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日本人はタンゴがお好き?【その2】

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 本論に入る前に、ちょっとした雑談を。

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 昨日(2/9)、作家の伊集院静(69歳、写真左)が登場したテレビ番組
「世界一受けたい授業」で、彼は老いに対抗して、「60歳になって仕事量を3倍に増やした」「老いとは経験のこと。幾つになっても新しいことに挑戦すべき」という話があり、芸術座公演「放浪記」で、あの1961年から2009年まで、48年間んぐり返しを続けた森光子(2012年、92歳で没、写真右)が85歳(2005年)でタンゴに初挑戦した例を挙げていた。

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 調べてみると、2005年に森光子
、同年発売の伊集院静原作「ツキコの月」(角川書店、写真左)の舞台『ツキコの月 そして、タンゴ』に出演。東山紀之との共演が話題となった。

 また、この舞台の主題歌として10月5日、10年ぶりにリリースした新曲『月夜のタンゴ』(作詞:竹内まりや、作曲・編曲:山下達郎写真右)が10月17日付のオリコンチャートで45位初登場となった。歌手デビュー64年で初のチャートインは史上最長期間記録。85歳5カ月での初登場トップ50入りも最年長記録で、ダブル快挙だったという。

 この曲を歌うと共に、タンゴも踊ろうとチャレンジをしたのだろう。凄いパワーだ。

 余談だが、竹内まりやも「NHKラジオ深夜便」深夜便の歌で、「最後のタンゴ」(2008年)というタンゴの曲を歌っている。

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 タンゴを踊ることで認知症が改善するという「タンゴセラピー」(写真)は、タンゴの本場アルゼンチンの病院で最初に取り入れられた。

 タンゴの複雑なステップを習得することで認知症やパーキンソン病の症状が改善するという結果が出ていることから、現在は多くの国で広まっているという。

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 映画『「わたし」の人生(みち) 我が命のタンゴ』(2012年、画像)は、父親が認知症に良いとされるタンゴを始めることで、介護問題でバラバラになった家族が絆を取り戻していく物語。
秋吉久美子橋爪功が主演。監督は精神科医でもあり、デビュー作「受験のシンデレラ」(2007)がモナコ国際映画祭の作品賞を受賞した和田秀樹

 主婦として子育てを終え、長年の夢だった大学教授への道を歩みはじめようとしていた百合子(秋吉久美子)だったが、その矢先に父の修次郎(橋爪功)が認知症を患っていることがわかる。不安や介護に追われて家族はバラバラになっていくが、同じ状況の家族が集う認知症家族の会でアルゼンチンタンゴを習い始めた修次郎に変化が訪れ、そんな父の姿を見た百合子も再び夢に向かう決心をする。


 閑話休題。前作では、海外から「日本人がタンゴが好きな国民」と思われた理由の一つとして、戦後、タンゴの著名な演奏家が続々と来日し、彼らが熱狂的なタンゴファンの多さを目のあたりにしたことについて述べたが、今回はもう一つの理由。

「タンゴの女王」藤沢嵐子のアルゼンチン人気

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 1950年代のタンゴ・ブームの時に『タンゴの女王』と呼ばれた藤沢嵐子(2013年、88歳で没、写真左)が、1953年(昭和28年)に夫君のバンドネオン奏者・早川真平(1984年、70歳で没、写真中央)とピアニスト・刀根研二(写真右)とともに、タンゴの本場のアルゼンチンの首都・
ブエノスアイレスを訪れたときのエピソードである。

 この訪問は、レコードでしか聴くことのなかった本場のタンゴの演奏を自分たちの耳で確かめようという、いわば研修が目的だった。

 そのため早川は当時専属だったラジオ東京から、専属料金3年分=360万円を前借して渡航費用に充てた。航空料金が一人83万円で、360万円で立派な家が建った時代だ。

 現地では演奏したり歌ったりはしないと誓って出た旅だったが、1度だけの約束で出演した現地のライブハウスで嵐子の歌った歌が大評判になった。

 遠い東洋の国から来た歌手の完璧に近いスペイン語とタンゴの情感に満ちた歌唱が、タンゴの本場の人々の心を捉えた瞬間だった。

 今回は勉強会が目的と一旦は断ったが、現地の演奏家と接することは嵐子のためにもよい経験になると考え直して1ヶ月間出演することになった。

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この旅行の際に、フアン・ペロン大統領(1974年、78歳)夫人のエバ・ペロン(エビータ)の追悼コンサートに出演したり、ラジオ番組で演奏するなどし、アルゼンチンで絶大な人気を得た。この時の録音が『藤沢嵐子アワー』(ラジオ東京)で放送されると、日本でも人気が高まった。

