ短いよ~!」といった具合に、“トット助ロス”を叫ぶ声も少なくない。

 個人的にも「あらま」という清野“徹子”の絶妙なリアクションが見られなくなるのは残念だが、他のドラマよりは“ロス”が少なくて済みそうだ。

 だって、これからもずっと平日の昼0時には“お昼の恋人”黒柳徹子に会えるから。

 次回は黒柳徹子の交友関係を。

 

黒柳徹子【その3】

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 黒柳徹子は多くの出会いによりその人格を形成してきた。

〇好奇心と度胸と元気が人との交流を深めるための源泉

イメージ 1 「徹子ザ・ベスト」(写真)の冒頭に「私は『好奇心』で出来ています」とあるように、彼女はいつも子どものようなフレッシュな気持ちで、人の話を聞いたり、時代背景を調べたり、好奇心のままに行動していた。そして、好奇心を保つ秘訣は「人でも自分でも、無理に『こうだ』と決めつけないことだ」という。

 そして、ここで本人が述べているように、「好奇心」だけでなく、「度胸」「元気」が彼女の専売特許だという性格も、人との交流を深めるのに役立ったようだ。
〇両親の影響

 それは、同書にこの親にしてこの子あり?」という章があるが、両親の生き方を学んだ影響が大きい。

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 父は音楽家で、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓田口、1983年、74歳で没、写真左)、母は声楽家でエッセイストの黒柳朝(旧姓門山、2006年、95歳で没、写真右)。

 同章には「キューピッドはベートーヴェン?」とあり、ベートーヴェンの第九がなかったら、私はこの世に存在していなかったと書いてある。

 黒柳徹子が生まれる4年前の1929年(昭和4年)、父母の出会いは次の通りだった。

 父が22歳で新交響楽団(現:NHK交響楽団)のコンサートマスターだったころ、妻の黒柳朝は19歳。娘の徹子も学んだ東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科の生徒だった。

 彼女はコーラスをしに、日比谷公会堂に出かけた。そのとき父はたくさんいるコーラス隊中で母を気に入り、「お茶を飲みに行かない?」と、当時住んでいた住居の1階にあった喫茶店に連れ込み、夜遅くまで話し込んだ末に「もう電車ないよ」と自分の住居に連れ込み、そのまま結婚の話に至ったという。

  黒柳徹子がどんな男性に惹かれるかというと、父の影響があり、まず浮かぶのが「仕事を夢中にする人」だという。

 結婚前にプレーボーイの誉れ高かった父も、生涯浮気をしなかった。最期の言葉は「じゃあね」「君は僕がいなくなっても誰とも恋をするなよ」ということを自信を持って言ったそうだ。

 母の黒柳朝さんも普通の主婦ではなかった。1983年に夫の守綱さんが亡くなったとき「私は主人が、お金を何にも残さないで亡くなったことを感謝している。だから、私がいつまでも元気で働くことができるのです」と、どんな不幸も前向き肯定的に受け止める性格だった。

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 自伝エッセイ『チョッちゃんが行くわよ』を雑誌『主婦と生活』の1982年4月号から10月号に連載し、執筆活動を開始したのは夫の亡くなる1年前の71歳だった。

 夫の死後、北米へ講演旅行し、在留邦人や教会の奉仕をし、1984年、自伝『チョッちゃんが行くわよ』(主婦と生活社刊、写真左を出版。同作はNHK連続テレビ小説『チョッちゃん』としてドラマ化された。2006年心不全で死去した翌9月には、長女・徹子が聞き手となり子育てや家族について述べた最後の著書『チョッちゃんは、もうじき100歳』(主婦と生活社刊、写真右が刊行された。
〇出会い

■トモエ学園・小林宗作校長との出会い

イメージ 5 彼女が48歳のときの作品で、戦後最大のベストセラー「窓ぎわのトットちゃん」(1981年、講談社、写真)にこう書かれてある。

「この本を、亡き、小林宗作先生に捧げます。これは、第二次世界大戦が終わる、ちょっと前まで、実際に東京にあった小学校と、そこに、ほんとうに通っていた女の子のことを書いたお話です」

