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歌姫(ディーヴァ)【その2】各国の歌姫(1)

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 前作は、「世界の歌姫」のテーマだったが、今回は「各国の歌姫」を話題に。
 
 「各国」というより、もっとスケールの大きい「世界の歌姫」の条件は、「歌のジャンルの広さ」と、「外国語の堪能さ」があると思う。

 前作で紹介したサラ・ブライトマンの母国語は英語だが、イタリア語、スペイン語も話せるし、セリーヌ・ディオンは、カナダ・ケベック州出身なので、当然フランス語と英語が喋れる。

 後ほど紹介する、ギリシャの歌姫・ナナ・ムスクーリは、15言語(ギリシア語、フランス語、英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、ポルトガル語、日本語など)の歌を歌っているし、ドイツの歌姫・カテリーナ・ヴァレンテは広範なレパートリーを持ち、6か国語を操り、”歌う通訳”とまで呼ばれていた。共に幅広いジャンルの歌を歌っている。

 この人の歌うジャンルは幅広い。日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、驚くほど幅広いジャンルのレパートリーを持っている。

 そして、外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語と5カ国の言葉に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われている。

 その人とはテレサ・テンのことである。

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「アジアの歌姫」といえば、これはもうテレサ・テン(1995年、42歳で没、写真)で決まりだ。

 日本でリリースされた曲は約260曲ほどだが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越し、作品の累計売上は、控えめに見積もっても、1億枚を超えるという。

イメージ 1 音楽評論家・中村とうよう(2011年、79歳没、写真)は、その著「ポピュラー音楽の世紀」(岩波新書)で、彼女のことをこう言っている。

 「繊細な節回しがかもしだすナイーブな叙情は、聞き手をやさしく歌で包み込む。アメリカの歌手たちの押し付けがましさの対極に位置するこういう歌こそ、アジア歌謡ならではの境地だ」

 当ブログでは何度も彼女の歌を紹介しているが、題名としては次の3回掲載している。

イメージ 2

 一曲だけを選ぶとすれば、テレサ・テンの代表曲で、彼女が生涯一番たくさん歌ったとされる、「何日君再來」(ホーリー・ジュン・ザイライ)になるだろうか。
 
 この曲は、1937年に上海で製作された映画「三星伴月」の挿入歌で、当時の人気歌手周璇が歌い、空前のヒットとなった。また1939年に香港で製作された映画「孤島天堂」の挿入歌にもなり、黎莉莉が歌いヒットした。日本語での曲名は「いつの日君帰る」、英語は「When Will You Return?」である。
 
 ひとりの抗日愛国青年に思いを寄せる酒場の踊り子が、敵である日本軍のスパイから情報を探り出し、青年たちは次々に行動を起こす。何日君再來は踊り子が、去りゆく恋人を想って歌う曲だそうだ。
 
 何日君再來は、その時々の時代の政情に弄ばれてきた。
そのときどきの為政者が、何日君再來に出てくる「君」をそれぞれの都合に合わせて解釈し、迫害してきたのだ。

 1980年に中国で麗君が歌い爆発的なヒットをした後、1982年、同歌は中国共産党政府当局の手により「エロな歌曲で、半封建、半植民地の奇形的産物」である「黄色歌曲」とされ、革命的精神に反し、民衆の精神汚染を防ぐという理由から一時輸入、販売、放送などが禁じられた。その名誉が回復されたのは、1986年だった。 
 
 一方この親しみやすいメロディーは国境を越え、時代やイデオロギーを越えて民衆の間に愛唱されてきた。
 
テレサ・テン/何日君再


「アメリカの歌姫」という
言葉は聞いたことが無い。候補者が多いからだろうか。

 候補者としては、マライヤ・キャリーバーブラ・ストライサンドホイットニー・ヒューストンビヨンセレディ・ガガあたりか。

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イメージ 5
 当ブログでは、
1950年代代表として、パティ・ペイジ(2013年、85歳で没、写真左)と、1960年代代表として、コニー・フランシス(現在79歳、写真右)を「アメリカの歌姫」としたことがある。

「ワルツの女王」と呼ばれるパティ・ペイジは、アメリカオクラホマ州出身。大家族の貧しい家に生まれた。父親は線路工夫として働き、母親と姉妹は綿花摘みをして生計を立てていた。後年彼女がテレビで語ったところによると一家は電気もなく暮らし、日が暮れると本を読むこともできなかったという。

 彼女の最大のヒット曲は、何と言っても1950年にリリースされた「テネシーワルツ」である。この曲は同年に13週間にわたって1位の座にあり、累計売上げ枚数は600万枚に達しビルボード誌のヒット・チャートで1950年代最大のヒットを記録し、1956年にテネシー州4番目の州歌にもなった。

 日本でも江利チエミが1952年、14歳でこの曲でデビュー。27万枚のヒットになった。

パティ・ペイジ/テネシーワルツ(Tennessee waltz)(1950年)
  

コニー・フランシスは、11歳の頃からショーに出演し、同年の1955年に「Freddy」で歌手デビューした。1958年(19歳)にリリースされた「Who's Sorry Now?」が大ヒットしてからは、1960年代前半にかけてヒット曲を連発。

 彼女の曲は世界各国でカバーされており、日本ではカラーに口紅(1959年、森山加代子)、大人になりたい(1961年、伊東ゆかり後藤久美子の競作)、ヴァケーション(1962年、弘田三枝子青山ミチ伊東ゆかり金井克子安村昌子の競作)、夢のデイト(1961年、中尾ミエ伊東ゆかりの競作)可愛いベイビー(1962年、中尾ミエ森山加代子沢リリ子後藤久美子の競作)、渚のデイト(1963年、伊東ゆかりなどが「カバー・ポップス」と呼ばれヒットした。

 中で一番好きな曲が「大人になりたいトゥー・メニー・ルール トゥー・メニー・ルールと歌いまくり、反抗期の時代にぴったりの曲だった。

コニー・フランシス/大人になりたい(Too Many Rules) (1961年)



 続く。

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