Quantcast
Channel: ♪♪中高年の中高年による中高年のための音楽♪♪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1001

あの日から7年

$
0
0
 今日は東日本大震災から7年。今日は他のネタの投稿を考えていたが、この日ばかりはちょっと躊躇してしまう。

 ところが、当然新聞やテレビはこの話題で持ちっきりと思いきや、米朝会談とか森友問題とか、大事件が多すぎて、震災追悼記事一色とはならなかったようだ。

イメージ 1
 会社にいたころは、社員からの要望もあり、毎年3月11日の朝礼か、地震が起きた14時46分にみんなを呼んで犠牲者に対する黙とう写真は他からお借りしました)をささげていた。

 今日は悲劇の時間に自宅で黙とうをささげるつもりだ。

イメージ 2
震災当時の様子

 その日は会社にいた。

 宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とし、日本周辺における観測史上最大の、マグニチュード9.0の大地震が発生した。

 震源地から遠く離れた東京右図の通り、震度5程度だったが、それでも過去経験したことがない揺れで、大げさではなく、遂にこの世の終わりがやって来たのかと思ったほどである。
 
 しばらくは船酔いのような状態だったが、すぐに気を取り直して社員の安否を確認する。自宅も大丈夫か心配だ。当然電話はつながらない。すぐに余震が来る。万一の際逃げられるようにドアや窓を開けておくよう指示する。
 
 テレビのニュースを見ると次第に全容が明らかになるが、予想をはるかに上回る地震の規模で、驚きの映像ばかりだ。

イメージ 6
 特に津波は残酷だ。

 自分がその当事者だったら、途方に暮れていることだろう。目の前で家族や知人が海に流されている様を見たことは一生心の傷として残るはずだ。

 被災者のみなさんは、これまで歯を食いしばって生きてこられたことと、頭が下がる思いだ。

 この写真のような辛さをかみしめて踏ん張っている少年の姿を見るたび、涙を誘われるのは自分だけではないだろう。
 

 交通機関が止まっているので、自宅に帰れない社員が続出している。渋滞で時間がかかることはわかっているものの、車に分散して帰らせる。何人かは会社に泊まることになったが、何とか無事送り出すことが出来た。
 
 自分も会社に泊まった。寝具の用意はないので、3月はまだ寒い。電話はもちろん、メールも届かないが、横浜の自宅は22時頃まで停電だったようだ。夜中の2時に着いた妻のメールの発信時間を見ると22時だった。

 次の日は土曜日で会社はお休み。翌朝起きて自宅に帰るため、まずは最寄りのJRの駅まで行ってみることにした。6時前だというのにすでに改札口の前は人だかりだ。
 
 まだ時間があるので、コーヒーでも飲みに行こうと、開いている店を探した。ところがどこも客が並んでいる。そうか、昨日そこで夜を明かした人たちがたくさん残っているんだ。
 
 結局、最初の電車が来たのは8時過ぎ。それもノロノロ運転で、平日の朝のラッシュよりも乗客が多い。普段40分の乗車時間が倍もかかり10時に家に着く。

イメージ 3
 その後も「計画停電」など混乱は続き、生活必需品ガソリンが枯渇して、東京の
ライフラインの脆弱さをまざまざと見せつけられる。
 
 東北地方にある工場の多くは操業停止となり、経済は低迷、円高は16年ぶりに76円台に陥る。(図)

 その時は、日本はこれでもう立ち直れないと思ったものだ。「この震災で人生観が変わった」として退社した女子社員までいた。

 これらのことは、会社に泊まった時に作ったブログの、第744話:大震災その1(3/12)から、第770話:大震災その18(4/9)まで、状況を伝え続けてきた。


その後の状況

 今回の大震災の悲劇は地震津波が同時に襲ってきたことにある。

 さらに、福島原発の大事故。それに伴う住民の避難電力不足の発生。

 大地震→津波という、主に岩手県宮城県の問題と、大地震→津波→原発事故という福島県の問題が事件を複雑化させ、どちらも大問題だけに焦点がぼやけてしまった。 

 それでも、先の死因のうち水死90.4%だというから、津波の影響が圧倒的に大きかった。 

イメージ 5
 警察庁によると、これまでに1万5,895人が死亡し、2,
539人が今でも行方不明になったまま。

 犠牲者が多いのは、宮城県岩手県福島県の3県で、死者、行方不明者を合わせると、全国の99.6%と、その大半を占める。(図) 
イメージ 4
 そして、
岩手、宮城、福島の3県では、今も多くの人が仮設住宅などでの生活を続けている。