 トットちゃんが小学1年生にも関わらず、学校の問題児となりトットちゃんのママが担任教師から学校に呼び出される。「おたくのお嬢さんがいると、クラス中の迷惑になります。よその学校にお連れください!」「本当にこまってるんです!」 

 その問題行動は教室の机のフタを100ぺん位開けたり閉めたりする、窓際に立って、ちんどん屋さんを呼ぶ、教室の屋根に巣を作った燕に話しかける、などで、先生は授業に成らず、困り果ててしまった。それで、1年生にして退学となり、「トモエ学園」に入学する。

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 トモエ学園は、1937年(昭和12年)小林宗作が創設、1944年(昭和19年)に東京大空襲で焼失した幼稚園と小学校。

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 東京世田谷区・東急東横線、大井町線自由が丘駅降車、大丸ピーコック脇、自転車置き場前に「トモエ学園の碑」(写真)がある。


 この学校の面接で、小林校長先生は「さあ、なんでも、話してごらん。話したいこと、全部」と言われた。そこで、トットちゃんが話した時間が4時間。そのあと校長先生は「じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ」と話す。

 小林宗作の教育方針は「どんな子も生まれた時にはいい性質を持っている。それが大きくなる間に色々な周りの環境とか大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、はやく、この『いい性質』を見つけて、それを伸ばしていき個性のある人間にして行こう」というものだった。

 校長先生からいつも「君は、本当はいい子なんだよ!」と言われていたという。


 飯沢匡との出会いは、拙ブログ・黒柳徹子【その2】に記述した通りだが、NHKでも「個性が邪魔!ひっこめて!」と言われ、毎日のように役を下ろされていて、先輩には「日本語がヘン!」と毎日のようにお説教をされて落ち込んでいた彼女を「あなたの個性が必要なんです。そのままでいて下さい」と励まされ、救ったのが飯沢匡だった。以来、彼を師と慕い、飯沢没後も飯沢のことを話す際には必ず先生付けで話している。

〇交友関係(Wikipedia 参照)

■池内淳子

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 和服の似合う上品な美貌の持ち主で、1960年代から1980年代まで、テレビドラマの女王として君臨した池内淳子(2010年、76歳で没、写真左)は、テレビドラマ『甘柿しぶ柿つるし柿』(1969 - 70年 TBS)で共演したことがきっかけで友人となり、同じくこのドラマで競演していた山岡久乃(1999年、72歳で没、写真右)らと共に「老後は同じ老人ホームへ入ろう」と(冗談混じりで)約束する仲となる。

 二人は同年生まれで、池内もトモエ学園の幼稚園へ通っていた(ただし、黒柳がトモエ学園へ入園するのは小学校入学後なので池内と同時期にトモエへ通っていた訳ではない)共通点もあった。池内は亡くなる前年の2009年まで、『徹子の部屋』へ12回出演する常連ゲストの1人だった。

 黒柳は主演舞台「33の変奏曲」(8日開幕)のけいこの合間でオフだった日に知人からの連絡で訃報を知った。「私は涙が止まりません。あなたがいなくなったテレビは、これから誰が和ませてくださるのでしょうね。あまりにも突然のことで声が出ない。本当に悲しいわ、池内さん」とやりきれない思いを吐露した。

■野際陽子

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 拙ブログ・野際陽子でも言及しているが、昨年の6月13日に亡くなった元NHKアナウンサーで女優の野際陽子(81歳没、写真)とは、NHK専属女優時代からの友人。20代の頃から、一緒に飯沢匡主催のフランス語のレッスンに参加したり、同じデザイナーに服を作ってもらったり、プライベートでの時間を沢山共有していた。2000年代以降でも時々一緒に食事に出かけており、年に1度のタモリ宅での食事会に同行したりしている。

