4回に渡って特集した「トルコ」、いよいよこれを以って最終回としたい。
●オスマン帝国の興亡とトルコ共和国の誕生
オスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。
15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(後のイスタンブール)。
その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。
スレイマン1世の頃はオスマン帝国の絶頂期で、法制の整備、イェニチェリの改革や教育政策の充実、学芸の振興などが進んだ。
スレイマン1世の死後、1571年にはレパントの海戦でスペイン艦隊に敗れ、オスマン朝はキリスト教勢力に初めて敗北を喫した。これを以ってオスマン帝国の衰退といわれるが、実際は地中海の制海権を維持していた。
1683年、膨張の極みに達したオスマン帝国の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。(下図)
しかし1683年の第二次ウィーン包囲の失敗後にはスレイマン1世以来の制度の変質が顕在化し、衰退に向かった。
その後、世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した挽回を図り対ロシア攻略を主目的に第一次世界大戦に参戦したが、バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結し、1914年に第一次世界大戦で同盟国側で参戦した。
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。
オスマン帝国と戦うイギリスは、イスラム教の聖地メッカの太守ハーシム家に対し、大戦後のアラブ人国家樹立を保障する。
一方で、戦時財政に心細いイギリスは、ユダヤ金融資本のロスチャイルドにシオニズムを支持してユダヤ人のパレスチナ帰還を認める約束をした。
これが、現在のパレスチナ問題につながっている、イギリスの「二枚舌外交」である。
ところが、ファイサルは、イギリスとの秘密協定でシリア領有を決めていたフランスにダマスカスを追い出され、イギリスの誘いに乗ってイラクの初代国王となる。
パレスチナはヨルダン川の東西に分けられ、東にはハーシム家次男のアブドゥッラー(1951年、69歳で没、写真)により、トランス=ヨルダン王国が築かれ、ユダヤ人の帰還先から外れることになった。
アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia)(1962年)
戦時中の利敵行為を予防する際に、アルメニア人虐殺が発生し、その後、トルコ政府も事件の存在自体は認めているが20万人から150万人とも言われる犠牲者数などをめぐって紛糾し、未解決の外交問題となっている。今も、アルメニアの民族派はトルコ東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。
ムドロス休戦協定により帝国は1918年10月30日に降伏し、敗戦により帝国は事実上解体。国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領され、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下へ、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。
そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった。
翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した。
ところが、この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。結果として、トルコ人の更なる反発を招いた。
それに対して、ケマル・パシャを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。
これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。
1924年、ついに最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出たトルコ民族の国民国家、トルコ共和国に取って代わられた。
●トルコの今
今、トルコは2023年の建国100周年に向かっているが、水面下では、トルコ時代に失ってきたものの検証と清算が起こっている。
それを可能な限り実現されてこそ、これから素晴らしい「トルコ」が叶うはずだ。
過去の証人である世代がいる今こそ逃してはならない大事なとき。
ローマ時代から通算1,600年も神権国家であっただけに、スルタン(皇帝)がいる限り彼を神の影とみなしたことだろう。そのあまりの障害が自ら、しかも人知れず「亡命」により消えてくれたのだ。「人間宣言」により国王は存続は出来たかもしれないが、ケマル・パシャ将軍が陣頭指揮を執る世俗的共和国家のビジョンには合わなかった。
これも、日本の敗戦時の状況と対照的で、示唆に富んでいる。
しかし、トルコの強権的・反動的な体制は続く。
今回のクーデター失敗の余波は長引くだろう。
トルコの閣僚らは、証拠もないのに、クーデターの発生を米国の責任にしている。彼らは米ペンシルベニア州在住のギュレン師の身柄引き渡しを要求し、米国が応じなければ、西側諸国との同盟関係を打ち切ると警告している。
実際、過激派組織「イスラム国」(IS)に対する米国主導の空爆作戦の拠点であるトルコのインジルリク空軍基地では、電力供給が一時途絶えた。
一方、クーデターの首謀者らは同胞のトルコ人を大勢殺し、国境でテロリストと戦う軍の能力を弱め、NATOを揺さぶり、独裁的な大統領のタガを外してしまった。権力欲に駆られた一夜のために払われた代償はあまりに大きい。
シリアのアサド大統領の退陣を訴えるエルドアン大統領は、イスラム過激派が国内を通過するのを黙認した。同氏はすでに積極的に国政に関与しているが、行政権を含めた権限を自らに集める新たな大統領制を敷くため、新憲法の制定を求めている。その悲願達成のためにはクルド人との和平交渉が頓挫しても気にしない。
トルコは今、クルド人とイスラム過激派による2つの反乱に見舞われている。
前途多難だ。
Wikipedia、トルコ、お粗末なクーデター未遂の代償 (日経新聞、7月26日号)参照。