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音楽教師だった歌手

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 前作で、音楽大学(音楽学校)出身の歌手を4回連載した。

 【その2】では、東京芸術大学(旧:東京音楽学校)出身の藤山一郎二葉あき子岸洋子森麻季国立音楽大学出身の菅原洋一佐藤しのぶ【その3】では、武蔵野音楽大学(旧:武蔵野音楽学校)出身の渡辺はま子近江俊郎岡本敦郎若山彰川田正子東京音楽大学(旧:東洋音楽学校)出身の霧島昇春日八郎【その4】ではその続きで織井茂子菅原都々子洗足学園大学出身の渡辺真知子米良良一平原綾香

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 合計18人(写真)を紹介したが、もちろん全ての歌手を網羅しているわけでもないし、続編を重ねようと思っていたが、腹八分目というか、そろそろ潮時とし、別のテーマに移りたい。

 このメンバーの中で、気が付いたのは、音楽教師から歌手に変身した人がいたことだ。

 渡辺はま子と、二葉あき子である。

渡辺はま子

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 渡辺はま子(写真左)は、横浜市出身。1933年(昭和8年)武蔵野音楽学校(後の武蔵野音楽大学)卒業。

 卒業後は、当時横浜・元町にあった横浜高等女学校写真右:後の横浜学園高等学校)で2年間、音楽教師をしていた。

 当時彼女は女学生のあこがれの存在だったようだ。この写真は何時のときのものか分からないが、その気持ちはよく分かる。

 なお、横浜高等女学校は横浜市・元町にあったが、戦災で焼失し、戦後、磯子区岡村に移転し、男女共学の横浜学園高等学校に生まれ変わっている。

 1933年(昭和8年)にポリドールの歌手テストを受け、「最上川小唄」を吹き込むがポリドールでは結局この1曲のみで終わった。

 同年の12月、ビクターに移籍し、音楽教師と歌手という「二足の草鞋をはく」ことになる。

 1934年(昭和9年)のJ.Oスタヂオ映画「百万人の合唱」に出演するために勤務先の横浜高女を休んだ(
校長の許可を得ていた)ことが問題になり、保護者らが学校に抗議。これが新聞沙汰となる。1935年(昭和10年)の秋には教職を辞し、渡辺はビクターの流行歌手に専念することとなる。

 1937年(昭和12年)にビクターの内紛などでコロンビアに移籍。戦後は再び古巣のビクターに戻った。

 1951年(昭和26年)の第1回NHK紅白歌合戦では、紅組トリを務め、紅白には9回出場した。

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渡辺はま子/蘇州夜曲(1940年)

二葉あき子

 二葉あき子は広島市出身。地元の「二葉の里」と「安芸の国」の文字をとって芸名にした。

 レコードデビューは、東京音楽学校(後の東京芸術大学在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコードだった。

 1935年(昭和10年)同校卒業後、地元の広島県三次市の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校)で1年間教鞭をとる。

 出身地にちなんだ「安芸」「二葉」を芸名に取り、コロムビア専属の歌手として1936年にデビュー。

 1945年(昭和20年)8月6日、広島市に原爆が投下された時、広島から帰郷のため芸備線に乗っていた列車がトンネルに入り直撃を免れた。

 この体験から「『フランチェスカの鐘』(1948年)などの曲は、戦争で死んだ人たちへの鎮魂歌として歌っている」と語っていたという。

 NHK紅白歌合戦にも1951年の第1回から1959年の第10回まで10回連続出場した。第6回では代表曲の一つである「バラのルムバ」紅組トリを務めるなど、渡辺はま子・淡谷のり子・松島詩子・笠置シヅ子と並ぶ創世記の紅白を代表する女性スターでもあった。 

 1955年前後に高音が出なくなり意気を喪失して帰郷、実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わった。その後、作曲家の服部良一に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰し、自ら低音発声法を作った。

二葉あき子/さよならルンバ(1948年)

 
その他で音楽教師から歌手になった人を2人。

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松島詩子1996年、91歳で没、写真

 往年の大歌手、松島詩子は、山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市の一部)出身。1923年(大正12年)、山口県玖珂郡立柳井高等女学校(現在の山口県立柳井高等学校)卒業。

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 卒業後は小学校教師を経て、1930年(昭和5年、当時25歳)から2年間、忠海高等女学校(現:広島県立忠海高等学校)代用教員を務めた。

 余談になるが、学校のある広島県竹原市忠海地区は自分が子どもの頃住んでいたところ。高校(写真)は町の外れにあったが、兄や姉が通っていた。
 
 この高等学校は有名人を輩出している。
 
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 拙ブログで紹介したこともある、「エデンの海」の作家、若林慧は、忠海高等女学校の講師だった。(写真は高校の近くにある記念碑)

 
イメージ 9 著名な画家の平山郁夫2009年、79歳で没、写真)も忠海高校出身。
 
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 そして、2014-15年のNHK朝の連続テレビ「マッサン」のモデルである「日本のウィスキー王」、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝1979年、85歳で没、写真)も実家は竹原市だが、同高校の出身だ。

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 そして、ときの総理大臣・池田勇人1965年、65歳で没、写真)も同校の出身。
 
 マッサンこと竹鶴氏と池田氏は終生友として付き合った仲なのだそうだ。

 話を元に戻そう。

 1932年(昭和7年)、歌手になりたいとの思いが強く、忠海高女を退職し上京。作曲家佐々木すぐるの勧めで日本コロムビアより柳井はるみという名前でデビュー。その後、いくつかの芸名を経て1935年(昭和10年)、キングレコードに移籍。松島詩子の芸名となる。命名者は山田耕筰。「夕べ仄かに」が初ヒットした。

 彼女も1951年、第1回NHK紅白歌合戦に出場。以後計10回出場した。

松島詩子/喫茶店の片隅で(1955年)

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原田悠里(現在64歳、写真

 原田悠里は、熊本県本渡市(現:天草市)出身。鹿児島大学教育学部卒業。卒業後2年間、横浜市旭区の横浜市立市沢小学校にて音楽の教師をしていた。 

 教員採用試験を鹿児島、熊本、横浜で受け、横浜で採用された。横浜で受けた理由として、東京に近く、歌手へのチャンスがあるかもしれないと思っていたからだ。

 1980年、当時25歳の時に転機がやってきた。

 知人と一緒に新宿コマ劇場であった「北島三郎コンサート」へ行き、初めて北島三郎の歌を聴き「こんなに人を感動させられる歌があるんだ」と衝撃を受けたと同時に、「私の歌に判断をくだしてくれるのは、この人しかいない」ピンときて、美空ひばりやシャンソンを歌ったテープを北島に送った。

 北島から「演歌を歌える人間だね」と言われ、
1982年6月、「俺に咲いた花」でレコードデビュー。1985年発売の「木曽路の女」、1999年発売の「津軽の花」が大ヒットになる。

 プライベートでは、同じ二葉百合子門下生の島津亜矢、坂本冬美、藤あや子、石原詢子「二葉組」を結成していて、彼女らとは定期的に食事会を開き、互いをあだ名で呼び合う仲である。

原田悠里/津軽の花(1999年)



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