 6月16日の「徹子の部屋」は、放送が予定されていたコロッケに代え、野際さんのこれまでの出演回を振り返る追悼特集を放送した。

 同番組では、2000年代以降は節目・特別版などに招かれており、2016年7月17日に放送された「黒柳徹子だけが知っている THEテレビ伝説60年史」には“ご意見番”として出演、1977年の初出演から最終出演となった2017年2月2日まで計21回に亘って出演した。なお、ゲスト出演21回は女性ゲストでは最多だった。
 
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向田邦子

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 飛行機事故で不慮の死を遂げた、直木賞作家の向田邦子(1981年、51歳で没、写真)とも女優・加藤治子の紹介から親交を結ぶようになり、料理の上手な向田の作ったお惣菜をよくご馳走になっていた。その縁でTBSで長らく放送された、久世光彦プロデュース・演出の「向田邦子ドラマシリーズ」のナレーションを務めていた。

 黒柳徹子の半生を描いた、テレビドラマ『トットてれび』(2016年、NHK総合、ミムラが演じる)、テレビドラマ『トットちゃん!』(2017年、テレビ朝日、山田真歩が演じる )にも登場している。
■森繁久彌

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 森繁久彌(2009年、96歳で没、写真)とはテレビ創世期からの付き合いで、ドラマなどで共演。

 「徹子ザ・ベスト」には「森繁さんはお芝居の上での私の恩師でもあり、まだスタートしたばかりのテレビという、当時は誰にとっても新しかったメディアを一緒に盛り上げていく、同志のようでもありました。芝居に関しては、たとえばセリフの自然な言い方だったり、間だったり、お客様を笑わせるコツ、すべて森繁さんから教わったと思っています」と紹介している。

 「徹子の部屋」第一回のゲストが、彼である。それだけ黒柳徹子と親しい関係にあった。

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 初回ゲストの森繁は62歳で、待ち構える黒柳徹子は20歳違う42歳。

 タキシード着て、礼装して待ているところへ森繁が近寄っておっぱいアタリをセクハラ風にさわる。黒柳もそれを察して身をくねらせて逃げる。

 彼女に「1回どう?」と初めて会った時から亡くなる3年前まで誘い続けていたのだそうだ。いつも「今度ね、今度」とはぐらかしていたが、最後の出演になった88歳の時の出演で前述の「1回どう?」のことについて番組内で森繁久彌さんを相手に説教をして「徹子の部屋」が中断寸前にまでなったそうだ。
 続く。

黒柳徹子【その4】

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 (黒柳徹子の交友関係についての続報だが、前作はどういうわけかこれ以上画面に表現できないので、続編とした。)

■永六輔

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 永六輔(2016年、83歳で没、写真)とは「永六輔のガールフレンド」とまで言われた60年来の親友。

 永が亡くなるまで『徹子の部屋』に39回出演し、2016年7月12日に永の追悼番組として放送した。永から「黒柳が亡くなった際の葬儀委員長をやる」とよく話していたが、実際は永が先に亡くなり、黒柳が永のお別れの会でメッセージを述べることとなった。そのお別れの会で黒柳は永の顎が外れたエピソードを話し、会場が爆笑となった。

 同年の7月12日の「徹子の部屋」は放送内容を急遽変更し、彼の追悼番組を放送した。

 以下は黒柳徹子が11日、所属事務所を通じたFAXで送ったコメント。

 永六輔さんとは、60年以上のお友達になります。その間、一回もケンカをしたことありません。「午後のおしゃべり」「夢であいましょう」で、はじめて会いました。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」など、八大さん(中村八大)と作った名曲のころ、毎日、渥美清さん、坂本九ちゃん、演出の末盛さん(末盛憲彦)とみんなで集まって、おもしろいことを話し合っては、笑っていました。

 永さんが、八大さんと世界中の日本人学校を訪問してるときは、一行ですべてがわかる絵はがきをくださいました。日本の中を旅したのは、自分で見たり聞いたりしたことを、全国まわって、ラジオで伝えたかったからです。テレビより、最後までラジオが好きでした。

