前作は「学校の先生」だったが、会社で働いていたとき「先生」と呼んでいたのは、顧問弁護士、税理士、司法書士、社会保険労務士、研修の講師だった。
「先生」とは辞書によると、
1 学問や技術・芸能を教える人。特に、学校の教師。また、自分が教えを受けている人。師。師匠。「国語の先生」「ピアノの先生」
2 教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう語。呼びかけるときなどに代名詞的に、また人名に付けて敬称としても用いる。「先生がたにお集まりいただく」「先生、お元気ですか」「鈴木先生」
3 親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。
「ははあ―今日は宅(うち)に居るな」〈漱石・彼岸過迄〉
4 自分より先に生まれた人。年長者。
とある。上記の4が原義だという。
ところで、【先生と言われるほどの馬鹿でなし】という言葉がある。
〔先生という敬称が必ずしも敬意を伴うものではないことから〕 先生と言われて気分をよくするほど、馬鹿ではない。また、そう呼ばれていい気になっている者をあざけって言う言葉。
だが、もちろんこれは顧問弁護士など最初に「先生」と呼んだ人を指しているわけではない。
しかし、そろそろ先生という言い方を広げるのは止めて、「教師」だけに限定した方がいいように思う。
特に代議士に対しては、「先生」と呼ばない運動を起こした方がいい。先生と呼ばれ有頂天になっているのではないか。
今の国会の「ごますり」質問や、いつまでも続く「舌禍事件」を見ていると、とても「先生」と呼ぶに値しない政治家のレベルの低さに、ため息が漏れそうだ。
質問時間の配分の変更について、昨年の国会で質問時間が余り「般若心経」を唸っていた自民党議員がいた(画像)のでどうなるのかは想像はしていたが、先日テレビを付けたら自民党山本一太参院議員が質問しているところだった。(画像)
その醜悪さにすぐにテレビのスイッチを切ったのは言うまでもない。こんな国会では何の進歩もない。
思わず、植木等の「ゴマスリ行進曲」(1965年)のセリフが口について出た。本国会は、別名「ゴマスリ国会」、山本一太議員には「日本一のゴマスリ議員」という称号を与えよう。そして、みんなでこんな歌を歌おう。
「♪ サァー 皆んなそろって 楽しく 元気に ゴマをすりましょう! ゴマをすりましょ 陽気にゴマをね(ア・スレスレ) 口から出 まかせ 出放題 手間もかからず 元手もいらず すればこの世に…♪」
世襲候補が全て悪いという訳ではないのだろうが、いまだに日本では、選挙で当選するためには親から受け継いだ後援会「ジバン(地盤)」、親議員の知名度「カンバン(看板)」、そして親の資産「カバン(鞄)」という「三バン」や、昔は「陣笠議員」と呼ばれたものだが、いわゆる「数合わせ」のためのタレント議員が横行し、知性、教養、識見などは二の次になっている。
以前から揶揄されていることだが、代議士が職業化し、政治屋となっている。
もちろん、土日・祝日の勤務はない。少し調べてみたがよくわからない。年間会期は190日。本当に働いたのは多分半分の約3ヶ月の95日ぐらいだろう。ただし、これは推測だ。怒り出す人がいてもおかしくはない。だれか彼らの時給を出して欲しいと思う。
それにしても、こんなにうま味のある商売は滅多にないだろう。
2005年の郵政選挙で当選し、「小泉チルドレンの代表格」だったが、失言というか自由奔放な発言を連発し、世間のヒンシュクを買った。例えば、「早く料亭に行ってみたい」、「真っ先に調べたのは国会議員の給料。2500万円ですよ」、「念願のBMWが買える」等。でも、彼は本音を言っただけだった。
彼曰く
日本には『反知性主義』という奇妙な妖怪が徘徊している。
反知性主義とは、「合理性、客観性、実証性を軽視もしくは無視し、自分の都合がいい断片的事実や根拠のない伝説をつなぎ合せて作った物語を信じるという態度を指す」
「高等教育を受けていても、反知性主義的主張をする人は少なくない。それは、高等教育の基本にある合理性、客観性、実証性とは別のところから反知性主義が生まれるからだ」
反知性主義者は、「状況はよく分からないけれども、ぼく(わたし)の言っていることが絶対に正しい」という幼児性を脱却しない心理にとらわれている。それだから、理性や事実など知性の言葉で反知性主義者を説得しようとしても無駄だ。反知性主義者が知性自体を信じず、憎んでいるからだ。
それでは、いつから反知性主義という妖怪が、日本社会、特に政界を徘徊するようになったのであろうか。私は、2012年12月の民主党から自民党への政権再交代と第二次安倍晋三政権の誕生が転換点だったと考えている。(中略)
反知性主義の影響が拡大すると、主観的に日本人が危機から抜け出そうと真摯に努力すればするほど、より多くの危機を招くことになる。
という。今は正に安倍首相が言うのとは別の意味の「国難」の時代である。
まあ、いずれにしても(会うこともないだろうが)自分は代議士に対して「先生」とは呼ばないつもりだ。
多分、自分の人生で今の国会は最低のレベルに達している。