(黒柳徹子の交友関係についての続報だが、前作はどういうわけかこれ以上画面に表現できないので、続編とした。)
■永六輔
永六輔(2016年、83歳で没、写真)とは「永六輔のガールフレンド」とまで言われた60年来の親友。
永が亡くなるまで『徹子の部屋』に39回出演し、2016年7月12日に永の追悼番組として放送した。永から「黒柳が亡くなった際の葬儀委員長をやる」とよく話していたが、実際は永が先に亡くなり、黒柳が永のお別れの会でメッセージを述べることとなった。そのお別れの会で黒柳は永の顎が外れたエピソードを話し、会場が爆笑となった。
同年の7月12日の「徹子の部屋」は放送内容を急遽変更し、彼の追悼番組を放送した。
以下は黒柳徹子が11日、所属事務所を通じたFAXで送ったコメント。
永六輔さんとは、60年以上のお友達になります。その間、一回もケンカをしたことありません。「午後のおしゃべり」「夢であいましょう」で、はじめて会いました。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」など、八大さん(中村八大)と作った名曲のころ、毎日、渥美清さん、坂本九ちゃん、演出の末盛さん(末盛憲彦)とみんなで集まって、おもしろいことを話し合っては、笑っていました。
永さんが、八大さんと世界中の日本人学校を訪問してるときは、一行ですべてがわかる絵はがきをくださいました。日本の中を旅したのは、自分で見たり聞いたりしたことを、全国まわって、ラジオで伝えたかったからです。テレビより、最後までラジオが好きでした。
6月27日、足掛け40年以上続いた永さんのラジオ番組が終わりました。私も終わりのほうにかけつけて「永さん! ごくろうさまでした!」と叫びました。私が呼び掛けると、目を開けて笑ったりしていたそうです。奥さんの昌子さんが亡くなって14年半、よく1人で頑張りました。旅の名人でも、毎日旅先から何度も昌子さんに電話をしていましたから。1人になって、私と結婚の話も出ましたが、主に、永さんからですが、お互い昌子さんのようにはいかないと、わかっていました。「ゆめ風基金」という障害を持った方たちへのボランティアにも、すごく力を入れていました。お葬式は、実家の浅草のお寺です。
亡くなる3日前と4日前にお見舞いに行きました。話はできなかったけど、私が「永さん!」と言うと、必ず、目を開けて私を見て、声を出して笑いました。
このごろ、お友達が亡くなって、本当に、最後の一撃のような、永さんの死です。
でも、生きてるもののつとめとして、当分、仕事、続けます。永さん、永いこといいお友達でいてくださって、ありがとう。アフリカなんかで「上を向いて歩こう」と聞くと、きっと、空を向いて涙がこぼれないようにすると思う。昌子さんによろしく。
■渥美清
NHK『夢であいましょう』で共演した渥美清(1996年、68歳で没、写真)とも関係が深い。共演当時、熱愛疑惑が持ち上がったことがあるという(本人談)。
渥美は1979年1月3日の『徹子の部屋』にゲスト出演しているがこれが最初で最後となった。
「渥美清 没後20年寅さんの向こうに」(週刊朝日、2016年8月12日号)で、本当の兄妹のようだった黒柳徹子さんの語り下ろしを抜粋している。
初めて共演したのはNHKドラマ「お父さんの季節」(1958~61年)です。渥美さんとお見合い結婚する役でした。浅草から来た人だと聞いて、気をつけなくちゃ、怖いかもしれないと思いました。目が鋭かったのを覚えています。低いうなり声をあげ、遠くのほうからこっちを狙っているみたいな、油断できない「喧嘩犬」みたいな感じでした。
でも向こうは向こうで、いままで自分が付き合ってきた浅草のストリッパーたちと違うので警戒していたのではないでしょうか。台本の読み合わせのときでしたか、私がふざけて冗談を言ったら「なんだ、このアマ」と言うのです。「アマっておっしゃいますと?」と私が聞き返すと「あーあ、やだやだ。この手の女はやだ」と言い返されましたね。
そのころNHKのスタジオは千代田区の内幸町にありました。浅草では、舞台の上は神聖な場所なので自分の靴で歩いちゃいけなかったそうです。だから渥美さんも最初は靴を脱いで裸足でスタジオに入ってきました。きらびやかなテレビの世界に出てきたばかりなので気負いもあったのかもしれません。
あだ名をつけるのがとても上手でした。私は「カラス天狗」。「ニンニク食って、高く飛べよ。カラス天狗」と言うのです。あとで渥美さんから教えてもらったのですが、私も渥美さんに向かってこんなことを言ったそうです。「あなたね、『このアマ』なんて言ったり、人のことをカラス天狗なんて言ったりしないで、本を読まなきゃ駄目よ」と。私はサンテグジュペリの『星の王子さま』を贈りました。「お嬢さん、私に読書の大切さを教えてくれたのはあなたですよ」と渥美さんは後年、おっしゃっていました。
次第に気が合うようになり「お嬢さん」「兄ちゃん」とお互いに呼ぶようになりました。いつも一緒なので「うわさのカップル」と週刊誌に騒がれたときもありました。「お嬢さん、考えてもごらんなさい。僕の顔であなたの声ですよ。子どもが生まれたらタレントにするしかないじゃないですか」って冗談を言っていました。ですが私は当時NHKに所属していたのでちゃんとした写真があったのですが、渥美さんは「夢であいましょう」に出たときに撮影したチンドン屋さんの写真しかなく、チンドン屋さんの格好で雑誌に掲載されたのです。「俺はいつもこんな格好していない」って怒っていましたね。