 6月27日、足掛け40年以上続いた永さんのラジオ番組が終わりました。私も終わりのほうにかけつけて「永さん! ごくろうさまでした!」と叫びました。私が呼び掛けると、目を開けて笑ったりしていたそうです。奥さんの昌子さんが亡くなって14年半、よく1人で頑張りました。旅の名人でも、毎日旅先から何度も昌子さんに電話をしていましたから。1人になって、私と結婚の話も出ましたが、主に、永さんからですが、お互い昌子さんのようにはいかないと、わかっていました。「ゆめ風基金」という障害を持った方たちへのボランティアにも、すごく力を入れていました。お葬式は、実家の浅草のお寺です。

 亡くなる3日前と4日前にお見舞いに行きました。話はできなかったけど、私が「永さん!」と言うと、必ず、目を開けて私を見て、声を出して笑いました。

 このごろ、お友達が亡くなって、本当に、最後の一撃のような、永さんの死です。

 でも、生きてるもののつとめとして、当分、仕事、続けます。永さん、永いこといいお友達でいてくださって、ありがとう。アフリカなんかで「上を向いて歩こう」と聞くと、きっと、空を向いて涙がこぼれないようにすると思う。昌子さんによろしく。
■渥美清

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 NHK『夢であいましょう』で共演した渥美清(1996年、68歳で没、写真)とも関係が深い。共演当時、熱愛疑惑が持ち上がったことがあるという(本人談)。

 渥美は1979年1月3日の『徹子の部屋』にゲスト出演しているがこれが最初で最後となった。

 「渥美清 没後20年寅さんの向こうに」(週刊朝日、2016年8月12日号)で、本当の兄妹のようだった黒柳徹子さんの語り下ろしを抜粋している。

 初めて共演したのはNHKドラマ「お父さんの季節」(1958~61年)です。渥美さんとお見合い結婚する役でした。浅草から来た人だと聞いて、気をつけなくちゃ、怖いかもしれないと思いました。目が鋭かったのを覚えています。低いうなり声をあげ、遠くのほうからこっちを狙っているみたいな、油断できない「喧嘩犬」みたいな感じでした。

 でも向こうは向こうで、いままで自分が付き合ってきた浅草のストリッパーたちと違うので警戒していたのではないでしょうか。台本の読み合わせのときでしたか、私がふざけて冗談を言ったら「なんだ、このアマ」と言うのです。「アマっておっしゃいますと?」と私が聞き返すと「あーあ、やだやだ。この手の女はやだ」と言い返されましたね。

 そのころNHKのスタジオは千代田区の内幸町にありました。浅草では、舞台の上は神聖な場所なので自分の靴で歩いちゃいけなかったそうです。だから渥美さんも最初は靴を脱いで裸足でスタジオに入ってきました。きらびやかなテレビの世界に出てきたばかりなので気負いもあったのかもしれません。

 あだ名をつけるのがとても上手でした。私は「カラス天狗」。「ニンニク食って、高く飛べよ。カラス天狗」と言うのです。あとで渥美さんから教えてもらったのですが、私も渥美さんに向かってこんなことを言ったそうです。「あなたね、『このアマ』なんて言ったり、人のことをカラス天狗なんて言ったりしないで、本を読まなきゃ駄目よ」と。私はサンテグジュペリの『星の王子さま』を贈りました。「お嬢さん、私に読書の大切さを教えてくれたのはあなたですよ」と渥美さんは後年、おっしゃっていました。

 次第に気が合うようになり「お嬢さん」「兄ちゃん」とお互いに呼ぶようになりました。いつも一緒なので「うわさのカップル」と週刊誌に騒がれたときもありました。「お嬢さん、考えてもごらんなさい。僕の顔であなたの声ですよ。子どもが生まれたらタレントにするしかないじゃないですか」って冗談を言っていました。ですが私は当時NHKに所属していたのでちゃんとした写真があったのですが、渥美さんは「夢であいましょう」に出たときに撮影したチンドン屋さんの写真しかなく、チンドン屋さんの格好で雑誌に掲載されたのです。「俺はいつもこんな格好していない」って怒っていましたね。

