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子どものころの思い出

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子どものころの思い出が歳と共にどんどん薄れて来ている。一般的に3歳ぐらいからの記憶はあるらしい。自分もそういう時もあったが、もう過去の話だ。

 それでも、覚えていることは今でも夢に出て来る。多くはもう15年前に亡くなった母の姿だ。男はみんな、母の愛情をいつまでも忘れないものだ。

 ところで、昨日は町田中央図書館に行ってきた。最近家を引っ越ししたので、まだ2回目だが、素晴らしい蔵書の数だ。8も借りた。2週間で全部読めるかしらね。
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 そのうちの一つが、小説家・
立松和平
2010年、62歳で没、写真)の「昔はみんな子供だった」2003年、祥伝社)だ。

 カバーに、「誰でも子供の時というのは黄金時代なのである。その時には何も感じないような平凡な出来事でも、時を経てみると、いつしか黄金に変わっている。ふだん気が付いていなくても、あの時へとと思いを馳せれば、そこいら中、黄金でないものはない」と書かれてある。

 ーそうなんだ。自分はそこまでの感性はないし、「いじめ」に遭って自殺までする子供が後を絶たないというのに「黄金時代」と言い切るのはちょっと過大評価しすぎかなとも思う。
 それにしても彼の記憶力は凄い。この書を書いたとき、立松和平55歳。多臓器不全で亡くなるのは7年後であるが、体調や、将来の不安を感じて子供のころを懐かしんだのかも知れない。自分もそんなときがある。

 こんなことも書いている。

 「背中をすっかり無防備に見せながら、親たちは一生懸命に生きてきた。何より親が元気だったから、子供も元気だったのである。それはすぐ私たちの今日に跳ね返ってきて、あんなに元気だった子供が、どうしてこんなしょぼくれた大人になってしまったのかという問いになる。

 あと何年生きるかは分からないが、残された歳月をせめて元気に生きようではないか。それには子供だった黄金時代を振り返ってみるのもよいのではないかと思い、私は本書を書いたのである。私は子供だった自分自身から元気をもらった。そのことだけは言っておきたい」
 ところでまてよ、「子ども」って一体、何歳までのことを言うんだろう。

 はっきりした定義はないが、JRのこども料金6歳~12歳未満のことを言うので、ここでは生まれてから12歳(小学生)までとしておこう。

 ちなみに、JRでは幼児 1歳~6歳未満 、乳児 1歳未満としているようだ。
 これですっきりした。ここで、自分の子どものころの環境についておさらいをしておこう。

1.家族構成について

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祖父は幼いころ亡くなって記憶にない。祖母は自分が小6のとき、大みそかに亡くなった。祖母に可愛がられ、近くの線路の近くまでおぶられて汽車(写真)が走るのを見に行っていたが、次第に認知症がひどくなった。布団の中で亡くなったのはショックだった。

は小学校の教師。そのため、何度か転居した。55で教師を辞めたが、その後仕事も何度か変わり、大変な思いをしたようだ。はずっと専業主婦だったが、衣類関係の内職はしていた。
 
2人、2人の5人兄弟の末っ子で、甘やかされて(!?)育った。

2.住んだ土地について

①記憶にあるところでは、広島県の少し海から離れた村で、2の途中で転居、転校した。

②転居先は①の近く。海が近く、小高い山が背後に迫る、穏やかで小さな町だった。
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  団塊の世代の最後のころだが、小さいころはまだ戦後の傷跡が残っていた時代だ。

 借家住まいは今に始まっていたわけではないが、祖母も含めて家族8人で、家族も多いため、父だけが収入源では生活は厳しく、絵に描いたような貧乏生活を送っていた。

 末っ子だったせいで、着るものは全て兄貴の「お古」。履くものにも事欠いていたが、確か記憶では、低学年のころ、裸足で学校に通っていた子もいた。

 当然、食事は質素だった。ご飯に塩か味噌汁をかけるだけという日もあった。麦飯はまだ主流だった。おかずはの日が続き、骨が多く、煮魚が主流で、味が単調なのが苦手だった。

