外国にもあるのかも知れないが、日本の手拍子は別名「合いの手」と呼ばれる、下世話な飲み会の経験ばかり思い出される。
まだカラオケがないころ、飲み会と言えば手拍子をたたきながら歌う「春歌(しゅんか)」という猥歌の記憶しか残っていない。
その中で一番有名な曲は「ヨサホイ節」。「ヨサホイ数え歌」とも呼ばれる。当時、男性は誰でも知っていなければならない歌だった。
元歌はまじめな歌であったが、数え歌形式の替え歌になって普及し、現在では春歌やコミックソングとして扱われる。作者は不詳であるが、1924年(大正13年)に広島の演歌師頭領・秋月四郎が歌い始め、その後全国的に広まったといわれる。
ところがこの元歌の歌詞は現在ほとんど歌われることはない。全国に広まるうち、「一つ出たわいのよさほいのほい~ 二つ~」というような数え歌形式の替え歌になり、若者たちの間でもてはやされてきた。「ヨサホイ節」は日中戦争から太平洋戦争中にかけても、軍隊や芸妓の間でも歌い継がれた。戦後もしたたかに生き延び、学生や若者の酒席の騒ぎ歌として愛唱されてポピュラーな春歌となり「艶笑数え歌」とも名付けられた。
1967年には、大島渚監督『日本春歌考』の中で春歌の代表のひとつとして取り上げられ、それ以来、特に若者たちに注目を浴びることになった。「春歌」という言葉が定着したのはこの映画以降といわれる。(Wikipedia 参照)
宴会の席には女性も参加する。当時は「セクハラ」とか「パワハラ」とかという言葉も無かった。春歌も、裸踊りも「まあ~いやね!」で済まされる古き良き時代!?だった。
この時の伴奏が「手拍子」である、1拍目と3拍目にたたく。これら猥歌は、「4拍子系の3連符で、分解すると12ビート*」だ。歌っている本人は 12ビートなんて分かっちゃいなくても、このリズムは手拍子に乗りやすい。 1拍目と3拍目にたたいて、2拍目と4拍目の隙間は手をこすり合わせるのである。3拍子系の歌は手拍子には合わない。(「私家版楽器辞典」参照)
そして、通常の歌も手拍子をとる曲が流行っていた。例えばこんな曲だ。
春日八郎/お富さん(1954年)
「お富さん」は春日八郎(1991年、67歳で没、写真)の歌で、1954年8月に発売され、その年に大ヒットした歌謡曲である。作詞:山崎正、作曲:渡久地政信。
歌舞伎の『与話情浮名横櫛』(通称:切られ与三郎、画像)からセリフを大量に取り入れている。
ただし作曲した渡久地は歌舞伎のことはあまり知らず、むしろ当時最新の音楽であったブギウギのリズムを基に、沖縄音楽・カチャーシーの要素も織り込みながら曲を書いた。その軽快なヨナ抜き音階のメロディーは大当たりとなり、「粋な黒塀」「見越の松」「他人の花」といった仇っぽい名詞句を、何も知らない子供までもが盛んに歌った。
自分はこの頃5歳だったが、意味も分からずよく歌っていたのを今でも覚えている。ただし、何か艶っぽい話だろうなということは感じていた。「ませていた」のだろうか。
なお、1970年代のディスコブームの折、たまたま来日していたメンフィスのファンクグループ、エボニー・ウェッブに、ディスコ風のアレンジをした「お富さん」を歌ってもらい、1977年11月に「ディスコお富さん」として発売されてリバイバルヒットし、発売2週間で20万枚を売り上げた。この曲は2000年代以降にディスコ歌謡の名盤として再評価されている。(Wikipedia参照)
三波春夫/チャンチキおけさ(1957年)
戦後4年間のシベリア抑留から解放された三波春夫は、浪曲師・南篠文若として活動していたが、演歌大衆歌謡が流行し始めていた新たな時代の流れを読み取り、芸名を「三波春夫」と改め歌謡界へ名乗りを上げたのだった。
「チャンチキおけさ」の歌詞では、故郷を離れて働く出稼ぎ労働者らが、路地裏の屋台で安酒をあおりながら、遠い故郷に思いをはせて、しがない我が身のやるせなさにため息をつく男たちの人生の悲哀が描かれている。
なお、「チャンチキ」とは、皿のような形をした金属製の打楽器(写真)。摺鉦(すりがね)、当たり鉦(がね)、コンチキ、チャンギリなどとも呼称される。阿波踊りでも用いられている。
(「チャンチキおけさ 三波春夫」参照)
「♪知らぬ同士が 小皿叩いて チャンチキおけさ♪」とばかり、宴会では、手拍子ではなく、小皿をたたくのも有りだった。
大塚文雄/会津磐梯山
市丸/真室川音頭
三橋美智也/炭坑節
手拍子が活躍する盆踊りの時期がやってきたね。(拙ブログ・盆踊りの現在参照)(写真は南米・アルゼンチン・ラプラタの盆踊り)