 お正月に一緒に新宿の映画館で寅さん映画を何度も見ました。私がどんな場面で笑うのか知りたがっていたのでしょうね。「馬鹿だねえ」と言ってとても楽しそうでした。「徹子の部屋」に1回出ていただいたことがあります。1979年の放送でした。「お嬢さん、ほかにもっとおもしろい話をする人がいるじゃありませんか。あたしの話なんぞ、だれも聞きたくありませんよ」と言ってその後の出演は辞退されましたが……。

 俳句を一緒にやっていたこともあり、ご自宅がある目黒区まで私の車で何度か行きましたが、絶対に自宅の前で降りない。「その角でいい」「ここでいい」と離れたところで降りるのです。あるとき、車の5メートルくらい先に人が立っていました。「変な人が立っているから降りないほうがいいわよ」と私が言うと、渥美さんも「あ、そうだね」って言うんです。車を20分くらい走らせ、また戻ってきたらその人はいなかった。「今なら大丈夫」と渥美さんは降りたのですが、実は奥さんだったのです。そろそろ渥美さんが帰ってくるので待っていたんです。渥美さんも、目の前にいたのが奥さんだということを当然知っていながら何も言わなかった。この話は、渥美さんが亡くなってから渥美さんの奥さんにお聞きしたのです。

 仕事と家族を見事に切り分けていた人でした。旅行も誰にも内緒で行くのです。しばらくしてから「タヒチの女の人は頭に花を付けているんだね」とか言ってタヒチに行っていたことを初めて教えてくれるのです。私、悔しいから「秘密主義者」と言っていました。

 2カ月近く音信不通のときがありました。「どうして連絡くれなかったの。秘密主義者。女の人を連れて温泉に行ってたんでしょう」と何度も同じことを聞くと渥美さんは目に涙いっぱいためて帽子を脱いで、笑いながら「お嬢さん、本当に馬鹿ですね。温泉になんか行っていません」と言いました。後でわかったのですが、がんの治療で入退院を繰り返していたのです。

 なぜあのとき涙を浮かべていたのでしょうか。本当におかしかったのでしょうね。この人は本当にのんきな人だと思ったのかもしれません。逆に、自分ががんであることを隠し通せたことがうれしかったのかもしれません。亡くなる数日前、留守番電話がありました。「お嬢さんはお元気ですね。僕はもう駄目です。お嬢さん、元気でいてください」と。あの人、しょっちゅう死ぬ、死ぬと言っていましたし、若かったときの結核手術で肺が一つ足りなく体が丈夫でないことも知っていましたが、本当に亡くなるとは思いませんでした。

 あの小さな目で世の中のことをよく見ていた人でした。ご自身の病気もあり、寅さんをいつまで続けたらいいのか悩んでいたと思います。でも「寅さんをやめる」と自分から言いださなかった。兄ちゃんは寅さんが大好きだった。みんなに笑ってもらうのが大好きだったんです。

 ところで、寅さんといえば、渥美逝去でお蔵入りした映画「男はつらいよ」第49作にて甥の満夫(吉岡秀隆)と恋人の泉(後藤久美子)を結婚させる予定であったとし、甥の結婚を見届けた寅次郎は放浪の終焉を宣言する。

 そして50作目でテキ屋を引退した寅次郎は幼稚園の用務員として定職を得、その幼稚園の園長がマドンナの黒柳を予定していた。

 しかもその50作目で寅次郎は園児と遊んでいる最中に眠るように息を引き取り、街の人々が寅次郎を偲び地蔵を建立してシリーズの完結とする構想だったという。(2006年8月4日付けの北日本新聞に渥美の没後10周年を記念して山田洋次監督が寄稿したコラムに掲載された)
■タモリ

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 タモリ(現在72歳、写真)との関係も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。

