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戦後間もないころのこと【その5】当時の職業

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 戦後間もないころは今とは違うか、今ではほとんど見かけることのない職業があった。

 今回は、そんな「仕事」を、曲を交えて紹介したい。

紙芝居

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 紙芝居(写真)は、絵を見せながら演じ手が語って進める芝居的パフォーマンスのことで、主に子供たちを対象にした簡易な芸能である。

 日本占領を始めたGHQは、戦前からの国策・軍国紙芝居を取り締まるため1945年から検閲を行った。

 しかし、当時の日本における"Kamisibai"(紙芝居)の子どもたちに対する影響力に驚くことになった。当時の紙芝居はGHQにとって「予想もしなかった人気メディア」だったのである。

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 戦後の街頭紙芝居は1946年ごろから人気上昇し、GHQ占領時代に最盛期を迎える。

 ところが、その内容が「低劣、俗悪」であり子どもによくないという世論を受けて、自治体が条例や認定制を設け、また業界が自主規制を行ううちに紙芝居はその自由奔放さと輝きを失っていき、その後は1953年に放送開始した街頭テレビ(写真)などにも押されて衰えていった。

 しかし、文化として全く消えてしまった訳ではない。 博物館・資料館での紙芝居、地域サークルによる紙芝居、観光業者、広告業者による紙芝居など、形はいろいろながら往年の街頭紙芝居を維持している人々、再現を試みている人々は今でも存在する。

チンドン屋

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 チンドン屋(写真)は、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らすなどし、平常では珍しい出で立ちで人目を集め、その地域の商品や店舗などの宣伝を行う日本の請負広告業である。披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西屋(とうざいや)と呼ぶ地域もある。

 チンドン屋は戦前から存在したが、戦後の復興の中で勢いを取り戻した。 大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと、 陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。

 特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった。 1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる。 昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や、 映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した。

 しかし、1960年半ば頃からは、テレビの普及などもあり、チンドン屋は「古くさい」ものとなってしまう。 さらに昭和30年代頃からスピーカーを通した宣伝広告が音響上の脅威となり、加えて自動車の交通量が増加し商店街や横丁をも通行するようになったことで、都市においてチンドン屋が活動できる空間は狭まった。昭和40年頃から衰退を見せはじめ、1971年の石油ショック以後急激に数を減らし、数百人程度にまで落ち込んだが、 仕事自体は減っていなかったという証言も多いという。
サンドイッチマン

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 「サンドイッチマン」(sandwich man、写真)とは、広告宣伝手法の一つで、人の胴の前面と背中の両方に宣伝用の看板を取り付け、町中にたたずみ、あるいは歩行する広告手法、およびその看板を取り付けられた人のことをいう。

 非常に高額な費用を掛けなければ出せない繁華街の一等地において合法的に看板を(人件費のみで)出せる、経済的な手段である。

 大戦後間もない頃の昭和26年から27年ごろが全盛期であったと指摘されている。現在では広告手段の多様化などの影響を受け、サンドイッチマンを専業する人は減少している。

 サンドイッチマンをテーマとした曲としては、1953年に『街のサンドイッチマン』(作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正、歌:鶴田浩二)が発売されヒットした。この曲は、戦後の窮乏期に元連合艦隊司令長官高橋三吉大将の子息が、生活苦から1948年より銀座でサンドイッチマンをしていたという実話を基にしている。

鶴田浩二/街のサンドイッチマン(1953年)


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ロバのパン屋

 「ロバのパン屋」の愛称で親しまれるパンの移動販売(写真)

 販売車から流れる「ロバのおじさんチンカラリン♪」の童謡が親しみやすい『パン売りのロバさん』(1955年)は、作詞:矢野亮、作曲:豊田稔、童謡歌手・近藤圭子の歌により、キングレコードから発売された。

 同曲を聞いたビタミンパン社本部は即座に大量のレコードを発注。追加で特注LPを5000枚用意させ、全国のチェーン店に配布して同社の事実上のテーマソングとなった。

 馬車に蓄音機を載せて「パン売りのロバさん」を流しながら売る宣伝と、連鎖店と称した全国チェーンという、
桑原貞吉社長の、時代に先んじた経営方針によって、昭和30年代には、ビタミンパンは全国にチェーン店を150店舗以上も抱えるまでに成長した。

