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今から25年前の1991年(平成3年)はどんな年だったのか

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 広島カープがらみの話をもう一つ。

 今年「広島カープが25年ぶりの優勝を果たした」というが、その25年前の1991年はどんな年だったのだろうか、振り返ってみた。

 自分に置き換えてみると、本当に遠い出来事であるかを実感することが出来る。1991年は42歳。本厄の歳だった。

 当時、16年間もの間、地方の営業マンを続けていた。そろそろ、こんなサラリーマン生活を続けていていいのだろうか、将来はどうなるのだろうか、不安を覚えていたころだ

 厄年とは言いえて妙だ。40歳ぐらいのときが人生としても、60歳定年の社会人としてもちょうど折り返し点に当たる。人生と社会人の前半を終え、その後半戦をどう戦えばいいかを真剣に悩むころだ。

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 1991年(平成3年)の9月、当時42歳だったが、5年間過ごした山口県の徳山営業所から本社の営業スタッフに異動し、同時に課長に昇進してその悩みは一旦解消した。

 そして、それから6年に渡る単身赴任生活がスタートしたのだ。(上図)
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1991年の出来事

 1991年はバブル崩壊が始まったころ。図)

 東京都庁が新宿に移転し、4月1日に新東京都庁舎を開庁したが、皮肉を込めて「バブルの塔」と揶揄された。写真)

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ファッション

 5月15日ウォーターフロントと呼ばれていた、東京都港区芝浦にジュリアナ東京がオープン。

 ワンレン・ボディコンの女性が集まり「お立ち台」ジュリ扇(羽付き扇子)を振り回して踊る光景が一世を風靡したものだ。(写真) 

 このブームは1994年のジュリアナ東京の閉店とともに去った。

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 このころの女子高生はの通り。「コギャル」の初歩段階になる。「茶髪」厚底ブーツ」「ガングロメイク」「ルーズソックス」などの独自の流行を多く生み出したコギャルファッションの最終段階は、もう少し後のことだ。(下図)

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 こんな年だった。
世界の大事件

第一次湾岸戦争

 第一次湾岸戦争が起きたのもこの年だ。これがやがて2003年の第二次湾岸戦争(イラク戦争)を引き起こすことになり、現在のイラクの悲劇につながっている。

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 忘れてはならないのは、
イラククウェートに侵攻した直後にアメリカや世界中で、クウェートから脱出してきた難民の少女がアメリカの下院議会にて「イラク兵はクウェートの病院まで攻めてきて赤ちゃんを保育器から出し殺すところを見ました」と涙ながらに訴える映像や、油まみれになった水鳥の映像が繰り返し放送された。(写真)

 これらの映像がアメリカや世界の世論を大きく動かし湾岸戦争へ突入する一因となったが、これらの映像は後に完全なる「やらせ」であったことが発覚した。イラクがクウェートに侵攻することをアメリカが黙認したことと合わせて、イラクを戦争に引きずり込んでアメリカがクウェートを奪い返すという筋書きがあらかじめ出来上がっていたようだ。

 謀略の積み重ねにより戦争は起きる。
ソ連崩壊

 12月25日には、ソ連(ソビエト連邦)が崩壊した。

 1917年11月7日のロシア革命(十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立したソ連は、第二次世界大戦後にはアメリカに伍する超大国として君臨したが、69年後の1991年12月25日に崩壊した。同日、ソ連に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。かつてのソ連を構成した構成国は、それぞれが独立国として別々の外交政策を採り始めた。

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 1985年3月、ソ連共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフ(現在85歳、写真)は、フルシチョフの失脚以来封印されていたソ連型社会主義の範囲での自由化・民主化に再着手した(ペレストロイカ)。

 それまで秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会にテレビジョンカメラを入れ、会議の模様を全国中継するなど、情報公開(グラスノスチ)も推進した。

 ゴルバチョフによるペレストロイカは外交面でも2つの新機軸を打ち出した。一つが冷戦による緊張を緩和する新思考外交、そしてもう一つが東ヨーロッパの衛星国に対してのソビエト連邦及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。

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 1991年8月19日、守旧派の党官僚によるソ連8月クーデターが起こり、ゴルバチョフも軟禁されるが、クーデターは失敗した。しかし、ゴルバチョフの求心力は決定的に失墜し、代わって反クーデター運動をリードしたロシア共和国大統領ボリス・エリツィン(2007年、76歳で没、写真)が、新生ロシアのリーダーとしてその存在感を大きなものにしつつあった。

