前作・歌姫(ディーヴァ)【その2】各国の歌姫(1)の続きを。相変わらず、ブログが不調で、作成の途中で文章が切れるので、続きとしている。

■カテリーナ・ヴァレンテ(Caterina Valente)は、1950年代末から70年代前半にかけて、ドイツを中心にヨーロッパ、そして世界で活躍した歌手。ポップス、ジャズ、シャンソン、カンツォーネ、ボサノバなど広範なレパートリーを持ち、6か国語を操り、”歌う通訳”と呼ばれた。
スペイン系の父とイタリア人の母の間に、パリで生まれ、母親の音楽的素養を受け継ぎ、10代のころからステージに立ち、ドイツのバンドリーダー、クルト・エーデルハーゲンに認められ、専属歌手になったのをきっかけに、世界的名声を得るようになった。
代表作の「情熱の花」は、日本ではザ・ピーナッツが日本語にカバーし、ヒットした曲として有名だが、ベートーヴェンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジしたもので、が1959年にフランス語盤「Tout L'Amour」及びドイツ語盤「Rote Rosen werden bluh'n」としてカバーしたもの。日本ではフランス語盤の方が知られている。
彼女は、こんなクラシックをアレンジした曲も歌っている。
カテリーナ・ヴァレンテ/チャイコフスキー・ピアノ協奏曲(1875年)
クラスノヤルスクはエニセイ川沿いにある100万人のシベリアの中心都市。
ドイツの歌姫ヘレーネ・フィッシャー(2017/10/7)を投稿したことがある。
Helene Fischer Und morgen früh küss ich dich Wach(2006年)
(明日の朝目を覚ましキスをする)

奇しくも、二人とも欧米人としては背が低い。公表されているもので、前者は142cm、後者は153cmである。
ミレーユ・マチューが16才のとき、テレビののど自慢番組に出場し、「愛の讃歌」を歌い優勝した。そのとき背恰好も似ていることもあり「ピアフの再来」と騒がれたという。
■エディット・ピアフ(Édith Piaf)は、フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。
有名な曲としては「ばら色の人生(La vie en rose)」(1946年)、「愛の讃歌(Hymne à l'amour)」 (1949年)、「ミロール(Milord)」 (1959年)、「水に流して(Non, je ne regrette rien)」 (1960年)などがある。
エディット・ピアフ/水に流して(Non, Je ne regrette rien、1960年)
彼女のテレビ・デビューは1965年(19歳)、ポール・モーリア作曲の「愛の信条(Mon credo et Ensemble)」だった。
それ以来フランスを代表する歌姫として、特に60年代と70年代には絶大な人気を博した。ヨーロッパではエリザベス女王に次いで人気のある女性と呼ばれた時期もあったという。
これまでのディスク売り上げ数は1億5千万枚、歌った歌は11カ国語で1200に及んでいる。
以前、拙ブログ「ミレーユ・マチュー」(2012/6/17)で紹介したことがある。彼女の「いかにもフランス語ですよ」というような巻き舌の歌い方がたまらなく好きだ。
ミレーユ・マチュー/パリは燃えているか(Paris en colere)

1959年(20歳)にRAI(イタリア国営放送)の新人コンテスト優勝。1961年から、9年連続でサンレモ音楽祭に出場。その後も4回出場している。
日本への初来日は1964年だった。
ザ・ピーナッツのオリジナル曲「ウナ・セラ・ディ東京」を、初来日した際歌い一気にブームとなった。ミルバの正確な日本語での歌唱も評判となった。
そして、1968年の来日記念に作られたのが、なかにし礼作詞/宮川泰作曲の「愛のフィナーレ」。ドラマを感じさせる、サビの盛り上がりが圧巻の曲である。
ミルバでは、何と言っても次の曲が一番好きだ。
「リコルダ」(RICORDA、邦名:思い出して)は、1963年にデビュー3年目のミルバとベテラン歌手ルチアーノ・タヨーリによってサンレモ音楽祭で歌われ5位入賞した名曲。
ところが実際には音楽祭当日にタヨーリが病気で欠場するというハプニングが起きた。この年の優勝曲はエミリコ・ぺリコーリとトニー・レニスの「UNO PER TUTTE」だったという。
ミルバ/リコルダ(1963年)
続く。