 今は、「ロバのパン」という名称は残るものの、馬車から自動車による販売に切り替えられ、「パン売りのロバさん」のメロディーも使われ続けている。

近藤圭子/パン売りのロバさん(1955年)


薬売り

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「毒消しゃいらんかね」(1953年)は、作詞・作曲:三木鶏郎宮城まり子(現在90歳、写真)が♪わたしゃ雪国 薬売り あの山越えて 村こえて」歌って流行した歌謡曲。

 越後毒消しの里として知られ、今は海岸浸食が酷く廃村状態になっている新潟県角海浜(かくみはま)(現新潟市西蒲区)の「越後の毒消し」の行商の女性をテーマにした歌。コミカルで親しみやすい楽曲で、ロング・ヒットとなった。翌1954年の第5回NHK紅白歌合戦でも宮城まり子が歌った。宮城はこのとき紅白初出場であった

イメージ 5 元々、村の寺院の家伝薬であった「毒消丸」(腹痛薬、写真)は、食中毒・便秘・下痢に効能を持つ生薬で、他国への行商によって販売し、常に一定の需要があった。最盛期には、周辺も含めると製造業者が20軒以上もあり、女性の売り子は3000を数えたという。しかし、高度経済成長期をむかえ、毒消し売りは新薬の進出や社会情勢の変化等で急速に衰微していった。

宮城まり子は、幼くして母親・弟と死別するなど、辛い少女時代を送った。1950年にポリドールから歌手デビューしたが、まもなくビクターに移籍、そこで『毒消しゃいらんかね』『ガード下の靴みがき』など、いくつかのヒットを飛ばした。その後、女優業にも進出、独特の存在感を示した。

 『毒消しゃいらんかね』は、宮城まり子のために書き下ろされた歌だったが、レコード発売前に、NHKのバラエティ番組『日曜娯楽版』楠トシエが歌って評判になったため、彼女の歌として記憶している人も多い。

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 1968年、静岡県浜岡町(現・御前崎市)に肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を開設(のちに掛川市に移転、写真)、以後、肢体不自由児教育に一身を捧げてきたことは、よく知られている。

 作家・吉行淳之介の人生のパートナーとして、彼が先立つまで強い絆で結ばれた生活を送ったことも有名である。

宮城まり子/毒消しゃいらんかね(1953年) 


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 富山の売薬とは、古くから富山県にある医薬品配置販売業の通称。

 「富山の薬売り」という配置販売は富山売薬の営業形態で、消費者の家庭に予め医薬品を預けておき半年ごとに巡回訪問を行って使用した分の代金を受け取り、さらに新しい品物を預けるシステムである。配置員が配置した薬は、一般に「置き薬」(写真)と呼ばれる。

 かつては病気になっても滅多に病院にかかることがなく、多くは家庭内常備薬に頼っていて、自分の家でも「置き薬」があった。今でも、富士薬品広貫堂などが有名である。
靴磨き

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 靴磨き(写真)は、革靴やブーツを磨く作業、またはその職業である。日本では戦後、社会の貧困と戦災孤児が浮浪児化したことから都市部を中心に、「シューシャンボーイ」と呼ばれる靴磨きを生業とする少年らがあふれ、東京シューシャインボーイ」(1951年、歌:暁テル子、作詞:井田誠一、作曲:佐野鋤)や「ガード下の靴みがき(1955年、歌:宮城まり子、作詞:宮川哲夫、作曲:利根一郎) などの歌にもなった。

 アメリカのソウルシンガー・ジェームス・ブラウンや、公民権運動活動家のマルコムX、ブラジル大統領のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ、俳優の黒部進など、著名人の中にも靴磨き経験者がいる。

石川さゆり/東京シューシャインボーイ(原曲は1951年、暁テル子:歌)


川野夏美/ガード下の靴みがき(原曲は1955年、宮城まり子:歌)


卵売り

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 「♪ココココ コケッコ ココココ コケッコ 私はミネソタの卵売り ミネソタの卵売り」と歌うミネソタの卵売り」(1951年)は、暁テル子(1962年、41歳で没、写真)の歌。「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」は代表的ヒット曲になった。

