なにしろ、最近観た映画は6月12日(火)の「終わった人」(画像左)、その前は、2016年の12月の「この世界の片隅に」(画像右)というから1年半ぶり。その前は何だったかすら覚えていない。
資料が見つからないので正式な人口は不明だが、多分3千人ぐらいだっただろう。
そんな瀬戸内海を臨む、広島県の、のどかな田舎町(写真)にも、忠海劇場という映画館があった。
●ちゃんばら映画
その時代は東映の「ちゃんばら映画」(剣戟映画)の最盛期。
そして、フィルムは質が悪く、テープが切れて映画が中断するのは日常茶飯事だった。
その頃の時代劇スターはよく覚えている。
高田浩吉(1998年、86歳で没)、大友柳太郎(1985年、73歳で没)も懐かしい。
お姫様女優としては、他にも写真左から、千原しのぶ(2009年、78歳で没)、高千穂ひづる(2016年、83歳で没)、田代百合子(86歳)、長谷川裕見子、(85歳)、花園ひろみ(78歳)。
自分の印象としては、中村錦之助と、美空ひばり(1989年、52歳で没、写真)が一番活躍していて、千原しのぶが一番好きな女優だった。
美空ひばり/笛吹き若武者 主題歌「青葉の笛」(1955年)
1955年(昭和30年)には当時の大手映画会社6社で年間174本の時代劇が製作され、1960年(昭和35年)で合計168本の製作本数を数えたが、わずか2年後の1962年(昭和37年)には77本に半減し、時代劇王国と言われた東映が1964年頃から任侠路線に切り替えて、中村錦之助が東映を退社した1966年(昭和41年)に時代劇を打ち切った翌年には15本となり、時代劇の軸は映画界からテレビに移行、この時期からテレビ時代劇が急増する。そして、1973年以降は年間5本程度を製作する状況となった。
ところが、今やそのテレビも時代劇のレギュラー番組が一つもない時代となった。(Wikipedia 参照)
●外国映画
アドルフ・ヒトラーとナチズムを強烈に風刺したものだが、ふとしたはずみで「床屋のチャーリー」と、独裁者「アデノイド・ヒンケル」(A・ヒットラー)が入れ替わり、繰り広げられる抱腹絶倒のドタバタ劇。
初公開の1940年当時、ナチス・ドイツと友好関係にあった日本では公開されず、日本初公開はサンフランシスコ講和条約締結から8年後の1960年であった。
とすると、自分が観たのは、11歳か12歳の頃、小学生5年か6年生のときだ。そのとき聴いた、ブラームス作曲のハンガリア舞曲第5番は、多分最初に好きになったクラシックだ。
チャップリン扮する、「床屋のチャーリー」が、リズムに合わせ見事に客の髭をそる。これで、すっかりこの曲にハマった。
●呉シネマ
ちゃんばら映画を観たのも、三原までチャップリンの映画を観たのも、小学3年生から、中学1年生1学期までの4年間住んでいた、今は竹原市忠海地区というところだ。
引越しして、中学1年生2学期から過ごした呉市は、忠海から見ると大都会だった。
消えた映画館の記憶によると、呉市には映画館が9館もあったそうだ。第一劇場、第二劇場、呉第三劇場、広末広館、二河館、天地館、金星座、リッツ劇場、そして呉シネマ。
申し訳ないけど、広末広館、二河館、天地館、金星座は全く記憶にない。
よく観たのは「西部劇」と「イタリア映画」。
■西部劇
「もはや戦後ではない」と言われながら、まだ太平洋戦争の傷跡が癒えない頃、アメリカの西部劇映画は、我々団塊世代の少年時代、大きな娯楽の一つだった。当時、インディアンや黒人を悪者にしたてあげた勧善懲悪の作品について、「侵略者の論理」などと想像したこともなかった。
『当時の少年たち(団塊の世代)は西部劇のヒーローから多くを学んだ。たとえば、独善的で言葉少なく一人勝手にどんどん物事を進めてしまう気質は、明らかに西部劇のヒーローたちに共通している。
「カウボーイ民主主義」とも「いうべき多数決で押し切るやり方も団塊の世代に共通している。
そこには少数派に耳を傾けようとはしないタカ派の世界観がある。かつて世論に背を向けて、自分たちだけが正しいという理念を押し通した全共闘の世代と共通している。
しかし、一方で女性に対する優しいふるまいや、互いの反目を腕力で解決するという手法も学んだ』
と、団塊世代に対して手厳しい。
フランキー・レーン/OK牧場の決斗 (1957年)
■イタリア映画
いい映画にはいい音楽がある。アメリカ西部劇もそうだったが、イタリア映画にも素晴らしいテーマ音楽が多かった。
●カルロ・ルスティケリ(写真左)
●ニーノ・ロータ(写真中央)
●エンニオ・モリコーネ(写真右)
(下図は3人の出身地)
●ニーノ・ロータ(写真中央)
●エンニオ・モリコーネ(写真右)
(下図は3人の出身地)