お正月に一緒に新宿の映画館で寅さん映画を何度も見ました。私がどんな場面で笑うのか知りたがっていたのでしょうね。「馬鹿だねえ」と言ってとても楽しそうでした。「徹子の部屋」に1回出ていただいたことがあります。1979年の放送でした。「お嬢さん、ほかにもっとおもしろい話をする人がいるじゃありませんか。あたしの話なんぞ、だれも聞きたくありませんよ」と言ってその後の出演は辞退されましたが……。
俳句を一緒にやっていたこともあり、ご自宅がある目黒区まで私の車で何度か行きましたが、絶対に自宅の前で降りない。「その角でいい」「ここでいい」と離れたところで降りるのです。あるとき、車の5メートルくらい先に人が立っていました。「変な人が立っているから降りないほうがいいわよ」と私が言うと、渥美さんも「あ、そうだね」って言うんです。車を20分くらい走らせ、また戻ってきたらその人はいなかった。「今なら大丈夫」と渥美さんは降りたのですが、実は奥さんだったのです。そろそろ渥美さんが帰ってくるので待っていたんです。渥美さんも、目の前にいたのが奥さんだということを当然知っていながら何も言わなかった。この話は、渥美さんが亡くなってから渥美さんの奥さんにお聞きしたのです。
仕事と家族を見事に切り分けていた人でした。旅行も誰にも内緒で行くのです。しばらくしてから「タヒチの女の人は頭に花を付けているんだね」とか言ってタヒチに行っていたことを初めて教えてくれるのです。私、悔しいから「秘密主義者」と言っていました。
2カ月近く音信不通のときがありました。「どうして連絡くれなかったの。秘密主義者。女の人を連れて温泉に行ってたんでしょう」と何度も同じことを聞くと渥美さんは目に涙いっぱいためて帽子を脱いで、笑いながら「お嬢さん、本当に馬鹿ですね。温泉になんか行っていません」と言いました。後でわかったのですが、がんの治療で入退院を繰り返していたのです。
なぜあのとき涙を浮かべていたのでしょうか。本当におかしかったのでしょうね。この人は本当にのんきな人だと思ったのかもしれません。逆に、自分ががんであることを隠し通せたことがうれしかったのかもしれません。亡くなる数日前、留守番電話がありました。「お嬢さんはお元気ですね。僕はもう駄目です。お嬢さん、元気でいてください」と。あの人、しょっちゅう死ぬ、死ぬと言っていましたし、若かったときの結核手術で肺が一つ足りなく体が丈夫でないことも知っていましたが、本当に亡くなるとは思いませんでした。
あの小さな目で世の中のことをよく見ていた人でした。ご自身の病気もあり、寅さんをいつまで続けたらいいのか悩んでいたと思います。でも「寅さんをやめる」と自分から言いださなかった。兄ちゃんは寅さんが大好きだった。みんなに笑ってもらうのが大好きだったんです。
ところで、寅さんといえば、渥美逝去でお蔵入りした映画「男はつらいよ」第49作にて甥の満夫(吉岡秀隆)と恋人の泉(後藤久美子)を結婚させる予定であったとし、甥の結婚を見届けた寅次郎は放浪の終焉を宣言する。
そして50作目でテキ屋を引退した寅次郎は幼稚園の用務員として定職を得、その幼稚園の園長がマドンナの黒柳を予定していた。
しかもその50作目で寅次郎は園児と遊んでいる最中に眠るように息を引き取り、街の人々が寅次郎を偲び地蔵を建立してシリーズの完結とする構想だったという。(2006年8月4日付けの北日本新聞に渥美の没後10周年を記念して山田洋次監督が寄稿したコラムに掲載された)
■タモリ
タモリ(現在72歳、写真)との関係も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。
タモリが赤塚不二夫に連れられ、テレビ朝日(NET)の生放送番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日放映)に出演し、インチキ牧師を演じていたところを、番組を見ていた黒柳が「今の人、誰? すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚宛に電話を入れ、是非『徹子の部屋』に出て欲しいと出演依頼を行った(タモリの初出演は1977年8月11日)。これ以来、タモリは『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが2013年までは恒例となっていた。
タモリが『徹子の部屋』にゲストとして出演する際には、テレビでほとんど見られなくなった何らかの「密室芸」の披露をしているが、1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんを洗った水で作ったクリームソーダ」、「チョコレートしゃぶしゃぶ」、「あんこ鍋」など、通常では考えられないゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。
彼ら以外にも実に多くの交友関係がある。どうしてこんなに精力的に人付き合いが出来るのだろうか。