 岩手県では7,556人、宮城県では7,190人、福島県では1万2,983人だ。(図) 

福島県が一番深刻

 死者の数は圧倒的に宮城県が多いが、将来に渡って一番深刻なのは福島県だ。

イメージ 8
 福島県では、福島第一原発事故の影響で、今もおよそ5万人が県内外での避難生活を強いられている。(写真)

 東京電力・福島第一原発では、メルトダウンを起こした3つの原子炉建屋のうち、3号機の使用済み燃料プールから今年秋にも燃料棒の取り出しが始まる。

 しかし、原子炉から溶け落ちた燃料の取り出しについては、見通しはたっていない。

 一方、福島県内の除染で出た土を保管する中間貯蔵施設は、去年、一部が稼働したが、用地の買収は予定の半分にとどまり、県内各地には依然として大量の汚染土壌が残されている。

 また、去年10月に、福島沖を震源とする地震で震度5弱の揺れを観測するなど、発生から7年たった今でも、活発な余震活動が続いている。気象庁は、引き続き、東北地方の太平洋沿岸を中心に、強い揺れに注意するよう呼びかけている。

 住居や道路、鉄路などまちの形は整備されつつあるが、人々の暮らしやコミュニティーの立て直しは道半ば。東京電力福島第一原発事故の傷痕はなお深く、廃炉作業は緒に就いたばかりだ。
イメージ 10
自分と福島県の関係

 会社にいたとき、震災の年の2011年暮れから郡山市に拠点を設けた。

 環境モニタリングと言って、放射能除染の前にその濃度を測る仕事を受ける事業を始めたからである。(図)

 管理部門を統括していたので、ときどき訪問していたが、2014年からは毎月1度定期的に巡回し、そこの責任者と主に現場を回った。
 その前に福島県のことについて少しおさらいをしてみよう。

イメージ 7
 北海道、岩手県に次ぐ全国第3位の面積を誇る福島県は、3つのエリアに分けられる。
 
1.県最大の都市、いわき市(33万人)などがある「浜通り」と呼ばれる太平洋岸一帯。
2.県都で県第三の都市、福島市(28万人)、県第二の都市、郡山市(33万人)がある中央部の「中通り」
3.会津若松市(13万人)など山沿いの「山通り」である。
 
 この3つは阿武隈山地奥羽山脈などによって区切られ、人々の気質も違う。
 
 浜通りは気が荒いが開放的、中通りは陽気で社交的、山通りは情に厚く、思い込んだら頑固一徹というところのようだ。(岩中祥史「出身県でわかる人の性格」参照)
 営業の守備範囲は当初中通りだけだったが、大手ゼネコンの下請けとして南相馬市の浜通りから、最後は原発に近い富岡町まで仕事を請け負った。南相馬市には何度も出かけたものだ。
 
 
イメージ 1
 富岡町の巡回については原発事情に詳しい。

 2014年に
開通した国道6号を通ると、ゲートで守られた、ひと気のない家々が目に飛び込んできた。(写真)

 便利になったことは認めるが、本当に開通して良かったのだろうか。厳しい現実を見せつけられながら、心は重く帰路に向かったことを覚えている。

イメージ 9

 郡山市にあったその拠点は、会社の事情で1昨年撤退したが、所長はそこで新しい会社を興し、東京から転勤していた若い男性社員の一部もそこに残り、所長の元に合流した。

 その理由は、福島県とそこに住む人たちが好きだったからである。まだまだ線量が多く、危険な場所もある。それでも、もっとそこで自分の力を試してみたいと思ったからだ。

 若い人も捨てたもんじゃない。便利さやお金だけで動く人間ばかりではないのだ。

 もうすぐ地震が起きた14時46分になる。そろそろ、この記事を終えることにしたい。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 1001

Trending Articles