彼は生涯250本以上の作品を手掛けたが、映画監督ではピエトロ・ジェルミ(1974年、60歳で没、写真)との関わりが強い。
彼の作品は、『鉄道員』(1956年)、『わらの男』(1958年)、『刑事』(1959年)、『イタリア式離婚狂想曲』(1962年)、『誘惑されて棄てられて』(1963年)、『アルフレード アルフレード』(1972年) などがある。なお、「刑事」では監督のピエトロ・ジェルミが作詞し、カルロ・ルスティケリの娘で女優のアリダ・ケッリが主題歌の「死ぬほど愛して」(アモーレ・ミオ)を歌った。
ピエトロ・ジェルミ監督・主演「鉄道員」(1956年)

そして、彼の名声を決定づけたのはフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」。この音楽はロータの代表作となり、「愛のテーマ」は日本でも尾崎紀世彦によってカヴァーされ、多くの人々に親しまれた。(Wikipedia参照)
ゴッドファーザー(God Father)より愛のテーマ(1972年)

夕陽のガンマン(1965年)
愛称はCC。奇しくも苗字氏名の頭文字が同じ、ブリジット・バルドー(BB、84歳、写真中央)、マリリン・モンロー(MM、1962年、36歳で没、写真右)と並ぶセクシー女優として1960年代に人気を誇っていた。
『刑事』、『ブーべの恋人』、『太陽の誘惑』、『鞄を持った女』、『汚れなき抱擁』 、『若者のすべて』 、『山猫』 、『8 1/2』などが代表作。
『刑事』、『ブーべの恋人』、『太陽の誘惑』、『鞄を持った女』、『汚れなき抱擁』 、『若者のすべて』 、『山猫』 、『8 1/2』などが代表作。
刑事(Un Maledetto Imeroglio)/死ぬほど愛して(1960年)
ブーベの恋人(La Ragazza di Bube)(1963年)
それが、世の中の流れには逆らえず、2011年に閉館、跡地は「眼鏡市場」になった。
呉の映画館は「ポポロ」というところだけになった。
浜田省吾は、1952年に広島県竹原市に生まれる。父が公務員で転勤のため、3歳から御調郡向島町岩子島(現尾道市)、佐伯郡廿日市町宮内(現廿日市市)、五日市町(現広島市佐伯区)、広島市元宇品(現南区元宇品)と広島県内で転校を繰り返す。18歳までに20回近く引っ越しをした。
1965年、13歳の時に呉市汐見町に転居、呉市立二河中学に転校、その後県立呉三津田高校を出ている。
1972年、1浪して神奈川大学法学部に入学する。
MONEYの歌詞にある『この町のメインストリート、わずか数百メートル、さびれた映画館と、バーが5、6軒…』。
この町は「呉市」、メインストリートは「本通りか中通り」、さびれた映画館というのは「呉シネマ」だという。
しかし、疑問もある。呉は『この町のメインストリート、わずか数百メートル、さびれた映画館と、バーが5、6軒…』 ほど小さい町ではない。ご本人に確かめたい気がする。
浜田省吾/MONEY(1984年)