 ダンスで鍛えたプロポーションと底抜けの明るさで、ミュージカルコメディを初めとする劇映画でも活躍。1957年からは、NHKの「ジェスチャー」に出演するなど、テレビでも人気を博した。


花売り娘

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 アメリカ兵が出入りするダンスホールで、「花を召しませ」と花カゴを抱いて  愛嬌をふりまく花売り娘たちは銀座の新風俗となり、1946年、岡晴夫が歌った 「東京の花売娘」(作詞:佐々詩生、作曲:上原げんと画像)と、1951年の「ひばりの花売娘」(作詞:藤原洸、作曲:上原げんと) が大ヒットして街に流れた。


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 戦後、彼のリーゼントスタイルの髪型と明るくビブラートのかかった岡晴夫(1970年、54歳で没、写真)の歌声は、平和の到来や開放感に充ちた時代とマッチし、「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」など相次いで大ヒットをとばす。

 昭和20年代を代表するスター歌手として、近江俊郎田端義夫とともに「戦後三羽烏」と呼ばれた。

岡晴夫/東京の花売り娘(1946年)


美空ひばり/ひばりの花売娘(1951年)


バスガール

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 自分が子供の頃はまだボンネットバス(写真)であり、ワンマンではなく、車掌もいた。

 ボンネットバスは、運転席より前、客室外のフロント部にエンジンを設けた構造で、1950年代頃までは大多数のバスがボンネットを持った形状だったが、1984年には広島県・呉市交通局の路線車が運用から外れたことで、定期運用されるボンネットバスは、日本の路上からは一旦消えることとなった。車掌も1960年代以降合理化の一環で急速にワンマン運転が普及し、廃れて行った。
中村メイコが、田舎のバスは おんぼろ車」と歌った「田舎のバス」(1955年)

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 三木鶏郎
(1994年、80歳で没、写真左)が中村メイコ(現在82歳、写真右)と知り合ったのは、1952年、彼女が三木鶏郎演出・音楽のラジオドラマ『緑の天使』に出演した時だった。ちょうど三木鶏郎グループが解散し、NHK『日曜娯楽版』が廃止となり、『ユーモア劇場』とタイトルを変えた頃のことだ。

 彼は、すぐに彼女が才気煥発、たいへんな才能の持ち主であることを知る。と同時に中村メイコは『ユーモア劇場』に欠かせないメンバーの一人になった。

 「田舎のバス」は、1954年『みんなでやろう冗談音楽』で放送されると、大ヒット。番組中の「ヒットメロディー」の代表曲になった。

 特に台詞
皆様、毎度ご乗車くださいまして、ありがとうございます...」と、普通のバスガイドから一転、「アンレ、マしょうがネー牛だナー...」と東北弁の田舎訛りのガイドに転身する。その変わり目の巧みさが大いにウケた。決まり文句以外は、地名も場所もほとんどがメイコ自身のアドリブだった。

中村メイコ/田舎のバス (1955年)


初代コロンビア・ローズ /東京のバスガール(1957年)

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 日本初のバスガール(写真)は1920年(大正9年)、東京市街自動車の乗合バスに登場している。黒のツーピースに白の襟と、これまたハイカラな格好で、しかも初任給は超破格の35円だった。

 「東京のバスガール」は、1957年、作詞:丘灯至夫、作曲:上原げんと、歌唱は初代コロムビア・ローズ(現在84歳)。

 この
時代には、まだ路線バスには必ず女性の車掌が乗車しており、切符を切ったり、体が不自由になったお年寄りの乗り降りを助けるなど、乗客の世話に当たっていた。バスがワンマン化されるのは1961年頃からである。

 ただし、「バスガール」のモデルは、路線バスの車掌ではなく、はとバスのガイド嬢とされているが、昨日のお客がきょうも乗ってきたり、酔っぱらいが乗ってきたり、都心のターミナル駅から郊外の住宅地に向かう、路線バスを連想させる部分もある。

初代コロンビア・ローズ /東京のバスガール(1957年)


(Wikipedia 参照)

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