正面から向かって左側のL1という、1F席に比べ少し高い位置にある、その一番前の席で、特等席のようなところ。(右図)
有名な歌のオンパレードだったが、肝心の曲が出てこない。
やっと最後のアンコール曲だった、「知床旅情」。
会場のみんなが一緒になって歌ったこの曲は、もはや日本の国民歌謡である。
元は 、森繁久彌(2009年、96歳で没、写真)が作詞・作曲を手がけた楽曲で、知床を舞台にしたご当地ソング。
歌の誕生のいきさつはこうだ。
ロケが終わり、明日でお別れという前夜、森繫さんが羅臼村の村長の家を訪ねてきた。
「明日はこの歌を歌ってほしい」と、自身が作詞作曲した「さらば羅臼」を披露した。後の「知床旅情」である。宿に戻るとスタッフに、この歌を一晩で覚えるように厳命した、という。
翌朝、旅館には歌詞が書かれた紙が張り出された。森繁さんは村民、スタッフら約400人の合唱を指導しながら、朗々と「さらば羅臼」を歌い上げた。60年7月17日のことだ。
その年の秋、「知床旅情」に改題された曲の譜面と、映画のパンフレットが村に届いた。「羅臼だけではなく斜里などでもロケをしたので、森繁さんが気遣いされて、歌の題名を羅臼から知床に変えたのだろう」と言われる。(朝日新聞、サザエさんを追いかけてより)
映画「地の涯に生きるもの」は、1960年、久松静児監督。羅臼町、斜里町、網走市で撮影が行われた。主人公の村田彦市は知床で生まれ、国後島に渡り漁業で成功するが敗戦で全財産を失う。長男は流氷から転落、次男は戦争で、妻は厳冬期に病で死亡。三男も漁船の遭難で亡くなる。三男の恋人と悲しい対面をし、失意の彦市は猫と知床の番屋で留守番さんを務める。
戸川幸夫の原作小説「オホーツク老人」に感動した森繁さんが森繁プロダクションを設立し、制作した。
森繁久弥/知床旅情(1960年)
一方、加藤登紀子がこの曲を初めて聴いたのは1968
年だった。
学生運動の活動家で、夫となる藤本敏夫との初デートで、別れの時、藤本が歌ったという。夜空の下で堂々と思いを表現する姿に、歌手3年目の彼女は衝撃を受けた。その後、藤本は拘束され、別離のなかで「ひとり寝の子守唄(うた)」ができ、
「知床旅情」との出会いが、初めて自分のために作った曲につながった。
そのとき、衣装を着たシャンソン歌手ではなく、身の丈にあった自分の歌を歌う「シンガー・ソングライターの加藤登紀子」が生まれたのだ。
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年の秋頃、森繁さん主催のイベントで「ひとり寝―」を歌うと、楽屋にいた森繁さんが「誰が歌っているんだ。ツンドラの風の冷たさを知っている声だ」と言って、舞台の袖で両手を広げて迎えてくれた。
彼女は旧満州(現中国東北部)のハルビン生まれで、森繁さんは旧満州からの引き揚げ者。大陸への思いの共有が、縁を結んだと思ったそうだ。
映画で森繁さんが演じた老人も、旧ソ連の侵攻で国後島を追われた
。知床にも引き揚げ者がたくさんいて、その人たちから今でも「登紀子ちゃん。よく生き延びたね」とかわいがられるという。森繁さんが晩年になっても「ハルビンに行って、二人で馬車に乗って走ろうよ」と話していたことが忘れられない。80年代に中国でコンサートを開き、残留日本人孤児と中国語で「知床旅情」を歌って、一緒に泣いたそうだ。
70年にシングルレコードを出したけど、当初はB面だったこともあり、森繁さんにあいさつしていなかった。新幹線でばったり会い、「実は」と言ってドーナツ盤を渡した。後で「聞いたよ。君は、歌はうまくはない。(でも)心はあるな」って言ってくれた。(知床物語:北海道発:YOMIURI ONLINE参照)
加藤登紀子/知床旅情(1970年)
目梨郡羅臼町にある、海に面した「しおかぜ公園」には、森繁が出演した上記映画「地の涯に生きるもの」の老人の像と、「知床旅情」の歌碑が建立されている。(写真)
また、斜里郡斜里町のウトロ地区のウトロ港の近くにある三角岩の前にも、「知床旅情」の歌碑がある。
<歌詞>
1.知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ 思い出しておくれ 俺たちのことを 飲んで騒いで 丘にのぼれば 遥(はる)かクナシリに 白夜(びゃくや)は明ける
2.旅の情(なさけ)か 酔うほどに さまよい 浜に出てみれば 月は照る波の上(え) 君を今宵こそ 抱きしめんと 岩かげに寄れば ピリカが笑う
3.別れの日は来た ラウスの村にも 君は出て行く 峠を越えて 忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん 私を泣かすな 白いかもめを
歌詞には知床の名所・名物が多く登場する。
知床岬
(写真)
については、2014年7月12日の、朝日新聞土曜版be「訪ねてみたい日本の岬」RANKIGで第2位に選ばれていた。
斜里町の町花が「はまなす」、その斜里町と本楽曲の歌碑がある「ラウス(羅臼)」を結ぶ国道334号にある「峠」から「クナシリ(国後)」を望むことが出来る。
「白夜」について、これまで「はくや」と呼ばれていたのが、「知床旅情」以後全国で「びゃくや」の読みが一般化したとされ、NHKでも「びゃくや」を標準読みにしている。
「ピリカ」(本人はアイヌメノコ=若い女性の意味のつもりで歌っていた)が羅臼地方で「ホッケの幼魚」の意味で使われることを知り、気にかかっていたという。
なお、オホーツクの舟唄は、「知床旅情」の元歌で「森繁久彌」が作詞・作曲している。
歌詞は1番・2番で知床の冬の厳しさを歌い、3番で春の訪れを喜ぶとともに、かすかに見える国後を「我がふるさと」と言い、いつか帰れる日を願う、と言うものである。なお、楽曲のテーマ性から「北方領土返還を訴える根室市の大会」などのような啓発運動で歌われたりもしている。
この『オホーツクの舟唄』は、森繁久彌自身もレコーディングしているが、倍賞千恵子が主に歌っており、倍賞自身のアルバムに収録されている。
(Wikipedia参照)倍賞千恵子/オホーツクの舟唄
「徹子の部屋」の第1回放送(1976年)の中で、このタイトルで歌唱した。
ところで、今日の時事通信のニュースによると、予想通りでさして驚きもしないことだが、ロシアとの北方領土交渉をめぐり、歯舞群島と色丹島の返還合意で平和条約を締結し、残る国後、択捉両島は将来の課題として先送りする「2段階論」が政府内で浮上しているという。
この地図を見たらいい。
日本にとってはメリットの大きい国後、択捉両島の返還は当てにならず、メリットの少ない歯舞群島と色丹島だけの返還でお茶を濁したところで、世界の中で孤立しているロシアに大きな借りを作るとともに、アメリカの同盟関係にヒビが入りかねない危険な交渉を、国民は是とするのだろうか。