「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされるそうだ。
戦時中の1936年から1941年まで行われた、NHKのラジオ放送の番組「国民歌謡」は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」という目的があった。
しかし、国民歌謡は当初の目的から外れ、敵性語の禁止や、女々しい作品、感傷的な作品の排除され戦意高揚、思想統制の道具となり、戦時中は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれていた。
1941年には名前が「われらのうた」、さらに終戦までは、「国民合唱」となった。
戦後の1945年から1955年までの11年間、主に音楽史を年表にしてみた。
●NHKラジオ歌謡
その反省と、戦後まもなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったこともあり、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が「NHKラジオ歌謡」だった。
それでも、敗戦後アメリカ・GHQの検閲により、忠君愛国的な歌詞は「歌詞に問題がある」と放送禁止の憂き目にあい、正に日本の歌謡曲は戦争に翻弄され続けたのである。
「NHKラジオ歌謡」の中では次のように、戦前の焼き直しの曲がいくつかあった。
◆森の小人
今では代表的な戦後童謡の一つとして知られている「森の小人」だが、作曲家・山本雅之が<蟻の進軍>という詞に1939年、戦時歌謡向けに作曲したもので、曲のメロデイーは殆ど変わっていないが、題名と歌詞はいくつもの変遷を経て出来上がった。
ところが、日本軍が南方戦線において連日連勝を続けている当時の時世がら「蟻の進軍」の題はまずい、という話になり、レコード化が取りやめられた。
その後、玉木登美夫作詞により<土人のお祭り>として内容を変えた。
「♪椰子の木蔭でドンジャラホイ シャンシャン手拍子足拍子 太鼓叩いて笛吹いて 今夜はお祭りパラオ島 土人さんが揃ってにぎやかに アホイホーイよドンジャラホイ♪」と言う歌詞で、1941年、秋田喜美子の歌で発売したが、戦時下あまり売れなかった。
戦後、多くの童謡が戦意高揚の詞があるとしてGHQにより発禁とされる中で、<土人のお祭り>には問題となる言辞はないということで即発売しようとしたところ、「詞の中の<土人>と言う言葉が差別的である」と待ったがかかった。
そこで、「♪森の木陰で ドンジャラホイ シャンシャン手拍子足拍 太鼓叩いて笛吹いて 今夜はお祭り夢の国 小人さんが揃ってにぎやかに アホイホーイよドンジャラホイ♪」と、 歌詞の一番を現在のものにし、曲名も「森の小人」と変え、1947年、佐藤恵子の歌にて発表されると一躍人気を得て、レコードやラジオを通じて広く一般に知られるようになった。
近藤圭子/森の小人(1947年)
◆森の水車
作曲の米山正夫(1985年、73歳で没、写真右)は、この曲が自ら傾倒していたドイツ音楽風の作品で、当時の同盟国ゆえ敵性ではないと主張するものの聞き入れて貰えなかった。
穏田(おんでん)は、かつて東京市渋谷区隠田に存在した村で、水車は渋谷川・穏原橋の上流にあった。
これは、穏田に生まれ育った米山正夫が穏原橋水車を思い浮かべながら作ったものだという 。
森の水車
ところで、作曲家・米山正夫にはもう一つ、「ラジオ歌謡」でヒットした曲がある。
◆山小舎の灯
1947年、親友である近江俊郎の尽力で「NHKラジオ歌謡」で放送された『山小舎の灯』。
これが作曲家として初の大ヒットとなり、「南の薔薇」「森の水車」などが続けて当たり、コロムビア専属作曲家となる。その頃、同じく復員してきた青木光一と再会。その後も、『リンゴ追分』『車屋さん』『津軽のふるさと』『長崎の蝶々さん』など、初期の美空ひばりのヒット曲を数多く手掛けた。
穂高(ほたか)岳は、奥穂高岳・西穂高岳・北穂高岳・涸沢岳・前穂高岳から成る穂高連峰(写真)の総称。