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 楽しみなのはご飯の「おこげ」をお茶漬けやおにぎりにして食べること。当然、当時は釜で炊いたご飯だった。

 今のように時間外労働がとてつもなく多い時代ではない。家族がみんな揃って「ちゃぶ台写真)で食事をしていた。

 そして、食用にニワトリを飼っていた。毎日その鳴き声で目が覚め、生んだタマゴを食べる。最後は肉にする。生活のためとはいえ、何となく残酷だった。 

  

 昔だから、多分ほとんどの家に縁側(写真左)があった。

 その先が(トイレ)だ。夜は暗くて遠いので、怖くてたまらなかった。

 お風呂は、五右衛門風呂(写真中)だった。火吹き竹(写真右)を使って火を起こす。

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 はいやな季節だった。

 夏は、ハエなどに悩まされ、「ムカデ」(写真左)、にもよく噛まれた。

 食卓には「ハエ取り紙」(写真中)がぶら下がり、寝るときは「蚊帳」(写真右)が必需品だったものだ。

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 は毎年あかぎれしもやけに悩まされた。これは辛かった。

学ぶ

 勉強机などなく、リンゴ箱」を机の代わりにして使った。今の若い人は「リンゴ箱」という名前すら知らないだろう。
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 学校は、生徒数が少ないので「複式学級」写真)。(2学年が同じ教室で、1学年が授業をするとき1学年は自習をするシステム)ちなみに、きょうだい5人全員が親父の授業を受けている。
 当時、学校の先生は当直をしていた。父のいる学校に行ったことがある。学校は広く、暗くて気味が悪い。「肝試し」をしているようだ。よくこんなことやっていたね。 

 田舎なので幼稚園が近くになく、ストレートで小学校に通ったので、最初は慣れないで苦しかった。また、前が複式学級だったせいか、転校した先では、授業の遅れを取り戻すのに苦労をした。

遊ぶ

 当時、ほとんど車が走らないので、道路は遊園地と化していた。何しろ、村には信号一つ無かったので、転居した先で道の横断の仕方が分からず、困ったことがある。

 とにかく、子どもの遊び場には事欠かなかったことだけは言える。

 山に囲まれ、川が流れる。文部省唱歌で
「故郷(ふるさと)」という名曲があるが、そのイントロ、「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」の風景そのままの村であった


 幼い頃の思い出といえば、家の前を流れる小川でメダカ取りや、フナ、ハヤなどを釣る。

 母と一緒に裏の里山にタキギを取りに行っていた。キジがケーン、ケーンと鳴く中でお弁当を広げて昼食をとる。

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 は、一面のレンゲ畑(写真)で追っかけっこや相撲。

 は、水遊び。川にはホタルがたくさんいた。

 は、ドングリの実を投げ合う、どんぐり戦争

 正月は、年中で一番の楽しみだった。

 お年玉をもらえるというのもあったのだろうが、文部省唱歌「お正月」(映像)の、「凧揚げ」「独楽まわし」「羽つき」(写真上)の他、「面子(めんこ)」「かるた取り」「双六(すごろく)」「福笑い」「お手玉」(写真下)など、多彩な「遊び」があった。


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お祭り

 お祭りは年末年始の風物詩だった。

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 年末は、子供たちが地区の家の前で地面を石でついて回る「いのこさん」(写真左)

 年始は、みんなが飾りを付けた長い竹を持ち村を練り歩いた後、刈り取り跡の残る田などにその竹を組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅を食べる、とんど祭り」(写真右) 
 貧乏生活だからといって、今のように貧富の差がそんなになかった時代。物欲もなかった。

 母が生活に困って、着物を質屋に出すところは何度か目撃したが、村の人から貰い物もあった。何より、教師とか警察とか、公務員が尊敬されていた。先生は聖職と見られていた。

 今より心が豊かで、幸せだったのかも知れない。

 それにしても時代の落差を感じる。物があれば幸せとは限らない。

 現代人の方が可哀そうな気がしてきた。

北原謙二/ふるさとの話をしよう(1965年)


海援隊/思えば遠くへ来たもんだ(1978年)


テレサテン/ふるさとはどこですか(1977年)


加藤登紀子/時には昔の話を(1986年)




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