 タモリが赤塚不二夫に連れられ、テレビ朝日(NET)の生放送番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日放映)に出演し、インチキ牧師を演じていたところを、番組を見ていた黒柳が「今の人、誰? すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚宛に電話を入れ、是非『徹子の部屋』に出て欲しいと出演依頼を行った(タモリの初出演は1977年8月11日)。これ以来、タモリは『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが2013年までは恒例となっていた。

 タモリが『徹子の部屋』にゲストとして出演する際には、テレビでほとんど見られなくなった何らかの「密室芸」の披露をしているが、1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんを洗った水で作ったクリームソーダ」、「チョコレートしゃぶしゃぶ」、「あんこ鍋」など、通常では考えられないゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。


 彼ら以外にも実に多くの交友関係がある。どうしてこんなに精力的に人付き合いが出来るのだろうか。

黒柳徹子【その5・最終回】「黒柳徹子の結婚観」

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 黒柳徹子の特集を始めていつの間にか5作目になった。日野原重明氏から続く「アンチエイジングの星」の生き方として何か参考になればと思っていたが、調べれば調べるほど彼女の生き方の凄さを知ることとなった。

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 その主たる情報源は、図書館で借りた「徹子ザ・ベスト」
(2011年、講談社、写真)である。

 彼女がこれまで超一流の現役で過ごしてきたのには当然、ワケがある。

 その一つは、「人生一度何かを決めたら、飽きない性分」だということだ。今まで「退屈」をしたことがないという。同じ道を歩いていても、その途中で、季節の変化を感じたり、何か新しいものを見つけたりするのだ。

 その源泉となる好奇心を保つ秘訣は、黒柳徹子【その3】でも記したところだが、「人でも自分でも、無理に『こうだ』と決めつけない」ことだ」。「価値観って、人それぞれだから、一般論に振り回されことはない」という。

 この本にはたくさんの人が登場している。その出会いの多さに驚くが、記憶力の確かさにはなお驚愕する。そして、もちろんたくさんの人にただ会っているだけではない。そこにあるのは多くの「気づき」である。正にその「気づき」が彼女をここまで育てたのだと思う。

 彼女のアラフォー時代は見た目のことより、精神的なことに夢中だった。「『もっと知的になりたい』『知性のある人と話がしたい』とか。だから絵を観たり、展覧会に行ったり、本を読んだり、そういう心磨き』に夢中だったような気がする」という。

 こんなことも言っている。

 「自分の個性は自分が一番分かっているものね。個性を、さっさと自分で極めてしまえば、まわりの雑音に惑わされなくなるから、ラクよ」(中略)

 「個性を磨こうとするときに、一番邪魔になるのが、虚栄心ね。(中略)『自分をよく見せよう』とか、『これを持っていないと悔しい』とか、そういうレベルの見栄とか虚栄心を、つい持ってしまうかも知れないでしょう?(中略)

 「まずは、人と自分を比べないこと。ありのままの自分を、受け入れること。能力以上に良く見せようとか、そういうことを考えなくなれば、争いごとも減るだろうし、世の中もっとうまくいくのに、と思います。ただし努力は必要!」(中略)

 「人と自分を比べるのは無意味なことだけど、自分が置かれている状況がいかに恵まれているかを知ることは、虚栄心を排除することにつながるかもしれません。生きることは大変だし、難しいんだけど、『日本はなんて自由なんだ』『自分は仕事があって、人に必要とされているだけでも幸せだ』って思えば、生活なんて、つつましくてもいいんじゃない」
 閑話休題。先に図書館で借りた「徹子ザ・ベスト」と書いたが、その貸出期限は1月14日(日)ということもあり、この回を以って黒柳徹子特集の最終回としたいが、そのテーマは「黒柳徹子の結婚観」である。

