次の動画のように、テレサ・テンから「あなたの故郷は何処ですか?」と聞かれて、答えに窮する人は多いだろう。(*ブログの途中から文章が中心に寄っていますが、修正できないのでお許しください)
テレサ・テン/あなたのふるさとはどこですか(1977年)
●自分のこと
お墓は呉市にあるが、家は借家だったので戻る必要はなかった。それでも、疎開から17年後に呉市に戻ってきた。
広島県の海の見えない内陸地の疎開先で生れ、3歳まで住んでいたが、記憶は全く残っていない。
父が教師をしていたので転勤のため、その後3回引っ越し、定年退職後中学1年生の2学期(当時12歳)に呉市に移り、大学卒業まで約9年間いた。(呉市内でも3回引っ越しした)
大学卒業の22歳までずっと広島県内に住んでいたので、「故郷は?」と聞かれると、「広島県」か、無名の田舎を説明するのが面倒なので「呉市」と答えることにしている。
文部省唱歌「故郷(ふるさと)」の歌詞にあるように、正にここは「兎追ひしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷」だった。
唱歌「故郷(ふるさと)」
●故郷は?と聞かれて困りそうな有名人たち
全豪オープンテニスに優勝した大坂なおみは、今最も旬な日本女性だ。遂に女子シングルス世界一となった。
Wikipediaには、彼女を「大阪市中央区出身」と書いてあるが、本人に「故郷は?」と聞いて大阪と答えるだろうか。
確かに、彼女は大阪府大阪市で生まれた。一家は当時、同中央区南東部の空堀商店街近くに住んで、父親は市内で大手語学学校の英語講師をしていたが、2001年(当時5歳)アメリカへ移住。父方の祖父母がいる、ニューヨーク州ロングアイランドのエルモントに住んだ。
父親はハイチ共和国ジャクメル(地図)出身で、アメリカのニューヨーク市立大学シティカレッジで学んだ後、13年間日本に在住した、 ハイチ系アメリカ人。母親は北海道根室市出身の日本人で、二人は札幌で出会った。札幌市の住居が、なおみの日本の住民票の住所である。苗字の「大坂」は母方から来ている。母方の祖父は歯舞群島の勇留島出身で、根室漁業協同組合組合長をしている。
幼いころ大阪から米国に移住した大坂(注:ダジャレではない)は、日本の記憶はおぼろげだ。米フロリダ在住で言葉も英語の方が流ちょう。
2018年現在、法的には日米二重国籍であるが、 日本テニス協会に所属している。なぜ大坂一家は、なおみをいまだに日本登録なのだろうか。
大坂は米国テニス協会のジュニア大会に多く出場しているが、目立った成績は残していない。米国では完全に埋もれた存在だった。大坂一家は米国協会に支援を申し込んだが、大して取り合ってもらえなかったという。しかし大坂が16年全豪で予選を勝ち上がり本戦で3回戦に進むと、米国協会は強烈なアプローチを仕掛けてきた。
日米争奪戦の勃発だった。米国は女子代表監督が自ら乗り出し、多額の支援を約束したと伝えられる。だが大坂の父フランソワさんは、無名の時から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重したという。だからこそ、いまでも大坂は日本で登録し続けるのだ。
そもそも日本人って一体何なんだろう。日本人の定義ははっきりしているのだろうか。あるいは、深く考える必要はなく、ご都合主義でいいのだろうか。
東京オリンピックで大坂なおみはアメリカから出場するという仰天情報もある。確かに父がアメリカ国籍、本人も二重国籍で、住んでいるところはアメリカとなると、その可能性は否定できない。
●稀勢の里(現在32歳、写真)
初場所で引退した悲運の横綱・稀勢の里の出身地争いと言うのがあった。(「稀勢の里の出身地は牛久?それとも竜ヶ崎?出身高校や中学を調査」参照)
稀勢の里が生まれたのは兵庫県・芦屋市で、2歳のとき龍ヶ崎に転入し、中学時代まで龍ヶ崎市で生まれ育つ。牛久市は、稀勢の里が中学生だったころで、居住年数は、龍ヶ崎市が一番長い。
ちなみに、出身地に関しては法的な定義は一切ないが、国土交通省による出身地の定義では「15歳くらいまで長く住んでいた場所」であり、「人格形成に強く影響を与えた地」ということのようだ。この定義に従えば、稀勢の里の出身地は龍ヶ崎市ということになる。
果たして、稀勢の里に故郷を一つ選べと言ったら何と答えるだろうか。
●吉田拓郎(現在72歳、写真)
吉田拓郎は広島県出身の自分にとっては、広島県が生んだ英雄だと思っている。ところが、出身は鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)と表記されている場合もある。
鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)で生まれ、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現:鹿児島市)に転居し、谷山小学校に2年生(8歳)まで在学(歌手の西郷輝彦と同期生)。その後は広島県広島市南区西霞町で育つ。
1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居。同年4月、広島市立皆実小学校へ転校。翠町中学校を経て、1962年に皆実高校に入学。1965年に広島商科大学(現・広島修道大学)に入学した。
生まれは鹿児島県・伊佐市、育ちが広島市ということだね。
吉田拓郎/いつも見ていたヒロシマ(1980年)
吉田拓郎/唇をかみしめて(1988年)
知り合いで、広島県廿日市市出身の人に「高橋真梨子の出身地ですね」といったら、「えっ!彼女は福岡が出身地ではないですか」と言われたことがあった。
生れは広島県・廿日市市。父・森岡月夫は広島鉄道局、母・橋千鶴子は広島市内の銀行に、それぞれ勤務時の1945年8月6日、米軍の原子爆弾投下により被爆。母はダンサーでもあり、広島のダンスホールで両親は出会い結婚し1949年、真梨子が生まれた。
戦後、国鉄を辞めてプロのジャズクラリネット奏者を目指した父は、朝鮮戦争下で米軍基地が多くジャズが盛んであった福岡に移り、まもなく当時1歳だった真梨子も母に連れられて博多に転居した。
しかし父に脱疽の症状が出て病状が悪化し、働くことが出来なくなった父に代わり、母は中洲でホステスとして働き家計を支えた。母の収入は高額な痛み止めなど、父親の治療費に消えた。夫婦ゲンカが絶えなくなり、5歳の時に両親は別居、真梨子は母と博多に残る。
真梨子が小学校3年10歳の時に父母の離婚成立で、母親の「橋」姓となる。父は広島に戻り、広島市内のクラブでジャズプレイヤーとして働いたが、入市被爆が原因で長らく後遺症に苦しんだのち39歳の若さで亡くなった。母はバーをやりながら娘を育てた。
音楽を目指した父の影響を受け芸能界に憧れ、自らもジャズボーカルの勉強を始める。16歳になるとプロ歌手を目指して九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)より駒沢学園女子高等学校へ転入のため上京。渡辺プロのもとで本格的なレッスンを受けた後、1966年に「スクールメイツ」の一員として芸能界デビュー。しかし自身の求めているアーティスト路線でなかったこともあり、高校を卒業すると渡辺プロを脱退し、博多に戻りディスコやクラブでの活動を始めた。
翌1973年には「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」などがロングヒット。翌1974年の『第25回NHK紅白歌合戦』に「ジョニィへの伝言」で初出場を果たした。
1978年に 「ペドロ&カプリシャス」から独立して、一緒に脱退したそのメンバーの一人ヘンリー広瀬と1993年に結婚。「バラードの女王」と呼ばれ、今も人気歌手を続けている。
彼女は拓郎とは反対に、生まれが廿日市市、育ちが福岡市と言ったら正しいのだろう。
高橋真梨子/for you…(1982年)
●故郷のない人
故郷(ふるさと)について、小さいころから東京に住んでいる人に対して、「故郷がない」といわれて怒っている話が載っていた。「東京だって故郷なんだぞ!」
故郷=出身地とすると、上述の国土交通省による出身地の定義では「15歳くらいまで長く住んでいた場所」とあったが、それに「今住んでいるところから離れているところ」を付け加える必要があると思う。
従って、小さいころからずっと同じ地に住んでいる人には「故郷(ふるさと)」はないのだ。但し、例えば小さい頃東京に住んでいたが今は地方で生活している人は「東京」が立派な「故郷」である。
故郷=出身地とすると、上述の国土交通省による出身地の定義では「15歳くらいまで長く住んでいた場所」とあったが、それに「今住んでいるところから離れているところ」を付け加える必要があると思う。
従って、小さいころからずっと同じ地に住んでいる人には「故郷(ふるさと)」はないのだ。但し、例えば小さい頃東京に住んでいたが今は地方で生活している人は「東京」が立派な「故郷」である。
こんな歌がある。
本田路津子/秋でもないのに(1970年)
【歌詞】秋でもないのに ひと恋しくて さびしくて 黙っていると 誰か私に 手紙を書いて 書いているような ふるさともない 私だけど どこかに帰れる そんな気もして
最後は故郷の曲。
野路由紀子/私が生まれて育ったところ(1971年)
(Wikipedia 参照)