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日本人はタンゴがお好き?【その1】

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 今回は、「花よりダンゴならぬ、「花よりタンゴ💃」のお話…でもないか。

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 タンゴ特集が続いているが、生明俊雄「タンゴと日本人」(写真)によれば、ある時期から海外より、「日本人はタンゴが好きな国民である」と決めつけられたようだ。

 特にタンゴ発祥の地アルゼンチンでは「日本人は我々アルゼンチン人に次いで2番目にタンゴが好き」とか、「日本はタンゴの第2の故郷」とまで言われているという。

 その時期とは「戦後」のことだが、それにはもちろんワケがある。

 理由の一つは、戦後、タンゴの著名な演奏家が続々と来日し、彼らが熱狂的なタンゴファンの多さを目のあたりにしたことだ。
まずはコンチネンタル・タンゴ。

 リカルド・サントスマランドアルフレッド・ハウゼ。いずれも日本公演は盛況で、リカルド・サントスやアルフレッド・ハウゼは来日記念に日本向けのレコードを何枚も発売し、これもヒットした。この中ではアルフレッド・ハウゼが一番公演が多く、彼が亡くなった後は代替わりして今年の6月にも全国でコンサートが行われるそうだ。(アルフレッド・ハウゼ・タンゴオーケストラ(ALFRED HAUSE TANGO ORCHESTRA) のチケット情報) 

リカルド・サントスの来日

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 3人の内ではリカルド・サントス(後のウエルナー・ミュラー)(1998年、77歳で没、写真の来日が一番早く、1958年

 1960年代に作成されたLP、「ホリデー・イン・ジャパン」は何度も聴いてよく覚えている。唱歌・童謡や民謡がアレンジによってこんなに曲調が変わるものかと驚いたものだ。


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 当時流行ったアメリカの女性歌手・アーサー・キット(2008年、81歳で没、写真)が歌う「証城寺の狸ばやし」を彷彿とさせ、まだヨーロッパでは日本と中国の違いもわからない時期。当時の欧米の日本観が良く分かる、エキゾチックな演奏になっている。

アーサー・キット/SHO-JO-JI(1955)


 2001年には「ホリデー・イン・ジャパン・デラックス」(画像)というCDとしてよみがえった。

*次の動画「おてもやん」は、このCDには含まれていません。

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 1.お江戸日本橋
 2. 花
 3. 春が来た
 4. 浜辺の歌
 5. 夕やけ小やけ
 6. 元禄花見踊
 7. 吾妻八景
 8. 荒城の月
 9. 五ツ木の子守唄
 10. 故郷
 11. 宵待草
 12. 七つの子
 13. 赤とんぼ
 14. 越後獅子
 15. 新内流し

 16. さくらさくら

リカルド・サントス楽団/お江戸日本橋 おてもやん


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 1958年11月に行われた初の日本公演には、当時の皇太子殿下・明仁親王(今の天皇)もお出かけになった。リカルド・サントスは非常に感激し、その後発表された正田美智子さん(当時)婚約のニュースを知ると、すぐに作曲家ロタール・オリアスに依頼し、録音されたのが「皇太子のタンゴ」(Tango of Prince、画像)。

 レコードはベスト・セラーになり、1959年の全国高校野球大会入場行進曲にも選ばれた。

マランドの来日

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 マランド(1979年、71歳で没、写真の初来日は東京オリンピックが開催された1964年。

 1979年に死去した後は娘婿エバート・オーヴァヴェイクが継承し、結成50周年の1989年には10回目の日本公演が行なわれた。

 2014年には、2003年に楽団を継承した孫のダニー・マランドが日本で公演を行っている。

アルフレッド・ハウゼの来日

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 アルフレッド・ハウゼ(2005年、83歳で没、写真の初来日は1965年

 来日ツアーは代替わりして、20回も続いているようだ。リ​ッ​チ​・​フ​ェ​ラ​ー​、​ペ​ー​タ​ー​・​コ​モ​ロ​フ​ス​キ​ー​に続き、今は​ジ​ャ​ッ​ク​・​パ​ウ​エ​ル​だという。

 アルフレッド・ハウゼについては今でも2枚組のLPレコードを持っている。題して「アルフレッド・ハウゼ日本曲集 パーフェクト・コレクション」(画像)

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Ⅰ.
1.君恋し 2.銀座の恋の物語 3.東京ブルース 4. アカシアの雨がやむとき 5. 女の意地 6. 愛のフィナーレ 7. 希望
Ⅱ.
1.今日でお別れ 2.知りたくないの 3. ウナ・セラ・ディ東京 4.ブルー・シャトー 5. 並木の雨 6.恋心 7.雨に咲く花
Ⅲ.
1.君といつまでも 2.赤坂の夜は更けて 3.京都の恋 4. 空よ 5. X+Y=Love 6.手紙 7. 経験
Ⅳ.
1.愛のきずな 2.小指の思い出 3.君こそわが命 4. つれてって 5. 逢いたくて逢いたくて 6.夜明けの歌 7. 南国土佐を後にして

