小さいころの記憶はしっかりしている。二宮金次郎像は小学校の校庭にひっそりとたたずんでいた。
金次郎は、少年期に父母を亡くす。おじに引き取られた彼は朝から晩まで懸命に働き、寸暇を惜しんで勉強した。
23歳で家の再興を果たした後は小田原藩家老に仕え、藩財政の立て直しなどの功績が認められて幕府にも登用される。生涯多くの農村の救済に尽力し、妨害で復興が行き詰まると、千葉の成田山にこもり、21日間の断食修行で自身を見つめ直したという。
1928(昭和3)年、昭和天皇即位の大礼で日本中が祝賀ムードに包まれるなか、神戸市の実業家が数多くの金次郎像を小学校に寄贈。それをきっかけに全国で寄贈がブームとなり、30年代後半に一気に広まったそうだ。
そんな金次郎を手本にと、かつて日本中の小学校に、二宮金次郎像(写真)が建てられた。
おなじみの薪を背負いながら本を読む姿は、1891年(明治24年)の幸田露伴著「二宮尊徳翁」の挿絵がモデルとされる。
ただ、金次郎像を取り巻く環境は、決して安泰とはいえなかった。金次郎像は偉業と名声ゆえに、時代に翻弄されてきたのだ。
明治時代には「修身」の教科書に勤勉や親孝行の手本として掲載された。
戦時中は金属供出によってその多くが姿を消し、戦争末期には、米軍機によってまかれた降伏を促す宣伝ビラに、金次郎像とおぼしき絵が使われたこともあったという。
そして、戦後は戦前の修身教育に利用されたことから、敬遠される動きもあった。1960年8月22日付大阪版夕刊には「二宮尊徳像に批判/堺市教委/除幕式出席見合わす」という記事が掲載された。
市教委の担当者は「たきぎを背負って本なぞ読めたものではない。こんなことをしたら、ダンプカーにひかれてしまうというような意見が出るのがオチだ」とけんもほろろだ。
今は、ネットで二宮金次郎の銅像論議が盛り上がってる。きっかけは、2012年1月25日に配信された、毎日jpの「二宮金次郎像:勤勉精神いまは昔、各地で撤去相次ぐ」という記事だ。そのなかの「歩いて本を読むのは危険」という意見がひとり歩きした。果たして金次郎像は「歩きスマホ」を助長しているのか。
どうやら、金次郎は独自に自己変革を続けており、「金次郎=歩き読み」の常識は揺らぎつつあるようだ。
平成に入ると、「座る」「読書はしていない」など、新しいタイプの金次郎像が多く登場しているという。
戦前の像は立って読書というスタイルばかりだったが、昭和も終わりごろになると、『薪を傍らに置いて、腰かけて本を読む金次郎』や、『草鞋を差し出す金次郎』など、さまざまな像ができた
ところで、小学校の金次郎像は、どれぐらい残っているのだろう。
ゆかりの地、神奈川県の土地家屋調査士会は6年前、県内約860の公立小学校を調査して「金次郎マップ」をまとめた。座った金次郎、わらじを持った金次郎、老け顔の金次郎など様々な像が、約17%で確認されたという。(下図)
ところで、「唱歌・二宮金次郎」は、1911年(明治44年)の「尋常小学唱歌」の第2学年に収録された。
現在の小学校の音楽の教科書には掲載されてはいないが、「手本は二宮金次郎~」という力強い歌詞中のメッセージが当時の小学生の間で広く影響を残し、尊徳のさまざまな事績の顕彰とともに今日まで受け継がれてきたのだろう。
朝日新聞土曜版be7月9日号の(サザエさんをさがして)二宮金次郎 時代の波にもまれた偉人像 によると、
漫画のオチを読んでも、疑問符が浮かんだままという読者も多いことだろう。
当時の記事を調べたところ、1959年、鮎川金次郎参議院議員(1976年、47歳で没、写真)が、病気を理由に休暇願を参院に提出の続きしたことを受けての作品らしい。自派の運動員らが選挙違反の罪に問われる中でのことだった。
耳目を集めた「政界の金次郎」と混同された二宮金次郎(尊徳)は、片や対照的ともいえる生涯を送っている。
日産コンツェルンの御曹司として生まれた鮎川氏は、30歳の若さで華々しく政界デビュー。だが一転、鮎川派の大がかりな選挙違反事件が明るみに。
わずか半年で父と共に参議院議員を辞した鮎川氏はその後、持病のぜんそく治療のためとして、主治医を伴いハワイへ旅立った。