最高峰は奥穂高岳で、3190m。飛騨山脈の南部、長野県と岐阜県との県境にそびえ立っている。
近江俊郎/山小舎の灯(1947年)
「山小舎の灯」と同じ場所に歌碑がある、長野県・八島湿原つながりの名曲がある。
◆あざみの歌
あざみの花(写真)とは、佳人を指す。その佳人への片想いだ。それゆえ「♪心の花よ、汝(な)はあざみ」となる。
1945年に復員してきた当時18歳の横井弘(2015年、88歳で没、写真)が、疎開先の長野県諏訪湖の近くにある下諏訪の八島湿原で、野に咲くアザミの花に、自ら思い抱く理想の女性の姿をだぶらせて綴った。
「あざみの歌」は八洲秀章(やしまひであき、1985年、70歳で没、写真)が作曲したが、彼自身の歌唱で1949年、「NHKラジオ歌謡」で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、1951年、伊藤久男の歌唱でレコード化された。
◆山のけむり
◆山のけむり
「山のけむり」の歌詞は、青年が山に登り、一人の佳人に出会う内容である。「谷の清水を汲みあって、ヤマバトの声を聴いて、一緒に峠を降りてきた」体験をし、その佳人と別れた先で見た景色の素晴らしさを歌っている。
その情感が「♪夢のひとすじ 遠く静かに揺れている」とか「♪君とともに降りた峠のはろけさよ」「♪淡い夕日が 染めた茜のなつかしく」という歌詞に表現されている。
伊藤久男/あざみの歌(1951年)/山のけむり (1952年)
夏を迎える前、今の時期にふさわしい歌。
◆夏の思い出
昭和を代表する作詞家・江間章子(2005年、86歳で没、写真)の作品から「夏の思い出」(1949年)。
「NHKラジオ歌謡」にて1949年に石井好子が歌い放送されるや否や、瞬く間に多くの日本人の心をとらえた。
ミズバショウの花が咲き、自然あふれる「尾瀬」は、福島県・新潟県・群馬県の3県にまたがる地域で、中心となる尾瀬ヶ原(写真)は、日本を代表する高地の湿原。
この歌のおかげで尾瀬は有名になったが、ミズバショウの咲くのは5月末であり、尾瀬の春先にあたる。そのため、せっかく夏に来たのにミズバショウを見ることができなかった、という人は多い。江間はその理由をこう述べている。
「尾瀬においてミズバショウが最も見事な5,6月を私は夏とよぶ、それは歳時記の影響だと思う」歳時記には俳句の季語が掲載されており、ミズバショウは夏の季語である。文学上の季節と実際の季節には、少しずれがある。また二十四節気においても夏にあたる。
夏の思い出(1949年)
ミスターラジオ歌謡・岡本敦郎
◆朝はどこから
「朝はどこから」(1946年、画像)は敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が健康的なホームソングを全国に募集したもので、10,526通の応募の中から一等当選歌となったものが、この曲と児童向きの曲「赤ちゃんのお耳」であった。
作詞:森まさる、作曲:橋本国彦。ラジオ歌謡の第2作(第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」)として、安西愛子指導の東京放送合唱団の歌唱によってラジオで流された。戦後第1回のコロムビアレコードのオーディションでコロムビアに入った岡本敦郎のデビュー曲でもある。
◆白い花の咲く頃
岡本敦郎はこの歌で世に知られた。以後、「高原列車は行く」「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などたくさんの抒情歌をヒットさせている。
「リラの花咲く頃」とともに、寺尾智沙(作詞)・田村しげる(作曲)夫妻コンビの「NHKラジオ歌謡」を代表する曲。
「♪さよならと 言ったら 黙ってうつむいてた」。田舎から都会へ出てきた多くの人が、春がくるたびに思い出す切ない光景だろう。
倍賞千恵子/白い花の咲く頃(原曲は1950年、歌:岡本敦郎)
「ラジオ歌謡」は1946年から1962年まで16年間に渡り、NHKラジオ第1放送 (JOAK)で846曲が放送されたが、1961年から「みんなの歌」が始まり、翌年の1962年に姿を消した。(Wikipedia参照)