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 12月25日の会見で、ゴルバチョフはソ連大統領の辞任を表明し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていたソ連の「鎌と鎚の赤旗」(写真)も降ろされ、これに代わってロシア連邦「白・青・赤の三色旗」が揚げられた。

 なお、1991年4月16日、ソ連のゴルバチョフ大統領がソ連の元首として初来日。今話題の領土問題について、領土問題の存在は認めたが、歯舞・色丹2島返還を約束した1956年の日ソ共同宣言の再確認はしなかったという。

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宮澤内閣誕生

 日本では11月5日、海部内閣に代わり、宮澤内閣が誕生した。

 総理は宮澤喜一(2007年、87歳で没、写真左)、官房長官はこの9月9日に亡くなった加藤紘一(77歳で没、写真右)だった。

 いずれも日本では良識派と呼ばれた「ハト派」。こんな時代もあったんだね。
若貴・外人力士の活躍などで大相撲ブーム

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 1988年3月に初土俵を踏んだ貴花田(のちの貴乃花、現在44歳、写真右)は、弟にわずかに遅れて入幕した兄・若花田(のちの若乃花、45歳、写真左)とともに「若貴フィーバー」と呼ばれ、仇敵・と共に、平成初期の一大相撲ブームの担い手となった。

 貴花田は、西前頭筆頭まで番付を上げた1991年5月場所、今年の7月31日にすい臓がんで亡くなった「ウルフ」と呼ばれ昭和の大横綱だった千代の富士(61歳で没、写真)といきなり初日に戦った。

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 結果貴花田が寄り切りで完勝し、18歳9か月で大相撲史上最年少の金星を獲得。千代の富士は同場所の3日目、奇しくも貴花田の兄弟子・貴闘力にとったりで敗れた相撲を最後に現役引退。結果的に同場所初日の貴花田が千代の富士を下したのを機に引導を渡したことで、次代の第一人者候補としての評価を固めていった。

 千代の富士の引退記者会見では、涙をこらえながら「体力の限界、気力もなくなり引退する」と語った。(Wikipedia参照)
さて、お待たせしましたというか、広島カープについて

 下表が1991年の基本オーダーだ。(カープ歴史倉庫参照)

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 1991年。監督は就任3年目の往年の「ミスター赤ヘル」山本浩二

 この年のカープは投手王国

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 野手では、野村謙二郎(現在49歳、写真)が今の緒方浩市監督の前監督。高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引した。

 しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤の11本)の中、勝負強い西田真二(現在56歳)や山崎隆造(現在58歳)などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳(現在45歳)がレギュラーに定着、江藤智(現在46歳)も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。

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 この年のカープは投手王国絶頂期で、圧倒的投手力により6度目のリーグ制覇を達成した。

 2年目の佐々岡真司(現在49歳、写真)がMVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久(現在57歳)が最多奪三振、北別府学(現在59歳)が最高勝率、大野豊(現在61歳)が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝したといえる。

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 大野豊が抑えに再転向し、
津田恒実(1993年、32歳で没、写真とのダブルストッパーの構想があったが、前年の体調不良が良くならなかった津田が4月14日の巨人戦を最後に戦線離脱。それが反って大野も奮起し、14試合連続セーブを記録するなど期待に応える活躍を見せた。

 シーズン序盤は若手の佐々岡が30イニング連続無失点を記録しチームを引っ張ると、エンジンがかかっていない川口和久も復調しはじめ、5月にチームが9連勝するなど勢いがついた。

 しかしカープの優勝は「炎のストッパー」と呼ばれた津田の影響が大きいと言われる。

 彼の病気は脳腫瘍で、津田の病を知った当時の山崎隆造選手会長は、すぐに全選手を集めその事実を知らせるとともに、「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」と涙ながらに訴えた。広島ナインはこれに奮起し、この年チームは夏場まで独走していた中日ドラゴンズを逆転でかわし、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たしたのだ。

 彼は、1993年7月20日、32歳の短い人生を閉じた。
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 ちなみに、後6試合を残すのみとなったカープの(9月17日現在)成績は次の通り

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 勝率の.637もすごいが、本塁打(+59)、打率(+.021)、防御率(±0)、得点(+150)、失点(-12)と今年は1991年の優勝と違い、打撃陣の活躍が目立ったことが分かる。
最後は、1991年のヒット曲

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