 多くのブエノス・アイレス市民から強い要望により出演が決まったのは、アルゼンチン国の3大放送局の一つの「ラジオ・スプレンディド」で、同年10月中の毎週木・日曜日の午后8時30分という当地のゴールデン・タイムで、嵐子らのデビュー当日は、この放送を聴こうと、ラジオ・スプレンディッドのスタジオに押しかけた大勢のファンを整理するために、交通警察官までが動員されたほか、スタジオに入りきらない聴衆に対しては、放送局付近の道路に特設のスピーカーが設置される騒ぎとなった。

 そしてこの日、嵐子は、デビューの最初の曲として、「アデュオス・パンパ・ミア(さらば草原よ)」を選曲し、続いてアルゼンチン人にとっては、日本の「ふる里」にも匹敵する懐かしい曲「ママ・ジョ・キエロ・ウン・ノヴィオ(母さん恋人がほしいの)」「ミロンガ・トリステ」等数曲を唄い、これらを聴いた聴衆を、いやがうえにも郷愁の心境に誘ざない絶賛の拍手を受け、そして最後は、嵐子の十八番「ジーラ・ジーラ(行きつ戻りつ:街の女)」で締めたのだった。  

 写真は、アルゼンチンを去る前日の11月17日大統領官邸で行われた「送別の宴」でのペロン大統領と写る藤沢嵐子刀根研二

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 なお、エバ・ペロン(エビータ)(1952年、33歳で没、写真)の生涯は、ミュージカル『エビータ』で描かれた。ティム・ライスの作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバー脚色・作曲による作品で、エレイン・ペイジ主演でロンドンのウェスト・エンドで初演(1978年)、2900回上演のロングランとなった。またパティ・ルポーン主演でブロードウェイ公演(1979年)が行われ、こちらも1567回上演のロングランを記録、ほか10ヶ国で上演された。

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 ジュリー・コーヴィントン
の(現在71歳、写真)の「アルゼンチンよ、泣かないで」 (Don't Cry for Me Argentina、1976年) の歌もヒットした。

 この曲は第2幕の始めにエビータが大統領官邸カサ・ロサダのバルコニーから群集に話しかける場面で歌われ、後悔と挑戦という壮大で感動的なテーマと結びついた圧倒するメロディーである。上記ミュージカルを基に、マドンナアントニオ・バンデラス主演、アラン・パーカー監督の映画『エビータ』(1996年)もつくられ、マドンナが主題歌『アルゼンチンよ泣かないで』を歌った。

スザンヌ・エレンス&アンドレ・リュウ/アルゼンチンよ泣かないで

 早川真平、藤沢嵐子夫妻は、その後も通算4回に渡ってアルゼンチンを訪れた。

 彼らはタンゴという音楽を通じて日本とアルゼンチンの友好を深めることに大きく寄与したといえる。

 嵐子は、後日「タンゴと私」で、アルゼンチンを訪問したときの気持ちについて、「私はアルゼンチンで唄うなどとは夢にも思ってなかった。本場のタンゴを聴けるだけで満足だった」 さらに 、現地で思いがけず大歓迎を受けたのは、「私が心からタンゴを愛しているということが、現地の人々に理解されたからだろう」と、そして、現地の人々は「嵐子は、ポルテェニョ(ブエノス・アイレスっ子)の心を持っていると言ってくれました」と語ったという。

藤沢嵐子/ジーラ・ジーラ


藤沢嵐子/カミニート         

 生明俊雄著「タンゴと日本人」、「レコード喫茶「盤だらけ」よもやま話し」、Wikipedia参照


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