 黒柳徹子、84歳、未婚である。

 2013年12月26日放送のNHK総合テレビ『あさイチ』で「これまでに2・3回程結婚を考えたことがあり、お見合いや出会いがあったが、タイミングが合わなかった」と話した。そして「誰かを信頼して、好きだと思える人がいることはこういう仕事をしていく上で大事。今はいません」とし、「茶飲み友達がいたら良い」と話した。また、「昔は年上が好きだったが今は年下が良い」と話したが、「今は友達が居れば良い」と話した。そして、タイプについて質問されると「尊敬できる方」と話し、「私は欠落しているところが多いから知的な人が良い」と語った。また、後のインタビューで「結婚を諦めたわけではない」とも語っている。(Wikipedia )

 「徹子ザ・ベスト」でも「婚活(?)の思い出」を語っている。

 「私が人生で最初に結婚を考えた相手は、脳外科医で、男ばかりの兄弟の長男でした。知人の紹介でお見合いをしたんですけど、特にお母さまが、とっても女の子を欲しがっていた」そうだ。実は彼女はお見合い相手よりも彼の父君の方に惹かれていたという。

 ところが、もうすぐ結納、という時期のこと。ちょうど仕事場に、離婚歴のある作曲家の先生が来てこんなことを言った。

 「結婚したら、その相手とずっと一緒に暮らすわけだから、何かひとつ嫌なところがあったら、やめておいた方がいいね」
 
 それで、母に『私、(結婚するの)やめる!』と言い、母もあっさり『そうね、その方がいいわね』って」

 「恋愛の経験を積んだうえで、結婚しようと思った人もいました。その人は、私にこう言ったんです。『結婚生活なんて、きっと、面白くないと思うよ。ご飯がうまく炊けなかった…と思うと、気になっちゃうしね。第一、君にも、まだどんな才能があるか分からないし、いろいろやってみるといいんじゃないかな』
 彼女と噂になった人は多い。この辺のことは「黒柳徹子の恋愛遍歴&恋人は誰?隠し子疑惑の父親は飯沢匡?」に詳しい。 
 しかし、本命は40年も続いた外国人男性との遠距離恋愛だったのではないだろうか。

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 そのお名前はブルガリア出身で世界的に有名なピアニスト、アレクセイ・ワイセンベルク(2012年、82歳で没、写真)。

 その恋人が亡くなってしまい、結婚のタイミングを失ってしまったようだ。

 昨年の12月22日に最終回を迎えた、テレビ朝日系のテレビ番組「トットちゃん!」

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 そこでは、来日した“恋人”カール・祐介・ケルナー(城田優)から連絡を受けた徹子(清野菜名)が、急いで葉山のホテルまで向かい、掛け替えのないひとときを過ごす。そして今度は徹子が祐介の元を訪れると申し出るも、祐介はある決意を胸に秘めていた。

 祐介の体に何が起きたのか、「離れていても愛し合える」と互いの愛を固く信じ合ってきた2人。その後、徹子があらためて祐介のスイスにある別荘へと向かうと…という物語だった。

 彼女とカール・祐介・ケルナーの出会いは、東京オリンピックの1964年10月10日の夜、乃木坂のカレー屋。ナンが売り切れていて、手つかずでナンを残していた外国人客に「ナンをちょうだい」話しかけたところ、彼に下品とたしなめられるところから始まった。その7年後の1971年にトットちゃんがニューヨーク留学をし、そこで城田優さん演じるカール・祐介・ケルナーと再会し、恋が動き出している。

 ドラマの設定では、外国人恋人のカール・祐介・ケルナーは日本人とのハーフという設定だったが、実際は、ブルガリア出身のワイセンベルクと彼女は英語でやりとりをしていたそうだ。

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 彼女はワイセンベルクの4歳下。ニューヨーク留学をしたのは、1971年38歳の時。(写真はニューヨーク時代の黒柳徹子)

 当時、彼はパリに住んでいた。1969年(40歳)には、ワイセンベルクは初来日している。それから何度も来日し、1982年(53歳)には、「徹子の部屋」に出演しているという。

 年に1~2度しか会えなかったというが、どこで会っていたかについては不明だ。
 いずれにしても、彼女は恋愛を含め、多くの人たちとの出会いと別れを経験し、「気づき」を積み重ねてきたようだ。
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