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近況報告【2017年2月7日】

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 引っ越しが迫ってきた。後3日だ。引っ越し先は同じ神奈川県なので、そんなに不安がる必要もないのだろうが、今の家に16年横浜市というくくりであれば連続25年、過去を含むと26年間自分の人生で故郷以上に長く住んでいた地を去る。

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 横浜市は、外部から見ると中区西区だけだという説は承知している。確かに自分の住んでいる北部は、みんなが思っているエキゾチックなイメージとは違う。

 それでも腐っても!?大好きな街の一部である。そこから去るのはとても寂しい。

 昨日は天気が良かった。そうだ、横浜を離れる前に懐かしい地を少し歩いて見よう。

 幸い、3年前に手術した「心筋梗塞」も問題ない。そして、昨年の3月半ばごろから痛めていた「足底筋膜炎」も、半年間病院でマッサージを受けていたがすっかり治った。

 長く歩いても大丈夫そうだ。健康であることは幸せだ。特に「足底筋膜炎」を患っていたときは徒歩が辛かった。

まずは電車に乗って、12年前に通っていた会社のある東神奈川まで行く。久しぶりだ。

 ふ頭まで歩く。駅から10分位で会社の前に着く。周りは運河になっていて、海につながっているが、いつも何艘か船が係留されている。大きな倉庫があり、トラックの往来が激しいところだ。

 対岸に、横浜の顔のみなとみらいベイブリッジが見える。(写真) いいところで働いていたんだネ。 

 この近辺は東海道五十三次神奈川宿(図)として栄えたところでもある。

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山下公園まで歩いて見よう。ここもよく出かけたところだ。

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 途中、
横浜開港記念会館(写真)がある。ちょっと立ち寄ってみた。ペリー来航以来、横浜にはこんなエキゾティックな場所がいくつもある。

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 すぐに港に着いた。

 ここからも、横浜の顔の赤レンガ倉庫からみなとみらい21がきれいに見える。(写真)

  赤レンガ倉庫と山下公園を結び、象の鼻地区の中央部を通っている「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際客船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤がある。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称『象の鼻』と呼んでいる(図)。横浜の港はここ象の鼻地区から始まった

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 山下公園氷川丸(写真)を通り過ぎ、マリンタワー人形館を右手に見ながらもう3時間位歩いたろうか、それが不思議と疲れない。港の見える丘公園まで歩いてみよう。

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 この間、とても清潔で、しかもトイレが至る所にある。こういったのも日本というか、横浜というか、住んで良かったと実感するところだ。

港の見える丘公園まではそんなに遠くでもない。また、急こう配というわけでもない。

 展望台からの眺めは写真の通りだ。ベイブリッジが見えるが、高台にない分、迫力のある景色は望めない。

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 ここにある「愛の母子像」(写真)

 今から40年前のことだが、以前自分が住んでいたところで起きた大事故だっただけに、よく覚えている。

 1977年9月27日13時過ぎ、厚木海軍飛行場(厚木基地)を離陸し、太平洋上の航空母艦・ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海兵隊の戦術偵察機が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュートで神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地したのち、海上自衛隊厚木救難飛行隊のヘリコプターに収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、周辺の家屋20戸を炎上・全半壊させた。

 墜落地周辺では火災により一般市民9名が負傷、周辺の人々により次々に車で病院に搬送されるも、うち三歳と一歳の男児2名の兄弟は、全身火傷により、翌日の未明までに相次いで死亡した。また兄弟の母親である女性も全身にやけどを負い、皮膚移植手術を繰り返しながら長期間にわたり入退院を繰り返したのち、一時はリハビリを行なえるまでに肉体的には回復するものの、精神的なダメージは計り知れず、事故から4年4ヶ月後の1982年1月26日に、心因性の呼吸困難により死亡した。(Wikipedia 参照)

 ここでも米軍基地が身近にあるのをまざまざと見せつけられたものだった。

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 確かに高台にあるが、息も絶え絶えで登るほどのところではないし、公園の中は一面の花畑で、そんなに広くもないが、のんびりと散策できる。

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 港の見える丘公園は、終戦直後の1948年にヒットした流行歌で、東辰三作詞作曲、平野愛子(1981年、62歳で没)歌唱による、『港が見える丘』にちなんで命名され、1962年5月8日の開園式には同曲が流れる中、横浜市長によるテープカットがなされた。

 展望広場の一角に『港が見える丘』の歌碑(写真)が建っている。

平野愛子/港が見える丘(1948年)


 また、1969年に累計150万枚以上を売り上げ、横浜の代表的なご当地ソングとなっているいしだあゆみの楽曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」は港の見える丘公園から見た、横浜と川崎の工業地帯の夜景をイメージしたものだという。

いしだあゆみ/ブルー・ライト・ヨコハマ(1969年)


 オフコース小田和正)の『秋の気配』の歌詞に出てくる“港が見下ろせるこだかい公園”とは、この公園のこと。B'z『TIME』でも“港が見渡せる丘”として歌われている。(Wikipedia 参照)
 港の見える丘公園に別れを告げて、最後は横浜外人墓地へ。

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 沿道はバスも通っていたが、下り坂でそんなに距離がなさそうなので歩いて下りる。

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 すぐにみなとみらい線・元町駅のターミナルがあった。菊名まで乗り、またJR横浜線に乗り、新横浜で、小旅行の締めのラーメンとビール。

 横濱ハイハイ楼という、半替え玉もある細麺の辛いラーメンが好きだったが、今回は普通のラーメン(写真)を。以前はよく行ったお店だ。
 それにしてもよく歩いた。10時に家を出て、帰り・地元に着いたのが16時頃だったので、4時間は歩いたろうか。

 原稿を書いている今日、足が心配だったが大丈夫のようだ。2~3日後に痛さが現れるという説もあるので油断は出来ないが…。ともかくは、自分の予想外の健脚ぶりに感謝しょう。


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