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帰省しました

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 1年ぶりに休暇をいただいて、広島県・呉市に帰省をしてきた。

 経費節約のため、行きと帰りは深夜高速バスを利用し、4泊5日(内2日は車中泊)の一人旅だった。

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 広島からは、7月の西日本豪雨で一時通行止めだったが、9月27日に開通した広島呉道路をバスに乗って帰る。

 ビニールシートに覆われていたところもあったが、車窓から被害の跡はあまり見えない。

 なお、JR呉線は14日から、広~安芸川尻間も開通し、残すは三原~安浦間のみとなったそうだ。

高校の同期会

 帰省の主な目的は、高校の同期会への参加である。

 前回は2016年に名古屋市で行われた。今回は地元の広島県・呉市だったことと、「古希同期会」と称し、みんなが70歳となる、記念すべき年の会だったせいか、海外に永住している人も帰省して加わるなど、前回の倍以上の出席者で盛大に行われた。

 自分は、このブログでも紹介した、2011年の千葉県・浦安以来なので、7年ぶりの再会となる。

 みんな団塊世代のど真ん中。受験や就職の過当競争の中で生きてきた。自分の高校時代は暗黒の時代だったが、聞いてみると多くの同級生から同じ答えが返ってきた。

 11組あり、1学年の総数が550人というマンモス学級。クラスは、就職コースと進学コースに分かれ、その進学コースも、理系と文系に分かれる。さらに、同じクラスでも授業にょり分散し、みんなが一緒になるのはホームルームという時間だけ。

 だから、同じクラスでも顔を覚えていない人がいる始末。

 そして、試験ごとに結果が掲示板に貼り出され、競争を煽る。ライバル校がいて、そこに負けまいとと先生は必死。新聞も有名大学の合格者を学校ごとに報道する。

 夏休みは補講というのがあり、ゆっくり休むことは出来ない。学校は、まるで予備校のようだった。

 それでも、あれから50年も経つと、そんなことは忘れ、思い出話に花が咲く。楽しいひとときだった。
故郷での出会い

 これまで、思い残すことがいくつかあった。

 それが、この3日間(10/13~15)の出会いで、それがほとんど無くなり、すっかり肩の荷が下りた。もう、「いつ死んでも悔いが残らない」という心境である。
 
 車中泊以外の2日間は呉市にいる次姉の家に泊まった。

 初日は前述の同期会だったが、次の日は、朝から80歳の兄が暮らしている仁方の老人ホームへ。80歳になる兄は痩せて40㎏しかないという。もう最後の出会いになるかも知れない。

 姉の夫である義兄は今年の4月1日、76歳で亡くなったが葬儀には参列出来なかった。新しく作った義兄の墓地への墓参りと、別のところにある自分の先祖の墓地の墓参り

 夜は、妻の兄(義兄)と会食。自分たちの家族の状況と、今後のことについて話し合う。とても良い結果だった。

 最終日は、同期会の前にも会った唯一の親友と、もう一度ホテルの喫茶店で再会。彼との思い出話に尽きることは無かった。

 そして、広島から深夜高速バスに乗り、本日の朝、相模原の自宅へ戻る。
故郷の思い出話

 ところで、一昨年末に68歳になる一歩手前で退職し、それまではがむしゃらに前だけ向いて生きてきたが、それからは過去を振り返ることが多くなった。

 特に最近、どういう訳か、失敗したことや、人を傷つけた思い出ばかりが蘇ってくる。

 人を傷つけたことで、どうしても悔いが残ることが一つあった。

 それが、偶然前述の「唯一の親友」から、その話が出てきた。また、次姉からも指摘を受けた。

 もう50年、半世紀前の出来事である。

 大学生のとき、卒業のちょっと前のことだった。呉市にある電器店でアルバイトをした。そこで出会ったのが彼女だ。

 今から振り返ってみると、女性の友人はいたかも知れないが、初めて「彼女」といえる存在だったと思う。

 短い付き合いだったが、大学を卒業のころはもう彼女に飽きてきていた。東京にある会社の就職で故郷を離れることは、別れるいいチャンスだった。それで、だんだんそっけない態度をとるようになった。

 しかし、彼女はまだ自分のことが好きだった。新幹線が広島まで開通していないころ、広島駅まで見送りに来てくれた。次姉も一緒だった。

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 泣きながら汽車を追いかけているのが分かった。

 映画「旅情」の男女が入れ替わったような感じだ。姉も不憫に思ったようで、冷淡な自分を叱った。

 その彼女が一度、東京にいる自分に会いに来たことがあった。

 女性と二人で来て、ボーリングをして帰った。今でも持っている「サイモン&ガーファンクル」のLPをプレゼントしてくれた。そのときも自分は冷淡だった。

 それをずっと悔いていた。ー仮にも自分を愛してくれた人、もっと違った接し方もあっただろう。

 それが先日、先に述べた親友は彼女と中学校の同級生で、彼が同期会の世話人をしているとき、一度参加したことがあり、自分のことを聞いてきたと話しを切り出してきたのだ。

 それで、ガチャンと切られることを覚悟しながら、思い切って彼女の家に電話してみた。

 彼女が電話に出た。最初の内は突然の電話に不審がっていたが、段々と話が弾み、1時間以上話をした。

 元気そうでホッとした。生き生きとしているようだ。50年も前のことを彼女はよく覚えていた。当初は何度も自分の夢を見たそうだ。罪作りなことをしたものだ。

 話はまだ終わっていない。

 親友の彼と、相模原への帰り際にまた会ったとき、彼女が同期会で一度だけ参加した25年前、45歳のときの合同写真を持ってきた。

 彼が、「その彼女は誰か?」と聞いてきた。何度写真を見ても顔が見当たらない。間違いだとは思いながら、その中で一番キラキラとした女性を指さした。

 ところが、それが彼女だという。何という変わりようだ。

 念願が叶いホッとした気分が一転、「大魚を逃した」という、悔しい気分に早変わりしたことは言うまでもない。

 最後は、ちょっと自慢話みたいになり失礼しました。今、その写真のコピーは手元にあり、何度も見直して、ため息をついている次第です。ー女は変わる。

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