「見ざる、聞かざる、言わざる」という言葉がある。見方によっていろんな捉え方があるようだが、元は『論語』に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節があり、こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったという。(Wikipedia 参照)
●三猿
ところが、実は三猿はストーリーとして8面にわたって掘られているとのこと。日光東照宮の神厩舎の前に説明書きがあるそうだ。母親が小猿の将来を見ている1面からスタートし、ラストは、成長した猿が母親になる、そしてまた一面にもどる。
写真の、3匹の猿が耳、口、目をふさいでいる、有名な「見ざる聞かざる言わざる」は2面。好奇心旺盛な小猿たちが、教わった通り、悪いものにはふれず良いことを受け入れて素直に育ってゆこうという幼少期のものだ。(「見ざる聞かざる言わざるでおなじみの三猿から学ぶ、知っておきたい人生の教え」参照)
また、アメリカ合衆国では教会の日曜学校などで三猿を用い「猥褻なものを見ない」「性的な噂を聞かない」「嘘や卑猥なことを言わない」よう諭すことがあるそうだ。
「知らない、記憶にない、お答えできない」という答弁ばかり聞くにつけ、人として矜持のない、こんな連中がこの国を仕切っているのだという現実に、絶望感に襲われるばかりだ。
一方、「見ざる、聞かざる、言わざる」は、「見えない、聞こえない、言えない」という身体障害者のことも想像してしまう。
前作・日本の誇り「辻井伸行」の関連もあり、障害者のことについて記事にしていきたい。
●障害か、障碍か、はたまた障がいか
自分のPCで「しょうがい」を漢字変換をすると、真っ先に「障碍」が現れ、次に「障害」、最後に「障がい」となる。
何故そうなるのか知らなかった。今も公用語は「障害」である。内閣府の資料では そのいきさつが書いてある。
障害の概念を広げたことも関係しているようだ。今では身体障害者の一部を、差別用語である「かたわ」(片輪)と呼んでいた。
人々が「かたわもの」とひそひそと語る世の中も嫌だが、言葉だけが「言葉狩り」で減り、きれいな言葉だらけになったのに、その割に陰湿さが増したような気がして、それもイヤだ。
近年、運動会で「障害物競走」という名称を使用しない学校があるそうだ。なんでも「障害者」を連想するからだそうで、「サバイバルレース」とか「山あり谷あり競走」などといった呼び方に変更しているという。
■障害と障碍の違いについて
以前は「障害」とともに、「障碍(障礙)」という漢字も使っていたが、戦後の国語改革で「碍(礙)」が当用漢字に含まれなかったので、「害」の一本になった。「碍」は「礙」の異体字であり、同じものと考えて差し支えない。
問題なのは、「碍」と「害」では漢字のもつ意味が違っていたこと。発音は同じだが、「碍」は妨げるという意味であり、それ自体にマイナスのイメージは無いことだ。
ちなみに、「碍」を使った単語には「碍子(がいし)」(写真)がある。電線に付いている白い磁器製の絶縁体のことで、電気の流れを妨げるものだ。
碍子を製造している「日本碍子」という会社があるが、「碍」という字があまり使われないので、通称は「日本ガイシ」としている。
■障害と障がいの違いについて
害を「がい」と書くのは、「害」というネガティブな印象を失くすために使うようだ。
しかし、日本人が言葉にこだわりすぎるのも問題ありと思っている。言葉よりも「人に寄り添う」などを本当に実行することが先だ。どこかの偉い人が言った、言行不一致に対する皮肉である。
障害を個性と見るには賛成だ。障害者には健常者には足りない感性という魅力を持っている人が多いことも事実だ。
●障害者の現状
障害者についてのデータがある。厚生労働省の資料だが、障害者雇用や統計資料など多くの統計のインチキを目の前にしているので、政府の統計は今や地に落ち、信用おけないが、次のようになる。
まずは「障害者の数」から。なお、身体障害者(児) 及び知的障害者(児)数は平成28年(在宅)、平成27年(施設)の調査等、精神障害者数は平成26年の調査による推計。なお、身体障害者(児)には高齢者施設に入所している身体障害者は含まれていない。
○ 障害者の総数は936.6万人であり、人口の約7.4%に相当。 ○ そのうち身体障害者は436.0万人、知的障害者は108.2万人、精神障害者は392.4万人。 ○ 障害者数全体は増加傾向にあり、また、在宅・通所の障害者は増加傾向となっている。
身体障害者の詳細の資料。表の通り肢体不自由者が45.0%、視覚障碍者(7.3%)と聴覚・言語障害者(8.0%)はほぼ同数だ。
●ヘレン・ケラー
1882年(1歳半)、高熱(現在では猩紅熱と考えられている)に伴う髄膜炎に罹患する。医師と家族の懸命な治療により一命は取り留めたものの、聴力と視力を失い、話すことさえできなくなった。そのため両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。
ヘレン・ケラーは彼女のおかげで、目、耳、声の三重の身体障害を克服した。
アニーは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンはあきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。その後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。
ヘレンは、視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。
1937年(56歳)、岩橋武夫の要請を受け来日し、3ヶ月半に渡り日本各地を訪問した。
ヘレンは中村を、「彼女は私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と賞賛した。
なお、中村久子については、2014/11/15に拙ブログで紹介したことがある。
彼女は、1937年(昭和12年)に続き、1948年(昭和23年)、1955年(昭和30年)と3回にわたって来日した。第1回目は「奇跡の聖女」、第2回目は「幸福の青い鳥」、第3回目は「古き良き友」として、日本に降り立った。
続く。