●タンゴのヨーロッパ上陸
19世紀末、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれたタンゴは、20世紀初頭フランス・パリに渡って洗練されるや、パリからドイツ、イタリア、イギリス、デンマークなどヨーロッパ中に広まった。
それには、1929年に起こった世界恐慌でアルゼンチンは大不況となり、パリに脱出していくミュージシャンが増えたという経済情勢もあった。
しかし、まもなくヨーロッパではオリジナルとはかなりイメージの異なった新しいタンゴが生まれることになった。
アルゼンチン・タンゴ特有の激しいリズムは影を潜め、軽いリズムにヨーロッパらしい優美なメロディが乗ったタンゴである。
この時期にヨーロッパで生まれ、今も演奏されるタンゴには、フランスでは「夢のタンゴ」「小雨降る径」、ドイツでは「碧空」「夜のタンゴ」「モンテカルロの一夜」「奥様お手をどうぞ」など。イタリアでは「バラのタンゴ」、デンマークでは「ジェラシー」、オランダでは「オレ・グァッパ」などがある。
タンゴはアメリカにも渡り、1927年にトーキーになってからのハリウッド映画には、主題曲やBGMにしばしばタンゴが使われるようになった。「ブルータンゴ」「ヘルナンドス・ハイダウェイ」「月下の蘭」など、世界的に知られるタンゴのスタンダード曲も、この頃にアメリカの映画やレコードから生まれた。
アルフレッド・ハウゼ楽団/夢のタンゴ
バラのタンゴ
カティツァ・イリーニ/ジェラシー
カイロオペラオーケストラ/ブルータンゴ
●そしてタンゴは日本に渡来した
ヨーロッパで成熟しつつあったタンゴは、二つのルートで日本に渡ってきた。一つはアメリカを経由して。もう一つはパリから直接に。
そこにはヨーロッパ遊学で6年のパリ生活に別れを告げ、1926年(昭和元年)に帰国した、勝海舟の孫で、パリで出会ったタンゴを日本に紹介した男爵・目賀田綱美(1969年、73歳で没、写真)がいた。
彼は、パリの社交界で「バロン目賀田」と呼ばれるほどの人気者だったが、父の病気の悪化の知らせを聞いて、これを機会に日本に腰を据えることを決心する。後に「日本のタンゴの生みの親」と言われるほど、日本のタンゴの普及に人生をかけることになる。
早川雪舟は彼についてこう述べていたという。
「この青年は社交ダンス研究のため巴里に来ていたのだった…これが目賀田君だ。国際的巴里優粋のダンスを日本に紹介するんだと彼は大いに力んでいた」
彼はまずダンスを踊ることに興味を持っている友人・知人や、伝え聞いて訪れる人たちに自邸でパリ仕込みのダンスを教え始めた。
そして、精力的にレコードを収集するとともに、帰国後の翌年の1927年(昭和2年)に誕生した日本ビクターにレコード輸入を促した。同社は翌年にはアルゼンチン・タンゴのレコードを6種ほど輸入して販売。その数年後には日本のタンゴバンドが演奏するレコードや、淡谷のり子、松島詩子、ディック・ミネなどの歌手によるレコードも販売されるようになった。
続く。