 その中から。

アルフレッド・ハウゼ楽団/君といつまでも 君恋し


 こんなジョイントコンサートも。

島田歌穂&アルフレッド・ハウゼ楽団/小さな喫茶店


続いてアルゼンチン・タンゴ。 

 昭和の初期、日本のタンゴはダンスホールから始まり、タンゴ・バンドがダンスの伴奏音楽の必要性から生まれたその後はラジオ放送レコードの出現で、タンゴは踊りだけでなく、聴いて楽しもうとする人が増え始め、タンゴ・バンドのコンサートが各地のホールで行われるようになった。

 戦後、洋楽の本場の海外アーティストの来日が始まったが、タンゴはジャズに比べて5年以上遅れた。そのため、昭和30年をピークとする日本のタンゴブームを支えたのは日本のバンドや歌手たちだった。

 ようやく1960年(昭和35年)以降、海外からタンゴ・バンドの来日が続くようになると、皮肉なことに日本の聴衆は海外バンドの演奏に関心が移っていき、日本人バンドから少しづつ遠ざかるようになった。
ファン・カナロの来日

 アルゼンチンのタンゴ・バンドの初来日は、1954年(昭和29年)のファン・カナロ楽団だった。

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 ファン・カナロ(1977年、84歳で没、写真)は、バンドネオン奏者で、若いころは有名な実兄のフランシスコ・カナロ楽団で活躍していたが、1930年(38歳)でファン・カナロ楽団を創設する。 

 1935年のブラジル公演をこなす。1940年から1942年にかけて、アメリカ大陸演奏ツアーをこなす。

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 1954年には、アルゼンチンのタンゴ楽団としては初めて、日本公演をやりとげたとき彼は62歳になっていたが、東京・日本劇場を皮切りに、西日本を中心に計21都市でコンサートを行い、日本人にそのレベルの高さに衝撃を与えた。

 日本公演のためのオリジナル曲として「カナロ・エン・ハポン」(スペイン語:Canaro en Japon、「日本のカナロ」 の意味、写真を作曲する 。

ファン・カナロ/ラ・クンパルシータ


フランシスコ・カナロの来日

 ファン・カナロ楽団の来日から7年間の空白を経て、1961年(昭和36年)、遂に「タンゴの王様」フランシスコ・カナロ楽団の来日が実現した。

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 フランシスコ・カナロ(1964年、76歳で没、写真)は、
ウルグアイ・サン・ホセ・デ・マジョ出身で主として隣国のアルゼンチンで活躍した。 ギター・マンドリン・ヴァイオリン・ハモンドオルガン等の楽器をすべて独学でマスターした。

 タンゴ黄金期を支えたオデオン五大楽団*の中心にいた人間である。

オデオン五大楽団とは、フランシスコ・カナロの他、フランシスコ・ロムート(1950年、57歳で没)、オスバルト・フレセド(1984年、87歳で没)、ミゲル・カロー(1972年、64歳で没)、ロベルト・フィルポ(1969年、85歳で没)の各楽団を指す。

 日本コンサートは同年12月初旬から始まり、東京・新宿コマ劇場での6回公演を始め、大阪・名古屋・福岡・仙台など全国9都市で1ヶ月の間に計15回行われ、超満員の大盛況となった。

 来日中にさらに盛り上がった人気に応え、年の瀬も迫った12月28日には予定外のさよなら公演が行われ、初日と同じ新宿コマ劇場に満員の観客を集めた。

 このことは当時アルゼンチンの新聞やラジオでも大きく報道されて、多くのアルゼンチン人の知るところとなった。

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 東芝レコードは、カナロ楽団のレコードを各公演地のレコード店の店頭やコンサート会場の売り場にうず高く積んで客の来店に備えた。

 中でも力を入れたのはカナロの日本公演メンバーによって新たに録音された、楽団としての初のステレオ盤「カナロ・エン・ハポン」(写真)だった。これは累計5万枚という売上げ記録を残した。

フランシスコ・カナロ/Invierno(冬)

 フランシスコ・カナロ楽団の来日公演の成功を契機に、アルゼンチンからトップクラスのアーティストや、その楽団の招聘が毎年のように続くようになった。

 主なものを挙げると1964年のキンテート・レアル、65年のキンテート・ア・ロ・ピリンチョ、66年のフロリンド・サッソーネ、67年のアルマンド・ポンティエル楽団及びエドムンド・リベーロキンテート・グローリア、そして68年のファン・ダリエンソ楽団、69年のファン・カンバレリ四重奏団、と続いた。
 続く。

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